魔法少女のねがいごと

藍洲

【1】魔法少女の願いごと


「んーと、今夜はどうしよっか。安いのは大根と鶏ももと……あ、サーモンだって! どう? 何か食べたいのある?」


 二人並んでいる少女のうちの一人。背が高く、やんわりとした雰囲気を纏う――鏡座かがみざ優香ゆうかはそう問いかける。対するもう一人の少女は、肩ほどの髪をぴょこぴょこ跳ねさせながら微笑んでいた。


「なんでもいいよ。なんでも」


「もう、美咲みさきはいつもそれなんだから。変に頑固なのに、どうしてこういう時には……まったくもう」


「……えへへ」


 優香は口を尖らせ、妹の――美咲の頭を撫でる。二人は姉妹だった。協力して買い物カゴを提げ、スーパーの食品売り場を吟味するさまは仲睦まじい。


 鏡座姉妹には両親が居ない。父は優香が物心ついた頃から既に居らず、優しかった母も数年前に突然蒸発してしまった。

 14歳の優香、そして13歳の美咲。家族はもう二人だけだが、だからこそ腐らず、海外に住む親戚からの資金援助を受け、力を合わせて日々を過ごしていた。


「……ごめんね、ここ最近帰りが遅くて。生徒会選挙の準備ばっかりで」


「ううん、大丈夫。でもお姉ちゃんって書記でしょ? なんかそんなに忙しいイメージ無いんだけど」


「えーひどーい。結構大変なのよ? 会議が多いとそれだけ沢山のログを管理しなきゃいけないし、他にも雑用が多いのなんのって」


 優香は慣れた手付きでセルフレジを通しながらに愚痴をこぼす。事実、彼女の目元にはほんの薄っすらと隈が出来ていた。


「お姉ちゃん、無理しないでね。だって学校だけじゃなくて――」


「――心配無用、お姉ちゃんは強いんだから! ほら美咲。ここお店だから、ね。邪魔にならないように外に出てから話しましょ?」


「はーい」


 二人はスーパーを出て、夕暮れ時の町を歩く。車の音や人々の会話、どこかから聴こえる何かしらの音楽までも心地よい。

 自宅までは少し遠いが、明るく話しながら、あるいは無言で歩いていく。静かな時間も決して苦ではなく、かけがえのない大切なものだった。


「ねぇ、お姉ちゃん」


「んー?」


「ありがとね、いつも」


「……ん。でもそれ、お礼を言うなら私もよ。美咲のためにお姉ちゃんは頑張れるんだから」


 やがて、河川敷に差し掛かる。この場所から見る夕陽は特別綺麗で、美咲のお気に入りだった。優香はスマートフォンを取り出し、それに見惚れる美咲の横顔を写真に収めた。


「なんか、凄く平和よねぇ」


 優香がそう呟くと、美咲も同意するように頷いた。


「うん。二人で暮らしはじめたときは不安だったけど、今ではすごく居心地良いんだ。……きっとお姉ちゃんのおかげ」


「私も。貴女が居てくれるおかげよ、美咲」


 優香は美咲の言葉に心が温かくなる。二人で手を取り合っていれば、何も怖いものはなかった。


 しかし、ふと優香が足を止める。その顔は固く強張っており、数秒前とは別物であった。


「……美咲。お姉ちゃん、帰る前に用事を済ませなきゃいけないみたい」


「用事、って……。あ、まさかこれ……!」


 美咲は周囲を見回すが、人影が一切消えていた。元々人口が多くはない町とはいえ、土曜日の夕暮れに誰も居ないなんてことは滅多にないのに。

 一歩前に躍り出た優香は精神を集中させる。脳内に周囲がイメージとしてマッピングされ、その図面上に円形の紋様が浮かび上がった。


「やっぱり、人払いの結界がある。ついさっきこの周辺に貼られたみたい」


「『影の魔物』は人を食べる。だから『魔法少女』はまず人払いの結界を貼る……」


「その通り、しっかり覚えてるわね。まぁ私と一緒に歩いてたせいで美咲には効かなかったみたいだけど」


 美咲の口からこぼれた名前、影の魔物。それは不定形で一般人の目には見えない、人を喰らう超常の怪物。喰らうとはその文字通り、人間を丸呑みにして養分か何かにしている……と考えられる。というのも、魔物に関する情報を二人は持ち合わせていない。ただわかっていることは、人々を魔物から守るのは魔法少女ということ。そして、鏡座 優香はその魔法少女だということ。


「姿は見えないけど、気配は強い……。結構な相手みたいね」


 優香の目つきが鋭くなる。すると夕陽より眩い光に身体が沈み、今までのパーカーにジーンズというラフな服装から一転。銀色のラインが走るローブのような、ドレスのような衣装で身を包んでいた。髪もただの黒いセミロングから、いつしか装束と同じ派手な銀髪へと変化している。


 優香が学業と並行して行っている活動、それが魔法少女業。数年前のある時、魔法少女として覚醒してから、わけがわからない中で徐々に知識を蓄え、魔法の使い方を覚え、幾度となく皆を守ってきた。

 一方、美咲は守られる側である。魔法少女なのは優香だけであり、その活動を見聞きしているだけの……ただの人間。


「美咲。貴女は先に帰ってなさい。夜ご飯の時間までには片付けるから」


「うん、わかった。……気を付けてね」


 美咲は迷いを見せることなく頷いた。優香は今まで何度も魔物との戦いを制しているものだ。故に心配などしていない――というわけではないが、自分にはチカラがないのだ。この場に居ては邪魔になってしまうだけ。


