【3】魔法少女の祈りごと
少女は神童と呼ばれていた。幼稚園のかけっこでは常に一位。小学校のスポーツテストでは性別、学年を問わず最上位の成績を叩き出し、中学校に進学してもそれは変わらなかった。
自らの身体能力を持て余した少女は陸上部に入ると、二日で主将の記録を大きく塗り替え、退部した。卓球部では入部翌日に全部員に勝利し、その日の内に退部した。テニス部、水泳部でもそれは変わらなかった。
しかし、柔道部で彼女は知った。身体能力ではどうしようもない技術の存在を、その奥深さを。そして一ヶ月後、彼女は倍の体重を持つ相手を投げ倒し、退部した。
続く空手部でも彼女は知った。柔道とは全く異なる駆け引きが要求されると。数多の技には底知れぬ奥深さがあると。そして二ヶ月後、全員との「試合」に勝利し、退部した。翌日、「喧嘩」を売ってきた主将を叩きのめした。
更に翌日、放課後に近場の高校の空手部へと乗り込み、その場に居た全員との試合に勝利した。
かつて神童と呼ばれた少女は求めていた。己の中に煮え滾るマグマの遣り場を。誰でも良かった。この天狗の鼻をへし折れる者を求め、焦がれていた。
また更に翌日、その日は土曜日であり、隣町の空手道場に殴り込む予定だったが、同い年だという少女が訪ねてきた。空手着の入ったバッグだけを背負い、多くは語らないまま立ち合いたいと言った。学校の武道館を借りたいという声に反発できる人間も居らず、かくして「試合」は始まった。実力差は歴然であったが、敗者は納得できずに「喧嘩」を挑んだ。しかし変わらず、実力差は歴然だった。――神童と呼ばれた少女は初めて敗北を味わった。
「……てめ、誰……っ……名前……何て……」
腹部の痛みに呻き、地べたに這いつくばり、睨みつけながらかつての神童は問いかけた。相手は手を差し伸べながら言った。
「私は若葉。『
無傷の若葉が浮かべた笑みは、少女の心を熱くした。
それから二年後、少女の名は空手界に大きく広まっていた。いくつもの大会に出場し、空手の範疇に無い動きによって反則負けを量産していたが、しかし誰の目にも「勝者」と認識される強さを持った異常者として。彼女はどこにも属さず、何の流派も持たなかったが、それでも空手着を羽織り続けていた。
とある大会の優勝候補との試合で反則を言い渡された翌日、少女はかつて若葉が残していった番号へと連絡を入れた。二年が経っているにも関わらず当たり前のように繋がった電話の向こうで、彼女は当たり前にそれを承諾した。
翌日、神童は若葉と立ち合った。そして、神童は未だ誰にも見せたことのない薄緑色の輝きを身に纏った。対する若葉は超自然の事象に驚く様子も見せず、同じように臙脂色の輝きを纏った。かつてと変わらず、実力差は歴然だった。――神童は初めて心の底から笑った。
神童は初めて、最高の敗北と最高の友を得た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
土曜日の午後。決して人口の多い町ではないとはいえ、ハンバーガーショップは若者がすし詰め状態の賑わいを見せている。その店の最奥に座る二人組の少女は、人々の中に――ただの人間の中に紛れ込んでいた。
「もう傷は大丈夫なのか?」
「ええ、一ヶ月も療養してましたから。変身しっぱなしなら三日もせずに治っちゃいますが、そうもいきませんし。それより……ずっと大変な騒ぎになってますよ。貴女ほどの地位の人が逃げ出したっていうんですから」
そのうちの一人、黒髪を高く一つに結っただけの無個性気味な少女――
「あたしは傷のせいであんまり集会とかも出れてませんでしたけど、それでも話が聞こえてくるぐらいですよ。今まで何をされてたんですか? ……若葉さん」
対面に座る少女、
「いや……色々あってよ。闇医者行って『コネクション』外したり、色々。マジでめちゃめちゃ大変だったんだ」
若葉はシャツに隠れた、下腹部の傷を擦る。それは負った苦労を匂わせるような汗を拭う動作のようでもあり、失ったものに思いを馳せるようでもあり。
「……そうですよね、すいません。とにかく昇格試験の件ですが、監査官だった貴女が介入して、そして居なくなったことで一旦立ち消え。あたしは……まぁ、あの瞬間の当事者ですから文句も何もありません。本当に感謝しています。……でも、組織は違う。天羽聖奈の確保は出来たとはいえ、あたしの失敗までおっ被った形の貴女をただでは済ませてくれない。色々と聞かせていただけるんですよね?」
「……ああ、そのつもりで呼んだんだ。この近くには魔法少女が居ないみてーだからな。それに……長いこと聖奈の監視に付いてたアタシにとって、今信用できるのはお前しか居ねぇんだ。小夏」
「あら、なんだか口説き文句みたいですね。それ」
「ばっ――じょ、冗談言ってる暇ねぇんだぞ!」
大きな咳払いを一つ、若葉は話を再開する。
「とにかく! アタシが長いこと聖奈のとこに潜入してたのは、アイツを『プリンセス』に対する『点数稼ぎの非常食』にする為だった」
「『プリンセス』……警察の秘蔵っ子ですね」
「あぁ、そうだ。ルミナスが居なくなったことで、『宝石の盾』から『プリンセス』に掛けられる圧が減っちまった……。だから『非常食』のカードを切ったんだよ。それがあの昇格試験だ。聖奈なりに理由はあれど、『
話を聞いて、小夏は眉間に皺を寄せる。
「……でも、それっておかしくありませんか? 天羽聖奈を捕らえることをわざわざ試験にする必要性がない……むしろ遂行が遅れるデメリットしかない筈です。若葉さんが直接、不意を付いて捕らえれば良かっただけじゃありません? ルミナスの穴を埋める時間を稼ぐ為の作戦より先に、ルミナスの穴を埋める作戦を実行する……明らかに矛盾してるわ」
「その通りだ。アタシが聖奈に情が湧いたとかで裏切るのを警戒するとしても、他にもっと良い手はあるだろうに……。だけど、そこはいくら聞いたところで答えちゃくれなかったよ」
「作戦の総括は『カラフル』さん、ですか」
「……そうだ」
『宝石の盾』と警察機関――特に、そこに属する魔法少女『プリンセス』は水面下において睨み合い、牽制し合い、時には協力し合っていた。それがいつから、そして具体的にどんなものかについては、組織内で地位の高い二人にすらあまり把握できていない。トップである『コネクト』によれば『宝石の盾』の目的の為だと言う。
「元々アタシはその矛盾が信用できなかった。……そして、急ピッチで組まれたルミナス昇格試験。こいつで挑んだこともない対人戦に送り込まれて、命を落とした奴等が何人も居る……それが気に入らねぇ。だから色々ぶん投げて、逃げてきた」
若葉は砂糖とミルクのたっぷり入ったコーヒーを一気に飲み干した。まるでこれからの話に助走をつけるかのように、大きく跳躍する前に強く踏み込むかにように。
「アタシは美咲が身を守れるように……命を守れるように戦い方を教えた。だがよ、そのせいで別の命が失われた。ルミナスを目指した奴等を殺したのはアタシだ。美咲の瞳を濁らせちまったのもアタシなんだ。アタシは光の中に少しでも美咲を引き留めようとして……暗闇に突き落としちまったんだよ」
「そ、それは違――」
「違わねぇさ。アタシがもっと早く『宝石の盾』に背く決心をしてさえいれば、こんなことにはならなかったんだ。……後悔してもしきれねぇ」
「……若葉、さん……」
真っ黒で、途轍もなく重い感情。それを抱え、背負いながらも、若葉は止まらず言葉を続ける。
「……だけどよ、今は後悔よりも優先するべきことがある。あの時のアイツの本音……小夏も聞いたよな?」
「……ええ。『居場所が欲しかった』って……『独りは嫌だ』って」
