第6話 世界樹の洞窟

 宿場町を出立すると、ライナスとエナは再び南に向かって進み始めた。

 行き先は以前と同じパカラン山脈だったが、少し違う。ライナスはエナに確認を取ったのち、やはりマルクとリラの二人を追いかけ、彼らの村までいってみることを決めた。

「エナ、リラちゃんとも、もっと仲良くなれるかなぁ?」そんな言葉が決め手となった。

 それに、エキドナはいった。

『あの二人を行かせてもよかったのか?』と。

 それはとりもなおさず、そうさせてはいけなかったということだ。どうでもよければ、エキドナはなにもいわない。・・・あれは、そういう存在だから。

(俺のためか、エナちゃんのためか。おそらくは両方だろうな。興味がないことには徹底して関心を示さないエキドナが、二人のことには、あえて魔王を引き合いに出してまで言及したんだ。それはつまり、今の世界には二人が必要だからだ)

 山が近づくに連れ、この辺りはぐっと気温が低くなる。山のほうから風が吹き、エナはぶるりと震えた。ライナスが羽織ったマントを手繰りよせ、その中に引きこもる。

 鹿を進めていると、道の脇に焚き火の跡を見つけた。ライナスはエナを残して鹿を降りた。確認すると、まだ新しい。おそらく今朝のものだろう。いかに二人が徒歩とはいえ、遅れること半日の距離は意外と大きいようだった。

「まずいな。さすがに隠れ里の場所なんて教えてもらってないからな。このまま二人に追いつけなかったら、もう会えないかもしれないな。・・・おまえが犬ならよかったのにな」

 無い物ねだりをしても仕方ない。山に入るとライナスは、記憶を頼りに二人と出会った場所まで鹿を歩かせた。夜と昼の違いは大きかったが、意外とすんなり、それは見つかる。あたりにはおぞましいまでの戦いの痕跡が残されていた。

 明るい場所で、あらためて目にする戦いのあとは、それがいかに魔物や魔族の死体であっても、さすがに子供があまり目にしていい光景とは思われない。ライナスはエナの目元に左手を持っていこうと持ち上げて、これよりも一瞬はやく。

「うわぁ〜、すごいねぇ〜。これってリラちゃんが、みんなやっつけちゃったんだよねぇー」

 大人でさえ目を背けたくなる惨状を前に、エナはなんとも事も無げにそういった。

 これを耳にする瞬間、ライナスはようやく理解する。以前からあった、エナとの会話の中に見られた、どこか奇妙な違和感、その正体を。

(この子は、生き物の死に対して、あまりにも無頓着すぎるんだ・・・)

 エナは両親の死を悲しむ一方、ライナスとの会話の中にあった、ほかの大勢の人の死に対して、あまりにも平然としていた。「それがどうかしたの?」そう言わんばかりの表情で。

 これはエキドナの影響か。そう思う一方で、そう思い込みたいだけのような気がした。

 ライナスはなんとなく、ほとんど無意識に、前に座ったエナの小さな体を、やり場を失くしていた左手で、ぎゅっと強く抱きしめた。

「どうしたの、お兄ちゃん? 寒くなっちゃったの?」

 あまりに無邪気に心配する声が、また却ってライナスの胸を痛いくらいに締めつける。

(そういえばあの後も、あの男のことに関しては、なにも聞かれなかったな)

 あの男とは、もちろん猿トロルに変えられてしまった男のことだ。もしかしたら、元気になって森に帰っていった。そんなふうに考えているのかもしれない。そう考えると、なんともいえず居たたまれない気持ちにさせられる。

(いったい何時から、この子はそう思うようになってしまったんだろうな)

 両親の死を目の当たりにしたときか、それともエキドナから力を貸し与えられた瞬間か、あるいはエキドナがその身に宿った・・・つまりは生まれたときからか。いずれにしろ、ふつうの子供の心情とは、あまりにもかけ離れすぎている。

 ライナスは鹿を歩かせた。しばらくは戦いの痕跡を辿っていくのが定石だ。森には魔物や魔族の死体が点々と転がり続けている。これ以外にも、痕跡は多く残されていた。マルクやリラのものじゃない。魔物たちが通った道だった。獣道ならぬ魔物道だ。

「・・・エナちゃんは、もし俺が死んだら悲しいかな?」

 あまりに唐突な質問に、エナが足の間で勢いよく振り返る。

「えっ? お兄ちゃん、死んじゃうのっ」

 はっと目を見開いて、少し泣きそうな顔をしていたことに、思わず、ほっと安堵する。

「違うよ。俺は死なない。もしもの話だよ。俺はエナちゃんを残して死んだりしないから、安心していいよ」

 それでも聞かずにはいられなかった。知りたいと思ってしまった。

「それじゃあ、マルクやリラならどうだろ?」

 彼女の中にあるはずの、なにかしらの基準のような存在、その境界線のような境目を。

「あの二人が死んじゃったら、エナちゃんは悲しくないかな」

 本当は、エキドナの存在に気づいているかどうかを問いたかった。でも、できない。それだけは絶対にしてはいけなかった。・・・下手を打てば、エナの異常は加速する。

「うぅ〜ん、どうかなぁ・・・見てみないとわかんないかも?」

 それで判ってしまった。でも考えてしまう。実際に目にした情報と、人伝に聞いた話は違うはずだ。自分で確かめた情報は正確だが、人から聞いた情報は不確かだ。まだ生きているかもしれない可能性を否定することはできないんじゃないかと、生存を信じたい気持ちはあるはずだ。冷たいわけじゃない。合理的なだけだった。人から聞いた話を鵜呑みにし、まだ生きていたかもしれない相手を助けようとしなかった行為こそ、よっぽど薄情なんじゃないかと、そう思う。・・・思うが、今の質問と答えは意味が違った。

 質問は、あくまで前提として、すでに死んでしまっている状態なのだから・・・。

『あまりエナに、不用意なことを訊くでない』

 そう聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。ライナスのほうが、そういってほしいだけだった。

 それでも忘れられない。

 エナと初めてあったとき、まだ見ず知らずだったライナスがライオンヘッドにやられて死にかけていたとき、少女が目の周りを赤くらして泣いていた事実を・・・。


 昼過ぎに入った山は、日が暮れてしまうと急速に暗くなる。さらに日暮れ頃から曇り始めた空は、いつ降り出してもおかしくない曇天どんてんの空に成長した。夜目の利くライナスは苦にならないが、エナはほとんどなにも見えないらしく、ずっと退屈そうにしている。