(なんで……なんでお姉ちゃんだけが魔法少女になったんだろう。もし私も魔法少女になれたら、お姉ちゃんと一緒に――)


 そう思ったことは一度や二度じゃない。しかし、どうしようもないのだ。


……わかっている。どうしようもない。だけど、やっぱり心配なことには違いない。土手の上まで走り、近くの家の石垣に身を隠す。家に帰れと言われたが、せめてその戦いは見ていたかった。



 優香は美咲の背中を見送ったあと、魔物の気配へと向き直る。そこにひとつの黄色の光をまとった影が飛来した。

 サイドにまとめている髪はたんぽぽの花弁のような、明るい黄色に輝いている。腹部や肩・腋・太ももを露出するスポーティーな服装ながら、随所に翼の意匠やフリルがあしらわれたカラフルな衣装がといった印象の――もうひとりの魔法少女だった。


「『ルミナス』。やっぱりこの結界は貴女ね。……状況は?」


「やあ久しぶり『ハーモニー』。いやぁ、結構不味いんじゃないかな。私の魔法が当たれば倒せるだろうけど、まず当たる速度じゃない。どうにかして隙を見つけなきゃ」


「……だいぶ骨が折れそうね。協力するわ。私が動きを止める」


 ハーモニーと呼ばれた優香の目には、地面から染み出すように出てきた魔物の姿が映る。それは2メートルほどの大福や饅頭のような……言ってしまえばスライムだった。ただし、とびきりの悪意で満ち満ちている。


「――来るわよ!!」


 二人が跳ぶと、一瞬前まで立っていた地面がその黒い塊によって抉られる。速く、そして相当に重い攻撃。

 優香は空中でくるくると回転しながら腕を振るう。銀色の魔力の飛沫が舞い、着弾地点が小さく爆ぜる。さながら絨毯爆撃のような面制圧攻撃だった。威力としては心もとないが、隙を作るには最適である。


 美咲は慎重に、こっそりとその様子を伺う。魔物の姿を見ることはできないが、微かに聴こえる会話と、二人の動きや弾ける石の様子でなんとなくは理解できた。やっぱりお姉ちゃんは格好いい。


「ルミナス! お願い!!」


「はあああっ!!!」


 着地したルミナスは両手をかざす。すると両手が輝いた一瞬の後に、人間程度なら軽く呑み込んでしまうほどの厚みを持った光の柱が――レーザービームが放たれる。超自然の光を収束させ、破壊力を持たせる魔法『ルミナリフレクション』。それが彼女の持つ必殺の魔法だった。

 放たれた光は鋭い音を立て、石や岩、まばらに生えた草を抉り取っていく。軌道上に残るのは陽炎めいて歪み、赤熱した空気のみ。


 しかしながら、魔物はそれを容易に回避した。


「な、馬鹿な……!?」


 続けざまに放った二の矢・三の矢も同様にかすりすらしない。いかに自慢の必殺魔法とて、やはり当たらなければ無意味だった。

 それどころか魔物は、ルミナスの両手が引き戻されるより速くその眼前へと肉薄していた。


「やっ、まず――」


「――危ないっ!!」


 油断か慢心か。ルミナスが喰らわれんとした寸前、優香が魔物にタックルを仕掛ける。それは魔力を伴っており、強化された身体能力によって魔物を弾き飛ば――せなかった。不定形の身体はその衝撃を殺し、あろうことか優香の両腕を完全に呑み込んでいた。



(お姉ちゃん!!?)


 美咲は今にも飛び出そうとする己の身体を抑え込んだ。何が起きているか、理解できるようなできないような。苦悶の表情を浮かべる姉に対して可能なのは、ただ祈り、願うことだけ。



「ぐ、うううっ……ルミナス!! 助けて……!!」


 優香は呑まれた腕に魔力を集中し、浸食を阻む。拘束は強く、引き抜くことはできない。

 今なら魔物の動きが止まっており絶好の攻撃チャンスである。しかしながら有効打足り得る『ルミナリフレクション』は高威力な反面精密な調整が効かず、仮に標的に手を触れた状態から放ったとて周囲を、優香を巻き込んでしまう。それ故にこの状況下ではトドメを刺すことは不可能であり、魔物をどうにか引きはがすしかない――



「……残念。君は優しい魔法少女だったのに」



――ない、はずだった。


 ルミナスはおもむろに両手を付き出すと、白く細い手を超自然の輝きが包み込んだ。徐々に発光は強まっていき、赤みがかった陽光をも煌々と照らしだす。


「ちょっと……ルミナス……?」


「ごめんよ。今ここでそいつを仕留めなければ、きっと住宅地にまで侵入を許して……被害は拡大するだろう。私にはそれを止められる自信がないんだ。……救える人をきちんと救わなくちゃね」


「……なに、言って……」


 優香の表情が困惑と恐怖に歪む。眼前に突きつけられているのは、人を救う希望の光ではない。狂気であり、絶望であり。


「貴女、何をしてるかわかってるの!? 洒落になって――っ」


 ルミナスの瞳を覗き込み、優香は絶句した。笑顔だったのだ。それも狂人めいてなどいない、この上なく穏やかな笑顔。彼女は確信していた。自らは正しい、正義であると。



……優香は視線を向けた。ルミナスの後方、土手の上に。宝物が輝いていた。

 美咲と、最愛の妹と一緒に生きていく。たった一つのその願いは轟く閃光に掻き消され――


「君は必要な犠牲なんだよ。ハーモニー」


――光が爆ぜた。







〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜








 美咲は自分が何を目撃しているのか、視界の先で何が行われているのかを理解できなかった。否、理解したくなかった。脳が、心が事実を拒んでいた。


 残されたのは断片的な記憶。商品の入ったバッグはどこへ行ったのか、ニュースではどう報道されているのか。週明けは学校に行ったのか、はたまた家に閉じこもっていたのか。私はこれからどうなる? 知人に引き取られるとか、親戚に連れられ海外に移住するとか、何か言われたはずだが、知らない。わからない。どうでもいい。姉は文字通り消え、美咲は一人になった。独りきりになったのだ。


