【2】魔法少女の独りごと

 雨が降っていた。全身が濡れて、ひどく苦しかった。


(――寒い)


 コートは肩に重く沈み込み、裾は水溜りを揺らす。額に貼り付いた前髪は生温く、まるで無数の手のようで気持ちが悪い。


「赤い……夕焼け……? でも雨が……雨……」


 視界が赤かった。右の袖で顔を拭うと、更に赤色が深くなる。脳裏に浮かぶ景色は夕焼けだが、しかし雨が降っている。暗い。いや、暗くはない。赤くはある。そして黒い。しかし濡れていて、雨なのだろう。右手が重くて、濡れているのだから。しかし空が黒くて、赤くて、そして雨が――


「――美咲。雨は……降ってねぇぞ」


 隣から声を掛けられて初めて、美咲は自分がぶつぶつと声を発していたことに気づいた。


「……ぁ……」


 視界が雨の降る夕焼けの河川敷から路地裏へと戻る。自分が立っているのはただの水溜りではなく、浅い血溜まり。右手にはナイフが握られ、刃からコートの袖までべったりと赤黒く濡れている。そして、先ほど拭った頬も同じく。


「また意識が飛んでたのか。大丈夫かよ?」


「……大丈夫……です。大丈夫……うん、大丈夫」


「おい、あのな。大丈夫ってしか言わない奴が大丈夫なわけねぇんだよ。どうせ魔法の副作用が出てんだろ? まだ何個か余ってんだったら、念のため一つ飲んどけ」


「……はい」


 美咲はポケットから一つカプセルを取り出すと、血塗れたままの手で口に放り込み、唾液と共に飲み込んだ。魔法少女は魔力によって身体能力などが強化されており、それは胃液であろうと例外ではない。カプセルは即座に溶け出し――まだ頭にかかっていた霧が瞬く間に晴れた。


(……眼の前に倒れているのは、今さっき私が殺した『宝石の盾』の魔法少女。足元は水溜り……じゃない、血溜まり。今声をかけてくれた隣のお姉さんは――魔法少女の『一之瀬いちのせ 若葉わかば』さん。髪は薄緑色……変身してる)


 自身の調子の確認がてら、美咲は置かれた状況を振り返る。あれから――ルミナスを殺したあの時から二ヶ月ほどが経った。目的を果たした後、大切な人と共に生きる目的を喪ったこの世に未練など無かったが、とはいえ自ら命を絶つ勇気も無かった。そんな虚無の中で当ても無く彷徨っていた時、ひとりの少女が目の前に現れた。


((あなたを迎えに来たのよ。お姉さん――優香ちゃんに頼まれたの。私と一緒にいらっしゃい。……美咲ちゃん))


 若葉と並んで立つ彼女は『天羽あもう 聖奈せいな』と名乗った。そして姉の知り合いだと。両親を亡くした私たちに資金援助をしてくれていた”海外の親戚”の正体は自分なのだと。自分を迎えに来たのは姉との約束なのだと。

 聖奈は他にも多くのことを語っていたが、美咲は半分も理解できていなかった。しかしながら、拠り所を求めていた美咲はその差し出された手を取った。そして――


「――おかえりなさい。美咲ちゃん、若葉」


 二人がとある廃ビルの一室に入ると、腰に届くかというほど長い茶髪をさらりと揺らして聖奈が振り向く。ベージュのカーディガンとフレアスカートという服装は、埃にまみれたこの場所とは明らかにミスマッチである。


「ただいま帰りました。聖奈さん」


「うーっす、大丈夫だったか?」


「ええ、今日も貴女達のおかげでね。今ちょうど瓦礫のお片付けが一段落したところよ」


 今はもう変身を解いて黒髪に戻っている若葉はジーンズが汚れるのも気にせず、転がる瓦礫に腰掛けた。ツンツンと外にハネた髪の印象と仕草とが合わさり、まるで半グレやら不良を思わせるが、反してその鋭い瞳を携えた顔に浮かぶ表情は優しい。自分の隣に転がっていた椅子を立ち上げると、懐から取り出したハンカチを敷いて美咲に手招きする。


「ほら美咲も突っ立ってないで座って休め。今回戦ったのはお前だし、疲れてんだろ」


「いえ、私はあんまり――」


「うるせー。アタシが休めって言ったら休むんだよ。アゴぶん殴って眠らせるぞ」


「もう若葉、言葉遣い! ……でも美咲ちゃん、若葉の言ってることは正しいわ。『幸福の譲与エンハンスド・ラック』は疲労を忘れさせるだけ。ちゃんと休んでちょうだい。……ね?」


「――……はい」


 それぞれの流儀で優しく諭す二人に従い、美咲はやや覚束ない足取りで倒れるように腰掛ける。ぐちゃり、と椅子に敷かれたハンカチに血が染み込む粘ついた嫌な音が響いた。スカートにも血がついていたことに気づいた美咲は咄嗟に謝ろうとするが、若葉はそれを手で制して口を開く。


「なぁ、やっぱり変身は解けないのか?」


「……ごめんなさい」


「謝ることはねーけどよ。変身さえ解ければそんな汚れやら一発で消えるのに。しかも変身しっぱなしだとあんま精神的に休まらんねぇだろ? ったく、何が駄目なんだかなぁ」


 魔法少女は変身することにより衣装が変わり、髪色などの容姿が変わり、そして魔力を纏う。変身とは深呼吸程度の感覚で行えるものであり、解除についても同様である。何年も魔法少女として生きてきた聖奈、そして若葉にとってそれは当然のことであるはずだったのだが。


「ほら、もっかいやってみろよ。力を抜いてさ、風呂に肩まで浸かった瞬間みてーな感じで――」


「こら若葉。今までさんざん試したんだから、そんな急かすようなこと言わないの。……はい、美咲ちゃん。ばんざいして」


 聖奈はペットボトルの水で湿らせたタオルを手にすると、するすると美咲の服を脱がしていく。元々露出の多く、シンプルなデザインの衣装であるとはいえ、相当に手慣れたものだった。


「大丈夫? 冷たくない?」


「……大丈夫です」


 美咲も美咲で、二人に肌を晒すことを恥じらっていない。聖奈の血を拭う手付きと同じく、何度も経験して慣れきった行為だったからである。

 二ヶ月。その間何度も、今晩も襲ってきた魔法少女達は自身を『宝石の盾』のメンバーだと名乗った。曰く、聖奈の身柄を渡せと。その為には手段を厭わないと。滾る魔力を、武器を手にそう言った。

 そして美咲と若葉はその悉くを退け、殺めてきた。戦闘する力のない聖奈を守るために。そのたび、血に塗れてきたのだ。


 美咲は人を傷付けることにも、殺めることにも躊躇は無かった。あの時、何か大事なものが壊れてしまったから。そして自分の新たな居場所を守るためには不可欠な行為だったから。しかしながら、ただルミナスを殺すためだけに握られていただけの刃は、若葉の特訓や幾度かの実戦を経て磨かれていた。

 そんな中、美咲に浮かぶ漠然とした疑問。


(若葉さん……。この人は何なんだろう)


 若葉は人と戦う術に精通していた。それこそ圧倒的と言えるほど、格闘技などの知識がない美咲への指南も容易なほどに。

 いつか聞いたところによると、年齢は17歳。彼女は一体どういう人生を歩んでいて、どのようにして今に至っているのだろうか。気にはなったが、問いかけたことはない。安易に踏み込んで良い領域なのかが知れなかったからだ。そしてこの二ヶ月、彼女が一度も過去を語らなかったことは、きっとその答えになり得るのだろう。そう結論づけて疑問を押しつぶしてきた。


(――でも、聖奈さんは……)


 聖奈は姉と知り合いだと言った。何か約束のもとに自分を迎えに来たとも。それならば、彼女がこうして廃ビルなんかを渡り歩き、隠れて過ごしている理由――その身柄を狙われ、命のやり取りが起きている理由について、自分も知る権利があるのではないかと。美咲はそう思っていた。

 だが、聞けなかった。姉の居ない毎日を生きる美咲の心には、その程度の余力すらなかった。聖奈に、転じてそれを守る己に向けられる殺意を受け止め、跳ね返すだけで精一杯だった。


「あと少し……あと少しで『宝石の盾』の奴らが張ってないルートが探れそうだ。美咲にはすまねーが、とりあえず明日は丸一日聖奈を守ってもらわなきゃならなそうだ。……いけるか?」


「……いけます。任せてください」


 美咲は頷く。『宝石の盾』。戦った相手、そして聖奈や若葉の持っていた情報としては、もう何年も前から存在している大規模な魔法少女組織ということらしい。もちろん社会に露出しているわけもなく、活動内容や目的に至るまで不明。

