半目勝負

島本 葉

半目(はんもく)

 空調はしっかりと効いているはずなのに、碁盤とその周辺だけ熱が籠もっているようだった。

 じゃりっ、と黒石を摘み取ると鮎原あゆはら二段は力強く盤上に打ちつけた。その刹那、対局相手の綿貫わたぬき五段は思わず息を飲む。その手は思っていたよりも踏み込みが深かったが、咎めるいい手が見えなかったのだ。

(ここからだ)

 鮎原は正座した膝に手をおいて、前かがみ気味に盤上を睨んだ。

 今、対局室で繰り広げられているのは、碁聖戦ごせいせんの本戦出場をかけた大事な一戦だった。綿貫と鮎原の勝ったほうが本戦出場となる。

 少し離れた観戦室ではモニター越しに数人の棋士と観戦記者が対局を見守っていた。備え付けのPCに映し出されているAIの評価値は、終盤に近づいているにも関わらずまだ五分五分で、どちらに勝利の天秤が傾くのか判断がつかなかった。

「これは……半目勝負はんもくしょうぶになるか」

 記者の一人が、ボソリとつぶやいた。




 半目勝負。

 囲碁の対局において、半目とは最小差での決着だ。互いの地の多さを競う囲碁だが、引き分けと先手の有利を無くすために、後手に6目半のコミハンデを与えるルールが採用されている。地はもくと数える。コミを入れて黒50もく対白50目半もくはんだった場合、白の半目勝はんもくがちということになるのだ。

 お互いに最善を追い求め、長時間の対局の末に半目の差での決着というのは、プロの世界ではそう珍しいことではなかった。

 だが、実力勝負の囲碁の世界においても、この最小差での決着は『』であるとも言われていた。

 二百数十手もの応手の末の結果だ。お互いに1つの失着や形勢判断の誤りもなく、対局が終わることなどほぼありえなかった。勝者と敗者、どちらに転んでもおかしくないのだ。

「最後に半目残せたのは、幸運としか言いようがない」

 そのため、局後のインタビューでこのように言葉を残す棋士があとを絶たないのだった。




 勝負はいよいよ最終盤を迎えていた。

 お互いにもう持ち時間を使い切っている。対局室では記録係の秒読みの声と、石音が緊迫した空気を震わせていた。

「50秒、1、2、3、4……」

 秒に追われながら、鮎原は石を打つ。そして綿貫も、盤上から目をそらさず読みを入れ着手する。

 局面は細かい陣地の境界線を決めていくヨセを残すのみで、互いに繊細な手順を尽くして打ち進めた。

 際どい結果であることは、すでに対局者の二人も承知していた。細かく揺れ動く形勢を瞬時の目算で微調整していく。

 今季の鮎原は半目の勝負を6局打っていた。その内訳は3勝3敗。3回の幸運と3回の不運。この7局目は果たして、幸運かそれとも──。




 最後に黒石を鮎原が打って、お互いに打てるところがなくなる。ここで終局だった。

 地合じあいを数えやすいように盤上の石を整形し、計算する。だが、確認するまでもなく互いにどちらが勝ったのかは理解していた。

「半目、ですね」

「はい」

 鮎原は口を一文字に引き締め、拳を握り込んだ。爪が手のひらに食い込む。

 結果は鮎原の半目負けであった。これで今季7度目の半目勝負。

 囲碁の勝負で半目は『運』だとも言われる。勝った方はいいのだ。勝者は運が良かったと言って、ねじ切れるほどに酷使した思考を落ち着かせることができる。

 では、負けた方は『不運』なのか?

 わずか紙一重で手の中からするりとこぼれ落ちていったものは、この悔しさは、果たして『不運』と言えるのか? 何が足りなかった? 何が──。

 しばらく目を閉じていた鮎原は、握り込んだこぶしをゆっくりと開くと、大きく息を吐き顔をあげた。まだ呆然とした綿貫に対し、盤上を指し示しながら声を絞り出した。

「どこが悪かったですかね?」

 

 

 

 半目負けは『』という言葉で片付けてしまえる悔しさではない。だが、運のせいにしてでも、彼らは前に、次に進むのだ。

 

 完

 


 


 

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半目勝負 島本 葉 @shimapon

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