 視界が鮮明に戻った時、美咲は夜の町に立っていた。装飾が少ない無骨な黒いコートの下には胸部を覆う薄手のアーマーと、市販品のようにシンプルなミニスカート、そしてエンジニアブーツといった出で立ち。髪は白く、輝きを奪い去られた銀色とでもいうようにのっぺりしている。深い海のような色合いの瞳に月を映して、立ち尽くしていた。


 鏡座 美咲は魔法少女になった。




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「もう会長! 待ってくださいよ〜!」


 ポニーテールを犬の尻尾のようにパタパタ揺らし、周見まわりみ れんは走る。


「おやおや、副会長ともあろう人が廊下を走って良いのかな?」


「も〜! だって会長が待ってくれないから……!!」


「ほら静かに。美術室では部活中だよ。それにほら、こうやって扉の前で待ってるじゃないか」


「いやそれは……そうですけどぉ」


 会長と呼ばれた少女は長い黒髪を耳の後ろに流し、芝居がかった笑顔で蓮を迎える。二人が立つのは生徒会室の前であり、その扉の横には会長が写ったポスターが貼られている。『月峰つきみね 綾乃あやの』。それが彼女の名前だった。


「しかしまぁ、なんだ。今日も私達だけか。御代みしろさんに協調性が無いのは元からだけど、まさかあの鏡座さんまで休み続きとは……もうすぐ選挙だと理解してるんだか――」


「鏡座さんはお家の事情があるって先生も言ってましたし。……御代さんについては同意ですけどね〜」


 部屋に入り、資料を取り出しつつ言葉を交わす。机に並べられた紙は綾乃が書いた原稿であり、数日後の生徒会選挙の場で蓮を次期生徒会長へと推薦するために読み上げられるものだった。連日、放課後に居残って推敲を繰り返しているのだ。


「……今日も二人きりですねぇ」


「そうだな。人員が少ないとそれだけ得られる意見も少ない。残念だが、今日もまた居残ることになりそうだ」


「……私は……全然残念じゃ……」


「何か言ったか?」


「いーえ、何も〜」


 蓮の小さな呟きが空気に溶ける。綾乃は首を傾げるが、生まれた沈黙を苦とは感じなかった。

 こっそり、蓮はペンを走らせる綾乃の端正な顔に目を向ける。明るい色の瞳、細く結ばれた薄い唇、そして再度瞳。


「……でも会長、ありがとうございます。私の当選のためなのに、毎日遅くまで」


「何をそんな水臭いことを。……お礼は風鈴堂のチーズケーキで良いさ」


「え!? あのお店高いから嫌ですよ? しかもほら、あそこって変に遅い時間からしか開いてないですし〜……」


「ふふふ、冗談だよ。私達は仲間だし、協力するのは当然さ。それに生徒会のスローガンにもあるだろう?」


「『救える人を救う』、ですよね。まぁなんとも語感が悪いことで……」


 蓮は室内にも貼ってあるポスターを見やり、わざとらしく溜め息をついた。こんな態度をとっているものの、このスローガンは生徒会の全会一致により決まったものだ。


「ふふん。でも実際大事じゃないか。手の届く範囲に、積極的に手を差し伸べる! 真に大切なことはそういう一歩の積み重ねだよ」


 綾乃はやはり芝居がかった尊大な仕草で手を広げ、優しげな笑みを浮かべる。蓮は視線がぶつかるのを避け、顔を机の上に落とした。


「……好きですよ」


「ん?」


「いいスローガンだと思います。私も」


「そうか。よかった」


 言葉に含まれた真意に気づくことなく、綾乃はまたペンを走らせる。心地よい沈黙の中、蓮は赤くなった耳を隠すようにポニーテールに手櫛を通した。




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 美咲はマンションの屋根に立ち、星を眺めていた。このどこかに姉は……お姉ちゃんは居るのだろうかと考えて、やめた。不毛に感じたからだ。そして、今の自分がやるべきことを重々理解していたからだ。


「お姉ちゃん……」


 とはいえ、意思に反して――乾いた風が吹きすさぶ荒野のような心でも、姉の顔は頭に浮かんでくるものだ。

 母が居なくなったとき、美咲はまだ小学生だった。優香は中学校に入学したばかりで、精神的な余裕は皆無。にもかかわらず美咲にとって、変わらず姉であり、母の代わりであり、友達でもあり、そして最愛の家族だった。


「お弁当、毎日作ってくれてありがと。お姉ちゃんの卵焼きね、甘くて、ふわふわで……大好き」


 朝早くからエプロンをつけて台所に立つ優香の姿を思い返す。美咲もその器用な手さばきに憧れ、恩返しとサプライズを兼ねて挑戦したことがあった。しかし結果はフライパンをコゲだらけにして、卵を二つ無駄にしただけ。その後は諦めて教わりながら挑戦したが、あまりの下手さに二人で笑いあったものだ。