 そして最近――具体的には一ヶ月と少し前頃から、聖奈は身柄を狙われている。差し向けられる刺客の態度からして対話でどうこうする気は感じられず、とにかく敵であることには疑いようがなかった。


(……魔法少女の組織……魔法の持つ可能性は……無限……)


 自らの肌を指でなぞる。まともにスポーツすらしたことのなかった自分に刻まれたいくつもの傷跡。切り傷、打撲痕、熱を伴う魔法に焙られ赤みがかったままの箇所、そして――


(――お姉ちゃん――)


――跡は見えないが、しかし最も深いもの。思い返すたび、耐えがたい熱さで心臓が鼓動する。しかし、だからといって忘れてしまいたくない。痛みと共にあったとしてもずっと覚えていたかった。そして、叶うことならいつか――


「……なぁ、美咲さ。話は変わるんだけどよ」


「――はい?」


 美咲の意識が一気に思考の海から引き上げられる。顎を撫でつつこちらに目を向ける若葉に対し、聖奈と一緒に首をかしげた。


「どうかしました?」


「いや、その……ずっと気になってたんだけどよ。アレだよ、その……過ぎるんじゃねぇかと……」


「あ! もしかして、美咲ちゃんが来てから私を取られてばっかりだから寂しいの? もう、それなら今日は久々に添い寝して――」


「ちげーよ、なんだその発想の飛躍は! アホラしい! ――っつってもアレだ、別にこれもアホらしいと言えばそうかも知れねーけど、でもアタシにとっては……というか。その……お前らにとっては違うだろうけど……」


「……? 要領を得ませんね……?」


「あーもう! それ! それのこと……だよ……」


 とてつもなく歯切れが悪い呟きと共に、若葉は美咲を指差す。美咲を、というよりその一部を。姉を想って手を当てていた、曝け出された胸を。


「あっ、えっと、ごめんなさい。この傷とか、血は止まってるけどさっきやられたやつだし……見苦しかったですよね」


「――いや、ちげーよ。お前アレだよな、確か13歳って言ってたよな。にしてはやっぱ……アレだなって思ったんだよ。今のうちから何か育てるコツとかあんのかと思って」


「? あの、どういう……?」


「若葉……同性とはいえ流石にセクハラよ。っていうか、曖昧すぎて美咲ちゃんに伝わってないじゃないの」


 理解度が周回遅れどころではない美咲に対し、聖奈がやんわりと耳打ちする。それを聞くうち、真っ白な髪に隠れた顔がみるみる朱に染まっていき、両腕でぎゅうっと素肌を隠した。


「でっ――おっぱ、って、何言ってるんですか!? いや、あの、そういう風に見られてるって思うと……ちょっと……っ!!」


「なっ! この……いっちょまえに恥じらいやがって! お前はまだ良いだろうが! アタシは恥を忍んで聞いてんだぞ!?」


 若葉は今にも食いかからんばかりの形相で美咲を指差す。否、その胸を。


「お前マジでよ、年の割にデカ過ぎるって卑怯だからな!? ひょっとしてDぐらいは――」


「――はいっ! 若葉、もうおしまいになさい。美咲ちゃんの表情、強制給餌される猫ちゃんみたいになっちゃってるじゃないの。かわいそうに」


「い、いや、なんですかその例え……普通は借りてきた猫とかなんじゃ。というか、そういうことなら私より聖奈さんに聞くほうが――むぎゅ」


 美咲が放ちかけた正論は、聖奈の大きな大きなそれによって顔ごと押しつぶされる。それを受け、色々とやや複雑ではあったが、久しく触れていなかった柔らかな空気と優しい感触に顔を緩ませた。そして――


(――はぁ……ったく。こいつ、やっと少しまともな顔したな)


(そうね。最近、ずっと虚空を見てるようだったもの。……ナイスよ、若葉)


 最も貧相な者と、最も豊かな者。対極のふたりもその雰囲気の変化を感じ取り、「目標達成」とばかりに微笑みを交わした。


(……でも、おっきくなりたいのは本音なんでしょ?)


(……うるせー)





―――――


――――――――――


――――――






「――はい、綺麗になったわよ。じゃあ衣装は預かっておくけど……シャツは一人で着れる? お手伝いしよっか?」


「だ、大丈夫です。……でも、今日もまた洗って貰っちゃって良いんですか? 聖奈さんだって『幸福の譲与エンハンスド・ラック』の制御で疲れてるんじゃ――」


「いいのよ、そんなこと気にしないの」


 聖奈は部屋に放られていた、バネが露出しているボロボロのソファにタオルをかける。


「私は魔法を使ったり、試行錯誤してるだけ。貴女はその間、命を懸けてくれてるんだから」


「そうですか……。でもそれは、そもそも私が――」


「『でも』もヘチマもないわ。お願いだから無理しすぎないようにして、ね? 今からお夕飯作るから、それまで少しおやすみしててちょうだい」


「……はい」


 美咲は未だに渋々といった様子ではあるものの、シャツに着替えて寝転がる。コインランドリーに近づけなかった時の、水だけで手洗いされたゴワゴワのシャツだった。


(……やっぱり私……お世話になってばっかり……)


 目だけで部屋を一瞥するが、今自分の使っているソファの他には瓦礫と一つの椅子とコンクリートしかない。若葉は夜通しの見張りに出ているが、聖奈はどこで休むのだろうか。唯一のまともな寝床を自分が使うことにばつの悪さを感じるものの、しかしいくら遠慮したところで一蹴されるだけと早々に諦めた。


「じゃあカセットコンロ取って――っと、いけない……忘れるところだったわ。そういえば、一つだけね。さっき美咲ちゃんがお手洗いで外した時、若葉から聞いたことで……お話があったの」


「話、ですか?」


 聖奈は美咲の瞳を、底まで覗き込むような真摯さで見つめる。まるで母親のような……姉のような。

 そして彼女は、柔らかく、透き通るように優しいが、しかし確かな芯を持つ声で続ける。


「うん。えっとね、美咲ちゃんは賢い子だもんね。今日で三人目って言えば……分かるかな?」


「……はい」


 聖奈の言う通り、美咲はすぐにその意味するところに行き着いた。三人とは、もっと言うのであれば七人のうちの三人。この二ヶ月で襲ってきた魔法少女の中で、美咲が殺めたその人数だった。


「戦えない私が――守って貰ってる私が、こんなことを言う権利が無いのは分かってるわ。けれど、それでも言わせて」


 暗闇の中、聖奈は既に背中を向けていたが、自らの両腕を握り潰さんばかりに強く握っていることは雰囲気で分かった。その背が細かに震えていることも。


「襲ってくる子達もね、いつもは普通の女の子なの。だから、その……考えてあげて……?」


 その震える声は演技などではない。本当に相手を、敵である魔法少女のことすらも思いやっての言葉なのだと美咲は信じられた。しかしながら、いや、だからこそ美咲は言った。


「これを言うのは卑怯だけど、遺された家族のこととか……。若葉も言ってたわ、せめて救える人を――」


「無理です。殺す気で……いや、殺さなきゃいけない。むしろ四人も生かして逃がしてしまったのを恥じるべきです」


 それは美咲の紛れもない本音だった。僅かでもぼかしたり、気を遣ったりすることのない真っ直ぐな意思。自分のような人を増やしてはいけないだとか、そんな偽善者じみた思考は一切含まれていなかった。


「聖奈さんの言う通り、いつもは普通の女の子かも知れません。けど、襲ってくるときは間違いなく魔法少女です。……なら、殺されても文句は言えないでしょう?」


 聖奈の言うことも「道徳心というものの存在を踏まえた理屈」では理解していた。しかし、美咲の回答は「NO」でしか無かった。

 凝り固まった魔法少女への猜疑心、嫌悪感、敵意、そして殺意。それらは自らに害をなす相手に対して例外なく向けられているものであり、意思の核となっているのは無論……姉である優香の死と、そしてルミナスを殺した経験だった。


「……そっか。いえ……そう、よね。ごめんね、その通り……だと思うわ……」


 聖奈は背中を向けたままだったが、美咲にはその表情が容易に想像できた。想像できてしまった。聖奈の言う通り、美咲は賢かった。


「……うるさくないように、あっちのお部屋で作ってくるわね」


「――……はい」


 そうして闇に溶けていく後ろ姿を見届けた後、美咲はゆっくりと瞼を閉じた。


(……魔法少女を殺して何が悪いの……。仮に殺さないようにと言っても、そもそもそんな余裕……私には……)


