死よりもずっと想い恋

石橋 奈緒

第1話 死よりもずっと想い恋

 風に揺れ、散っていく桜を窓越しに眺めながら、大学病院の待合室で高来智たからい さとしは、時間を持て余していた。

 高校二年生になって、四月に受けた学校での健康診断。少しばかりの不摂生があったものの健康であることに自信があった僕は、健康診断から数週間後に渡された結果を見て、動揺した。

 血液検査の項目が再検査になっていた。内容は、何かが悪かったということだけしか分からなかった。

 僕の健康診断の結果用紙は、他のクラスメイトよりも明らかに枚数が多かった。健康診断の結果とは、別に大学病院への紹介状が付随していたからだ。

 そして、その案内状に指示されるまま学校が、公的に休みになることをいいことに県内一の大学病院へと来ていた。

 診察が終わり、残りは、会計を済ませ薬をもらうだけだったから、五人掛けほどのソファーの一番端に座り、名前が呼ばれるのを待っていた。

 待合室を見回すとさすがは、県内一の大学病院だ。乳児を連れた母親、世間話で盛り上がっている老人たち。僕と同じ高校生に見える男の子。様々な人が、待合室で待機していた。ざっと見たところ十数人ほどいた。

 結構、時間が掛かりそうだな。

そう思って、鞄から今朝、病院に来る前に購入したばかりの小説の文庫本を取り出す。

 とある病気を題材にしたことが、話題になった小説でベストセラーにもなった。最近になって映画化も決まり、その勢いで文庫本も発売した。以前から気になっていた小説であったが、アルバイトをしていない学生の僕には、文芸書を買う余裕がなかった。たまたま病院に来る前に寄った本屋で文庫本を見つけることができて、思わず、購入してしまった。

 その内容は、作者自身が学生時代に患った珍しい病気との闘病生活や、その時に、出会った人たちとの交流、思春期を病気と共に過ごした心情、そして、病に打ち勝つまでを綴った闘病日記のような小説だった。

 病院で病気を扱う小説を読むのは、いささか不謹慎にも感じたが、幸いなことに世間話で盛り上がる老人たちの声で周囲の人たちは、彼らに注目し、僕のことを見ているものは、居なかった。だから、遠慮なく文庫本を読み始める。

 初めに作者の生い立ちが丁寧に描かれた。幼少期から、小学生、中学生と続き、そして高校生になった作者は、とある珍しい病を患う。そのことを作者は、運命だったと表現したある一文が目に留まった。

 <運命があるとしたら、彼との出会いも私が病気になったことも運命だと思う。だから、この出会いは、私の素敵な人生の始まりだったと私は、後に知ることとなった。>

 運命の出会いなんてものを僕は、信じていない。

もしそんなものがあるのだとしたら、きっと僕たち家族がバラバラになることなんてなかった。

「眠り姫?」

 頭上から透き通るような女性の声が降りかかった。僕が呼んでいた小説のタイトルが読み上げられことに気付いて、本から目線を上げる。そこには、茶色に染められた短髪に日焼けした小麦色の肌がスポーティな印象のある女性が立っていて、その健康的な姿が病院とは、ひどくミスマッチに思えた。

 そんな彼女が僕の手にある本を見つめていた。どこかで見覚えのある女性だが、誰だかは、分からなかった。

 無意識に声を発してしまったのだろうかその女性は、僕と目が合うと少し恥ずかしそうにして、足早に病院の出口へ向かってしまった。

 僕は、声を掛ける暇もなく去ってしまったその後姿をただ黙って、見つめることしかできなかった。

「高来さん。高来智さーん」待合受付のお姉さんのよく響く声が僕の名前を呼んだ。

「はい」返事をして、本を鞄に戻しながら、女性が去った出口の方へと目を向ける。そこには、もう彼女の姿はなかった。

 会計へ済ませ、薬ももらい病院を後にした。病院近くのバス停で僕は、一人でバスを待つことにした。スマートフォンを取り出し、時刻を確認するついでに父さんへ連絡をする。

 時刻は、十五時四〇分。父さんは、まだ仕事中だろうか。とりあえず、診察が終わったこと。これから帰ることだけを連絡する。程なくして返信が来た。

<気を付けて帰るんだぞ>

 ただ、その一文だけ。

 診察結果について、触れることは無かった。しばらく待ったが父さんからそれ以上のメッセージは来なかった。だから、僕もそれ以上は、連絡をしなかった。

 スマートフォンを鞄にしまってバスが来るまで、本の続きを読むことにした。

読み始めて十分ほどでバスは来た。バスに乗って、自宅への帰路に着いた。

 お母さんが家を出ていったのは、確か五歳のころだった。

 ある日、突然お母さんは帰って来なくなった。そこから数日立っても帰って来なかった。ただ、僕が幼稚園に通っている間に少しずつお母さんの物が無くなっていった。お母さんが帰って来なくなったことを幼い僕は、何も理解が出来なかった。泣きながら、父さんにどうして、お母さんが帰って来ないのか聞き続けていた