 魔物道は、ずっと西へと続いていた。ふだん人が踏み入らない山中は、石あり、段差あり、熊笹あり、いばらありと、鹿の足を借りても歩き難い。

 それでも魔物たちが踏み固めた地面と、踏み潰した草むらの道を見失うことはしなかった。

 ゆるやかに登っていた道が、ある地点から急に下へと向かい始めた。どうやら目的地が近いらしい。踏み固めた地面と荒らした草むらが、急激に広範囲に広がった。それだけ無数の魔物が一斉に、とつぜん山へと踏み入った証拠だった。

 暗かった森の木々の向こうに、薄ぼんやりと明かりが見えてきた。ライナスは身を固くする。明かりの向こうに、いくつかの動く気配を感じたのだ。

 だが、なんの悪意も敵意も殺意も、それこそ一切の危険を感じなかったので、かまわず鹿を進めた。

「ライナス」

 呼ばれた気がした。

「失態じゃな」

 声の主はエナ・・・ではなく、エキドナだった。今度の声は本物だ。

 それに気づくより一瞬はやく、ライナスはぞっとする。

 徹底的に破壊され、蹂躙じゅうりんされた村の中、どうしてこれほどまでの数、まだ居座り続けているのかと思えるほどの、魔物たちの姿を目撃して。

「・・・へ?」

 踏み入った先は、魔物たちの巣窟そうくつだった。なかには下級だが、魔族の姿さえ見える。

 エナのことを気にしていたとはいえ、ライナスは迂闊うかつがすぎた。少し考えれば判ったはずだ。

 四六時中、ずっと戦うことを考える存在などいないことなど。

 一番近くにいたのは、子供ほどの背丈をした、耳が尖った醜悪しゅうあく相貌そうぼう。見張り役のゴブリンだ。そいつは木の棒に鉄片を巻きつけた粗末な槍を手にしている。少し先に、獣顔をした人型魔物、コボルドがいた。こいつは薄汚れた革鎧を身に着け、腰には帯剣している。

「クギャッ?」

 ライナスを見つけたゴブリンが、なにごとかを発した。首を捻りながらだった。もしかしたら一瞬、ライナスを鹿の魔物かなにかと勘違いしたのかもしれない。

「ギャギャッ、ギャーッ!」

 べつの個体が指差し、さらにいった。その指先は勘違いでもなんでもなく、エナを指している。

 ほかの個体が一斉に、ライナスたちを見つけた。

 次の瞬間、奴らは奇声を発しながら、問答無用で襲いかかってきた。

 ライナスは手綱をあやつり身をひねり、ほとんど反射的にナイフを引き抜く。さっと一振り、飛びかかってきたゴブリンを斬り伏せた。だが踏ん張りの利かない鹿上かじょうでは倒すに至らず、すぐさま起き上がってきた。苦痛と怒りに顔を歪め、奇声を発して、また襲いかかってくる。

「よかったではないか。どうやら奴らには、お主が人間に見えておるようじゃぞ」

 なんともおかしそうにエキドナが、くくくっとのどの奥で笑った。その物言いと態度に、ライナスは苛立いらだちちを覚えたが、この場はゴブリンやコボルドにぶつけることで聞き流す。

 多勢に無勢では長く持たない。ライナスは戦闘をあきらめ、逃げの一手を選択する。

「エキドナっ、エナちゃんは任せたからなっ」

 いうなり、ライナスは鹿を飛び降りた。自身はおとり殿しんがりを買って出る。さっとナイフでゴブリンを切り裂き、反対の手で鹿のお尻を引っ叩いた。

 たちまち鹿は走り出し、

「エキドナぁ!」

 いつの間にか、1体の魔族が先回りして待ち伏せしている。

 その手に魔力が光りを放ち、エナを乗せたエオポルドは、そのまま脇を通された。

「?」

 とうの魔族は、きょろきょろ辺りを見回して、まるで自分がなにをやっていたのかを忘れている様子で、うろたえていた。

 その光景を横目、ライナスはエキドナが逃げていった方向とは反対に、じりじり後退していく。

 最後に大声で奇声を発し、手近なゴブリンを数体切りつけ、すかさず反転。全速力で逃走した。

 一瞬の間。魔物たちはすぐさま追いかけてきたが、闇夜の森に入ったライナスには夜目でも走力でもかなわず、あっという間に置き去りにされた。


 エナとはぐれた夜の森を、ライナスはしばらく走り続けた。背後の気配は消えても、さきの失態のあとでは当てにならず、さらに走り続けなければいけなかった。

 森の奥からフクロウと虫の声が戻ってきたとき、ライナスは自らに歩くことを許した。

 そうして見回した森は深く、ここがどこであるかなど、とうの昔に判らなかった。

 短いとはいえ戦い、走り続けて疲れていたが、荷物はエオポルドに全部預けていたから、水も食料もない状況だった。仕方なく水場を求めて移動する。

「たしか地図だと、カーニスよりもっと西の辺りに小さな川があったはずだけど・・・」

 つぶやきながら、頭の中ではずっとエナのことが気になっていた。無事に逃げられたのか、というのはもちろんあるが、でもそれ以上に、あのとき魔族に素通りさせたエキドナのことが気になっている。

 あれは一体、どういう意味だったのだろう。

(エキドナを仲間と判断したのか? いや違う、よな。どっちかっていうとエキドナがなにかをしたはずだ。素通りさせた魔族も、自分がなにをしてたのか、わかってなかった様子だったし)

 近くに魔物の大群が控えていると知るだけに、さすがに少々不気味だった。たとえ樹上であっても休む気になれない。

(とにかく、どうにかしてエキドナと合流しないとな)

 考え事をしながら歩いていると、小さなくぼみに足を取られて転びそうになる。

 振り返って見ると、それは何者かの足跡だった。とっさに考えたのは魔物のそれだが、よく見ると靴跡とわかる。さらに観察すると、ほかにも複数、大小を確認できた。

「こんな山奥を複数人でってことは、もしかしたら村を逃げてきた人たちが、ここを通ったってことかも・・・。もしそうなら、この足跡を辿っていけば、村の避難場所にたどり着けるんじゃないのか?」

 エナと村人、どっちを優先するかは簡単に答えが出た。とうぜん村人だ。エナはエキドナに任せておけば、ライナスといるよりずっと安全なはずだ。

 決心すると、ライナスは足跡を辿って歩き始めようして、ふと立ち止まる。

「・・・・・・・・・?」

 なにやら妙な気配を感じた。だが夜の森に変化はない。変わらずフクロウや虫の声が聞こえていた。

 だが確信に近いなにかを、ライナスはたしかに感じ取っている。

(なんだろう? この感じ、ひどく不安になるっていうか・・・気持ち悪い?)