 美咲の持つ魔法。それは脳の処理能力を極限まで高め、0.1秒を一時間にも引き伸ばして知覚することができるもの。身体能力そのものを向上させるのとはやや異なるものの、これによってほぼ素人である美咲でも敵の攻撃を見切り、正確な体捌きで的確な反撃を行うことができる。コートの内に隠し持つナイフとも相性抜群の、正に生命線と言えるものだった。この魔法であれば「殺す」を「倒す」に置き換え、命を奪わずにおくことも可能ではあるだろう。しかし。


(……常にそう上手くいくとも限らない……から……)


 脳裏に焼き付いている記憶。それはもう1ヶ月ほども前、若葉に戦い方を教わっていた中で初めて組み手をした時のものだった。

 美咲の魔法を持ってすれば、突きはただの直線的な攻撃ではない。相手が捌こうとすればそれをすり抜け、避けようとすればその瞬間から追尾する必中の技である。直線で突けないぶん低下する火力をナイフを持つことによる殺傷力で補えば無敵だと、そう美咲は思っていた。故に自分にとっての戦いとは「如何に近付くか」に集約されると。一歩踏み込めば即間合いという状態から始まる組み手であれば自分に負けはないと。そう思っていた。


(でも……)


 でも。しかし。何も問題ないと判断できたのは、初撃を捌いて踏み込んだ瞬間までだった。カウンターが命中するより早く、こちらの動きを予測して若葉は動いていた。対処する暇すら無く、彼女が二度目に振るった拳が鼻先に触れていた。私がナイフの代わりとして持っていた木の棒の動きをしっかりと手で制し続けたままの、流れるような動きだった。


(……脳の処理能力をブーストできたところで、身体能力や格闘技術の差が大きすぎると結局埋められない。当たり前だけど、物理的に無理な状況はどうにもならない……)


 若葉の魔法は『真眼しんがん』という、例え壁越しにでも魔力を精密に観ることができるというもの。魔力の流れを把握することによって魔法による攻撃を予測したり、変身していない状態の魔法少女を判別することすらできるという。故に今こうして見張り役を買って出てくれているわけである。しかしながら、魔法がそれということは――彼女は特別な強化など無しに、ごく単純な能力で美咲を上回っているのだった。


(魔法少女にはどんな人達が居て、その中で若葉さんがどれくらいのランクに居るのかは分からない。でも、少なくともあれくらいの人は居るということ。もし相手を殺さずにおくなら、私は相応に強くならなきゃいけない。その辺も含めて一つ目の弱点として……解決しなきゃ)


 一つ目。そう、これは弱点の一つ目であり、重大なものがもう一つ存在していた。弱点というより欠点に近いもの。彼女の生命線である魔法に対してついてまわる制約のようなものだった。


(……最近、ぼーっとしたり幻覚が見えることが増えてきた。魔法を長く、多く使った後に。……でもそれはそうだよね、無理やり脳を過剰に働かせてるんだもん。副作用くらいあって然るべき……だけど、魔法の使用は最小限に抑えなきゃ。じゃないと……どうなるか)


 とはいえ、この魔法は美咲にとって不可欠なもの。恒久的な課題の解決策ではないが、即時的な反動への対応であれば用意されていた。それは聖奈の『幸福の譲与エンハンスド・ラック』――物体に魔力を込めることで、特別な性質を与える魔法。例えば食物に魔法を付与して摂食すれば、一時的に神経を興奮状態にして疲労や痛みを消失させ、多幸感や万能感を得ることができる。平たく言うと、何でも麻薬へと変えることができる魔法だった。

 美咲は砂糖に『幸福の譲与エンハンスド・ラック』をかけたものを医薬用のカプセルに詰め、常にいくつか携行している。無論、これも飲み過ぎることはできない。毛細血管が切れやすくなったり、発熱や異常発汗が起こりうるだけでなく、今以上に幻覚が酷くなる恐れがある。常に変身しており、魔力による保護を得ている美咲であっても服用には48時間――ギリギリのところで24時間は間を置かなければならない。薬が飲めないタイミングでの長時間の魔法の行使による幻覚症状。これが美咲の最も警戒するべきものであった。


(魔法に頼らない戦い……。正直、今はまだ難しい。けど模索していかなきゃ。……きっといつか……捜すんだから……お姉……ちゃん……を……生……――)


 不安と決意を胸に、空腹も忘れ、美咲の思考は沈んでいく。足を取られればすぐに呑み込まれ、溺れてしまう泥のような闇の中。自分の為、そして大好きな人の為に命を燃やすと決めて――。






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 少女は回想していた。自らに与えられた命令、使命を。そして、自らの強く固めた決意を。


(これを終えたら……『輝石』の座が手に入る。3つしかない幹部の席。そこにあたしが――姉さんより先に座れる)


 姉は小学生で魔法少女になった。自分はその頃、テレビの中で輝く魔法に想いを馳せていた。

 姉は中学一年生でピアスを空けた。自分はその頃、初めてブラを一人で買った。

 姉は中学三年生で人を殺した。自分はその頃、初めて魔物に対して武器を振るった。

 姉は高校一年生で髪にインナーカラーを入れた。自分はその頃、おかっぱだった後ろ髪を高く一つに結った。

 姉は高校二年生で幹部の懐刀となった。自分はその頃、新人の教育係になり、幹部一歩手前まで評価されていたことを知った。


 そして今日。


(今まで姉さんの背中ばかり見てきた。でも、今回は違う。……あたしが姉さんの前に立つ)


 逸る気持ちを抑え、あくまで平常の歩幅を保って歩みを進める。ゴーストタウン一歩手前な葵原あおいはら町の一角にある、かつては数多の中小企業が家畜厩舎のように詰め込まれていたという廃ビルへと。


 彼女、『木枯こがらし 小夏こなつ』は『宝石の盾』に所属する魔法少女である。中学一年生の頃から活動を初め、キャリアは三年。魔法少女として特に影の魔物を狩る適性が高く、僅かそれだけの期間で最高幹部手前まで登りつめた実力者である。そして今回、その最終段を登るために与えられた試験が「天羽聖奈の確保」――転じて「天羽聖奈を守っている魔法少女『鏡座美咲』の無力化」だった。年若いながら、躊躇なく相手の急所にナイフを突き立てられるという。


(資料によると天羽聖奈の戦闘能力は皆無に等しいとのことだけど、それを守る鏡座美咲の方は相当に腕が立つみたい。……それに、何よりこれは普段の魔物狩りじゃない。魔法少女相手の……人間同士の命のやり取りなんだ)


 『宝石の盾』に所属する魔法少女は役割によって大きく二つに別れている。一つは小夏も所属する、対魔物に優れた魔法少女が集まる『原石げんせき』。もう一つは対魔法少女に特化した『欠片かけら』。その中の選りすぐりの三人が『輝石きせき』となり、組織を治めるのだ。

 『輝石』となった魔法少女には特別な名前が与えられる。皆を繋ぎ導く「コネクト」。暗部の執行者である「カラフル」。そして今現在は空席である――魔物を狩り、人々を守護する「ルミナス」。小夏を始めとした魔法少女達が挑んでいるのは、このルミナスへ至るための試験であった。


 今までも何度か、自分の加入以前に『輝石』の更新はされているらしい。しかしその時の試験内容は『原石』であれば強力な魔物の討伐であり、『欠片』であれば無差別に力を振るう魔法少女の鎮圧だったとのこと。今回のように、自らの役割から外れた事案が試験となる前例は無かったという。異常。故に危険。しかし、小夏の歩みは揺るがない。


「……あたしなら出来る。大丈夫、あたしは強いから……大丈夫」


 小夏は足を止め、アドレナリンが過剰に分泌されていることを感じながらに意識を集中する。脳内に描いた地図に波紋が広がるようなイメージで『人払いの結界』を展開すると同時に、その身体は光に包まれた。

 ポニーテールは炎のように超自然的に揺らめき、毒々しくも明瞭かつ鮮やかな紫色に燃える。身体の動きを阻害しない位置には甲冑のような装甲が顕現し、スカートやフリルに彩られながらも凛としており、さながら中世の騎士と貴族のハイブリッドといった様相だった。


「――ねぇ! 居るんでしょ!? 魔力を……感じるわよ」


 魔法少女の第六感。それは自らの魔力の他にも、張り詰めるような波長の魔力を捉えていた。まず間違いなく、これが鏡座美咲のものだろう。

 廃ビルの前、街路樹も無く、ただシャッターの下りた建物や街灯がいくつかあるだけのつまらない道。ゴングなどもちろん無く、この場の空気が既に開戦を告げていた。


(来る……どこから……!?)