「お風呂も私、もうとっくの昔に怖くないのに。中学生にもなってまだ、たまにお姉ちゃんと入ってるなんて……恥ずかしくて友達に言えないじゃん」


 あの日々の温かさを今も鮮明に思い出せる。忘れるものか。しかし、その熱こそが美咲の胸を苛むものでもあった。


「……」


 それを振り払うように、屋根から飛び降りる。人払いの結界なんて張れないため、できるだけ人目につかない暗がりや高台を移り進む。変身し、奇抜な衣装に身を包まなければ生じない手間ではあるが、美咲は変身を解かなかった。胸に空いた大穴を魔法で埋めていないと、身体が崩れて潰れてしまいそうだったからだ。

 しかし、美咲は腐っていない。空虚な地で呆けることはしない。たった一つの願いを叶えるため――ケジメを取らせるため。あの魔法少女、ルミナスを殺すために。


(お姉ちゃんは敵討ちなんて絶対に望んでない。でも私は……。ごめんね、もう決めてるから)


 美咲にはルミナスを見つける算段があった。そのために住宅地を抜け、あのスーパーを飛び越え、商店街にある三階建てのビルの屋上へと降り立つ。


 美咲は商店街の一角に顔を向ける。彼女の魔法少女としての第六感とでもいうべき感覚は、その目線の先に魔物の種――あるいは卵とでもいうようなモノが芽生えているのを感知していた。魔法少女として目覚めたばかりの美咲が感知できているのだから、あのルミナスも当然のごとく気づいているだろう。あとはここで待っていれば―― 



「――っ!」



――そう。現れるのだ。


「やあ、こんばんは。……新しい魔法少女かい? 初対面だよね」


 美咲の隣に光が降り立った。黄色の髪をサイドに纏めた魔法少女、ルミナスが。

 数日は待つ覚悟をしていたのだが、出会えてしまった。こんなに早く。


「新しい子が来るなんていつぶりかな。新人さんかい? それとも別の町から? あ、まずは自己紹介からか。私は『ルミナス』。君は?」


「……私は……。わたしは……」


 ルミナスは握手のために手を差し出す。穏やかな笑顔で。美咲は応じない。否、応じることができなかった。顔を俯け、必死に抑えていたのだ。いとも容易く優香を消し去った相手への恐怖を、仇のために激昂する感情と己の身体を。


「ん、どうかした? 体調でも悪いのかい?」


 美咲の懐には包丁が隠されている。自己紹介の返事をして警戒を解いて、魔物の卵に気をとられている隙に突き立てるのだ。正面から戦っても勝ち目は無いだろう。恨みは復讐を成し遂げたあと、物言わぬ状態になったあとに叩きつければ良い。なので今はとにかく笑顔を返さなければ。……返さなければ。


「……本当に大丈夫かな。実はさ、すぐそこに危ないものがあって。ちょっと行って処理してきたいんだけど……君も勉強するかい? 魔法少女になった以上、君の本懐も人助けだろうし――」


 ルミナスは大げさに、芝居がかった仕草で笑って問いかけた。ごく穏やかな笑顔で。


 美咲は顔を上げ、正面からルミナスを見つめ返す。にわかに緩んだ口元は、次の瞬間には硬く引き絞られていた。海のように深い色の瞳に憎悪の炎が揺れると、衝動的に、握り込んだ拳をその顔面に叩きつけた。


「――なにを?」


 しかし拳は届かず、顔の前でルミナスに掴み取られる。胸の中にある優香との思い出が爆発し、美咲の理性を奪い去ったのだ。


「……人助け、だって……どの口が……っ!!!」


 美咲は無理やり手を振り払うと、続けざまに拳を振るう。ルミナスはそれを容易に避け、目を細めた。


「いきなり襲ってくるとは、もしやアレか? 話に聞いたことがある。私利私欲のために魔法を使う、快楽殺人鬼めいた魔法少女。ハーモニーに代わる新たな仲間かと思ったが……ただの狂人だったか」


「……っ!」


「ここでやりあうかい? なら人払いの結界を――」


 ルミナスが指でくるくると図形を描き始めるが、それを待たずして美咲は再度飛び掛かる。『ハーモニー』、それは優香の魔法少女としての通り名。それをお前が口にする資格はない、どの口で仲間だなんて言っている、人殺しの狂人はどっちだ……色々と頭に浮かぶが、それを言語化する理性は残っていない。


「――やれやれ、それも許してくれないか。やはり狂人だな。人通りがない時間帯で良かったよ」


 ルミナスは鋭く後退して距離を取ると、無造作に片手を突き出す。美咲はそれを知っていた。忘れるわけもない、優香の命を奪った魔法。


「こんな短期間で二人の命が散る……。世のため人のためとはいえ、やりきれないね」


 掌が輝き、光柱が放たれた。光とはいえ魔力で生み出されたものであり、光速ではないにせよ高速で飛来するそれを回避することは、一般的な魔法少女の身体能力をもってしても難しい。戦闘経験で軌道を読むか、あるいは見切るだけの距離が必要だろう。今の二人の距離はせいぜい五メートルほど。戦闘経験など無い美咲にとって、王手詰みと言っても過言ではない状況だった。ただし、それは彼女の――鏡座美咲の得た魔法を考えない場合である。


 美咲の瞳が淡く揺らめく。すると迫る光柱が、そしてルミナスが揺らす髪の動きがまるで泥のように鈍化する。それは時間を操作し、あらゆる物体の速度を意のままにする強力無比な魔法――ではない。美咲自身の動きまでもスローモーションになっているのだ。


(相手だけが遅くになってるんじゃない。私が……私の脳の処理能力みたいなのだけが高速化してる。多分そういうこと……!)