「そうだ。美咲の身の上については少しだけ聖奈から聞いててよ。なんでも両親を喪ってて、その上お姉さんを亡くして魔法少女になったらしい。それまでは普通の女の子だったって。……だからよ、アイツは絶望を味わって、独りきりになってからたったの三ヶ月しか経ってねぇんだ」
「……そんな……。それにしては思考も、躊躇だって全然……」
「ああ、明らかに真っ当な人間のそれじゃねぇ。ただ狂ってないだけで、普通じゃ居られてねぇんだ。アイツは何も視えなくて、息もできない海の底で……掴まれる何かを、助けてくれる誰かを捜して藻掻き続けてるんだよ。必死にな」
「……」
「だから……あの言葉でアタシは決意したんだよ。何をするより先に、アタシは美咲を助けたい。光の当たる場所まで連れ戻してやりてぇんだ」
若葉の拳に、声に、視線に熱が籠もる。
「頼む。手を貸してくれないか、小夏」
小夏は腕を組み、ソファを軋ませる。一ヶ月前のことながら鮮明に覚えていた。潰された鼻の、顔の、右手の痛み。そして、彼女の瞳の色、深さ。僅かに交わした会話と、僅かに見せた笑顔。
あの戦いの記憶は自分にとって辛く、苦しかった。痛かった。死に直面させられた。けれど……。
「……鏡座美咲はあれ以降、『霧の腕』と行動を共にしてるらしいじゃないですか。
小夏の表情は真剣そのものだった。無論、対する若葉の表情も。交錯する視線も真剣のように鋭かった。
「間に合うんですか?」
「……間に合うさ」
「根拠は?」
「――信じてる」
「……あっはは! なるほど!」
失礼だと承知しながらも、小夏は思わず笑って顎に手を当てた。鏡座美咲を助けることは、つまりリストから一人の名前を消すということ。虚偽の報告を上手く行えれば『宝石の盾』への貢献になり、姉さんを超えることにも繋がる――
(――いや、そんなことじゃない。そんなつまらないことのためでも、命を救ってくれた若葉さんへの恩返しってだけでもない)
「姉さんを超える」。それは紛れもなく自分にとって大切なことだが、きっとこの彼女を助けたいという気持ちは――あの時見た笑顔に魅せられた故なのだろう。
だから、確実に救えるという根拠が無くとも。命を賭けることになっても。自分のためではなく、他人のためであろうとも。
「――やりましょう。あたし達で助けましょう。鏡座美咲を」
「へぇっ……い、良いのか? いや、頼んだのはこっちだけどよ……そんなにあっさり……。マジで良いんだな?」
「良いですよ、勿論。ただし、一つだけ吞んでいただきたい条件があるんです」
「……ああ。なんでも言ってくれ」
若葉がごくりと唾を飲み込む。表情を崩さないまま言葉を待ち続ける若葉に対し――小夏はいたずらっぽく微笑んだ。
「――あたしが若葉さんにタメ口を使うのを許してくれること。正直、窮屈で苦手なのよね。敬語って」
「なっ……そんなことかよ……! てっきりもっとやべーこと言われるんじゃないかと思って身構えちまったじゃねぇか!」
「あっははは、ごめんなさい。でも、仲間としても大事なことでしょう? 鏡座美咲を迎えに行くなら……『敬語枠』は彼女のために空けておきましょ」
「……そ、そうだな? まぁ何にせよ、ありがとな。小夏」
小夏に釣られて若葉の表情も和らぐ。どちらもベテランと言える経験を持つ魔法少女ではあるが、それでも……だからこそ互いの存在がありがたかった。
「それで若葉さん、当然勝てる見込みはあるんでしょうね? 説得しに行くとはいえ、きっと鏡座美咲とやり合うのは避けられないわよ」
「ああ。勝ったことはある、が……二ヶ月くらい前のことだ。アイツの成長速度は並じゃねぇ。それから何度も実戦を経験してるし、何より非情さだの冷酷さってのは強さに直結する。今の美咲は……その辺、どうだろうな」
若葉の分析は冷静である。対策は既に用意してあるが、しかし通用するかは不明瞭。美咲が短期間でどれだけの力をつけているかによるだろう。しかし、それでも若葉は揺るがない。
「……でも、アイツならきっと分かってくれるさ。そうじゃなくても勝つ。絶対にな」
「そう。若葉さんがそう言うなら信用するわ。……となると、やっぱり問題は『霧の腕』よね」
「そうなるな。アイツには――」
「若葉さんじゃほぼ絶対に勝てない。そうよね?」
「――その通りだよ。ったく、遠慮なく言ってくれるじゃねぇか」
魔法少女は千差万別な固有の魔法を持つ。そして無論、そこには相性が存在する。
過去、若葉と『霧の腕』
(……『一目惚れ』とか言ってたな、あのガキ……。ったく、冗談じゃねぇっての)
若葉の魔法『
「ま、『霧の腕』の相手はあたしに任せて。若葉さんよりはマシに戦えると思うし」
「……すまねぇ。ただ、ヤツは美咲と違って機械みてーな効率で敵を殺そうとはしない。殺す過程……戦い自体だったり、なんなら会話にも愉しみを見出す人間だ」
「つまり、上手くやれば時間は稼げるってことね」
「そういうことだ。すまねぇが、美咲を説得するまでは稼いでくれ。そんで後は逃げる。……たったそれだけだ」
「……いけるかしら……いや、きっといけるわよね。大丈夫」
作戦自体は実に単純。しかし、その難易度は互いに理解している。
だが、退かない。退くわけにはいかない。
「……アイツらは居場所を転々としてるだろうが、少なくとも『霧の腕』が居る以上必ず動きを見せる。組織の連絡網に情報が入った瞬間、アタシらでソッコー向かうぞ」
「了解よ。……やってやろうじゃないの」
二人は決意の炉に薪をくべるように、ハンバーガーを口に押し込む。美咲を助ける。その確たる決意が胸の内で燃え盛っていた。
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相対するは鉄色の魔法少女。清楚なアイドル衣装を思わせる装束にそぐわない大きな闘志の宿った鋭い目つきと、まるで一対の角のようにも見えるツインテール。150センチと少しという、自分と同じような体躯に反して巨大な名前――『モノリス』と名乗っていた。
美咲は正面から、いつも通りにナイフを右手に構える。ナイフ本体、もしくはそれを持つ手を叩くことを容易にさせないため、右手は左手より後ろに。それは左半身を相手に向けることで攻撃を限定するためのものでもあった。
「――せいッ!!」
美咲はモノリスが空手を修めていることを知っていた。故に、一打目は最も警戒すべきナイフよりリーチが長く、対角線上を狙え、かつ比較的コンパクトな動作で放てる右下段回し蹴りだろうと予測していた。故に、それを左足へ打たせる可能性を上げるために左半身を向けていた。故にそれは的中し、魔法を使わずとも最小限の動きで回避しつつ懐に潜り込むことが出来た。
「な――は、はあっ!!」
驚愕と恐怖の混じった表情を隠す余裕もなく、モノリスは美咲を突き放そうと左の突きを放つ。流石は格闘技経験者といったところか、咄嗟の攻撃であっても狙いは美咲の右鎖骨。しっかりと右腕の無力化を意図した一撃だった。
美咲は一瞬のみ魔法を行使し、最小限に身を屈めることで突きをすり抜ける。その伸び切った左腕を己の右肩、そして左手によって固定し――ナイフの柄による鉄槌を肘へと振り下ろした。
「ぁ、づぅっ!!」
ミシリと嫌な音を立ててモノリスの骨が軋む。美咲の乏しい筋力と満足に威力を発揮できない体勢での鉄槌では、ナイフを握っていたとしても同体格の魔法少女の肘ですら一撃で折ることは叶わない。しかし、痛めつけるには充分。攻めの起点を作るにはそれで充分だった。
無理やりに左腕を引き抜いて距離を取ったモノリスに対し、美咲は果敢に詰め寄る。左腕を庇いつつ、距離を取るために右脚で前蹴りを繰り出すことは読んでいた。それを捌き、右肩を入れつつ懐へ飛び込み――
(……手の甲。指をゆるく開いたまま、手の甲で広く――!)