 小夏は屈み込み、地面に手を着く。怖気づいて立っていられなかったわけではない。彼女にとってのこの姿勢は、魔法を素早く行使するための姿勢――腰に帯びた刀に手を添えているが如き状態だった。


「――ッ!!」


 ヒュウ……と重く、空気を裂く音が徐々に近づいてくる。その主は頭上から落下してくる、人の頭ほどもあるコンクリートの塊だった。咄嗟にそれを避けた後、砕け散った破片には目もくれず、あれこれ考えるより先に身体を動かす。不意打ちを仕掛けてくるなら今だと、それだけを判断して魔力を地面に流し込む。

 アスファルトに紫色の輝きが染み込むと、片手で握れる程度の太さの円柱――柄が、そして長方形に近い鍔が現れた。それを軸に身体を滑らせ、引き抜きつつ背中に構える。直後、まだ露出しきっていない剣身によってナイフが弾かれた。


「はああっ!!」


 紫色に輝くそれは、厚く幅広い両刃の剣身、重厚な柄と鍔を携えていた。抉れた地面から大きく薙ぎ払うように引き抜かれたのは、1.6メートル強――つまり、跳び退いて一閃を回避した美咲の身長以上の全長を持つ大剣だった。


「なかなかのご挨拶じゃないの――鏡座美咲ちゃん。あたしは『ブレイズ』。よろしくね」


「……自己紹介、ですか。余裕ですね」


「そりゃあマナーだもの。あんたも返してくれても良いのよ? 本名は知ってるけど、魔法少女としての名前は知らないし」


「……」


 美咲のジットリとした視線を受け、小夏は笑う。自分と同じくらいの女の子の瞳がこんなにも濁っており、声も澱んでいるものなのかと。そしてこんなにも冷徹で、殺意を孕んでいるものなのかと。


(まるで夜の海みたいな、暗くて深い眼。……姉さんと同じだ。全てを見透かされているような、見通されているような)


 小夏の頬に一筋の冷や汗が伝う。全てを見透かされているとはあくまで直感的なものだったが、しかしある程度事実でもあった。

 たった一度の攻防において、美咲は小夏の魔法の要点を多少理解していた。初めに小夏の取っていた姿勢の意味。地面から引き抜かれた大剣と抉れた地面に、現在も屈み続けているその意味。


(この人の魔法は「周囲の物体を媒体にして武器を創り出す」ようなもの、かな。わざわざ地面から出してたのを見るに、いきなり虚空から創れはしない。あと確認しなきゃいけないのは、創り出せる武器の種類。大剣を創ることしか出来ないのか、もしくは媒体となる物の大きさによって創り出せる武器も変わるのか。……それが重要)


 美咲は小夏の攻撃を回避した後、安易にカウンターを取りに行かなかった。彼女が右手で大剣を振るったとき、左手が地面に着けられていたから。そして、美咲は今も容易に踏み込まない。左手が地面に着けられたままであるから。


(容易に踏み込んでは来ない……。なるほど、流石は何人も魔法少女を退けてるだけあるわね……!)


 小夏は表情に出さず、感嘆した。美咲の立てていた予想は的中しており、まさにその通りの算段だったのだ。今こうして生まれている膠着は、おおよそ地面に着けたままの左手を警戒しているが故のもの――つまり、先程の算段まで一瞬で見抜かれていたことを意味している。


(なら……もう隠す必要はない!)


 小夏の足元に紫色の光が染み込み、左手が輝く。そうして先程と同じく、全く同様の大剣が抜き放たれた。


「まぁ良いわ。あんたを倒して……天羽聖奈を渡して貰うわよ――ッ!!!」


 小夏は左手に持った大剣を大きく持ち上げ、そして振り下ろす。大剣は紫色の光を溢れさせながら、重力を伴ってアスファルトへと向かう。

 切り込みの、仕切り直しの一撃。普通ならそうとしか見えない一撃ではあるが、しかし美咲はその攻撃に引っ掛かりを感じ、魔法を行使して思考の海に沈んだ。


(この状況でわざわざ大剣を創った。ならあのサイズの大剣しか創れないと見て良さそうかな。……でもこの状況、いくらあの剣でも間合いが数歩は遠い……。なのに迷いなく振り下ろしてる。振りながら距離を詰めるにしても、あの重量の武器ではもう間に合わない。つまり、この攻撃は――)


 現実におけるコンマ数秒以下の時間で判断し、美咲は横に大きく跳ぶ。一度目の攻防に続き、またしても判断は正しかった。


 振り下ろされた大剣は、叩きつけられた衝撃で紫色の光となって溶けた。否、破裂し、指向性を持った魔力の奔流として炸裂した。紫色の魔力はインパクトの地点から扇状に拡がり、数瞬前に美咲の居た空間を焼き焦がす。


(やっぱり、見た目以上のリーチの攻撃……っ! 射程自体は五メートルくらい……だったらとにかく間合いを詰め――)


 結論を出し、戦術を決めたその瞬間。美咲は自分を呪った。大剣しか創れないのであれば、最初に魔法を使ってカウンターに更なるカウンターを取りに行けば恐らく勝てていたと。――この状況に陥る前に倒せていたと。


(いや――結果論でしかない。あの場で警戒して、退いておくのは間違いじゃなかった。とはいえ、これは……!!)


 踏み込む為のステップを、どうにか正面から横方向に修正する。視線の先では、小夏は既に右手の大剣も高々と掲げ、そして振り下ろしていた。


「――っ!!」


 美咲は再度奔流を回避する。しかし、距離を詰めることは許されなかった。またしても小夏は左手を掲げており、そこには大剣が握られている。


「躱せるもんなら……躱しきってみなさいッ!!」


 三度目の空間を焼き焦がす奔流を美咲は避ける。そして、またしても小夏は右手を掲げている。無論、その手には大剣があった。続けざまに四度目、五度目の奔流も放たれ、美咲の動きを回避に釘付けにする。


 魔力の奔流を放つ際、大剣は溶けて消える。剣を構成している魔力を、構成の媒体としている物体ごと一気に解き放つからである。本来この技は、強烈な威力の代償に手持ちの武器を失う諸刃の剣なのだ。……そう、本来は。

 相手が回避行動を取っている間に新たな剣を創り出し、それを叩きつけて奔流を放つ。ひたすらに、ひたすらにそれを繰り返す。相手の「回避+接近」の間に「剣の創生+振り下ろし」を行う猶予が生まれるだけの距離がある状態で、一撃目を躱されることにより始まる連撃だった。

 後は相手の回避の癖を観察しつつ、フェイントなどを織り交ぜて命中を狙うだけ。無理に突破しようとすればただでは済まず、射程外まで下がるのであればこちらも踏み込むだけの単純な戦術。否、持ち味を活かしてはいるものの、ほんの少し頭を使っただけのゴリ押しと言えるだろう。ひたすらに力任せで、ひたすらにシンプル。だからこそ、嵌まってしまうと抜け出すのは容易で無かった。


(でも……それでも、敵わない……!)


 絶え間なく剣を創り出し、振るい続けながら小夏は脳裏に思い描く。自らの上に立つ――否、立っていた存在の姿を。頭上で煌々と輝く太陽のような力強さを持っていた少女、ルミナスの勇姿を。


 既に一部の魔法少女以外の記憶からは消されている事象だが、かつて町一つ分の空を覆うほど巨大な、そして強大な魔物が現れたことがある。幾人もの魔法少女が挑んだが、火の粉を払うかの如く蹂躙されていった。しかしながら、そんな相手にも関わらず死者は一人として出なかった。敗退した魔法少女達は命を懸けて倒すためではなく、ただ時間稼ぎのために戦っていたからだった。対魔物において最強を誇る魔法少女――ルミナスがその場に現れるまでの。

 彼女は途轍もなく強大な相手を、純粋なそれ以上の強大さで塗りつぶした。あの光景は圧倒的だった。両手から放たれた『ルミナリフレクション』は、それぞれが虚空で乱反射リフレクションし、魔物の存在する空間を埋め尽くす。それが数メートルだろうと、数百メートルだろうと。回避は不可能。防御も不可能。全てを照らす光で以ていとも容易く全てを呑み込み、滅ぼした。それが『ルミナリフレクション』という魔法であり、ルミナスという魔法少女だった。


(……正直、今でも信じられない。席が空いているってことは、あのルミナスが命を落としたということ。……そして、それだけじゃない。目の前の相手を……鏡座美咲を倒せば、あたしがそのルミナスの名を継げるということも)


 ルミナスの死は一般の構成員には伏せられている。故に、誰かが継がなければならない。あの光り輝く名前を自分なんかが背負うことはできるのだろうか。否、きっと出来ないだろう。自分には不釣り合いな輝きだろう。姉の背中だけを追って来た自分には、それ以上に大きな信念も、己の芯となるバックボーンも無い。だが、それでも引かない。怖気づかない。


(姉さんを超えたい……前を歩きたい!! それがあたしの願いなのよ――!!!)