 美咲にはこの一瞬、0.1秒か0.2秒ほどの時間を一時間にも二時間にも引き延ばすことが可能だった。その中で光柱の軌道を見切り、最短距離で回避する最善のルートを見つけ出す。つまり、経験不足や反射神経、身体能力の差を十分に補い得る。


「な――ぐうっ!!」


 ルミナスは目の前の狂人を侮っていた。不意打ちとして放たれたパンチは素人同然であり、それを防いだ時には、この相手が自らの魔法を回避できる技量を持っているなどとは露ほども思わなかった。ゆえに光に紛れて叩き込まれる蹴りに反応できず、身体を『く』の字に折り曲げた。

 異様に正確で、体重の乗った攻撃。無論それは美咲が魔法によって、正確無比な身体操作を行うことで生み出した威力だった。


 ルミナスは蹴られるままに距離を取り、再度相手に視線を、そして両手を――射線を向ける。美咲は体勢を整えると、大きな深呼吸によって理性を取り戻す。


「……すぅー……はぁーっ……。うん、大丈夫。もう大丈夫だよ、お姉ちゃん」


 それはまるで傍らに優香が居るかのようだった。別に幻覚が見えているというわけではない。ただその方が落ち着けると――そして確実に目の前の相手を殺せるようになると、そう思ったのだ。恐らく自分は狂っているのだろうと、美咲は自嘲した。


(なんでもいい。狂ってるなら……それはそれで好都合。お姉ちゃんのケジメを取らせられるなら、なんでもいい)


 強力な魔法を持ち、躊躇なく殺人を犯す相手と相対するという恐怖は無くなっていた。それでいて、感情の手綱もしっかりと握れている。賽は既に投げられているのだと、強く自覚した。だったら後は目的を遂げるまで走るしかない。


「なんだ、誰に話してる? 本当にただの狂人か? それとも……目的があって私を襲ってるのか?」


「……なんでもないよ。私のことを理解してもらおうとも思わない。ただ、死ぬ直前に説明くらいはしてあげる」


「そうか。対話の余地は一切ない、と。……しかし、に説明してくれるとは優しいじゃないか。それなら即死しないよう、ぜひとも手加減してあげたいところだ!」


 ルミナスは両手から先ほどの一発よりも大きい光を放つ。当たれば形も残さず消え去る、必殺のルミナリフレクションを。対する美咲も魔法を行使し、チリチリと髪の先を焦がしながら懐へと潜り込む。今度は打撃程度で済ませるつもりはなく、その手にはしっかりと包丁が握られていた。


「悪いけど、こんなところで狂人に殺される気はないんでね!」


 先ほどの再現にはしないとルミナスは素早く手を振るって光の照射を打ち切り、腹部を狙って突き出された刀身を素早く側面から弾いた。


「――きゃあっ!」


 魔力強化された肉体による強かな打撃によって美咲の手から包丁が零れる。ルミナスは大げさに芝居がかった仕草で笑い、両手を突き出した。


「おやおや、可愛い声だ。しかしこんなものに頼るとは……魔法は攻撃向きじゃないのかな? あるいはさっきから私の『ルミナリフレクション』を回避できてるのは、その魔法のおかげだったりもするのかい?」


 美咲の魔法は主観時間の鈍化。それによる肉体の精密操作であれば、想定内外問わずに大抵の事象には対応できる。ではなぜ包丁を弾く動きに対応できなかったか。それは純粋に、美咲が対応可能な動きの範囲を超えていたからである。

 『レーザービームを回避しつつそれを発射した人間を刃物で突き刺す』なんて動きに今まで喧嘩をしたことすらない美咲が慣れているわけもなく、それ故に行動の完遂に意識のリソースを割き過ぎてしまった。ルミナスの行動が想定の範囲内であったことを踏まえても、物理的に対処ができなかったのだ。それを反省し、美咲は再度魔法を発動。状況を分析する。


(……包丁は拾いに行けない。きっとそれは思う壺。だからといって素手で勝てるかはわからない。なら――)


 簡潔にロジックを済ませ、美咲は踏み出す。武器を拾う選択肢は捨て去り、一直線に。


「また突撃か。何とかの一つ覚えか、もしくは破れかぶれか……どっちでもいいさ。この世に蔓延る悪を退治できることには変わりには無いし、ね」


 何度目か、またしてもルミナスの手が輝き、光柱を放つ。美咲は潜り抜け、肉薄する。ここまでは両者想定済みであり、重要なのはこの先――


「そう何度も許すと思うかい?」


 ルミナスは両手を振るう。今度はルミナリフレクションを強制的に打ち切るためではなく、輝きを保ったまま。彼女は今まで『魔法の照射中は手を固定しなければならない』という認識を美咲の無意識下に植え付けるため、十全じゃない動きをしていたのだ。そして光柱は両手の動きに追尾し、行く先には美咲の頭部がある。


「――っ!!」


 眼前に迫る絶望に対して魔法を行使する。鈍化した世界の中で美咲は死から逃れる術を探した。そのまま受けるのは……まず灰も残らないだろう。この状況を直接的に切り抜けられるような魔法も持ち合わせていない。であれば、今は脱いだ状態で手に持っているこのコートに賭けるしかなかった。