――左手の甲で、指の背で両目をはたくように叩きつけた。
「目突き」は指を眼窩に突き入れて眼球を潰す、あるいは抉る技。ほぼ相手を失明に至らせる代わり、小さな目を「点」で狙うため、相応に難易度が高い。美咲は魔法を以てしても、自分の技量では不可能だと断じていた。
故に狙ったのは「目打ち」。標的を目という「点」でなく目周辺という「面」とすることにより、命中精度を高めた技だった。但し目突きとは違い、クリーンヒットさせたとて眼球は潰せず一時的な視覚へのダメージに留まり、目を閉じられればそれにすら至らずビビらせる程度の技――
(――違う。クリーンヒットさせずとも、相手に目を閉じさせる……あるいは咄嗟の回避を強いることが出来るほどの技……!!)
モノリスは美咲の目打ちにより、咄嗟に目を閉じ顔を手で覆ってしまった。
(意識するのは捩じ込むような、深い一撃……!)
ガラ空きになった胴に、鳩尾に、美咲の溜めていた右拳が突き刺さる。ナイフは既に手放されていた。そうして「く」の字に折れ曲がったモノリスのツインテールを両手でハンドルのように握りしめ、顔面に膝を叩き込む。
何度も。防がれても、ガードの上から何度も。鼻骨が砕ける音がしても、肉が潰れる感触があっても、膝が返り血で染まりきっても、相手の身体から力が失われても、何度も、何度も、何度も――
「――ぷはっ! はぁっ、はぁ……はぁ……」
呼吸を止めていられるギリギリまで、そして相手の命をも潰す寸前まで膝を打ち付けた後、両手を放す。崩れ落ちた血塗れの少女は恐らく見るに耐えない顔と化しているだろうが、息はあった。
何も言わず、美咲はナイフを仕舞った。殺さずに倒した。殺せなかったのではなく、殺さずに勝ったのだ。だが直後、深紅の霧が倒れる少女に纏わり付き――
「……」
――美咲は瞼を開いた。それは数十分前の出来事。今の自分の膝を濡らすのは温水。
何度目になるだろうか。こうしてホテルのシャワーで血と汗を洗い流しながら、その時々の戦いを思い返すのは。美咲は呆けた顔で備え付けのバスローブに着替え、バスルームを出る。そこではふわふわと広がるボブカットの小柄な少女――虚道沙夜がベッドの上に寝転がり、脚をぱたぱたさせて雑誌を読んでいた。
「……ずっと隠れて生活してなきゃいけないと思ってました」
「んお? 珍しく美咲ちゃんから喋ってくれるじゃーん。どったの?」
ソファに腰掛ける美咲に対し、紗夜は雑誌を放って顔を向ける。
「いえ。若葉さん達と一緒に居た時は廃ビルなんかを渡り歩いてて、タオルとかで身体を拭くだけでしたから。……こうやって堂々とホテルでシャワーを浴びたり、普通に街中でご飯を食べたりできるものなんだと今更ながらに思いまして」
「そりゃそうだよ。街中で考えなしに『人払いの結界』を使ったらどうなるか分かんないわけだし。場所と時間さえ考えれば堂々としてても大丈夫なもんだよ~」
約一ヶ月。あの日、『宝石の盾』に確保されそうだった美咲が沙夜に救われてからそれだけが経った。意識を取り戻した美咲が軽く事情を説明すると、彼女はその中に登場した名前――『一之瀬 若葉』に過剰な興味を示した。美咲は自分と共に居ればきっと会えるということを告げると、行動を共にすることに決まった。無論、美咲は沙夜の素性も全て本人から聞いている。
(……虚道沙夜さん。戦うこと、そして殺した相手の死体と……そういうことをするのを至上と考えている人明らかな刹那主義者。。……客観的に見れば最低の人間なんだろうけど、どうでもいい。むしろ私にはお似合い……)
理解出来るわけではない。嫌悪感も無いと言えば嘘になる。しかしそれ以上に、一見軽薄で軽率な言動を取っているように見える彼女から学ぶことは驚くほどに多く、有益だったのだ。生活然り、戦闘然り。流石は『宝石の盾』からの手配を切り抜け続けているだけはあると感心してしまうほどにまで。
(それに、むしろこういう自分の損得に……欲望に素直な人の方がある意味信用できる。自由奔放だけど、それに見合う強さも持ってるし……正直ありがたい)
今こうして利用しているような、急なチェックインに人の手があまり介入せず、短時間の休憩が可能なホテルがあること。そしてそういう場所に入る際は常に変身している自分の容姿がプラスに働くことなんて、彼女から教わらなければきっと知らないままだったかもしれない。
「あ、そうだ! 美咲ちゃんの饒舌タイムついでにさ、女子トークしようよ」
「……はい?」
唐突に、紗夜は手をぱちんと鳴らした。
「恋バナとかさ、ちょっとドロドロしたお話とかさ! ラブホ女子会って言ったらやっぱそれでしょ!」
「女子会……。そこまで仲良くなった覚えはありませんけど」
「酷いなぁ、もう一ヶ月も一緒に居るんだよ? じゅーぶん友達だよ友達! それに僕、生きてる人とちゃんと来たのなんて初めてだからさ、ちょっと憧れてて!」
ソファに腰掛ける美咲に対し、近すぎるほどにずずいと距離を詰めてくる。殺気は無い。変身もしていない。これはただの彼女の性分だった。とはいえ。
「う、あの……あんまり近づかないでください……」
「えへへ、もしかして照れてる? 大丈夫だって! 僕、美咲ちゃんのことタイプじゃないし……それに生きてるし!」
「……そうですか」
沙夜は笑顔で毒を吐く。どす黒く汚らわしい本性の一部と共に。
美咲も一応は思春期の乙女であり、タイプじゃないなどと真正面から言われれば顔をしかめるが、しかしこの場合は都合が良い。仮に彼女の好みに合致していたら、色々と無事では済んでいなかっただろうから。
「……それに、さっきの美咲ちゃんの戦いを見てて思ったんだけどさ、なんか殺しを躊躇してるじゃん。トドメだって僕が代わりに刺したわけだし。なんか……違和感があってさ。見ててモヤっとするんだよね」
「……」
「えへへ……そんな怖い顔しないでよ、弱いって言ってるわけじゃないんだから。ほらじゃあ恋バナだよ恋バナ! 僕からしよっか? といっても結局僕が好きなのは『クローバー』……若葉おねーさんに尽きるんだけど! あーほんと、美咲ちゃん羨ましいなぁ……暫く同棲してただなんて!」
沙夜はぎゃーぎゃー騒がしく、はしゃぐ子犬のように話し始める。興奮しすぎ、いきなり変身しだすほどに。
「同棲って……。だいぶ齟齬のある言い方ですね」
「あーあ、早く会いに来てくれないかなぁ。そのためならいくらでも殺すんだけどなぁ。……若葉おねーさんになら生きてたって興奮するくらい好きなのに、伝わらなくってもどかしいよ」
「……」
フリフリの可愛らしい深紅のドレスをくしゃくしゃにしながら可愛らしくはしゃぐ彼女が殺しをする理由は、己の欲を満たすため。破滅の階段を上がっている自覚がある故に、殺しを重ねる日々を送る彼女が自分の未来の姿ではないかと……美咲はそう思ってしまう。
「で、美咲ちゃんの番だよ?」
「へ?」
「へぇじゃなくって、ほら。恋バナ! 好きな人とか居ないの?」
「……好きな……人……」
こんな状況でそんなことを真面目に考える気にならないが、しかし。好きな人と言われると脳裏に浮かぶ存在が居ることは確かだった。