 小夏は一層力強く大剣を叩きつける。美咲もまた横に跳んで回避する。変わらず何度も繰り返される攻防だが、しかし確実に奔流の精度は高まってきていた。このまま地道に、確実に追い詰める。

 この奔流の連撃に対して相手が取れるおおよその動きに対して、対応策は用意していた。前後左右や上方への回避、そして強引な突破など。しかし――用意されていたのは、あくまで戦闘の中で行われる行為への対応だけだった。


「なん――っ!?」


 何度目か分からない奔流を回避したその瞬間、美咲は真後ろを向き、脱兎の如く逃げ出した。思わず大剣を振るう手が止まる。美咲のそれは戦闘・応戦の動きではなく、明らかに戦闘を捨てた逃走であった。

 小夏は追うか、あるいはこのまま放置して聖奈を捜すか逡巡する。「鏡座美咲の無力化」を目標と捉えていたのは、「天羽聖奈の確保」において鏡座美咲が障害となるから。そして無力化さえしてしまえば、確保そのものには大した危険が伴わないから。であれば、ここは美咲を放置し、恐らく近辺に潜んでいるであろう聖奈を――


(――駄目だ!! 馬鹿かあたしは……!! ここで逃がしたら、鏡座美咲は間違いなくまた不意打ちを仕掛けてくる!! その場合、不利なのはあたし……! 楽な方に逃げたいばかりに、楽な方に考えるな……!!!)


 小夏は左の大剣を創生する暇も惜しみ、右の大剣を引き摺って駆けた。ここで美咲を逃がしてはいけない。奴は既に十数メートルほど先の路地を曲がったところ。絶対に見失ってはならない。ギアをひとつ上げ、瞬時に曲がり角まで到達する。絶対に逃さ――


「――ぁうぐっ!!?」


 曲がり角に差し掛かったその瞬間、眼前にナイフが突き出される。美咲は完全な逃走を選んだのではなく、戦闘の中で成り立つ撤退を選んでいたのだ。

 しかし、流石にこの程度の不意打ちは小夏の想定内。念のため、曲がる先の壁からやや離れた位置を走っていた。だからこの不意打ちを、僅かに頬を斬られただけでやり過ごすことが出来た。


(本当に顔を……いや、首を狙ってきてた……っ!! でも……怖がったら負け……! 大丈夫、あたしならできる!!)


 小夏の狙うところは連撃の再開だが、それには間合いが近すぎる。ひとまず距離を取るべく、引きずる形で右下段に構えていた剣を薙ぎにゆく。美咲がナイフを持っているのは右手であり、突き出した直後で腕も伸びきっている。そのまま無理に攻撃するにしても動きが限定されるため、装甲の着いている左腕での防御が可能だろう。

 つまりこちらが一方的に攻撃できるタイミングであり、しかも下段を薙ぎ払った勢いのまま距離を取りつつ剣を振り上げ、奔流の連撃に繋げられる。先ほどの逃走には惑わされたが、結局のところ自らの有利は揺らいでいないと、小夏は僅かに笑みを浮かべ――


「――はっ……?」


――ようとして、歪む。表情も、動きも共に。

 剣は動き始めた時点で止まっていた。否、正確には止められていた。剣身の側面と地面を縫い留めるかのように、黒いブーツが上から押さえつけていた。


(……精確に……剣の横を……!? 剣だって平らじゃないのに……少しでも位置かバランスがズレてたら――)


 一瞬の思考の後、小夏が頭の隅に追いやっていた記憶が呼び起こされた。資料に記載されていた、鏡座美咲の持つ魔法についての情報が。直接的な攻撃に繋がるものではないからと無関心でいた魔法。その魔法が真価を発揮しているのが正に今の状況だと……取り返しのつかないタイミングで初めて理解した。


「待っ――」


「待ちませんよ」


 美咲は左足で剣を押さえたまま基点とし、右足で跳ぶ。その勢いに腹筋を収縮させた力を乗せ、右膝を――小夏の顔面に叩きつけた。膝蹴りである。


「――がは……っ」


 小夏の鼻骨までもが歪み、噴き出した鮮血が二人の間で弾ける……が、美咲はここで止まらない。空いている左手で右肩を掴むことで、仮に大剣を手放されても右腕が自由にならないようにすると同時に、伸ばしていた右手に握ったナイフを逆手に持ち変える。引き戻しながらに狙うのは首。頸動脈でも気管でもどこでも良い。刃渡り七センチ強のポケットナイフを突き刺し、引き斬りにゆく。それで勝負は決する。


「……勘違い……しないでよ……!」


 鼻骨が潰れた痛みを堪えつつ、小夏はナイフに対して左腕で防御する。左腕には装甲が装備されており、美咲はナイフの軌道を逸らさなければならなかった。逆手のまま首を狙うのは断念し、順手に構え直してから防御のために掲げられている左腕を突き刺し、二の矢で空いた首を掻き切る。逆手で狙うより三拍ほどは遅れるが、それでも問題なく王手は続いている。そのはずだった。だが、三拍。それだけの時間があれば、小夏にとっては充分だった。


「『待って』なんて言おうと……したんじゃない……。『待ったほうが良い』って言おうとしたのよ……あたしは……!!」


 小夏の放った頭突きは、上体を捻って回避される。美咲に右肩を押さえられているせいで可動範囲が狭いからだ。だが、それでいい。既に右手が、そこに握られた大剣が紫色の強い輝きを放っていた。

 今まで奔流を放つために剣を振り下ろしていたのは、それに指向性を持たせるため。ただの魔力の爆発を奔流へと昇華させるため。たとえ振るえなくとも、動かせなくても――


「――爆ぜろ――ッ!!!」


「――っ!!」


――轟音が轟き、剣から魔力が迸る。それはまるで爆炎の如く拡散し、実際に熱を持ちつつも、打撃のような衝撃力も併せ持っていた。爆心地にあった小夏の右手は血と焦げ痕で赤黒く染まり、手首から先はひしゃげるように捻じ曲がった。

 対する美咲は爆発の寸前、咄嗟に剣を蹴り跳んで少しでも距離を取りつつ、左手でコートの裾を手繰って身を守った。『ルミナリフレクション』をなんとか防いだあの時のように、魔力を流したコートを盾として。ダメージ自体はゼロではないものの、結果としては骨折もなく軽度の打撲と火傷のみ。となったのは……コートの防御から僅かに漏れたことで右手に持っていたナイフが弾き飛ばされたこと、そして互いの間に五メートルほどの距離が空いたこと。


 小夏は考えるより、痛みに顔を歪めるより先に屈み込み、左手で地面に魔力を流し込む。紫色の輝きを吸い込んだ地面からは、片手で握れる程度の柄が、そして長方形に近い重厚な鍔が現れた。それを握り込み、引き抜くために力を込める――が、その時には既に美咲は走り込んでいた。思考より行動を優先した小夏に対して、自らの魔法の優位点を活かして最小限の隙で着地し、更に思考を終えた状態で。


(コートから替えのナイフを取り出す時間は無い。走りながら取り出す時間も……全力疾走じゃなきゃ間に合わない。とにかく剣を抜かせない……武器を与えない……!!)


 美咲が選択したのは、走り込んだ状態からのサッカーボールキック。標的は屈んでいるという絶好のポジションにあることに加えて、喉を狙った死に至らしめるための蹴撃。遠慮も気遣いも、躊躇もなかった。そして迅速な判断の賜物として、小夏が剣を引き抜く前に攻撃圏内に入り込むことができた。


 しかし。


「――っがあああッ!!!」


 美咲は自分の判断を呪った。最速かつ最も強い一撃を狙うのではなく、たとえ遅れたとてコートからナイフを取り出し、大剣との攻防を制して確殺を狙うべきだったと。これまでの攻防において自らが上回っていることを感じ、ならば剣を抜かせなければそれで良いだろうと。そうした驕りを自覚し、反省した。


(正直、侮ってた。……魔法少女『ブレイズ』……)


 小夏は咄嗟に身体を捻ることで喉ではなく顔で受け、致命傷を防いだ――否、致命傷になる確率を少しでも落とし、結果的に防いだ。無論、頬骨は砕けて顔もひしゃげてはいるが、それと引き換えに手に入れていた。蹴り飛ばされながらも、その勢いでを抜き放っていた。


「が――げほッ――!! ……ゆ、譲れ……ないのよ……!! あたしは……」


 小夏の脳は危機を訴えていた。身体に気絶を、休息を求めていた。しかし、彼女の心がそれを許さない。無理やり意識を繋ぎ止め、引き留める。気合で立ち上がり、根性で重い大剣を片腕で上段に構える。


(右手は――動かせない。右目もあんまり見えないし、地面も……揺れてる……。なるほど、上等……じゃないの……!! 大丈夫、あたしなら……いける……ッ!!!)