 瞬間。ライナスは片手を地面についてしゃがみ込む。その頭上を、なにか力あるモノが通り過ぎていった。それがなにかを理解するより速く、目の前の樹木が音を立ててぜた。

 勢いよく振り返った前方、木々の隙間から、毒々しい赤黒い肌をする何者かが覗いていた。

 赤黒い肌に、同じ色をした蝙蝠に似た翼。尖った耳と牙、切れ長の目、長く伸びた鋭い爪。そしてその手に灯ったーー魔力の赤。

「こいつ、さっきの魔族かっ」

 いつもなら逃げ出すところだが、

(まずいところを見られた?)

 地面の足跡を辿っていけば、奴らも村の避難場所までたどり着いてしまう。もしかしたら、すでに知っているかもしれない。でも知らなければ、ライナスが招き入れたことになる。

 魔族が伸ばした手の先で、赤がきらめいた。

「倒すしかないっ」

 思う刹那せつな、すでに横へと跳んでいる。その脇を不可視の力が通り過ぎ、一瞬遅れて背後の樹木が音を立てて、また爆ぜた。

 かまわずライナスは疾走し、一瞬で間合いを詰めた。下級魔族は後ろに下がり、それよりも速くナイフを一閃させる。レッサーデーモンは溜めた魔力を盾に防いだが、さらに大きく後退することを余儀よぎなくされた。

 ライナスは相手に立て直す隙きを与えず、さらに駆け寄り、その眼前に差し向けられた魔力の光ーーが、このときすでに、ライナスの姿はそこにない。

 ライナスは林立する樹の幹を足場にし、まるで壁に張り付いたトカゲのような格好で、両手両足をついて立っている。そこから全身のバネを総動員しての一足飛び。一閃させた残光は、下級魔族の腕を切り落とす。が、振り返った視線の先に、下級魔族が消えている。

 だが、ライナスは止まらなかった。着地と同時に地を蹴って、木の幹を駆け上がり、そのまま空へ向かってジャンプする。

 そこに。翼をはためかせ、泡を食って驚愕きょうがくに目を見開くレッサーデーモンはいた。

「ふんっ」

 呼気とともに繰り出した一閃は、今度こそ下級魔族の首を跳ね飛ばした。

「おまえ、死臭がムチャクチャ不快なんだよっ」

 いかに森の緑の匂いが強烈とはいえ、清流とした森の空気の中では、そんな死の匂いは異彩を放って際立っていた。

 まして今の、エキドナによって強化されたライナスの鼻の前では、その居場所を特定することなど、どれだけ離れていようとも、いとも容易いことだった。

 だが、どれだけうまく敵をほふろうと、今のライナスの心は晴れやかない。むしろ心が重く、いまの曇天の空のように塞ぎ込んでしまうのだ。

「なんか俺、どんどん人間から遠ざかってるような気がするんだけど・・・」

 レッサーデーモンの首を刎ねる瞬間、ナイフを握った自分の腕が、毛深い獣毛に覆われていたように見えたのは、はたして気の所為だっただろうか・・・。


 発見した足跡を辿って歩き続けること小一時間、ライナスは草藪の向こうに、水の流れを耳にした。

「おお〜っ、助かったぁ・・・」

 ここまで走り通しのうえ、下級とはいえ魔族との戦闘も手伝って、のどが渇いていたライナスは隠れ里での教訓も忘れ、たいして警戒もせず、なんとも無防備に藪をかき分け沢にでた。

