第2話
翌日、学校へ着くなり、机に突っ伏して、少しばかり眠った。少しだけ、眠り足りなかっからだ。
朝はいつも通り、父さんと「おはよう」「行ってきます」「いってらっしゃい」の形式的な言葉だけを交わした。決して特別でもないなんの変哲もない朝だった。
ただ、何も変わらない朝なら、何も変わらない一日になるはずだった僕の一日は、お昼当たりから様相を変えていくことになった。
昼休みになり、普段通りに教室で一人、昼食を食べた。
腹を満たしたことでまた眠くなってきた。
午後の授業に備えて寝ようとまた机に突っ伏して、意識を手放そうとした時、声を掛けられた。よく通る明るい女の子の声だった。
「…ちょっと。」
女の子が誰かに声を掛けている。自分ではないと思って、無視をした。
「もしもし。聞こえてる?もしかして、寝てる?さっきまで起きてたのに」
先ほどよりも声が近く聞こえる。隣の座席の人も寝ているのか。煩わしいから早く起きて、彼女の対応をしてもらえないだろうか。
寝返りを打つふりをして、声がする方と反対方向へ頭を向けた。
「ちょっと!」
三度目の呼びかけは、少し怒気を孕んだ声だった。
その声と同時に強い衝撃が、僕の右肩に襲い掛かる。
いっった。情けない声を上げながら、痛みの原因を確認する。
僕の席の横に女子生徒が立っていた。彼女は、テニスのスイング後のようなポーズで固まっていた。そのポーズから彼女に平手打ちされたのだと理解した。
「そんなに痛かった。ごめんね」両手を顔の前で拝み、申し訳なさそうに彼女は謝罪した。
先に謝られてしまうと怒るタイミングを見失ってしまう。それに彼女の姿をどこかで見たように感じた。
「でも、声を掛けても起きなかった。キミが悪いんだし、仕方ないよね」彼女は、そう言って笑った。
関わるのも面倒だと思った。何か用件がありそうだから、それだけを聞いて後は、適当に済まそうと思った。
「僕に何か用ですか?」少しだけ突き放すような声で伝えた。
「放課後、教室に残ってて」それだけ、告げて彼女は、クラスの女子グループの輪に混ざっていった。
彼女がクラスメイトだったと僕は、そこで初めて知った。
彼女が離れていった後、立ちすくんでいた僕は、クラスからの視線が冷たく刺すものだったことに気付いて、もう一度、机に突っ伏して眠ることにした。
放課後を告げるチャイムが鳴るとクラスメイトは、それぞれの放課後を過ごすために散り散りに教室を出て行く。
彼女に言われた通り、僕は一人で、教室に残っていた。当の本人は、どこかに行っているようだが。
待つことしかできない僕は、鞄から「眠り姫」を取り出して、昨日の続きを読むことにした。
クラスメイトが次々と教室を出て行くが、僕に声かけるクラスメイトは誰もいなかった。二十分ほど経過して、彼女が教室に戻ってきた。
「ごめんね。待たせちゃって。」そう言って、彼女は、僕の前の席に座る。もちろんそこは、彼女の座席ではない。
「眠り姫。また読んでるんだ」彼女は僕の眠り姫を指差しながら言った。
また?彼女の発言が引っ掛かった。教室で「眠り姫」を出したのは、放課後の今の時間だけだった。彼女が僕の鞄を漁りでもしていない限り、「眠り姫」を持っていることは知らないはずだ。それに持っていることは知っていても、「また」なんて言葉はでない。まるで読んでいるところを一度見ているような言葉だった。
「私もそれ読んだけどあまり好きじゃなかったんだよね」彼女は、僕が自身の発言に引っ掛かったことなど気にせずに「眠り姫」の総評を述べている。というかネタバレだからやめてほしい。
「最後には主人公がね…。」
「ちょっと待って。またってどういうこと」危うく小説の終わりまで言われてしまうところだった。なんて女だ。
「またって。そのままの意味だよ。昨日も読んでたでしょその本」
昨日は、自室と病院の待合室でしか読んでいない。自室での行動を見ず知らずの女性に監視されていると思いたくないから、病院の待合室に彼女が居たということになる。
改めて彼女を見てみる。茶色に染められた短髪に、小麦色に焼けた肌。いたずらっぽい瞳。そして透き通るような透明感のある声。
彼女と目が合って、思わず目を逸らしてしまう。
それで思い出した。あの時、本のタイトルを思わず口にして、恥ずかしそうに立ち去った女性が彼女だった。
「思い出した?」彼女は、そう言うとサプライズを成功させた子供のように笑った。
「うん」頷きながら「眠り姫」を閉じて、机の端に寄せる。
「ところで、キミこと高来君?」