 肩は大きく上下し、瞳もぼやけて揺れている。しかし、小夏の心は激しく燃え続けていた。自らの身を焼いてしまうほどに。


「強いんですね、貴女」


「はっ……! それは……褒めてるのか、舐めてるのか……どっち……なのかしら……」


 美咲は答えない。しかし、ゆっくりと構えることで応えた。無論、一度退いて不意打ちを狙うことや、ナイフを投げて様子を見るなどの選択肢も取れる。美咲がそれを考えないわけもなく、本人なりに利を追った故ではあるものの、結果として向き合った。燃え盛る炎を正面から見据えた。


「……そう、逃げないんだ……。根性……あるじゃない……!」


 二人を照らす紫色の光が強まる。掲げられた大剣は陽炎を纏って揺れていた。


(ナイフを抜く必要はない。どうせ大剣を正面から受け止めることもできないわけだし、あの人――『ブレイズ』の体力も限界。より小回りが利く素手の方が良い。刃物が持つ殺傷力より、打撃が持つ衝撃力のほうが大事になる)


 対面し、睨み合った状態。距離は三メートル。美咲はこの二ヶ月で体捌きや格闘術の他に、このような状況における策を若葉から学んでいたのだ。若葉からすれば生き残り、倒すための策。美咲からすれば生き残り、殺すための策。


 美咲は待つ。小夏の体力は既に限界ギリギリであり、武器を構えているだけで力尽きてしまうほどに余裕がない。表情がそれを物語っている。だからこそ、待つ。正面から相対するのは相手への敬意からではないのだ。美咲には、かつて姉と共にあった頃の面影は無い。名を持たぬ白い魔法少女は小賢しく、卑怯であり、そして強かだった。まるで捻じれ歪んだ刃を持ち、標的を無残に引き裂くナイフのように。


 数秒か、数分か。張り詰めた糸が熱によって焼き切れたように、紫色の輝きが一際激しく揺れる。大剣が僅かに傾いたその瞬間、美咲は地面を蹴った。選択した行動は「刻み突き」。蹴り足で生んだ勢いをそのまま拳に伝え、標的へと叩きつける――最速を掲げる技の一つ。魔法少女にとっての三メートルなど目と鼻の先に等しく、瞬きより速く……無論、大剣を振り下ろすよりも速く相手に拳が届く距離であった。ただし、相手は動かぬ的ではない。動けないとはいえ、ただの的にはならない――それが『ブレイズ』という魔法少女。それが『木枯 小夏』という少女だった。


 大剣は振り下ろされず、ただ。重力によってゆるりと落ちる剣身は二人の間を斬り裂き、鋭利な壁となって最速の一撃を防いだ。美咲は拳を伸ばせば腕を失うことになる。故に、踏み込んだ後――小夏の眼前で止まるしかなかった。落ちた大剣も爆ぜることはなく、ただの淡い光となって解ける。


 美咲は卓越した反応速度で動くことが出来てしまうが故に剣の動きを見切る前に行動を起こし、結果的に防がれてしまった。小夏はそもそも剣を捨てて素手で迎え撃つつもりであり、美咲が卓越した反応速度で動いた故に剣を捨てたことが有効に働いた。そして美咲は卓越した反応速度で動くことが出来るが故に、自らの腕が切断されることを防げた。奇妙な噛み合いの末、どちらの拳も届く間合いで再度睨み合う。


「……あたしが燃え尽きる、前に……あんたも……燃やしてやるわよ……」


 美咲は黙ったまま、再度拳を構えた。両腕を顔の前に配置し、スタンスを広げて前足に重心を寄せる。緩く握った拳で狙うのは、腰を回転させずに腕だけで放つ拳撃である「ジャブ」。最速を掲げる技の一つ。

 通常、ジャブは牽制や本命打の前座として放たれるものであり、故に利き腕でない側を使うことが多い。しかし、美咲は利き腕である右でそれを狙うため、右半身を前面へ傾ける。ボロボロの小夏に対しては、利き腕によるジャブであれば、それそのものが本命打と成り得る。そう判断した。


 既に小夏は大剣を手にしておらず、時間による体力消耗は期待できない。むしろ時間をかければかけるほど呼吸は整っていくだろう。故に美咲は自ら動く。躊躇なく放たれた拳は、防がれることもなく顔面に叩き込まれた。頬骨の砕けた右半分に捩じ込むように、明確な殺意を孕んで。


「――づッ――」


 小夏はジャブを受けた。右腕は動かず、防御は叶わなかった。そもそも反応できず、技の起こりも分からなかった。だが、充分。今の自分にとって最大の弱点である顔面の右半分を、右拳によって殴ってくれたと。それさえ分かっていれば充分だった。


「――ッあああああああ――!!!!」


 顔の内側が掻き回され、砕けた骨に肉が裂かれる。急速に手放されようとする意識を、小夏は逃さない。決して逃さず、全力で左拳を握り込む。顔を僅かに傾け、美咲の拳を血で滑らせ、強く踏み込んだ。狙いは脇腹。肝臓でも腎臓でも肺でも何でも、とにかく脇腹へ。右腕は伸びきっており、遮るものは無い。後は気合と根性を見せつけるだけ。


 美咲は未だ侮っていた。小夏の持つ気力、燃え盛る炎のような精神性を。理解し、反省して、それでもなお侮ってしまっていた。美咲が理解できる範疇を超えていたのだ。そんな灼熱が――叩き込まれた。


「ぁが、ぐううう――っ!!?」


 魔法少女とはいえ、重厚な大剣を片手で軽々振り回す膂力など尋常ではない。例えボロボロの状態とはいえ、そんな膂力で拳を叩き込まれることなど――尋常ではない。たかだか40と数キログラム程度の美咲はチープなワイヤーアクションめいて吹き飛び、錆びたシャッターに打ち付けられ、クレーターを作った。


「っぁ……げほっ! げ、ぅ……はっ……は、げほ……っ……!」


 激痛。わずかに身体を捻るだけでも骨が軋み、全身に響き渡る激しい痛み。美咲はこれに覚えがあった。『ルミナリフレクション』を防いだ際に左腕に感じたものと同じ、骨折。つまり、第何肋骨かは知らないが、とにかく数本はへし折られていた。ただの、素手の一撃で。


(痛い……痛い痛い痛い……っ!! 起き、なきゃ……視界を、安定させて……呼吸も……っ! あの時……昔、私が生き残れたのはただの運だ……! ルミナスの傲慢さと油断、そして偶然人が通ったから……! だけど、今の私はあの頃とは違う!! すぐに、すぐに起きなきゃ……!!)


 シャッターにめり込んだ身体を起こさなければいけない。すぐに起きなければ、追撃でやられる。すぐに起きなければ。すぐに。


(すぐ……に……)


 美咲は自分に残された猶予を知るため、身体に鞭打って小夏を見た。そして、猶予を知った。



 それは充分に――充分すぎるほどに存在していると。



「まいった、わ……クソ……もう、動かない……じゃない……」


 既に勝負は決していた。小夏は残る力を使い果たして地面に転がり、浅く細かい呼吸で意識をなんとか繋ぎ止めていた。紫色の輝きも失われ、今ではただの黒髪に。可憐な騎士のような様相は、ただのカジュアルなシャツとパンツになっている。


「――はぁっ……は……げほ、ぁ……はぁっ……はぁ――っ……」


 呼吸を整えた美咲は、ゆっくりと身体をシャッターから引き剥がす。脇腹を庇いながら小夏に近づき、見下ろす。酷く冷たく、深い、濁った瞳で。


「……あたしを……殺すんでしょ……?」


「げほっ……。ええ、殺します」


「そっか、そうよね……。めちゃくちゃ痛くて、気を失いそうなのもあるけど……実感湧かないわ……」


 小夏はどこか涼やかに、笑みすら浮かべていた。後悔も、恐怖も確かにあるのに……何故だろうか。本人にも良く分かっていなかった。


「……ねぇ。結局さ、あんた……名前はなんて言うのよ」


 戦いの最中、無視され、流れた問い。それを小夏はまた問い直す。美咲もまたあの時のように無視しても良かったが、しかし。


「私には、魔法少女としての名前は無いんです。……ごめんなさい」


「なーんだ、そうなのね……残念。魔法少女の名前はさ……面白いのが多いから……。あたしの『ブレイズ』だって、『剣身ブレイド』の複数形と『ブレイズ』が掛かってて……って、説明すると恥ずかしいわね……」