 美咲はルミナスに接近した後、コートを投げつけて視界を封じ、魔法によって実質的に強化される反射神経にモノを言わせて拘束か絞殺、もしくは逃亡のどれかを選択する算段だった。その目論見が接近という大前提から潰えたものの、おかげでこの状況においてコートを手に持っているのだ。だからコートにありったけの魔力を込めて強化し、必殺のルミナリフレクションを防ぐ盾とすることができる。


「――が……あっ!!?」


 尋常でない熱量と破壊力を持つ超自然の光。あくまで魔法であり、そのため同じ魔法によって威力は相殺できる。だが双方の魔力量に差があるのであれば、完全とはいかない。

 美咲はコートの盾越しに、まるで大型トラックがぶち当たったかのような衝撃を受ける。身体が蒸発しなかっただけマシであろうが、しかし光柱がしなる鞭めいて頭から背中にかけて打ち付けたことによるダメージは甚大である。左腕に至っては肘のあたりからひしゃげており、コートも最早ただの黒い切れ端と成り果てていた。


「――っは、ううっ、ぐ……! ひっ、いた、ひう――っ!!」


 美咲はボロ切れのように、無様に転がる。これまでの人生で経験したことのない痛みに対して、目を剝いて悶えることしかできなかった。横隔膜が痙攣し、満足に息を吸うこともできない。


「あーあ、可哀想に。半端に防御したせいで痛そうだ。これやると私も腕が千切れそうなほど痛くてね、あまりやりたくはなかったんだけど……やった甲斐はあったかな? ほら、気をつけないと落ちるよ」


 ルミナスは芝居がかった動きで顔を覆いながら、美咲のすぐ数センチ横を指差す。そこでは闇が大口を開けており、覗く人間に吸い込まれるかのような錯覚を与えた。

 戦闘現場、つまりこのビルの屋上は人が上ることを想定されていないからか、落下防止ネットも手すりも無かった。つまり、美咲は少しでも動くと十メートル先のコンクリートに真っ逆さまである。


「魔法で吹っ飛ばしてあげても良いんだけどさ、ほら、私はそこのお店のチーズケーキが美味しくて好きなんだ。どうでもいい店なら……まぁ良いとしても、あそこに被害は出したくないからな」


 ルミナスはあくまで笑顔を浮かべながら歩みを進める。しかしその声色は、まるで地獄から吹く風かのように乾ききっていた。


「はーっ――はぁー……っ……」


「なんだ、この期に及んでまだ反抗的な目をしてるのか。――ほら」


「――な――っ!?」


 目の前まで迫ったルミナスは、無造作に片足を振るう。美咲は咄嗟に左腕を庇ったが、狙いは違う。左腕ではあるものの、そこに打撃を与えるのが目的ではなかった。鋭く爪先を叩きつけるのではなく、靴底でぐいと身体を押し退ける。


 身体が空に、闇の中に飲み込まれる。ビルの横、ほんの少しだけ開けた路地裏へと。美咲は魔法を行使してどうにか体勢を整えるが、重心操作だけでどうにかするのには限界があった。可能なのはやがて大きくなる地面に対し、可能な限り急所と左腕を遠ざけるのみ。


「――あぐ、うううううっ!!」


 衝突する寸前、接触面に魔力を注ぎ込んだお陰で衝撃は和らぐ。先ほど受けたものに比べれば数十分の一程度のダメージだが、整いかけていた呼吸が再び乱れた。


「よ、っと。これで素直になったかな? じゃあ約束通り君の目的でも聞かせてもらおうか。さっきは噂の魔法少女かもと思ったが、違うんだろう? あまりにも荒事に慣れてなさすぎるしね」


 ルミナスは尊大に、芝居がかった仕草で両手を広げる。顎をクイと指して発言を促した。美咲は少しずつ肺に空気を詰め込み、呼吸を整え、右手の爪を手のひらに食い込ませながら……やがて口を開く。


「……あなた……お前、が……」


「ん?」


「――お前が! お前が私の大事な人を、お姉ちゃんを殺したんだ……!!」


 美咲は震えた声を絞り出した。


「殺した、か。それは悪いことをしたね。でも……ごめんよ、誰の事かな? 最近かな?」


 悪びれる様子も無しにルミナスは答える。


「でもまぁ誰であれ、私は私利私欲のために命を奪ったことはない。あくまでも世のため――これはさっき言ったか。あれだ、トロッコ問題だ。有名なやつさ。私は少数を多数を救ったんだ。当然のことだろう?」


「……っ」


 一歩、また一歩とルミナスが近づく。その発言は優香以外にも何人もの命を奪ってきたことを示唆しており、美咲は背筋にぞくりとした戦慄を覚えた。


「ま、君もその一人になるだけさ。考え方を変えるなら、君が多くの命を救うんだと――そういうこじつけもできるかな? 良かったじゃないか。名も知らぬ狂人」 


 ルミナスは決断的に、大きく足を振り上げる。死ねない。絶対に。拳を握り込む。しかし、何も思い浮かばない。この状況を切り抜ける手段も、投げつける言葉すらも。認めたくはないがこの瞬間、美咲は死を覚悟してしまった。しかし――


「だ、誰か居るんですか……?」


――ゆっくりと、だが決断的に振り下ろされていたはずの足が止まる。月明かりではない、人口の光が二人を照らしたからだ。路地の入口に立つポニーテールの少女が持ったスマホのライトが。