 その小さな丸石が無数に転がる河原の向こうに、先客がいた。そいつは人間だった。川のなかほどに立っている。どうやら女性のようだった。

 群がる黒雲、そのごく薄くなっている箇所から射し込む月光の薄明かりと水面を照り返す長い髪が、きらきらと栗色に輝いていた。

 川は深いらしく、彼女のももの深さまである。その体つきは小柄で、まだ幼い。

 ふと、少女は何かに気づいた様子で顔を上げた。はっとして、ライナスのほうを振り返る。

 ふたつの視線が合わさった。

 お互いに硬直し、開いた口が塞がらない。

 少女は、ライナスの知っている顔だった。

 ライナスもまた、少女の知っている顔だった。

 ただひとつ不幸なことは、そんな少女が・・・なにも身に着けていなかったことくらいだろう。

「きゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ〜っ」

「いやっ、ちがっ、ちょっと待っーーぶッ!」

 弁解しようとして、ライナスの顔のど真ん中にナイフが飛んできた。・・・のほうが。

「なに覗いてんのよっ、このヘンタイっ、チカンっ、変質者ァーっ!」

 鼻っ柱に直撃を食らったライナスは、鼻血の糸を引きながら数歩をよろめき、川に落ちた。

 うつ伏せになって流されていく。

「ぜったいぶっ殺してやるぅ!」

 一撃を加えただけでは腹の虫が治まらなかったらしく、少女はなおも無数のナイフを呼び出し、これをライナスに向かって放とうとした。

 まさにその時。草むらが音を立て、そこから大きな角を生やした獣が、ぬっと顔をのぞかせた。

「っ!」

 少女は慌ててナイフの刃先を獣に向けて、はたと気づいた。その獣の背中に乗った、あまりにも幼すぎる少女の存在を。

「り」

「り?」

「リラちゃんがお兄ちゃん殺しちゃったぁああああぁぁぁぁ〜っ!」

 エナはこれ以上ないくらいの大声あげて、わんわん声を限りに泣き出した。

「まだやってないっ、これからだからっ!」

 リラはまったくフォローするつもりがなかった。言いつくろう気もないらしい。

「どうしたのっ、リラっ! なにかあった、の?」

 騒ぎを聞いて駆けつけた少年は、一目目にしてすべてを悟った。

「ごめん、リラ。なんでもないみたいだから、僕はもう少しあっちで待っーーぶッ!」

 回れ右して戻ろうとしたところ、その後頭部目掛けてナイフの柄が飛んできた。

 ふらふらと千鳥足になって、やはり盛大な水柱を立てて着水する。

「あんたも覗いてんじゃないわよっ、このエロぉ!」

 マルクは川の流れに身を任せ、うつ伏せになって流れていった。


「・・・顔が痛い」

「・・・頭が痛い」

 したたかにぶつけた箇所をさすることも許されず、ライナスとマルクは底冷えする石だらけの河原を足の下に、両手を膝の上に正座させられていた。

「うるさいバカ、ヘンタイ、口開くなチカン、刺されなかっただけありがたいと思え、犯罪者」

 一息に坦々たんたんと酷いことをいわれた。それでも膝に座らせたエナの頭を撫でながらだったので、これでもマシなくらいだ。

「お兄ちゃんたち犯罪者ぁ?」

「「ぐふっ」」

 ものすごく痛かった。無垢むくな瞳で無邪気にいわれると、被害者本人にいわれるよりも、ずっと罪悪感にさいなまれた。 

「「ごめんなさい、不可抗力だったんです」」

 ライナスとマルクはまったく同時、異口同音を口にした。さらにまったく同じ動作で、頭を下げて土下座する。

「ものすごく水が飲みたかっただけなんです」

「勝手に飲めばいいでしょ」

おぼれるくらい飲みました。もうお腹いっぱいです」

「悲鳴と子供の泣き声が聞こえたから、それで助けなきゃって思って・・・」

「よけい被害が増えたわよ」

 少なくともマルクは、彼女が水浴びをしていたことは知っていたはずだった。

「まあ、どうせ暗くてそんなに見えなかったでしょうから、わ・た・し・は、そんなに気にしないでおいてあげるけど」

 ずいぶん気にした言い回しだったが、それでこの場を納めてくれるのであれば、二人にはなんの異存もありはしなかった。

 けれどライナスは、これでもう二度と、じつは「ものすごく夜目が利くんです」とは、口が裂けてもいえなくなってしまった。

「でもお兄ちゃん、夜でもものすごく目が見えるっていってたよ」

 純粋に裏切られた。

「エナちゃんは、ホントいい子ねぇ〜」

 向けられたリラの笑顔と同時、ガツンっという衝撃が、ライナスの脳天を直撃する。

「ごめんなさい。覗き犯罪、チカンあかんです」

 ライナスはもう一度、土下座する。この場は不可抗力もクソもなかった。謝罪あるのみ。

「ところでライナスさんたちは、どうしてここにいるんですか?」

 同罪のよしみで同情したか、マルクが話を変えてくれた。リラは一瞬、ものすごく物言いたそうな顔を二人に向けたが、疑問は同様だったらしく、なにも口をはさまなかった。

「どうしてって、前に会った所から魔物たちの痕跡を辿って村まで行ったら、そこがすでに魔物たちの巣窟になってて、それで慌てて逃げ出してきたんだけど・・・」

「あ、いえ、それは僕たちも知っています。でも、そういうことじゃなくて・・・。どうして僕たちを追ってきたんですかってことが、聞きたかったんですけど・・・」

「それはもちろん、マルクたちを手伝いに来たんだ」

「あきれた。人助けのつもりなの?」

「いや、違う。助けてほしいのは、むしろ俺たちのほうなんだ」

 今更のように、ライナスは自分たちの旅の目的を二人に語った。小さな勇者と魔王の戦いを目撃したこと。そして旅をはじめ、エナとの出会い(一部秘匿ひとく)。そして最終的な目的が、理由はどうあれ、魔王を倒して世界を平和にするということを。

「つまりライナスさんは、魔王を倒してくれる人を探して旅をしていたってことですか?」

「それが、わたしたちってこと?」

「リラはともかく、僕は無理だよ。・・・だって、弱いから」

 マルクは力なく笑った。その表情は、なんとも頼りなくて苦そうだ。

「いま弱ければ、あとは強くなればいいだけだ。俺の知ってる、とある騎士がいってた言葉だ。自分が弱いことを知る。それが強くなるための第一歩だってさ。強ければ、それ以上強くなる必要はないからな。マルクが弱いままなのは、きっと自分が強くなることを拒否してたからだ」

「そんなことないわっ。なにも知らないくせに勝手なこといわないでっ。マルクはいつだって強くなろうと必死に頑張ってたわよっ」

 マルク本人ではなく、リラが怒りもあらわに否定した。

「本当にそうかな? 俺は短い時間だったけど、マルクが間違った強さを求めてたように見えたけどな。ずっと一緒にいたリラは、マルクが求める強さが、あんなものだと本気で思ってるのか?」

「っ、・・・それはっ」

 リラはなにも言い返せない。なにといわれようとも、ほんとうは判っていたからだ。マルクは魔法から逃げている。自分の魔法からだった。

「強くなるために必要なのは、正しい努力をすることだ。そもそも進むべき方向を間違えてたら、それは正しい強さにはたどり着けないはずだろ」

 黙り込む二人を前に、ライナスはさらに言い募る。

「いままでに誰か、マルクにいってやった奴が一人でもいたか? おまえが頑張るのは剣術じゃない。魔法だってことを。マルクたちの話を聞いて、俺が最初に思ったことは、マルクたちの村はとにかく異常だってことだ。なにせマルクたちは、人間が魔法を使うことを当たり前のことだって考えてるだろ。でもそうじゃない。ふつうの人間は、ほとんどの人が魔法を使えないんだ。俺の姉弟には魔法が使えるやつもいるけど、でも俺は使えない。マルクたちの村では全員が魔法を使えるんだろ。それはそれだけで、とんでもなくすごいことなんだ。なのに、そのせっかくすごいことを最初から否定してるなんて、もったいない以外のなんだっていうんだ」

 マルクとリラは困惑顔で視線を交わし、うつむいた。なにも言い返すことができない。

 リラの膝の上でエナだけが、不思議そうにそれぞれの顔をくるくると見回している。

「・・・僕は、僕の魔法で、ほんとうに強くなることができるんでしょうか?」

 マルクは顔を上げ、思い切って尋ねた。

「そんなことは、俺にいわれても知らん。できる奴は、それこそリラみたいに簡単にできちゃうんだろうし、できない奴は、どんなに頑張ったってできないことはあると思う。でも、今できないことを理由に、今なにもやろうとしない人間が、今後なにかをできるようになるとは、それ以上にまったく思えないけどな。マルクが間違ってたのは魔法に未練を残したまま、それでもそれを引きずりながら、その剣の魔法とよく似た剣術なんてものに、中途半端に手を出そうとしたことなんじゃないのか?」

「魔法を選ぶか、本格的に剣術を始めるか・・・、そのどっちかにしろってことですか?」

 ライナスは、はっきりと頷いた。

「それが正しい努力のあり方だって、少なくとも俺はそう思って話だ」

「僕は、僕の魔法を頑張ってもいいんでしょうか?」

「ほかの誰かになにをいわれても、それを決めていいのは、けっきょく自分だけだ。ついでにいうと、人目を気にして、人に言われたから言われたとおりにするのは見栄で、人からなにを言われても、それでも自分の意志を貫き通すのが誇りってやつだ。そしてマルクは、たとえ強くないと判ってても、自分の魔法に誇りを持ってるはずだろ」