 美咲はただ、耳を傾けていた。言葉を遮って殺しても良かった。だが、何故か……その気は起こらなかった。


「……時間稼ぎですか? 増援が来るまでの」


「え、いや……そういうんじゃなくって。ただ話したいっていうか……なんか、あるじゃない? ピロー……みたいな。まぁ、あんたも突っ立ってないでさ……座ったらどう……?」


 言われるまま、美咲は腰掛ける。既にほぼ戦闘不能で変身も解けているとはいえ、今の今まで殺し合っていた相手の、そしてこれからトドメを刺そうという相手の隣に。「ただ話したいだけ」という言葉についても、額面通りに受け取ったわけでは無かった。敵を信用することなど無い。無い、が……何故だろうか。


「あたしは……『木枯こがらし 小夏こなつ』。ねぇ、鏡座美咲……あんたって歳いくつ?」


「……13です」


「――マジ? あたしより二つも下なの……? あんた表情怖いからか、全然同じくらいかと思ってたわ……。そんな顔ばっかしてると、早く老ける……わよ」


「……放っといてください」


 自己紹介や、友達とするような雑談。応じる必要など微塵も無かった。無かった、が……何故だろうか。美咲の口は自然と開いていた。


「……私は貴女の質問に答えたんです。今度はこっちの番ですよね」


「ふぅ……いいわよ。何が知りたいのかしら? あたしの身の上とか? あ、スリーサイズなら……あんまり自信は無いんだけど」


「そんなどうでも良いことじゃなくて、『宝石の盾』のことについてです。私達を……聖奈さんを襲う理由とか、組織の構成とか、色々と」


「あー……マジでいきなりお仕事の話になったわね。困ったなぁ……あたし、これでも組織内で偉い立場だからさ。その辺を話すわけにはいかないのよ」


「……じゃあ爪でも一枚一枚剥がしますか。口を割らなければ次は指を一本ずつ斬り落として、傷口は焼いて止血します。気絶したら塩水をかけて、それで――」


「うーわ、よくそんなエグいこと思いつくわね。普通に引くわ。……でも、そしたらあたしは自分ごと剣を爆発させるわよ?」


「――まぁ、そうでしょうね。でもあの『爆ぜろ』って掛け声、ちょっとダサかったですよ」


「え……マジ? ちょっと凹むわ、それ……変えよっかな」


「何も言わないほうが良いんじゃないですか? 気付かれる可能性も減りますし」


「嫌ねぇ……それじゃロマンが無いじゃない」


「……ふふっ、そうかも知れませんね」


 美咲は立ち上がる。同時に、全く無意識に微かな笑みを浮かべていた。それは昨晩、若葉や聖奈に引き出された「少しはまともな顔」などではなく、確かな「良い顔」。ずっと奥底に仕舞い込まれていたものが引き出されたのは、何故だろうか。


「……殺すのね? ……鏡座美咲」


「ええ、殺します。……木枯小夏さん」


 小夏は動かなかった。とっくに呼吸は整っており、その気になれば変身して抗うことも出来たはずであった。おおよそ無駄な足掻きとはいえほんの僅かでも生きる可能性を産み出せる選択肢であり、美咲もそれを考慮して動けるように備えていた。しかし、小夏は動かなかった。……何故だろうか。


 美咲はコートを開き、脇腹のホルダーからナイフを抜き放つ。ホームセンターからの盗難品であり、安物ではあるが、人の命を奪うには充分過ぎるものであった。

 命乞いもしない。醜く吼えもしない。絶望して泣き喚きもしない。今まで殺したどの魔法少女とも違う小夏に対して抱いた感情を断ち切るように、ナイフを突き立てる――





「させねーよ、美咲。それをやったら……お前は本当に戻って来れなくなっちまう」





――その手を、薄緑色の輝きが遮った。


「……っ!? わ――」


「部外者は黙ってろッ!! 口出すんじゃねぇ!!!」


 小夏に対して一喝、若葉は遮って美咲の目を見つめる。両手で優しく美咲の手を包んだまま、薄緑色の輝きで瞳の底を照らすように。


「美咲。聖奈から言われただろ? もうコイツは戦えない。無為に殺すことはない……見逃してやれ」


「無為に、ですか。私達を狙っているのは組織です。その戦力を削ぐことは重要でしょう? じゃないと終わりませんよ」


「何度でも追い返せ。ぶん殴って、より強い奴を引っぱって来させろ。……それじゃなくても、逃がせば尾行してアジトを特定したりも出来るだろ。あと、殺さなきゃいつか相手も相応のアプローチをしてくるかも知れねぇし――」


「……主張がブレてますよ。それに、殺さなきゃって……だったら私は手遅れです」


「じゃあそれなら、それなら――」


「……もう、いいですから」


 美咲は重ねられた両手を、優しく触れられていたそれを除ける。美咲の心は異常に、自分でも驚くほどにささくれ立っていた。何故だろうか。小夏を殺すのを邪魔されたからだろうか。魔法を使って思考を巡らせるも、答えは出ないまま。胸中に靄を抱えたまま、美咲は何事も無かったかのように言葉を続ける。


「腹を割って話しませんか? ……『宝石の盾』の魔法少女さん」


「……」


「バレてないとでも思ってたんですか? もう、隠さなくていいですから。面倒です」


 三人の少女がそれぞれ視線を向ける相手は変わっていない。小夏は美咲と若葉に。若葉は美咲と小夏に。美咲は若葉だけに。


「私達は毎晩のように居場所を変えていたのに、襲われた時は必ずほぼ的確に建物までバレてました。私は変身を解けませんから、近くに居るということは魔法少女なら誰でも探知できる……しかし、より精確に把握するには更に別の要素が必要です」


「……」


「それが探知系の魔法という可能性もありましたが、それなら何かしらの形で魔力が感知できるタイミングがあるはず。しかしながら、私と聖奈さん、そして探知系の魔法を持つ若葉さんもそれを感知したことが無かった。であれば、残る選択肢はもっと単純な監視……いわゆるスパイ。標的にされてる聖奈さん、そして私はその候補にはならない。後は……分かりますよね」


「それは――」


「貴女には私たちの寝首を搔く隙がいくらでもあったのに、そうしなかった。自分では襲えない何かが――いや、多分少し違う。こうして自分以外に襲わせなければならない理由があった。わざわざ組織に損害が出てもそうし続けるのは、きっと『宝石の盾』の中で色々あるんでしょう。私に格闘術を教えたことと襲わせたこと、その辺りに矛盾を孕んでいるのも何かしらの一環。いくつか可能性を考察したものの、推理しきることは出来ませんでした。……私にとってはどうでも良いことですし」


「――っ……」


「貴女はこれ以上、『宝石の盾』にとって貴重な人員を減らされたくなかった。その人は立場もあるらしいですし。だからこうして、私の手を止めずにはいられなかった。というか、今までだってどうせ今日みたいに近くで止める機会を伺ってたんでしょう? 聖奈さんに共謀を促して、私に殺しを躊躇させるようにもしていましたし」


 美咲はどこか虚ろな笑みを浮かべた。


「まぁ、それが雑なスパイ活動が潰える最後のピースになったわけですが。上手く誤魔化せるとでも思ってたんですか? さっきのその人の言葉だって『若葉さん』って言いかけたのを誤魔化すために無理やり遮ったんでしょう?」


「……美咲、お前は……。アタシ、は……」


 若葉は続けようとして、止めた。そして深く、深く息を吐いた後、浮かべた表情は……誰にでも分かるほど露骨な悲哀だった。涙を流していないことが不思議なほどの。その顔を見てなお、美咲は止まらない。


「私は貴女を最初から信用していませんでした。……聖奈さんも、誰も。姉と知り合いだったと言っていましたが、それも本当なんだか。私の知りえないところで、得をするための歯車として私を利用してるんでしょう。まぁ、私に価値を見出してくれてるうちは――」


「美咲。腹割って話すっつったよな」


 理性的なようでそのじつ感情的に、叩きつけるように続けられていた美咲の言葉が止まる。若葉の声の、質が変わった。ギアが一つ上がったような、液体が固体となったような。


「そうだ。アタシは『宝石の盾』の魔法少女だ。今までの襲撃も全部アタシの手引きだよ。何度もお前を命の危機に晒したのはアタシだよ」


「わっ……若葉さん、言っちゃ駄目よ……! 貴女には『コネクション』が――」


「分かってる!!!」


「――……ぅ……」


 小夏を黙らせ、若葉はまた、深く、深く息を吐いた。


「はぁ……だがな、殺すのを止めた理由が……殺しを止めるように言った理由が、組織の利益のためだ? ――バカ言ってんじゃねぇ!! 人の命だぞ……!? 自分がやったことを棚に上げてるのは分かってる……だけどよ、利益とかなんとか、そういうんじゃねぇだろ……命がそんな軽いもんなわけねぇだろうが!!!」