「……お姉ちゃん」
口をついて出る、その存在。何よりも大事で、大切で、一秒たりとも忘れたことのないその存在。
「ん? お姉ちゃん? 義理? それともマジの近親のやつ?」
「……いえ、そういうのじゃなくて。私を……ずっと支えてくれた、一番大好きな人なんです」
「あー、つまり恋バナ即終了でドロドロした話にシフトってことね。よろしい、僕が付き合ってあげましょう! ……たまにはさ、そういう感情って吐き出さないと良くないし」
沙夜が異常者というのは分かっているのに、なぜか気が緩んでしまう。……いや、自分も同類だと認識しているからなのかも知れない。だから己の内にある不幸を話してしまいたくなってしまう。軽々しく他人に話すことではないと理解しながらも、緩んだ思考と口からは記憶が泥のように零れ出した。
「お母さんが死んじゃってから、何年も……おね――姉さん一人に育ててもらったんです。だから、好きな人……大好きな人っていうと、姉さんしか」
「ふーん、そっか……。んでそのお姉ちゃん、今はどうしてるの?」
「……殺され、ました。魔法少女として街を魔物から守ってたのに……。同じ魔法少女に……ルミナスとかいう奴に」
ルミナス。本名、
「うっわ、ルミナス!?」
「……知ってるんですか?」
「知ってるも何もそりゃ有名だもん。でも、ルミナスが対人やるなんて珍しいなぁ」
「魔物と戦ってるとき……意図的に、あいつが魔法で巻き込んだんです」
「あー『ルミナリフレクション』かぁ。なるほどねぇ……。じゃあ、ルミナスに復讐するのが目的なんだ?」
「いえ、復讐は果たしました。けど……それから……色々どうしたらいいか……」
「……は? 果たした? ルミナスを殺したってこと?」
美咲は一介の魔法少女としか思っていない相手だったが、しかしその名前を聞いて沙夜は驚き……否、驚嘆の表情を浮かべる。そう、彼女は知っているのだ。
「はい。初めて私が殺した相手で――」
「――いや、そんな話じゃないよ、それ。ルミナスって『宝石の盾』の大幹部だよ? 多分、美咲ちゃんは知らない内になんか……ヤバいトリガー引いちゃってるんじゃないのかなぁ」
言われてみれば心当たりはあった。姉が殺されたから聖奈が来た――のではなく、ルミナスが死んだから聖奈が自分の元へ来たのだとしたら。そして、聖奈が『宝石の盾』に狙われ始めたのはその頃から。確かに、美咲が関わってるところで『宝石の盾』が動いていたように思える。
「……確かに、そうかも知れません」
「なーんか興味なしって顔してるねぇ。えへへ、美咲ちゃんおもしろーい!」
彼女の指摘通りである。気づいてなお、美咲は自分でも意外なほどに興味が湧かなかった。今のところ執拗に狙われるということもなく、であれば『宝石の盾』がどうなろうが知ったことではないのだから。
「ま、僕もその気持ちわかるけどさ。自分が不利益を被らなければそれまでだし、悪いのは向こうだもんね〜」
沙夜は美咲の頭を撫でる。生身の温かい右手で。美咲はそれを払い除けなかった。
「僕達、案外気が合うのかもよ? 同い年だし、美咲ちゃんも強いし。このままバディ殺人鬼として活動しちゃう?」
「……それは絶対に無いです。絶対に。私が魔法少女を殺すのは……根本的には、自分が殺されないためですから」
「むー、ざんねん! 本気で勧誘してたんだけどなぁ」
わざとらしく頬を膨らませ、沙夜は立ち上がる。美咲は半ば無意識に、頭から離れた温かさを目で追うが……今度そこあったのは、酷く冷たい深紅の『霧の腕』。
「まぁいいや。じゃ、そろそろ時間だから準備しよっか!」
「時間って……まだ入ってから一時間も――」
「もー違うよ美咲ちゃん。時間っていうのは『利用時間』じゃなくて『帰宅時間』。すぐ近くの中学校にも魔法少女が三人居てね。土曜日だけど、今日は半日授業なんだ」
「――なるほど」
頷いた美咲は手を取り、立ち上がる。伝わる温度に負けないほど冷たく、そして濁った瞳を携えて。
「その内の一人がめっちゃ好みでさ。いつか食べようと思ってキープしてたんだけど……美咲ちゃんに譲ってあげる。柔道やってる魔法少女だから、強くなりたいって美咲ちゃんのニーズに応えられるんじゃないかな?」
「……良いですね。正直、まだまだ足りないところだらけですし」
「うんうん。消化不良って顔してたもんね。この一ヶ月で四戦くらいしたっけか? 美咲ちゃんは頑張り屋さんで偉いね〜」
「……」
手を引かれるまま、二人は非常階段の踊り場へと足を運ぶ。数分も待つと、紗夜の言う通りに少女達が通りの奥から歩いて来る。
「三人居ますね。もしかして……」
「そ、仲良し三人組の魔法少女。いっつも一緒に居るんだー。おさげのちっちゃい人が山田ナントカさんで、ショートの人が鈴木ナントカさん。そんで件の人はあのポニテの『
「……そ、そうですね。他に情報は持ってますか? 使う魔法とか、武器とか」
「その辺りは全然。ただ、愛華さんの家は片親で日曜日以外は深夜まで働きっぱなしでね、遊び場として学校終わりに皆で集まることが多いんだ。……ってことで、まとめて襲う? 愛華さんだけやる?」
「……魔法が分からないのであれば、リスクも考慮して一人になったところを狙いたいですね」
「おっけー。じゃ、家が見えるところでガン待ちしよっか」
二人は平然と話していた。罪を犯す算段を。美咲はあの若葉の言葉を受け、殺しに躊躇が……忘れていた罪悪感が僅かに再度生まれていた。だが、美咲が殺さずとも、魔法少女を倒せば同行する沙夜によってその命は結局奪われる。即ち美咲が殺すのと何ら変わりがない。
しかし、美咲はそれを咎めない。むしろ受け入れ始めていると自覚していた。先ほど沙夜の勧誘を受けた際、拒否したものの本当は嬉しいと感じてしまっていたのだ。例え悪魔の誘惑であろうと、それによって自分の居場所が出来るのであれば――他人の命なんてどうでも良いのでは、と。
~~~~~~~~~~
「……出てきませんね」
「そうだねぇ。ホテルの代金、もったいなかったね」
『佐藤』の表札が立てられた二階建ての一軒家。その玄関を監視できる方角、小高い坂の上に立つコンビニに二人は居た。とっくに夜の帳は下り、時間は八時を回っている。
「しかし、中学生がこんなに遅くまで遊ぶものでしょうか。……私の門限は五時だったのに」
「乱交でもしてるのかな? 混ざりに行っちゃう?」
「――こほん。しかし、いっそ乗り込むというのはやっぱり危険です」
「えー。なんなら僕がすぐ二人やっちゃうけどなぁ」
目深に被ったキャスケット帽子の下から美咲が鋭い視線を送る。閉めた黒のロングコートと合わさり不審者全開の格好ではあるが、店員はぼーっと無気力に突っ立っているだけなので気にすることはない。
対する沙夜は変身しており、普段着としては異様な深紅でフリフリのワンピースも欠損している左腕も隠すこともなく、それと明らかに不釣り合いな白いニット帽を雑に被っていた。
「ってかさ、真面目な話……アレじゃないかな? 明日は日曜日だしお泊まり会とか」