「け、喧嘩……コスプ……!? 警察呼びますよ!?」


「待つんだ! 違う、えっとそうじゃない……ちが、く…………」


 嘘八百を並べて言いくるめようと少女に近づいたルミナスが狼狽える。その少女を知っていたからだ。そして、その少女も瞬時にルミナスの正体に気づいたからだ。


「……え、何を……あれ? 会長? 会長ですよね……?」


「れ、いや、違う。待て、今は何も言う――」


「会長! どうしたんですか!? 私です、周見 蓮ですって!」


 当然ではあるが、蓮は危機感の無い声を上げて近づく。何故かわからないけど変なコスプレをしている知人へと。


 魔法少女に変身すると容姿が変化する。髪色も、服も、肌も艷やかになり、まつ毛までも伸びる。まるで別人のようになるが故に、ルミナスを始めとした魔法少女はコードネームのような通り名を名乗るのだ。

 しかし顔と声に変化は無いため、変身前後でまじまじと見比べられるか――あるいは何かしら特別な人に見られれば、正体がバレる可能性もある。現に今、ルミナスの正体は目の前の少女に悟られていたのだから。いつもルミナス――もとい月峰 綾乃に憧れ、心の底から想い続けてきた彼女、周見 蓮には。


 ルミナスは蓮の手に提げられた袋がすぐ隣の店、風鈴堂のものであることに気づき、この状況を理解した。


「ちょっとちょっと、とぼけないでくださいよ〜! どんな格好でも私が見間違うわけないじゃないですか! なんですか、それめっちゃかわ」


「ちょ、ちょっと待ってくれ! わかった、いくらでも話してあげるから! 先にほんの用事を――」


 髪を犬の尻尾のようにぴょこぴょこ跳ねさせる蓮をたしなめ、綾乃は背後の闇を振り返る。数秒前までそこに居た狂人は忽然と姿を消し、静寂だけが取り残されていた。


(……正体はバレた、だろうな)


 このまま取り逃がすのは不味い。今すぐ魔力の痕跡を追えば見つけられるだろうが、しかし――


「――っ! よりによって今か……!」


 綾乃の魔法少女センスとでも言うべき第六感は、シグナルを受け取った。この商店街に来た本来の目的である魔物の卵、アレの孵化が近いのだ。狂人を追って魔物を解き放つか、魔物を対処して狂人を取り逃がすか……綾乃は天秤にかけた。


「あの〜、会長? どうしたんですか? 後ろの人、どっか消えちゃいましたけど」


「蓮。君が……いや、いい。後でちゃんと説明するから、少しついて来てくれないか?」


「へっ、あ、はい。いいですけど」


 綾乃は身を翻し、通りに出るため変身を解く。わっ、と背後の蓮が小さく驚いた。


「ごめんよ。すぐそこまで、ほんの少しだけだ」


 ここで、この状況で奴を取り逃がすことの意味。自らを待ち受ける運命を理解し、儚げに笑った。


「安心してくれ。皆は……君のことは私が守るさ」




〜〜〜〜〜


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


〜〜〜〜〜




 早朝。学校の廊下を歩く蓮は傍らの綾乃を見上げると、射す朝日に目を細めた。昨日は寝れなかった。魔法少女について聞かされたからだ。無論、綾乃が今まで何人もの命を手にかけてきたことを除いてなうえ、昨日の戦いは「ただ狂人に襲われただけ」としているが。しかしそんなものはアニメの中の存在としか思っていなかった蓮であっても、綾乃が一瞬で変身したり手からビームを放つのを目の前で見せられたら信じざるを得なかった。

 二人はホームルームが始まるより前に生徒会室へ向かっているところだった。今日は選挙当日であり、立候補者や関係者は普段より早い登校が許されているのだ。


「しかしまぁ、昨日あんなに色々と見せられて、会長が町を守る凄い人だって知ったのに。こうやって横に居る時はなーんにも変わらないんですねぇ」


「ふふ、そんなものさ。魔法なんて使えるようになったところで、別に本質的に何が変わるわけでもない。それを踏まえて何を行うか。どんな願いを持つか次第さ」


「へぇ~。会長の願いってアレですよね、スローガンのやつ」


「……そうだな。アレは免罪符さ。自分を正当化して、誤魔化すための」


「免罪符? ……なんだかよくわかんないです」


 蓮は申し訳なさそうな笑顔を見て、綾乃の芝居がかった顔が表情が少しだけ、ほんの少しだけ本当に和らいだ。


 生徒会室の前に到着する。ドアに手を掛けようとする蓮だったが、それを綾乃は制した。


「会長?」


「……ごめん。ちょっと一人でやりたいこと――いや、やらなきゃいけないことがあってね。蓮は先に教室に行っててくれないか」


「えぇ~、急にどうしたんですか? それじゃ私、一緒に来た意味ないじゃないですかぁ」


「ははは、それは本当にごめんよ」


 綾乃は芝居がかった仕草で笑う。いつもと変わらないはずの笑顔が、蓮にはどこか違って見えた。


「明らかに何か隠してますよねぇ、それ。どうせ昨日みたいな魔法少女関連の何かなんでしょ? なんでもいいですけど、無理だけはしないでくださいね」


「ああ。ありがとう。……魔法はね、心に空いた穴を埋めるんだ。後は任せたよ、蓮」


「へ、なんです? なんか言っ――」


 言葉を遮り、ドアが二人を分断する。


 綾乃は寂しげな足音が遠ざかるのを確認した後、生徒会室の奥に立つ少女へと視線を向けた。


「良かったのかい? 不意打ちの機会ならいくらでもあったと思うんだけどな」


 心に巣食う闇が表面化しているかのように真っ黒なコートと、胸部を覆うアーマーとシンプルなミニスカート。そして足元は上履きではなくエンジニアブーツ。左腕は明らかに素人処置といった感じに包帯でぐるぐる巻きにされていた。その少女――美咲は白い髪の隙間から、海のように深い瞳を覗かせる。