 それから数年後、お母さんが僕と父さんを捨てて、他の男のところに行ってしまったと父さんに教えられたのは、僕が、一二歳になり、中学生になる前の日だった。

捨てられたと知った僕は、父さんを一方的に責めた。父さんにだけ非があるとはおもっていなかった。だが、突然突きつけられた真実を理解できず、それを認めたくなくて、行き場のない悲しみを父さんに怒りとして、ぶつけることしかできなかった。

 父さんは、黙ってそれを受けとめ続けてくれた。ただ、何を言っても表情一つ変えない父さんのことが僕は、だんだん怖くなった。まるで、無言で責められているような。そんな気持ちに陥った。

 それ以降、僕と父さんは、あまり口を利かなくなった。父さんと話してしまうと確認してしまいたくなってしまうから。僕のせいでお母さんが、出て行ってしまったのではないかと。僕が全部、悪いんじゃないかと。


 家に着くと父さんは、まだ帰って来ていなかった。キッチンに向かって、コンビニで買って来た弁当を電子レンジに入れて、温めを開始する。

 父さんは、仕事で忙しく、いつも帰りが遅いので、僕は、よくコンビニ弁当を食べていた。父さんと話したくない僕としては、食卓を囲みたくないので、ちょうどよいと思っている。

 電子レンジが聞きなれた音を響かせる。弁当が温め終わった。

 あまりおいしいとは思えない弁当をとりあえずは、腹を満たすためだけに胃に収める。

 食べ終えて、自室にこもる。

 部屋が暑く、息苦しさを感じたので窓を開けた。

 リビングなど家族共有のスペースに居るのは、嫌いだった。父さんと一緒の空間に居るのはつらく、苦しいものだった。

 自室にある小学生の時から使っている学習机の上に鞄を置き、鞄から小説を取り出して、小説の表紙を見る。森の中で眠る制服を着た美しい女子高生の絵が描かれている装丁。その寝顔は、悲しさと寂しさがあるように見えた。

 小説のタイトルは「眠り姫」。

 作者が患った病気の名前の一部から付けられたタイトル。そのタイトルが病気の通称であることを僕はもちろん、この本のあらすじを見たことがある人は、皆知っている。

 その病気とは、「眠り姫症候群」。

病気の原因は不明だが、一六歳から一八歳の女性が発症する病で、この病気は、発病したら一定の無症状期間を経て、徐々に睡眠時間や睡眠欲求が強くなっていく。そして、ある日、突然に目覚めなくなる病。最後には、そのまま目覚めず亡くなる。

 世界での症例は少なく、研究が進んでいない病で、特効薬などはなく、現時点で医学的な治療方法は、確立されていない。だが、この病による死者は、その症状や治療法が確立されていない現状とは、裏腹に少ないとされている。

「眠り姫」の作者のようにこの病を患った患者のほとんどは、日常生活を問題なく過ごせている。それには、この病の特別な対処法が深く関係しており、「眠り姫症候群」と呼ばれるようになった所以にもなっているからだ。

 それは、異性とのキスにより、目を覚まし完治するというところ。

 もちろん誰でもよいという訳ではなく、眠り姫症候群の患者が大切に思い、なおかつ異性側も眠り姫症候群の患者を大切に思っていることが前提条件となる。つまり、両想いの異性とキスすることによって目覚め、完治するというにわかには、信じられない不思議な病。

 その特異な治療法から王子様のキスで目を覚ました眠れる森の美女になぞらえて、誰が呼んだか「眠り姫症候群」と呼ばれるようになった。

 「眠り姫」を開いて続きを読み進める。

 女子高生が抱えるには、重すぎる病と睡眠という人が生きていくうえで重要な要素が恐怖に変わっていく様子が鮮明に描かれていた。彼女が、いかにしてこの絶望から救いを見出したのかを知りたかった。僕も別の形ではあるが、絶望を知っているから。

 それからどのくらいの時間が経過しただろう。玄関が開く音がして、父さんが帰ってきた。僕の部屋は、リビングの隣だから、父さんがリビングに居るのが分かる。これから、夕飯なのだろうか。ビニール袋の擦れる音が聞こえた。

 電子レンジの起動音がしたところで自室とリビングが通じている扉を開けた。

「おかえり」そっけなく、言う。

 最低限の挨拶だけはするようにと幼いころから教わってきたから、父さんと口を利かなくなった今でもその癖だけは、抜けなかった。

「ただいま」父さんは、僕のこと見ることなく、気のない低い声で一言だけ返す。

 家族としての最低限の言葉だけ交わして、自室に戻ろうとすると父さんが珍しく続きの言葉を紡いだ。

「診察はどうだったんだ」こちらを見ることはせず、声のトーンも変わらぬまま聞いてくる。

 僕は少しだけ言いよどんで、答える。

「なんともなかったよ。ただ、もう一度、病院に来るように言われた。」

「そうか」それ以降、父さんは、口を開かなかった。

 僕は自室に戻り、ベッドに寝ころんだ。「眠り姫」の続きを読む気には、なれなかった。

 父さんに対して、僕は一つ嘘をついた。

 僕は、父さんに対して嘘をついた少しの罪悪感を胸に抱えたまま眠りについた。

 春の夜風が机に置かれた「眠り姫」の頁をめくる。

 運命の出会いはなされたとそう告げるように本は閉じた

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