「確かに……。いや、でも私たちは下校時からストーキングしてきたんですよ? 普通そういうのって一回家に帰って準備してからなんじゃ……」
「多分そうだろうけど、学校から直ってこともあるんじゃない? まー僕はお泊まり会なんてやったことないから分かないけどさ」
「その言葉は……私にも刺さりますね」
「えへへ、嬉しくないお揃いだね!」
「全くです。しかし……そうですね。家の側まで行ってみて、賑やかな声でも聞こえたらそうだと判断して日を改めましょうか」
「おっけー。じゃ、やることやってから行こっか」
ニット帽の下、蛇などの爬虫類を思わせる沙夜の瞳が深紅に輝く。すると店内に充満していた紅色がにわかに増し、ぼーっと突っ立っていた――もとい、『霧の腕』に脳を侵されていた店員の周囲が特に色濃くなった瞬間、その首が可動域を超えて捻じ曲がり、糸の切れた操り人形の如く倒れた。
「ワンオペご苦労様でした、店員のおねーさん。美咲ちゃん、レジお願いしていい?」
「……分かりました」
美咲は死体を跨ぐとレジから金を抜き取り、ポケットに押し込む。血で汚れた、汚い金。血で汚れた自分たちの命を繋ぐ汚い金。
(抵抗感も……薄くなっちゃったな……)
胸に空いた大きな穴。姉が死んだ時にも、若葉に説教をされた時にも感じたもの。それがまたズキリと痛みを発した。
(いやだ)
穴の正体、痛みの正体は知りたくない。考えたくもない。全てを振り払うようにぶんぶんと顔を振るい、先に自動ドアを通って外へ出た紗夜へ声をかけた。かけようとした。その瞬間、見えた。
「虚道さ――!!」
美咲は咄嗟に叫ぶが、それより速く紗夜の頭に紫色の輝きが落ちる。否、ただの輝きではない。魔法少女『ブレイズ』――木枯小夏。その手には重厚な柄と鍔、そして幅広の剣身を持つ大剣が握られていた。振り下ろされる先は無論、深紅の中心。紗夜の頭部。そして――
「どうも――こんばんはっ!!!」
――強く打ち付けられた剣身の腹が深紅の火花を散らし、ピタリと停止した。
「うっわ! びっくりしたー!!」
剣を受け止めたのは、微細な魔力の集合体である霧。開け放たれたドアから、そして紗夜の左肩から吐き出された深紅の霧はその頭上に集い、蠢く不定形の盾となってそれを防いでいた。
「……なーんだ、愛華さんでも若葉さんでも無くてお初のおねーさんかぁ」
「そう、初めましてね『霧の腕』……。あたしは『ブレイズ』。よろしく!」
「よろしくおねがいしまーす、って言いたいけど……それよりさ、ちょっとどいてくれない?」
盾は集束し、『霧の腕』を成す。それで大剣を押さえ続けながらも紗夜の目線はそこにも、小夏にも向けられていない。その身体を挟んだ向こう側へ、コンビニの屋根から飛び降りたその少女へ――
「――若葉さん! わっかばおねーさーん!! ひさしぶりーっ!!!」
「うるせーよこのガキ! 今はどいてろ!」
「あっおねーさ――」
駆け抜ける若葉に対し、『霧の腕』が二股に別れて触手のように伸びる。が、小夏は握るもう一本の大剣ですかさずそれを断ち切り、視線の先に割り込む。
「ほら、どいてろって言われたでしょ? あんたが遊ぶのはあたしとよ」
「――……そっかそっか、分かったよ。それが若葉おねーさんの意志なら仕方ないかぁ」
若葉は小夏に例を言う暇すら惜しみ、ドアを蹴り破って店内に転がり込む。そしてカウンターの中へ。美咲の正面へと立った。
その光景を見届けた一瞬の後、沙夜の双眸が強く輝く。みるみるうちに肩口からは深紅の霧が溢れ出し、鈍く光る月も街灯も覆い尽くし――深紅と紫色の輝きだけを内包する、直径20メートル程のドームを創り出した。
「なん、こんな規模――やばっ!」
小夏は見開いた瞳の端で、両大剣に纏わりつく霧を見とめる。咄嗟に手を放して跳び退くと、霧は口惜し気に大剣だけを呑み込み、沙夜の元に戻って再度『霧の腕』を形成した。
「……ねぇ『霧の腕』。これってさ、もしかして全方向から攻撃できたりする?」
「えへへ、どうだろうねぇ? まぁとりあえずは先に遊んであげるからさ……つまんないあだ名じゃなくて、ちゃんと名前で呼んで欲しいな! ね、小夏おねーさん?」
「う……あの子から本名まで聞いてる感じなのね……。ったく、分かったわよ! 楽しもうじゃないの――虚道沙夜!!」
―――――
――――――――――
―――――
外の景色が紅に覆われ、同じく紅に染まった壁、棚、空間。それに抗う光は店内照明の他には白色と薄緑色――正面から相対する二つのみ。
「よう、美咲」
「お久しぶりです。……佐藤、山田、鈴木でしたっけ? 三人のうちの誰か……あるいは複数人が探知系の魔法を持っていて、かつ『宝石の盾』に所属していたと。若葉さん、そして木枯小夏さんは連絡を受けてここに来た。この認識で合ってます?」
「ああ、その通りだよ。ったく……相変わらず頭の回転が早えから説明要らずで助かるわ」
「……どうも。で、一ヶ月も経ってからのご登場ですか」
美咲はコートからナイフを抜き放ちつつ言葉を続ける。
「てっきりもっと早く……そうですね、なんなら私の傷が治る前に来るとすら思ってましたが。もしかして不測の事態に対しての代償を支払っていたか、あるいは組織自体を――」
「――美咲! 悪いが、あんま時間に余裕はねぇんだ。先にアタシの話を聞いてもらうぞ」
美咲は紗夜の強さ、そして小夏の実力も共に知っていた。故におおよそ紗夜が勝利するであろうことも理解していた。対して自分が若葉に勝てる可能性は、経験を積んだとて未だ低い。時間を稼ぐことで紗夜の加勢を待つことが最善手であると、それは分かっていた。しかし。
「……」
美咲は黙り、ナイフを構える。構えたまま動かない。
「……美咲。アタシはな、『宝石の盾』を抜けてきた。お前の言う通り、あの時の件で色々あってよ……そんで逃げてきた。組織に縛られず、自由になるためにな」
「……」
「あんなとこに居ちゃ迎えに来てやれねぇからな。……美咲、アタシと一緒に帰ろう」
「……私は既に、『宝石の盾』に狙われています。虚道さんとなら……貴女を餌に一緒に居ることで、私の安全はそこそこのレベルで確保されているはず――です!!」
言葉の終わり際、無造作に突き出されたナイフを若葉は軽くいなす。
「だから……迎えに来ていただいたのに申し訳ありませんが、貴女と一緒には――」
「そうじゃねぇだろ、美咲。お前の居場所ってのは……そういうのじゃねぇだろ」
いなされた勢いのまま、美咲は不格好な回し蹴りを放つ。若葉はまたしてもそれを容易に受け止めた。
「それに、前に言ったのを忘れちまったか? 追手なんざ、アタシが全員ぶん殴ってやるよ」
「あ、貴女の強さくらいは理解しています! でもそれだけじゃ……! 貴女は虚道紗夜には――」
「……なんだ、自分の身を案じてるようで……アタシの心配をしてくれてんじゃねぇか」
「あ、う……」
「ま、確かにアタシじゃあのガキには勝てねぇさ。だが、小夏はアタシと一緒に居ることがバレたらヤベーのに協力してくれて、そんで足止めしてくれてる。……あのガキを倒す仲間は見つけられるさ」