 これもまた、短い付き合いの中で、ライナスが知り得たマルクの一つだ。

「マルクが頑張れる奴だってことは、もうみんな知ってるんだ。だから今度は一度、自分の魔法を頑張って見せてくれ。それでダメだったときは、・・・まあ、そのとき考えればいいさ」

「この男、最後に適当いいやがったわ」

 リラの苦情は事実だが、この場は誰もなにもいわない。


 この夜、ライナスは短い時間の中で、短い夢を見た。それはエキドナが出てくる夢だった。

 彼女は文句とも苦情ともつかない、けれど褒めそやす言葉を一方的に口にした。

「くくくっ。こやつ、わしの言葉を引き合いに出し、なんとも見事にマルクたちを言いくるめよったわ。マルクに魔法を勧めたのも、どうせわしが口出ししたからじゃろう」

 声と同時、真っ暗な空間にエナの姿が、ぽかりと浮かんだ。しかし中身はエキドナだった。

(・・・・・・・・・・・・)

 ライナスは答えようとしたが、どうやら口がないらしく、なにもいえない。

「じゃが、わしはマルクの死を望んでおる。リラの死を望んでおる。それが世界のためじゃ。あの二人の死は、きっと世界の、この世のすべてのためとなろう」

 夢の中でありながら、ライナスの意志ははっきりとしていた。これが夢であると、現実であると理解している。

(・・・・・・・・・・・・)

 言葉を発しようとして、やはり声は出なかった。だが、その意志は伝わったらしい。

「いいや、そのようなことはない。マルクが魔法を使うことで、あ奴の死が早まることなどありはせぬ。じゃが、より強い敵と出会うことで、勝手に死ぬことまでは考慮せぬ」

(・・・・・・・・・・・・)

「ふふっ、そう怒るでない。魔物も魔族も、わしにとっては子も同然じゃ。人間だけ贔屓ひいきするほうが、よほど不自然というものじゃ。そもそも魔力で生きておるから魔族というのじゃ。そして、かつて存在した世界樹は、この星の中心と繋がっておった。魔力はそこから汲み出されておったのじゃ。じゃが倒壊し、魔力は供給されなくなってしもうた。もちろん、完全にゼロになったわけではない。わずかだが今も染み出しておる。この星が死滅しない限り、この世界から魔力が消えてなくなることはない。じゃが、大幅な減少が認められたのも事実。そしてその影響をもっとも受けたのが、ほかでもない魔族というわけじゃ。そしてそれは、わしとて同じこと。なにせ魔力とは、もともと神の力の源じゃからのう」

(・・・・・・・・・・・・っ)

「ふむ? そろそろ目覚めるか。では最後に、特別じゃ。助言しておいてやろう。マルクの力が目覚めるか、あるいは死ぬか。世界はいずれかを求めておる。どちらになるかは、おそらくライナス、お主次第となろう。世界はバランスを求めておる。わしはすべての種の共存を望んでおる。それを忘れるでない・・・・・・」


 目覚めると、そこは森の真っ只中。すでに陽は昇っていた。昨夜遅くに軽く雨が降った影響か、今朝は凍りつくように冷え込んでいる。

 目の前で、小さな焚き火が、ちろちろと燃えていた。

 ライナスは厚手のマントに包まれていたが、軽い重さにマントを持ち上げると、そこにエナが寝ていた。入り込んだわずかな冷気に、エナがもどかしそうに顔をしかめた。

 顔をあげると、マルクとリラが忙しそうに動き回っているのが見えた。

『マルクが力に目覚めるか、あるいは死ぬか。世界はいずれかを求めておる』ーー。

 浮かんだ言葉は、妙な実感をともなって思い出された。

(・・・カーニスの聖剣か)

 それは世界樹の聖剣であり、世界樹の木の実『宝珠』から出来ている。そういったのは、はたして誰だったか。おそらくエキドナだろう。ほかの人間が知っているとは思われない。

(たしか金属じゃなくて、魔力の結晶からできてる、とかいってたっけ? だから魔力そのものだって。形はあって、ないが如し。それが剣の形をしてるとは限らない、とか・・・)

 世界樹で、木の実で、魔力そのもの。剣の形をしているとは限らない。

 ライナスは寝起きの鈍い頭で考えてみた。

(・・・マルクたちの村は、カーニスの聖剣を守り受け継いでいた。・・・その結果逃されたのがマルクだ。・・・でもなんで長男じゃないといけなかったんだろ? そもそもマルクは、その聖剣を持ってないのに・・・あれ? マルクの力が目覚めるって、どういう意味だ? 守ってきたのは聖剣じゃなかったのか?)

 瞬間、ライナスはひらめくなにかを感じた。

(・・・・・・・・・・・・あ、逆だ?)