「なんでしょうか?」名前を呼ばれて少しびっくりする。僕の名前を知っている人がいると思っていなかった。だから、思わず敬語になってしまった。決して、彼女を敬ったわけではない。
「私の名前、知らないでしょ?」彼女は、挑発的な視線を僕に送る。
「えっと…」言葉に詰まる。
彼女どころか他のクラスメイトの名前すら僕は知らない。僕は、人と関わるのを避けるために積極的に名前を覚えることをしないでいた。
「佐藤さん?」とりあえず、日本で一番多い苗字を上げる。
完全なる当てずっぽうだが、確立は一番高いから、その可能性に掛けてみた。
「やっぱり、知らなかった。高来君、他人に興味なさすぎるでしょう。」彼女は、ため息交じりに言った。
片肘をついた呆れ顔が春の夕日に照らされる。所作の一つ一つが夕日に照らされ、二人だけの教室に影を落とす。
「私の名前は、
まっすぐ僕を見つめる彼女の瞳が、夕日に照らされ輝いていたから目を離せなくなる。
「同じクラスなのは、知ってた」ちょっと強がってそう答えた。昼休みに知ったのだから、知ってたで問題ないはずだ。
「本当かな」彼女は試すような視線を僕に投げた。
「それで、その菅野さんが僕に何のようなの?わざわざ放課後の教室に待たせて、自己紹介だけをしたかった訳じゃないよね」話題を本題へと戻したかった。
「そうだった。高来君にお願いがあるの」
「お願い?」嫌な予感というか面倒なことに巻き込まれる予感がした。
「昨日、私が病院にいたことを誰にも言わないでほしいの」彼女は、拝みの姿勢を取り、目を瞑って言った。
「言わないもなにも僕は、他人の秘密をやたら滅多ら、話す趣味も話す友達もいないから安心しなよ」
「そんなことを誇らしげに言われても反応に困るんだけども…」彼女は、複雑な顔で苦笑いした。
「とりあえず、君が病院にいたことに関しては、他言しないと誓える。もし、その約束を破ったら君の言うことをなんでも一つ聞いてあげるよ」
「言ったな。もし破ったら、高来君には、思わず私に泣いて許しを乞うようなことをしてもらうからね」彼女のいたずらっぽい目が、細く閉じられる。
なにをやらせようというのかすごく怖い。
「用件は、以上かな。僕はもう帰るよ」
帰ろうと「眠り姫」を手に取ると彼女の手が先に「眠り姫」に置かれていた。
「待って。もう一つだけお願いを聞いて」先ほどよりも緊張感のある声だった。彼女の透き通るような声が震えているような気がした。
「なに?」何の話かは、予想がついていた。彼女は、肝心の部分を話していない。なぜ、病院に居たのか。そしてなぜのそのことを秘密にしてほしいのか。その理由を彼女は、まだ語っていない。僕としては、理由がどうあれ、誰にも他言をするつもりはない。だが、その理由は、知っておきたいと思った。より強固に秘密を守るためにも。
彼女は、一呼吸おいて、話し始めた。その表情には、努めて明るく話そうという気持ちが滲み出ていた。
「高来君は、眠り姫症候群のことをどの程度、知ってる?眠り姫を読んでいるから人並みには、知っていると思うけど」
僕は、何も答えず彼女の続きの言葉を待った。
「私ね。眠り姫症候群なんだ」
春の風が、僕と彼女の頬を撫でる。風になびく彼女の茶色い髪が夕日に照らされ、より明るく見えた。日に焼けた小麦色の肌といたずらっぽい目をしている彼女の病気の告白。昨日の病院でも思ったが、やはり彼女と病気は、ひどくミスマッチだ。
「去年の秋ごろに診断されて、そこから今まで症状は、出たことがないんだけど。昨日、病院に行った時に、いつ症状が出てもおかしくないって言われちゃった」
そう言って笑う彼女の笑顔は、弱々しかった。
「だから、私を見ていてほしいの。もしかしたら、学校で唐突に寝ちゃうかもしれないしそれに、日常生活に支障をきたすかもしれないから」
承諾すべきか悩んだ。人と関わることを避けたい僕にとって、明るく、友達も多そうな菅野美香という人物と関わることは、彼女の周囲にいるその他大勢とも関わる可能性があった。
「それなら、友達に頼めばいいんじゃないの。もしくは、恋人とかいないの」
他の女子生徒をあまり知らない僕からしても彼女の容姿は、とても整っているように思えた。恋人がいてもなんら不思議じゃないと思う。
「病気のことは、家族以外には言ってない。友達には、心配をかけたくないし。恋人がいたらわざわざキミを頼らないよ。そもそも眠り姫症候群の治療法を考えれば、恋人に…その、キスしてもらえればすぐに完治でしょ」
キスと言った彼女の頬は、少しだけ赤くなっていた。