「……どうして協力なんて……あんなことがあったのに――! きっと……きっと何か裏があるに違いありませんっ!!」
美咲は力任せに両拳を叩きつけに行く。若葉は容易にそれを捕らえ、そして確かに握りしめた。
「知りたきゃ小夏に――後で本人にゆっくり聞いたら良いさ。とにかく、アタシ達は損得だけで動いちゃいねぇんだよ。宙ぶらりんでよ、何をしたら良いか分からないからって……元凶を自分だと思い込んで、追い詰め続けるのはもうやめろ」
「な、なにを分かったようなことを――」
「分かるんだよ。アタシはな本当に自分のせいだが……長い間、居場所を失くして彷徨ってた。でも、救ってくれた奴が居たんだ。アタシだけの為に全てを投げ出してまでよ」
「……っ……」
「だから……お前のことも救ってやりたいんだよ。アタシは」
美咲は大きく仰け反り、額を若葉の顔面へ叩きつけにゆく。が、両拳を取られており、かつ身長差もあって届かない。
「……私はもう……戻れないところまで殺しを重ねてしまってます。背負いきれない十字架を捨てて、他人の命を踏みにじって……ここに立っています」
「……ああ、そうだ。でも……まだ間に合うさ」
若葉の握力は強まり、美咲はナイフを振るうことも、蹴りで距離を取ることも許されなかった。
「十字架はアタシも一緒に背負ってやるよ。大丈夫だ、美咲。……お前は独りじゃない」
「――っ」
不意に若葉の握力が緩み、美咲はそれを見逃さず突き飛ばす。
「……わ、私……は……迷惑を……面倒な、人間ですよ……」
「だろうな」
「……これからもきっと、戦いは避けられないでしょうし……私なんかが生き残るためには……殺しも避けられません……きっと……」
「安心しな、勝ち方くらいアタシが教えてやるよ。任せとけ」
「……なら……私は……ぅ、でも――」
沈黙が満ちた場で美咲は俯く。そして僅かな時間の後、長い長い思考を終えて目を見開いた。その瞳は白い輝きを放っている。
「――私に……信じさせて、欲しい……です。……信じさせて下さい」
美咲はナイフを放る。不意を突くため、あるいは攻撃のためではなく、ただ放り捨てた。見せるため、見てもらうために。自らも模索していた、「殺し方」ではない「勝ち方」を。
「貴女が強いんだって……貴女と往く道が正しいんだって……。貴女と……一緒に居て良いんだってことを……!」
「……ああ。信じてもらえるよう、めちゃくちゃカッケーところを見せてやるよ。……おいで、美咲」
魔法を行使せず、ほんの僅かな思案だけで美咲は踏み込んだ。場所はカウンターの中であり、側面への移動は不可能。直線的な攻防に限られる。そして放った初撃は若葉に習った技、刻み突き。
「――やるな。綺麗に撃てるようになったじゃねぇか!」
若葉は突きを掌で受け止めると同時に、左頬を平手で打った。大した力は込められておらず、掌底というにも甘い。だが、美咲は気付いていた。
(このカウンター……その気なら『虎爪』で打って、同時に目に指を入れられてた……!)
美咲は怯まず、突き出した右手を若葉の肩へと滑らせて掴み、顎への飛び膝蹴りを狙う。しかし若葉は右腕を引き戻すのが間に合わないと見るや、瞬時に身を寄せてゼロ距離へと詰める。
(――膝を曲げるスペースすら……!)
美咲が自由に動かせるのは左腕のみ。しかし、それも若葉の右手によって手首を掴まれ制される。肩に置いていた右手も、既に左腕によって身体ごと抱えられていた。
ベアハッグ。鯖折り。あるいは単なる締付け――。そんな力技から、他の無数の選択肢も取れる状況。美咲は既にそんな袋小路に追い込まれていた。
「――どうだ、カッコいいだろ?」
「……いえ……なんか、舐めプされてましたし……」
「はっ! そりゃそうだ。ま、互いに本気じゃないとはいえ、それでも実力差は良く分かったろ」
「……はい。あと……あの、それに――」
美咲は拘束から逃れようとしていなかった。それ以前に、若葉も拘束してはいない。力は込められていない。しかしながら、細身の身体に真白の髪がうずめられる。――拘束はいつしか抱きとめる形となっていた。
「――あったかいです」
「……ん。そうだな」
絹のような、さらさらとした髪。若葉は白に輝くそれの温度を確かめるように、優しくゆっくりと撫でた。
―――――
――――――――――
―――――
全てが深紅に染まった、隔離された世界。未だ辛うじて紫色の光を保つ小夏の身体には、幾本もの触手や蛇の身体のような――あるいは指のような霧が巻き付き、締め付けていた。
「小夏おねーさん……芋っぽいと思ってたけどさ、よく見るとめっちゃ素材良いじゃん! しっかりお化粧したらぜっっっっったいに可愛いって! もったいないなーもー!!」
紗夜は小夏の髪を弄りつつ狂喜している。だがしかし、それに対して小夏は何もしない。何も出来ない。何をする猶予も与えられていない。
小夏は『霧の腕』がリストに載っている理由を身をもって味わっていた。大剣を振るおうにも、まず霧の指を避けなければならない。幸いにもドームの壁から伸びてくることはなかったが、しかし紗夜の気分次第でその肩口から五本だろうと十本だろうと無尽蔵に迫ってきた。
魔力の奔流を放つ機会も訪れたが、それは小夏に届くまでに立ち込める霧によって阻まれ、相殺されてしまう。霧の制御には姿勢など関係なく、自身の魔力で一時的に相殺したところでまた湧き出すだけだった。
(――時間を……稼げ……若葉さんのために……あの子の為に……!)
そう自身を奮い立たせたが、それすらまともに叶わなかった。大見得を切ったくせ、奔流の連撃など放つ暇すら与えられず、早々に押し切られ拘束されてしまった。
(『霧の腕』……虚道紗夜……こいつ、魔法少女の域じゃない……っ! 魔物……それもあたしですら戦ったこともないようなヤバいやつ……! こいつがその気なら一瞬で……あたしは……っ)
小夏は死を覚悟したが、しかし若葉の言う通り――紗夜は遊ぶ。歪な形であれ時間稼ぎは出来ていたと言えるだろう。
「絶対変身解けたら黒髪でしょ? 髪染めたりしないの? ポニテはそのままにするとしても、インナーカラーだけでめっちゃ可愛くなると思うんだけどなぁ……」
「そう? 嬉しいこと言ってくれるじゃない……。それなら高校デビューの暁には髪型も雰囲気も一新してやろうかしら」
「うんうん、絶対良いと思うな! アイラインはっきりめに描いてさ、格好良い感じはどうかなぁ? ……若葉おねーさんみたいな……うへへ……小夏おねーさんもかわいいな……」
紗夜の瞳が輝き、締め付けが増す。骨が軋む。大剣を創り出してどうにかしようにも、宙に固定されているせいで媒体となる物体に触れられない。
「ぐぅっ……! あ、あんたさ……虚道紗夜……」
「ん、なぁに?」
「あんたはさ、なんでこんなこと……やってるのよ……? キッカケとかそういうの、結構気になるタイプでさ……あたし……」
「んー……そうだねぇ」
ギシギシと骨が悲鳴を上げ、そして右腕が耐えきれずにへし折れる。
(――んぐぅ――っ!!!)