「ライナスさんっ、朝ごはんの用意ができましたよっ!」

「うわぁっ、びっくりしたァ〜っ!」

 いきなり大きな声を耳元で出され、ライナスは思わず大きな声がでた。びくりっと体を震わせ、その拍子にエナがマントの外にまろびでた。

「・・・うぅ〜ん、さむぃ〜・・・」

 完全には起きなかったらしく、またマントの中にイモムシのようにいずり戻ってくる。

「マルクぅ〜、いきなり大きな声、出さないでくれよなぁ〜・・・」

 ライナスは脱力して苦言を呈した。まだ心臓が、ばくっばくっ激しく脈打っている。

「いえ、何回か声はかけたんですけど、起きているようなのに気づかなかったようなので?」

「ああ〜、そうか・・・。悪い、ちょっと考え事してたから・・・」

「あ、そうなんですか? それで、いったいなにを考えていたんですか?」

「ん? えっとなぁー・・・・・・あれ? なんだっけ? どうやら今ので忘れたみたいだ・・・」

 考えていたことは全部、綺麗サッパリ吹き飛んでしまったみたいだ。なにか重要なことを思いついたような気はするのに、それが一体何だったのか、欠片ほども思い出せない。

「・・・ごはぁん?」

 朝食のいい匂いにつられたか、エナがマントから顔だけ出して、寝ぼけ顔でつぶやく。

「そうだよ、エナちゃん。ご飯、食べられる」

「・・・うん。ごはん、たべるぅ・・・」

 エナはマントから出ようとして、けれど外の寒さにぶるりっと震えた。すぐさまマントの中に帰ってくる。

「はいはい、俺が運べばいいのね」

 仕方なくライナスが、エナを抱えて移動する。

「でもご飯の前に、顔だけ洗っちゃおうな」

「つめたいのイヤぁ〜・・・」

 そうくるのは予想していたので、ライナスは用意していた手ぬぐいを冷たい川の水に浸して軽くしぼり、これを使ってエナの顔を拭いてあげた。

「ちべたぁ〜いっ」


 深い深い山の奥、さらに深く。周囲を濃い森の木々に囲まれながら、なぜかそこだけ草一本生えていない場所があった。土はかさかさに乾き、大きな岩ばかりが目につく。

 そんな場所に、入り口だけでも数百mはあろうかという超巨大洞窟はあった。

 洞窟といっても、それは垂直に伸びた縦穴で、陽の光が差し込む日中であっても、まったく底が見通せない、奈落へと続く洞窟だ。

 穴のふち螺旋らせんの道が、ずっと底へと続いている。

 その壁面に、大小無数の穴が、また口を広げ、さらに横へと続く洞窟が伸びていた。

「この大穴が、村の避難場所なのか? でもこんな場所、地図にも載ってないぞ?」

 縦穴の洞窟の入り口に、無数の足跡が残されている。

「歴史的にも危険な場所なので、きっとその所為だと思います。遠い昔には、ここに世界樹が生えていたと、そう聞いていますから」

 だが足跡は、今度こそ人間のものじゃない。魔物や魔族の足跡だ。

「洞窟の奥に遺跡があって、そこが村の避難場所になってるのよ」

 だが洞窟には、すでに魔物が入り込んでいる。

「えっ? それって世界樹は生えてた場所の下に、さらに遺跡が見つかったってことか?」

「はい。しかも驚くことに、遺跡は世界樹が生えていた時代から、すでに在ったとされているんです。ですから遺跡の建物は全部、世界樹があったその下に建てられたことになるんです」

「その遺跡に住んでた人たちが、ここの世界樹を倒壊させたってことか?」

 エオポルドの手綱を引いて、自身は徒歩であるライナスは鹿上かじょうのエナを見つめた。エナは不思議そうな目をするだけで、なにもいわない。今のエナは、エキドナじゃない。

「さあ、どうでしょう。ただ僕たちは、当時存在した魔王が倒壊させたと、そう聞いています。ですが、実際のところは、なんともいえませんね」

 エキドナの言葉が事実なら、世界樹がもたらす魔力を独占しようと考えたのかもしれない。

 でも、できなかった。

 伝承が事実なら、のちに現れた『七聖剣の勇者』の活躍によって、阻止されたからだ。

 このうちの一本がカーニスの聖剣であり、マルクたちが代々守ってきた『世界樹の聖剣』だった。

「でも、それは全部、大昔のことでしょ。いまは関係ないわ」

 魔物の侵入を確認したからだろう。リラは村のみんなが心配なのだ。

「そんなことより、急ぐわよ」

 先を急ぐリラが我先に、大穴へと降りていく。

「あっ。待ってよ、リラぁ!」

 マルクがあとを追い、慌てて駆けていった。

 さらにその後ろから、エオポルドの手綱を引いて、ライナスがエナとともに、ゆっくりと歩いていく。

「リラは素直じゃないな。マルクが村に帰りたいっていったときは反対したくせに、でも本当は、自分のほうが一刻も早く村に帰りたかったんだろうな」

 期待していた援軍は得られず、ついて来たのはお節介な男が一人と、足手まといにしかならない少女が一人だけ。だが実は、そんな少女は創造の神・・・かもしれない、エキドナだった。


 天然の迷路である世界樹の根の通路を降りながら、リラが歩調をゆるめて近づいてくる。

「・・・エナちゃん連れてきて、ほんとうによかったの?」

 小声で、ボソリとささやいた。

「そうはいっても、置いていくわけにもいかないだろ。それこそ勝手に動き回って、かえって危ないかもしれないからな」

 世界樹の根の迷宮は、それこそ数万からなる根分かれの先に続いていた。リラたちにしても遺跡までの道以外は、とんと知らないらしい。もしここで迷子にでもなれば、生きて帰ることは絶望的なまでに困難となる。

「それは、そうかも知れないけど・・・」

「ああーっ」

 先を歩いていたマルクの驚く声が、リラの声に重なった。

「どうかしたのか、マルク?」

 少し先で立ち尽くしていたマルクに追いつくと、彼は目の前の壁を指差していった。

「・・・道が、塞がっているんです」

 大穴を歩き始めて1kmあまり、200mほど降りてきた地点のことだった。

「道っていうか、完全に壁だぞ、ここ・・・って、わけでもなさそうだな」

 壁にふれると、さらさら、ぱさぱさした手触りがした。あらためて壁面上部を見やる。昨夜降った雨の影響でわかりづらいが、ほかは白ぽい土の色に、そこだけ薄っすら色がついている。

「どうやら最近になって、ここの壁を落としたみたいだな・・・」

 雨風にさらされた形跡に乏しい、固められていない土の様子が、そこだけ浮かび上がっていた。

「村のみんながやったのかしら?」

「たぶん、状況的に考えれば・・・いや、違うか? それだと逆に不自然な気がするな」

「どう不自然なんですか?」とマルクが訊いた。

「よそ者の俺は、遺跡までの道を知らないからだ。知ってるのはマルクたち村の人間だけなんだろ。だったら、そんなことをする意味がない。それどころかマルクたちが王都から援軍を連れてきても、遺跡までたどり着くことができなくなる。少なくとも、だいぶ遅れるだろ」

 最悪、天井を落としたのはやはり村人で、彼らは最初から、最後まで籠城ろうじょうして戦い、マルクとリラが援軍を連れて帰ってくることを望んでいなかったことまで考えられたが、この場では二人には、ライナスはその可能性を伝えなかった。