「……昨日、君が即断即決で逃亡したときからこうなる運命は定まってたってわけだ。私が君を追うなら魔物が孵って甚大な被害が出る。君を放置して魔物に対処するのであれば、私の素性を知った君はこうやって襲いに来る。それを避けるために私が逃げるのであれば、蓮をはじめとした多くの人の命を奪う腹積もり……と。ここまで合ってるかな?」


「……ええ」


「まったく、手段を選ばないっていうのは恐ろしいね」


 美咲は一歩近づく。その右手にはフルーツナイフが握られており、その先端は無論ルミナスへと。


「しかし、『会長』『周見 蓮』という情報しかなかったわけだが、特定が早かったじゃないか。もしやここの生徒だったりするのかな? ……まぁ、それはいい。とにかく、君はお姉さんの仇である私さえ殺せれば良いんだろう? つまりここに私が来た時点で、実質的に他の人の命は保証されたと思って良いはずだ」


 更に一歩。ナイフに反射した陽光で綾乃の姿が揺らめき、次の瞬間にはルミナスとしての姿をとっていた。


「学校じゃ魔法は使えない。早朝とはいえ何人巻き込んでしまうか、どれだけ建物を破壊してしまうか分からないからね。もっともそれが狙いなんだろうし、仮に学校じゃなかったとて住宅地や自宅に変わるだけだろう。ま、それらよりは生徒会室のほうが人目に付きづらいだけマシかな」


「……よく喋るね。悔いを残さないように?」


「その通りさ。魔法が使えない以上、私は君に勝てないだろうからね」


 ルミナスは芝居がかった様子で肩をすくめた。


「実はね、今日は生徒会選挙で蓮が登壇するんだ。十時過ぎくらいかな。それを見るまで戦いを延期するのはダメ……か、そうか。言われずとも目を見ればわかるさ」


 にへらと笑うその瞳は彼女なりの正義が、そして決意が込められている。少なくとも美咲はそう受け取った。


「……私は鏡座美咲。お姉ちゃんは『ハーモニー』……鏡座優香」


「――そうか」


 ルミナスは頷き、さながら絞首台に向かう囚人めいて一歩を踏み出す。肉薄する。たんぽぽの花弁のような輝きが美咲の瞳に吸い込まれ――同時に、弾かれたように動く。


 美咲は超自然の光をまとった掌底を、髪先を焦がしながらもわずかに首を傾けるのみで避けた。右手が、そこに握られたナイフが突き出される。ルミナスは残る片手でそれを弾きにいくが、ゆるりと軌道が逸れる。


「――あ、づっ……」


 腹部にナイフが、殺意が突き刺さる。刀身は肋骨の隙間に入り込み、内臓にまで達していた。赤熱した鉛を流し込まれたような感覚にルミナスは悶える。


(……あの時、あの場所に蓮が――)


 蓮が来なければ。一瞬よぎったその思考を噛み潰す。「因果応報」と、錆びた鉄の匂いがそう告げた。



 美咲はナイフを引き抜き、そしてまた刺す。引き延ばされた時間の中で、後悔と怨嗟を噛みしめながら。


 刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。


 ルミナスは何かを言おうとしたが、それらは全て胸の穴からすり抜けた。


 刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。


 黄色の輝きを放つ花弁がどす黒い血に塗れる。


 刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。


 魔法少女の瞳は光を失い、物言わぬ肉塊になり果てた。


 刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。想いを、無念を込めて突き刺す。


「……」


 右手からナイフが零れ、血溜まりに呑まれる。望みを、願いを叶えて立ち尽くす美咲の胸は、泥のような虚無で満たされていた。




〜〜〜〜〜


~~~~~~~~~~


〜〜〜〜〜




「聞いた? 二年の失踪した人。なんか妹さんまで居なくなっちゃったらしいよ」


「えー、マジ? 失踪ったってどうせ生きてないだろうし、後追いでもしたんじゃね?」


「やめなって、ちょっと! そういう話題は、ほら――」


「……あー、そっか。会長さんもアレだっけか。ウチ集会ん時寝てたからさー」


「ほんっとにやめて! ……周見さんこっち見てるから。ほら、行こ」



 そそくさと教室から立ち去る女子グループを横目に、蓮はカバンを抱えて立ち上がる。会長が――綾乃が死体となって発見された後、蓮は自らを責め続けていた。あの時自分が立ち去らなければ、こんなことにはならなかったのではないか。明らかに異常だった彼女をなぜ放っておいてしまったのか、と。そうやって悩み、悔い、連日泣き腫らした。


 自分はこれから何をすれば良いのか。道しるべであり、大切な人であった綾乃を喪って、どう生きていけば良いのか。何もわからなかった。無為な日々がただ過ぎていくだけだった。


「……魔法少女」


 蓮は呟く。会長が望んでいたこと。『救える人を救う』。語感は悪いし、解釈の幅も広い、スローガンとしては適さない言葉。大好きな言葉。


「……探すんだ。知らなきゃ。会長が何をしてたのか、何があったのかを」


 いつしか誰も居なくなっていた教室で想いを馳せる。たんぽぽの花弁を思わせる日差しの中、柔らかく揺れたポニーテールの先が、淡い空色の燐光を帯びて煌めいた。


「……継がなきゃ。私が。会長の願いを」


 周見 蓮は魔法少女になった。

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