顔を顰めながらも激痛と叫びを何とか噛み殺し、耐える。今まで辛うじて浮かべていた気丈な笑みが消える。その様子に気をよくしたのか、紗夜は一層笑顔を増して白く可愛らしい八重歯を覗かせた。
「僕ね、いつから魔法少女だったか覚えてないんだ! なんなら親の顔も覚えてないや」
「な……っ……?」
魔法少女への扉は心の痛みによって開かれる。その瞬間を覚えていないなど、普通はありえない。
「でもね、記憶があるその瞬間からやりたいことは分かってたの。笑って、戦って、殺して、可愛い人といっぱい気持ちいいことして、それで楽しむ! ずーっとそれだけしてたくて、ずーっとそれだけしてきたんだ!!」
「な、なるほど……なかなかお気楽で楽しそうじゃない……!」
「でしょー! 小夏おねーさんも一緒に来る? それならイメチェンのお手伝いもできるし!」
「……そ、それは嬉しいお誘いだけど……生憎、仲間ならもう居るのよ……! だから……お断りね……」
「そっかー。残念だなぁ」
紗夜は小夏の後ろ髪をくるくる編み込みつつ、またしても霧の拘束を強める。表情は伺えずとも、気配のような……殺気のようなものが明確に増していた。小夏は恐怖する。今度は左腕か、右脚か、左脚か、それとも
「――ぐぅっ……! そ、そういや、あんた……!」
「ん? なぁに?」
「なんでさ、若葉さんに……執着するのよ……?」
「あっ! それ聞きたいの!? おねーさん分かってるじゃーん!!」
ぱあっと露骨に声が明るくなり、僅かに拘束が緩んだことで大きく息を吸う隙が生まれた。切り札として取っておいた話題ではあるが、これで放っておいても勝手に話が続くだろうと小夏はやや安堵する。
「それね、海よりもふかーい理由があるの! なんだと思う?」
「げほっ、あー……そうね……。命を救われた、とかはあんたにとっては理由にならないわよね? 何かしら……浮かばないわね……」
「えー想像力ないなー。正解はねぇ――」
くるくるとまるで踊るように沙夜が小夏の前に歩み出し、そしてにっこりと微笑む。その笑顔に限っては邪悪など微塵も感じられず、年相応の可愛らしいものであった。しかし。
「――顔でしたっ!! えへへ!」
「が、ひぐぅっ!!?」
「海よりも深い理由だって言ってたのに」とか、そんなことを思う暇も無く小夏の左腕がへし折れる。
「え、小夏おねーさん声かーわいいー!! でも、そのくらいならやっぱり若葉おねーさんの方が好きだなぁ。普段は格好良い人が追い詰められた時の顔とか、叫び声とかさ……ギャップ萌えじゃん? それがどうしても見たくてさー」
「……かはっ……はっ……あぐ……ぐ、ギャップ萌えは分かる、けど……泣き顔よりも照れたり、嬉しそうに笑う顔のほうが良いんじゃないの……?」
「むー! それも魅力的だけど、でも僕は泣き顔の方が好きなのー! 多様性ってやつだよ!」
「な、なんかズレてるし……それに、あんたみたいなやつに適用される言葉じゃないわよ……それは……」
「そーかな? ま、どうでも良いよ! とにかく今は向こうが終わるまで……いっぱい楽しもっか。ね?」
紗夜が言うと、肩口からもう一筋の霧が伸びる。それは四肢を縛るものとは違い、パワーや耐久性よりも動作性を重視して魔力を編み込んで作られているような……。その指が顔に触れ、頬をなぞり、細首を撫で――そして血の滲んだ唇へと添えられた。
「……美咲ちゃんはきっとやられちゃうだろうけどさ、時間は稼いでくれるだろうし。可哀想だけど……僕はその間にギア上げといて、その後に今日こそ若葉おねーさんを……えへへ……」
紗夜の笑みがより濃く狂気を孕む。
「小夏おねーさん……今からさ、口にこれ突っ込んで喉も内臓もぜーんぶぐちゃぐちゃにするね! ほんとは下の口に突っ込みたかったんだけど、そっちは若葉おねーさんに取っときたいから」
「――ぐ――っ!」
小夏は必死に唇を結び、霧の侵入を防ぐ。幸いにも紗夜はその反応すら楽しんでいるようで、無理にねじ込んでくることは無――
「――えいっ」
ぐしゃり。三度目のその音とともに、小夏の右脚が小枝のようにへし折られた。そして、苦痛に歪んだ顔へ、その口へと霧が捩じ込まれる。
「……がぁ、おご……っ! んぅ……ぅぇ――っ!!」
「あー涎ダラダラにしちゃって、もー! まだまだ喉のところだよ? 先は長いんだから、怖がらないで。力抜いて……ね?」
言葉にならない。言葉が出ない。押し込められた霧によって嗚咽すら封じられ、噛み千切ることも、舌で押し返すことも許されない。ただ剥いた目いっぱいに涙を浮かべ、祈ることしか出来ない。
(――わか――ば、さん……っ!!)
紗夜が何かを呟き、食道が押し拡げられる感覚が強まる。顎が千切れるほど軋む。意識が途切れる。死ぬ。そう小夏が直感したとき、祈りが届いたか――
「――ッオラァ!!!」
深紅の壁の一部が吹き飛び、紅一色の世界に夜の闇が入り込む。薄緑色に輝く拳を突き出し、そこに立つのは無論――
「――すまん、待たせちまった!」
「あーっ! 若葉おねーさん!! ほんっとに待ったよー!!!」
「テメーじゃねぇよ!」
紗夜の意識が若葉に寄せられる。その瞬間、紅の世界へと白く輝く何か――ナイフが投げ込まれ、小夏の口へ捩じ込まれていた霧を切断、消滅せしめた。
「え、あっ……美咲……ちゃん……」
「……虚道さん」
若葉の陰から現れた美咲は、紗夜と悲しみとも怒りともつかぬ表情を見合わせる。だが、そんな暇は無いと知る若葉は霧の中に飛び込むと、小夏を拘束するそれら全てを瞬時に引き千切って満身創痍の彼女を抱え上げた。
「――逃げるぞ、美咲!!」
「……はい!」
二人と担がれた一人は嵐のように立ち去る。が、紗夜はその背を追わない。速度の出る攻撃ではないものの、霧の腕を伸ばして阻止しようと試みることもしない。
「……そっかぁ……そっちか……。戻っちゃったんだ。……短かったなぁ」
ドームは消え失せ、フリルに覆われた肩口へ吸い込まれる。深紅の輝きを解いた少女は、新月のような表情を携え、暗がりへと消えていった。
〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜
「……あの……すいませんでした」
小夏を担いだまま建物の上を跳び継ぎ駆ける中、後ろについていた美咲が口を開く。
「ただ謝れば良いことではありませんが……その、私のせいで……お二人とも……」
「何を辛気臭いこと言ってるのよ」
まず応えたのは小夏。満身創痍ではあるが、美咲の持っていた『
「ま、とりあえずもう気にすることはねぇさ。アタシらを匿ってくれるところの手筈もつけてあるし……心配要らねぇよ」
「そうそう。だから、そんなつまんない謝罪なんかより……もっと言って欲しいことがあるわねぇ?」
「――ありがとうございます。若葉さん、木枯さん」
美咲は白い輝きと共に感謝の言葉を告げた。心に空いていた穴に、あたたかいものが流れ込むのを感じながら。
「あら、あたしのことも名前で呼んでくれて良いんだけど? というかそっちで呼んで欲しいわ。……ね、美咲ちゃん」
「……は、はい……! 小夏さん……!」
「はっははは!! なんか聞いてるこっちがむず痒くなる会話だな、それ!」