恥ずかしいなら、言わなければいいのに。
「それとも私に恋人がいるか知りたかった?もしかして口説かれちゃう。キャー」彼女は、両手で顔を覆いながら、大げさに振る舞う。赤くなった頬は、両手に隠れて見えなくなる。
一人で勝手に盛り上がらないでもらいたい。
「そう、よかったね。」ため息交じりに適当にあしらっておく。
「もう冗談だって。怒らないでよ」彼女は、またいたずらっぽい目を細めて笑う。
「別に怒ってはないよ。そしたら好きな人とかはいないの?」怒っていないのは、本当。ただ少し、あきれているだけだ。そのことを言うとまた暴力を振るわれそうだから、黙っておく。
「本当に口説いてないよね。」次は、彼女がため息をもらした。
「好きな人は…いない」顔を伏せながら、彼女は答えた。
彼女が言いよどんだのが、気になったが、詮索はしなかった。
僕と彼女の間に沈黙が流れる。校庭から部活動をする生徒たちの声が教室にも響く。学生だけが響かせる青春の音が、僕には耳障りに感じた。教室の中、沈黙で向き合って座る僕らも傍から見たら、そんな青春の一ページに見えるのだろうか。それは、僕にとっては、うすら寒く、関わりたくないものだった。だから、この結論は、沈黙に耐えられなくなってしまったからだ。
「分かったよ。頼れる友達もいなくて、恋人も好きな人もいない寂しい君のために僕が君を見ていてあげるよ」彼女を真似て、おどけたように言う。
「本当に!」伏せていた顔を上げた彼女は、勢いのまま立ち上がった。彼女の座っていた椅子が倒れて大きな音を立てる。
「じゃあこれから、よろしくね。私の命を預けるようなものだから、高来君と私は、運命共同体だね」そう言って彼女は、無邪気に笑った。
「君と運命を共にするのは、ごめんだ」
運命共同体なんて仰々しい存在には、されたくない。それに運命という言葉は嫌いだし、共同体と呼ぶには、僕と彼女の共通項は、少なすぎる。
「ちょっと。意外とひどいこと言うね高来君は。さすがの私も傷つくよ」彼女は、ムスッとした表情をする。
「そしたら、同胞ってことでどう?」そう言うと彼女は、右手を僕に差し出した。
あまり意味が変わっていないような気もするが、「それならいいよ」と差し出された右手を握り返し、僕は、彼女を見つめた。
夕日に照らされ、無邪気に笑う彼女の目が、少しだけ赤く見えたのは、きっと夕日のせいだと思った。
その後、彼女は、母親の迎えが来たと帰ってしまった。登下校中に眠ってしまわないように母親が送り迎えをしているとのことだった。
去り際に「これ、私の連絡先だから」と携帯番号の書かれたメモを僕に押し付けた。そのメモを制服のポケットにしまい、僕は一人、自宅への帰路に着いていた。
自転車で高校に通っている僕は、中学生から買い替えていない自転車に乗りながら、彼女との約束を早速、後悔していた。
彼女の病気のこと、病院に通っていること。この二つを秘密にするのは簡単だ。誰とも関わらなければいい。
万が一、僕が人との約束事を簡単に反故にするとんでもないくらいの軽薄野郎だとしても彼女の秘密が、漏れることはない。だから、この約束は、人と関わらないという僕の信条とマッチしている。
問題は、もう一つの約束。彼女を見て、その生活のフォローをすること。この見ることフォローすることが、どこまでを指すのか、まだ彼女からは聞いていない。
学校外での生活は、今日のように彼女の両親がフォローをしているだろう。となると僕が彼女をフォローするのは、学校内でということになる。もちろん僕と彼女は、男女であるから見続けるのにも限界がある。
もし、トイレなどで彼女が眠ってしまった場合、僕には、どうしようもできない。
そのあたりのことを彼女は、考えているのだろうか。やはり、僕よりも友人に頼んだ方がよかったのではないか。
そもそも何故、僕にこんなことをお願いしたのかが、分からなかった。
家に着くと相変わらず父さんは、帰って来ていなかった。
「ただいま」誰もいない自宅に一人呟く。
今日は、慣れないクラスメイトとの会話で疲れたから、夕飯は、簡単にカップラーメンにした。カップラーメンを食べ終え、自室に戻って制服を着替える。ポケットから出てきた菅野美香の連絡先が書かれたメモを見て、スマートフォンに連絡先を登録する。登録名は「同胞」にしておいた。
彼女への連絡を忘れて、翌日に彼女から怒られた。
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