「ほかに道はないのか?」

 ふさがる壁を叩いてみたが、当然薄くない。ここを掘るのは、相当に骨が折れそうだ。

「あるかもしれませんけど、少なくとも僕は知りません」

 マルクはリラを見たが、彼女もまた首を振る。どうやら知らないらしい。

「それじゃあ、この無数の穴の中から、正解の一つを見つけないといけないってことかよっ」

 直径数百m、深さ測定不能に空いた穴。それこそ数万をゆうに超える穴の中から、さらに無数に枝分かれした洞窟の先にある遺跡を見つける。

「そんなのどう考えたって不可能だろっ。それならまだ、天井が落ちたここの洞窟を掘り返したほうが、よっぽど現実的ってもんだぞっ」

 絶望的な声を絞り出し、ライナスは喚き散らした。

「なら、掘ればいいだけでしょ」

 だが、リラは諦めない。虚空に召喚する無数のナイフを、ライナスがいったとおり崩れた壁に向かって撃ち始めた。放ち続ける。

 大雨の如き無数のナイフが土壁を穿うがち、周囲に盛大な砂塵さじんを巻き上げた。

「ちょっと待てちょっと待てちょっと待てぇ! それじゃあ壁が崩れているだけだからァ! ちゃんとまわりの土を固めながらやらないと、上からもどんどん崩れてくるだけだからァ〜っ!」

 ただでさえ最近、崩されてもろくなっていた壁は、リラが放ったナイフの攻撃を受けて、すぐさま土砂が崩れてきて埋められてしまった。

 リラはかなりの力を消費したにもかかわらず、それに見合わない結果だけが残された。

「どうしてもここを掘るっていうなら、ここは急がば回れだ」

 ライナスは荷物から取り出すスコップを肩に担ぎ、崩れた洞窟の壁、その硬い壁と脆い壁の境目を見極め、せっせと掘り始めた。

「どれだけ時間がかかっても、確実に掘り進めていくしかないんだろうな」

 掘り進めながらライナスは、またしても不快な思いに苛まれた。力仕事に嫌気がさす。硬い壁と脆い壁、その違いがほとんど判らなかった。どちらも簡単に掘れてしまう。

 ライナスが掘った穴は、後ろでマルクが土を出し、壁を固めてくれた。リラは敵を警戒し、見張りを兼ねて外に待機している。エナは外に出された土を、せっせと山にして遊んでいた。それに飽きたら今度は、エオポルドの角にぶら下がって遊んでいる。

 力だけでなく体力も強化されていたライナスは、その日だけで数十mを掘り進めた。マルクたち二人を大いにも驚かせる。だが本当は、夜通し掘ることも可能だったかもしれない。

 これを誤魔化すために休んだ夜が、ひどく滑稽こっけいに思えた。・・・化け物が、人に紛れて生きる苦悩が思いやられた。

 翌日は、日が昇ると同時に作業を再開させた。途中でリラが代わろうとしたが、力がなくてまったく掘れなかった。マルクも似たり寄ったりで、多少マシなくらいだ。

「ライナスさんって、力が強いんですね」

 壁の土を固めながら、心の底から意外そうにマルクがいった。

「たしか、旅芸人をしていたんですよね。芸人の人って、皆さんそうなんですか?」

「力よりも、使い方の問題かもしれないな。演目のなかには片手で倒立するとか、ふつうにあるからな。それでいて笑顔を絶やさないのは基本中の基本だな。演者が辛そうな顔で演技してたら、それだけで見てる人を楽しませるどころか、逆に不安な気持ちにさせるからな」

「ああー、なるほど。そういうものなんですね」

 マルクは納得してくれたが、ライナスは誤魔化しただけだった。倒立は力じゃない、バランスの問題だ。人が両足で立つことと、じつはそんなに変わらない。ふつうに1万歩歩ける人が、屈伸を百回するのが困難なのと同じ理屈だ。あとは芸人話で、話の主軸をすげ替えた。

 ラップタウンでのトランプ勝負しかり、簡単な話術もまた芸人技能の一つである。

 夕方になり、昨日と合わせて100mほど掘り進めた頃。

「・・・掘る方向を間違えてる、とかはないよな」

 ライナスは思い切ってマルクに訊いた。

「はい。世界樹の洞窟は、その根が伸びた先なので、最初は真っすぐ伸びているだけになります。そりゃあ途中からは曲がりくねってる所もありますけど、最初のうちは基本的に真っ直ぐです。間違いようはないはず・・・なんですけど。さすがにこれは、ちょっと妙ですね?」

 マルクも疑問に思っていたらしく、いって首を傾げた。さすがに崩落が長すぎる。

「進めば進むほど土が固くなっていくのは理解できるんだけど・・・、なんていえばいいんだろ、それならいっそ土じゃなくて岩にでも行き当たったほうが、まだ判るっていうか・・・」

 そういった折も折、ガキンっという硬い音がして、スコップの先が硬い岩を叩いた。何度かスコップで叩いてみるが、びくともしない。どうやら本当に岩に行き当たったみたいだ。

 仕方なく岩を避け、ライナスは掘る進路を右に変えた。するとまた、硬い岩に行き当たる。

 同じことを何度か繰り返したあと、ライナスは落胆し、「はあ〜っ」と肩を落とした。

 背後でマルクも、同じような顔をしている。

 ライナスが踵を返すと、マルクはなにも訊かずに出口に向かって歩き始めた。

「リラぁ〜、こうたぁ〜い」

 外に出るなりそう言って、ライナスも出てしまうと、代わってリラが穴に入っていく。

「思いっきりいって、いいのよね?」

「「お好きにどうぞ〜」」という返事は、二人が揃って手を振る動作まで一緒だった。

 しばらくして、豪雨の如き射出音とともに、

「ピギャアアアアアアアアアアアアアア〜ッ!」

 何者かの断末魔が聞こえた。

「・・・もういいわよぉ〜ぉ〜」

 穴の奥から、妙にくぐもったように反響する、そんなリラの声が返ってきた。

 ライナスとマルクは顔を見合わせ、降ろしていた荷物をまとてめ、再度穴の奥へと突入する。

「ああぁ〜んっ」

 背後で聞こえた、なんとももどかしそうなエナの声に振り向くと、エオポルドの大きく凛々りりしい立派な角が、穴の入り口につかえていた。

「あ、しまった。そういえば俺、こいつのこと全然考えてなかった・・・」

 ライナスは人が通れる大きさにしか穴を掘らなかった。鹿は強引に穴に入ろうとして、何度も角をぶつけている。「いや、絶対に無理だろ」一度で判れと、そういってやりたい。

 だがエオポルドはりず、ぐいぐい、ぐりぐり、角を押し付け続け、そしてついには。

「「だああああぁぁぁぁ〜〜〜〜っ!」」

 鹿の角が、その付け根からポキリと折れてしまった。

 だが鹿は「やれやれ、やっとかー」といわんばかりに、ぶるりっと身震いすると、ため息一つ。何事もなかった様子で進み出し、ライナスとマルクは鹿に押され、ぐいぐい穴の奥へと追いやられた。