三者三様の、しかし同じ意味を持った笑いが、同じものを見る笑顔が零れる。小さなこの空間いっぱいに溢れる。
名を持たぬ白き魔法少女は、喪った多くのものと引き換えに――かけ替えのない仲間を得た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
月明かりに照らされた大通り。真夜中ながら未だ明かりが点いている店舗もあるが、しかし一人として客も店員も姿は見えない。『人払いの結界』が貼られているからである。
そんな明かりの中に一人、適正より何サイズも上であろうぶかぶかの白いパーカーで細身の身体を包み、紫のインナーカラー入りの黒髪を低く一つに結った少女が歩いていた。その足元には夥しい量の血と――両断された少女の遺体。
「ったく……『欠片』として認められたからって、何でもない魔法少女までやたらに斬りまくってるんじゃないよ。あんたのせいで学校休んで九州まで飛ぶ羽目になってんだけど? ねぇ、『プライド』……
両耳のピアスをきらきらと輝かせ、黒髪の少女は言葉を投げる。視線の先、月明かりの下に立つ影――死装束を思わせる雪色の着物と長髪、そして腰には一振りの刀を携えた艶めかしい印象の少女『
「なーがーとーちゃーん、聞いてる〜? 昔から伝わるちょーマイナーな剣術の使い手で、『正しき事の為に剣を振るいますぅ』って言って『宝石の盾』に入った長門ちゃーん?」
「……人を――」
「へぇ? なーに?」
「――人を斬り続けることで至る頂。それが、古来より受け継がれる『
雪のように、氷のように冷たい視線と共に長門は腰の刀を抜き放つ。こびりつき、ぬらぬらと照る血と脂は、纏う冷気によって刀の一部となっていた。
「あーそっすか。要するに自制心が足りなかったってことね。元々武術の心得があるような子が魔法少女になるとね、よくあるのよー……そういう馬鹿な考えをすることが」
「『ミラージュ』さん。貴女にならご理解いただけませんか? 同じように……いえ、私以上に殺しを重ねている貴女なら」
「ん、いや全く。戦うのは嫌いじゃないけどさ、私はあくまで仕事でやってるだけだし。あんたみたいな殺人鬼とは別。……あんたみたいな、どうしようもなくなった奴らを殺しまくってきただけだからさ」
長門は場に殺気が満ちたのを感じ、大上段に構える。現在の間合いは十歩。
「……どうぞ、変身なさってください」
「あ? あんたみたいな雑魚、このままで充分でしょ。ま、とはいえ私もあんたと同じ一刀使いとして……永峯流の奥義とか見てみたいよね。あるんでしょ、そういうやつ」
ミラージュが言うと、ぶかぶかのパーカーの右袖口から両刃の剣が現れる。持ち手付近は袖により隠れているが、長門が見るにその長さは30センチ程度であり、ダガーナイフなどと呼ばれるものだった。刃渡りは長門の持つ刀の半分も無い。現在の間合いは七歩。
「……如何に『カラフル』さんの懐刀とはいえ、剣でこの私に挑むとは笑止。良いでしょう。お望み通り、三途の川の渡り賃代わりに見せて差し上げます」
長門は握りを確かめ、爪先へと力を込めた。永峯流の奥義である『
それは三の太刀によって構成される。一の太刀は敵を逃さぬため、間合い、体格差、得物の差を考慮することにより「受け止めさせないこと」「避けさせないこと」に主眼を置いた大上段からの袈裟斬り。
これより繋がる二の太刀は左一文字斬り。一の太刀により弾かれた敵の得物の位置により、腿、胴、手首あるいは握り手を狙う。重要なのは得物を避けるようにではなく、むしろ巻き込むように斬り払うこと。瞬く間に別方向への力を加えられることにより、技を受けた者の半数は得物を手放してしまうことになる。そうでない者も、連続した力の流れに翻弄される。
それらの布石を経て振るわれるのが、最期を告げる三の太刀、手首を返しての逆袈裟斬り。一の太刀によって退くことは叶わず、二の太刀によって流された得物如きでは止めることも叶わない必殺の一撃である。空に三角を描くようにして放たれる剣技、これこそが奥義『鐘』。
『鐘』は必殺であるが、使えるのは対武器に限られる。そして二刀以上の相手に対しては多少追加の工夫が必要であるものの、ミラージュが携えるは一刀のみ。故に長門は迷いなく重心を、呼吸を整えた。心拍で間を図る。そして――
――五歩。それは『鐘』の間合い。
「――せいッッ!!!」
完璧な間合いとタイミングで放たれた一の太刀は、ミラージュが防御のために掲げたダガーナイフを捉え、下方向へ流した。狙い通り、受け止めさせず受けさせる。
「――ふッ!!!」
二の太刀。狙いは腿の位置。『鐘』を完成させずに直接胴を斬ることも考えたが、しかし長門は定型通りに下方まで流された得物を、ダガーナイフを狙って斬り払う。強かに打ち付けられ、ミラージュの手からそれが弾き飛ばされた。
(変身すらせずに相対するだと!? 私を……永峯流を修める私を雑魚だと――侮った報いを与えてやる!! 貴様の死を告げるのは、この『鐘』の音こそが相応しい――ッ!!!)
そして、三の太刀。一の太刀によって退くことは叶わず、二の太刀によって既に得物も失われている。それが意味するのは、すなわち完全なる『鐘』の完遂。必殺の一撃、最期を告げる逆袈裟斬りがミラージュの脇腹に吸い込まれる――直前。
「――っ……か……ぁ!?」
長門は理解できなかった。辛うじて分かるのは、喉に激痛が走っていること。そしてその激痛は、脳が身体への信号を即座に停止させるほどに強烈なもので、逆袈裟斬りが放てなかったということ。そして痛みの大元は黒い棒のようなものであり、生身であるはずのミラージュの左腕が人間ではありえない速度で動き、その袖口から突き出されたものだということ。
「いーや凄い凄い! やっばい技じゃんそれ! ……ま、技の内容とか弱点とか……お宅にお邪魔して聞いた後だけど」
長門の手から刀が零れ、脚から、全身から力が抜けていく。喉に深々と突き立てられていたのは、ミラージュが左袖に隠していた特殊警棒。三の太刀より速く、そして隙間を抜けるように放たれたのは、伸縮機能を使い喉仏を潰す一撃だった。
軽薄な笑みを浮かべて警棒をくるくると弄ぶミラージュを睨みつけ、長門は呼吸もままならない喉から声を絞り出す。
「……ぁ、がぁ……っ……お、同じ……一刀……ぃ、言った……のに……」
「あ? いや言ったけどさ、これ刀じゃなくて警棒だし。ちゃーんと『同じ一刀使い』じゃん。勝手に勘違いして何言ってんの?」
ミラージュは倒れる長門へゆらりと歩みを進める。その瞳は濁った深い海のようであり、それでいて全てを見透かすように、見通すように――黒く輝いていた。
「……ひ……きょ……ぅ、もの……ごほ……っ……」
「あーはいはい、そうですねー。まぁアレだよ、アレ――」
ぶかぶかのパーカーに隠れた、デニムパンツに包まれた細い脚がゆっくりと持ち上がる。スニーカーが作る影は月光を遮り、長門の雪色の髪を、そして怒りと屈辱に歪む顔を真っ黒に染めた。
「――そういうの、マジウケる」
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