 美咲の表情は動かない。否、表情筋すらろくに動かせないというのが正しかった。心からの叫びを受けて、言葉として叩きつけられたことで気づいたのだ。自分の心に空いた穴の正体――欠落していたものの正体が。故に動けなかった。


「……なぁ……美咲。前にやった組み手を覚えてるか? アタシはお前より確実に強い。お前はスパイだのなんだのベラベラと喋り尽くしたわけだが、この状況になったらお前の負けのはずだ。なのになんで、この状況を許した? お前はそんな奴じゃないだろ……?」


「……」


「お前が言うには、アタシがここで介入するのは『ルール違反』……だとしても、可能性は考えてたはずだろ。信用、してなかったんだろ……? 気付いてたなら、なんでもっと早くにアタシの首を掻き切らなかった? 聖奈を捨てて逃げなかった? いくらでも……機会はあったハズだろ……」


 若葉の声が揺れる。空気を震わせるような怒号ではなく、染み込むような声で問う。


「……アタシが……馬鹿だから、こうなっちまったんだよ……! アタシは美咲のことも……仲間だと思ってたんだよ……! 美咲は巻き込まれただけで何も知らないから、真実なんて知らないから……だけど、とにかくよ……死んで欲しく無いんだよ、みんな……! でも……だから、教えてくれよ……何で……こうなっちまうまで……」


 縋るように言って、答えを聞くため、受け止めるため、若葉は顔を上げる。


「……こうなっちまうまで……一緒に居てくれたんだよ……! なんでお前はそんな所まで似て――! ……マジで、おかしいだろ……教えて、くれよ……」


 頭一つ分以上小さな美咲の顔を真正面から見つめると、薄緑色の光に照らされて真白な髪が悲しげに色づいた。そして、光の中から消え入るような声が溢れた。


「――……居場所が……欲しかったから」


 美咲は微笑んだ。その笑顔の意図するところに最初に勘付いたのは、どういうわけか小夏であった。


「――ちょっと、やめなさい……鏡座美咲――!」


 小夏の声は美咲に届かない。雨音で掻き消されたからだ。強い、強い雨が降っていた。河川敷が夕焼けに、赤に染まっていた。


「……独りは嫌だよ……お姉ちゃん……」


 両手で握ったナイフを、これを喉に突き立てれば、きっと――


「ばっ……この馬鹿野郎――ッッッッ!!!!!」


 ――再度の怒号。鼓膜が破れるほど大きなそれを最後に、美咲の意識はぷつりと途切れた。






~~~~~~~~~~







 二人の魔法少女が路地に足を踏み入れた。ゴーストタウン一歩手前な葵原あおいはら町の一角にある廃ビルに沿ったそこへ。報告通り、白い髪に黒いコートの魔法少女が――鏡座美咲が倒れていた。


「確かに……綺麗ね」


「えっ、ゆーちゃんってこういう子が好みだったの……? ウチと真逆の地味系なのに!?」


「ち、違うわよ! 綺麗って言ったのはこの子じゃなくて、クローバーさんの打撃がって意味で……。ほら見てよ。脇腹はブレイズさんとの交戦痕だから、他には顎に一撃入れた痕しか無いでしょ? ワンパンで気絶……綺麗な打撃だなぁってことで……」


「うぅ……格闘技オタクのゆーちゃんはウチよりクローバーさんの方が好きなんだ……しくしく……」


「主張変わってるじゃないの! ほら、噓泣きなんてしてないで早く終わらせるわよ」


「はーい。……早くお泊まりデートしたいもんねぇ?」


「ち、違――わない、けど!! ほら、ミカンも聞いたでしょ……この辺に出るんだって」


「出る? 幽霊?」


「違う、殺人鬼! 『霧の腕』よ! クローバーさんもブレイズさんも、なんか今日は凄く焦って本部に行っちゃったし。……もし、私たちみたいな下っ端が出会ったら……」


 二人はそそくさと作業を進める。ゆーちゃんと呼ばれた少女、ユズはパワードスーツめいて巨大な魔力の腕で美咲を抱え上げる。すると無駄に複雑な変形機構によって担架状になり、乗せられた者を拘束した。その間、ミカンは身の丈ほどもある巨大な注射器を豪快に突き刺し、大剣の創生によって抉れた地面を修復していた。


「あーもー! いーやーだ!! マジ怖いこと言わないでよぉ。あーってか、見てこれ……ブレイズさん苦戦したんだぁ。めっちゃ地面抉れてんだけど」


「ほんと……これはちょっと時間かかりそうね。あ、ミカン。こっちのシャッターもへこんでるわ。ナイフまで落ちてるし」


「えー!? 直す箇所多すぎぃ!! ……こっそりサボっちゃ……ダメ?」


「駄目よ。金曜日なんだから、少しぐらい我慢しなさい」


「ぶー……ゆーちゃんは少しもガマンできなくてすぐイクくせに……」


「な――! この子――っ!!」


「やーん、ゆーちゃんが怒ったー! こわーい!」


「怖いの? ボクより?」


「もーマジ怖――へっ……?」


 賑やかな、死闘の跡には似合わない二人の嬌声。その中に一つ、異質なものが混ざり込む。


「えへへ……こんにちは! その子、もしかして今から輪姦まわすの? 僕も参加していい?」


 まるで気配を感じさせず、不意に――霧のように現れ、その場に立っていたのは深紅の魔法少女。満面の笑みを浮かべる彼女には、左肩から先――左腕が無かった。否、生身の左腕は無かった。その代わりとして有るのは、深紅の何か。不規則に歪み、揺れる、不定形の……『霧の腕』とも言うべきもの。それはユズの横を通り抜け、その背後へと伸びていた。


「はっ? ……え? ゆーちゃん、この子誰――」


 ミカンはその口調や態度に反して聡明である。今の状況も、目の前の相手が誰であるかも理解していた。こんなことがあるのかと、負の奇跡と言わんばかりの確率だと。それも理解していた。そして……自身の理解が正しいのであれば、生きて帰れないだろうことも。

 だが、信じたくなかった。だから、背後に立っているはずのユズに問いかけた。


「――ゆーちゃん? ……ユズ?」


 答えはない。背後から響く濁った、ゴキリという鈍い音が何なのか。それが何を意味しているのかも、理解していた。


「へー、この人ユズって言うんだ。だからゆーちゃんかぁ……可愛いね! でも僕、ユズさんよりおねーさんの方が好みだからさ。先に逝かせちゃった。ごめんね」


 霧が揺らめく。首筋に巻き付いた、ぞっとするほど冷たいそれが何であるか、理解していた。そして、最期に聞こえたゴキリという鈍い音。それが自分の首が立てたものであることも、理解していた。


「大丈夫。恋人なんだよね。なら、一緒に逝けば怖くないもんね。僕はそんな酷いことしないから……だから、次は僕と一緒にイこ……? ね?」


 少女は死体の唇をまるで啄むように、自らの唇を重ねる。首が捻じ曲がったそれを優しく、丁寧に、愛しげに抱き寄せた。そのままいつものようにに及ぼうとしたとき、それに気付いた。彼女には誰より先にを済ませていたように見えていた――白い髪に黒いコートの魔法少女、鏡座美咲。魔法の担架が消え、地面に倒れる形になっていた彼女の胸が上下し、僅かに瞼も動いていることに。


「……あれぇ? まだ生きてる……って、そりゃ変身解けてないんだから当たり前か! あんまり僕の好みじゃないけど、なんか……えへへ……面白そうじゃん! せっかくだから待ってよっと」


 ぺたりと座り込み、深紅の少女――『虚道うろみち 紗夜さよ』は笑った。13歳という年相応の無垢な笑顔をいっぱいに浮かべ、蛇のような瞳で美咲を見つめる。じっと、見つめ続ける。目を覚ますまで、ただじ―――っと。運命めいた何かに心を躍らせながら。


「……キスしたら起きたりするかな。いやでも、寝てる間にそんなの悪いし……この子のファーストキスだったりしたら可哀想だし……。でも、そういうシチュエーション憧れちゃうなぁ。いや……でもなるならお姫様役の方が僕は――」


 やがて眠り姫は目覚め、降り頻る雨の中で笑った。間もなくして『宝石の盾』の危険人物手配リストには『霧の腕』に続く位置に、もう一人の情報が記載された。その名前は『白い魔法少女』――鏡座美咲。

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