 行き止まりだったはずの穴は、しかし進んでみると、いとも簡単に奥に抜けて広間にでた。・・・いや、洞窟に入ったのだ。

「いったいなにを叫んでるのよ。敵に見つかったらどうするつもり?」

 苦情をもらしたリラは、右手にオレンジ色に燃える金属箱カンテラを掲げていた。そして最後に入ってきたエナとエオポルドを目にするなり、状況を理解して唖然あぜんとする。

「・・・なんか、その子、妙にスッキリしちゃってない?」

 カンテラの明かりに照らされて、彼女のかたわらには短い茶色の体毛を生やした巨大モグラの魔物が転がっていた。その手が何故か、甲殻類を思わせるスコップのような造りをしている。

「なんだ、こいつ? 体はモグラなのに、手の部分がみたいになってるぞ?」

「前にいったでしょ。動物と虫が混ざったみたいな奴がいるって」

「あーっ、こいつがそうなのかっ?」

「・・・見て。しかもこいつ、スコップの手の中に人間と同じ手が生えてるの」

 近づけた明かりの先で、たしかに人間と同じ手がくっついているのが確認できる。

「この手で物を掴むんでしょうね」

 しかもその手が5個、まるで花びらのように、ぐるりと展開していた。

「うげぇ・・・。なんていうか、生理的に気持ち悪いな」

 動物や虫の体に人間の要素が一つ加わるだけで、ここまでおぞましくも吐き気をもよおすようになるとは思わなかった。まさに化け物だ。

「ライナスさん、この角どうしましょう?」

 一度外に出て回収してきたらしく、マルクはエオポルドの角を所在なく抱えていた。

 大きく広げた枝のように湾曲わんきょくた角は、これが単体になっても、それは立派なものだった。

「血とかは付いていないみたいですから、ちょうどそういう時期だったのかもしれませんね。鹿の角は、だいたい一年ほどで生えかわるそうですから」

「あぁ〜んっ、ダメぇ〜っ、それエナのぉ〜っ」

 頭部がスッキリしてしまったエオポルドの背中の上で、エナが必死に所有権を主張する。

「あぁ〜、たしか薬の材料になるって聞いたことがあるから、あとで売ろう」

「現実的な意見ね」

 半笑いで、あきれ声のリラ。

「売っちゃダメぇ〜っ。だからそれっ、エナのなのぉ〜っ」

「心配しなくても大丈夫だぞ、エナちゃん。エオポルドの角は、またそのうち生えてくるから。鹿にとっての角っていうのは、人間でいえば爪とか髪の毛みたいなものだから」

「ん? そうなの? じゃあ、まあいいや、エナそれいらない」

「えっ、それでいいのエナちゃんっ」

 リラは驚きの声を上げたが、エナにとっては通常運転だ。エオポルドの一部と思っていたときは大事だが、でも抜け落ちた毛や剥がれてしまったひづめはどうでもよかった。

「なんにしても、これから先もエオポルドが一緒なのは、正直助かるよ。荷物もそうだけど、エナちゃんを任せておけるからな」

 そういって、さっそくエオポルドの背中に荷物を預けようとしたところ、

「あっ、待ってくださいっ、ライナスさんっ」

 マルクに呼び止められた。振り向くと、すでにリラが夕食の準備を始めている。

「これから動いても、遺跡に着くのは夜中になってしまいますから、今日のところは休みましょう。動くのは明日になってからにしませんか」

 本当は、すぐにでも遺跡に向かいたいはずなのに、ライナスやエナを巻き込んでいることを気にしているのかもしれない。昨日からずっと穴を掘り続けだったライナスをねぎらう意味も、あるのだろう。

「そう、だな。ここに魔物が入り込んでるのは確実になったわけだし、一度状況を整理しておいたほうがいいかもしれないな」

「それなんですけど、あのモグラの魔物は一体何がしたかったんでしょうね」

 おけらモグラを見やり、マルクがいった。

「さあな。多分だけど、俺たちというか、侵入者の邪魔をするのが役目だったんじゃないか」

 洞窟の入口、その端の所だけが(ライナスたちが通ってきた穴だ)妙にこんもりと盛り上がっていた。その脇には細かく砕かれた石が無数に転がっている。石には鋭い刃物で切りつけた傷が、リラがナイフを放った傷がついていた。

「え? 邪魔って、もしかしてアレですか? 洞窟脇を土で盛って固めているだけの・・・」

 マルクは人数分のパンを取り出しながら、入口の脇を振り返った。洞窟脇の盛り土は、ざっと見ただけでも数十mは続いている。

「そうだな。文字通り、侵入者の邪魔をしてたんだろうな」

「だから最後は、ライナスさんがいった、岩に行き当たったほうがまだ判るって言葉を鵜呑みにして・・・」

「だな。いわれたとおりに岩を置いてみたんだろうな。でもおかげで俺たちは、こいつの存在に気づくことができたってわけだ」

「どっちにしろ、あんまり知能は高くなかったみたいね」

 鍋のスープを椀にそそぎながら、リラがいった。

「だろうな。俺がこいつなら、穴を掘ってたところを生き埋めにしてるだろうからな」

 いいながら、ライナスは盛大に息を吐く。

「・・・でもこいつ、やってることはセコかったけど、わかってみれば無茶苦茶ムカつくよな。こいつがいなければ、昨日のうちにも洞窟に入れてたかもしれなかったんだからな」

「コレならまだ、エオポルドのほうが賢いかもしれないわね」

「でもあいつ、たまにすっげぇー鹿だけどな」

「なによ、それは?」

 むしろ馬鹿にする調子で、リラは鼻で笑った。


 結論からいって、ライナスたちは夕食の後、さっそく動き出さざるを得なかった。

 見つけてしまったからだ。洞窟を少し奥に進んだ先で、魔物たちとの戦闘の痕跡を。

 辺りには一面、おびただしいまでの血溜まりの痕跡が見つかる。

 当然血は乾いていたが、かなり広範囲にわたって大地はこれを吸っていた。

 魔物と魔族、そして人間の血だった。

 これを見つけたのはライナスで、彼は匂いでこれに気づいた。

 急いでマルクとリラに知らせたところ、二人は我を忘れた様子で走り出そうとして、

「焦らず急ごうっ」そういったライナスに、いさめられた。

 だがライナスは、あえて指摘しなかった。

 戦闘の痕跡、その血の跡はあるが、そこに双方の死体だけが無かったことを。

(それに、あのおけらモグラにくっついてた人間の手だ・・・なんかイヤな予感がする)

 焦りより、苛立ちより、ライナスはなんともいえず不安と恐怖を新たにした。

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