第4話 諸元の魔王

 鹿に揺られて、ゆるゆると街道を南に進む。

 グラウスヴァーナ王国首都にして壊滅都市グラウスを出立したライナスとエナの二人は、世話になったスレッドとフォルフェア夫妻に別れを告げて、新たな旅に出た。

 別れの際、二人には心ばかりの食料を分け与えた。相手の心づくしに対し、お金で解決するのは下品だし、今は貨幣よりも現物のほうが価値があるという側面もある。

 これは、あとでエナがいない場所で聞いた話だが、じつは鹿を肉に変えてしまおうとした連中がいたようなのだ。それも多数が。そのときはスレッドが止めてくれたらしい。ライナスも状況が状況だけに理解しないではなかったが、この鹿に知性のようなものを感じていて躊躇われた。そもそも鹿は、エナの友達でもある。

「シカじゃないもんっ」

 ライナスの膝の間で顔を上げ、そういったエナの顔は真剣そのもの。

「この子、シカじゃなくてエオポルドだもんっ」

 どうやらそれが、この鹿の名前らしい。

「またずいぶんと偉そうな名前をつけたもんだな」

 ライナスは苦笑したが、「鹿のエオポルドか」口にしてみると、意外と違和感はなかった。

 グラウスヴァーナは南北を連峰れんぽうの山々に挟まれた、また東西に国と国とを長く繋ぐ大陸行路を保持し、この行路がもたらす貿易によって栄えていた・・・かつては。

「ほら、エナちゃん。あそこに見える山が、南の連峰でパカラン山脈ってやつだ。山の中腹から山頂にかけてが白く見えるだろ、あれは雪が積もってるからなんだよ」

「ええーっ、南に行くのに寒くなるのぉ?」

「おっ、エナちゃんは物知りだな。そうだよ、この国では南に行くほど寒くなるんだ。でも、このパカランの山を越えた途端、今度は逆に暑くなる。たしか山を越えた反対側は、いきなり砂岩ばかりの灼熱地帯になってるはずだよ」

「サバク?」

「そうだね、砂漠だね。でも俺たちは山は越えないよ。用があるのはその手前、パカラン山脈の西側、カーニスって町だから」

 カーニスは以前、この辺り一帯を広く治める大国だった。だがそれも昔の話だ。今となっては見る影もない。小国どころか町でしかなかった。

 パカラン山脈には、かつて世界に七本あって、この世界に魔力を供給していたとうたわれる巨大樹(街が丸々収まる巨大な傘を持つ)ーー宝樹『世界樹』ーーその一本が存在した。

 そしてこの地には、世界樹から生まれた聖剣、その一振りが眠っていると噂された・・・時期がある。けれど実在しなかった。あったのは噂だけ。だが、だからこそ疑問は残る。そんな噂は、いったいどこから出てきたのか。

「そもそも七聖剣っていうのが、その倒壊した世界樹から出てきたっていわれてるんだ。俺は旅芸人をしてた関係もあって、これでもいろんな土地の伝承には、ちょっと詳しいんだよね」

 少し得意になって、ライナスはいう。こう見えて、昔は勉強の成績はよかったのだ。

「かー、にす・・・? その町にもいったことがあるの?」

「いや、残念ながらないな。首都のグラウスが近いからね。やっぱりそっちのほうがメインだったよ。仕事だからね、こればっかりは仕方ないよ」

 この日は、太陽が中天にのぼる前に昼食の準備に取りかかり、夕方を前に宿場町についた。

一定区間の町ラップタウン』という宿場で、この国の街道には同じ名前の宿場が多数あり、それぞれを番号をつけて呼んでいた。宿場の入り口にアーチ状の大看板が掲げられ、『第7ラップタウン』と書いてある。

 第7は、グラウスよりも遥かに小規模の町でありながら、それこそ百分の一にも満たない町だったが、今はグラウス以上の活気に満ちていた。

 それだけで、この町が魔物の侵略を受けなかった事実を知るには充分だ。

 ライナスはあの日以来、ようやく人心地ついた思いがする。・・・それだけに驚いた。

「えっ? カーニスっ、滅ぼされちゃったんですかっ」

 宿を探して、店の女将さんと世間話を始めた途端、聞かされた話がそれだった。

 素っ頓狂な声を上げたライナスに、一階は兼食堂になっている客たちの視線が集まる。

「そうなのよ。わたしもビックリしちゃってねえ。それに王都のほうでも大変だったっていうじゃない。だからわたしも怖くてねえ」

 女将さんはライナスの耳元に口を近づけた。

「・・・不謹慎ふきんしんかもしれないけど、ここだけは無事で、本当によかったって思ってるのよ」

 どうやら一足遅かった。あるいは魔王もまた、最初からそのつもりだったのかもしれない。語り継がれる伝承や伝説には、早めに対処しておく必要があると。

 だが逆をいえば、それこそ魔王でさえ、過去の伝承や伝説を恐れている表れではないか。

(もしかして実在するのか、聖剣って?)

 そう思いかけて、しかしライナスは思い出す。

(いや、そうだ、そうだった。実在するんだ、聖剣って・・・)

 あの日、あの時、あの場所で、少年勇者はいっていた。

『どうせなら、僕の聖剣を持ってきてほしかったね』と。

 だが今度は、そもそも聖剣とはなにか? それが判らなかった。

(伝承いわく、所持者の身体能力を限界を超えて引き出すとか、不死身になるとか、すべての魔法力を切り裂くとか・・・こんなことなら、もっと真面目に勉強しとけばよかったよ)

 生まれて初めて、そう思った。勉強なんて、将来生きていく上で役に立たないことのほうが多いなんて、いったい誰がいった言葉だよ。本気で人の所為せいにしたくなる。

「・・・・・・っ!」

 束の間、思い出された親姉弟たちの顔を、ライナスは頭を振って追い払う。

 ライナスの故郷は、ここから遠い東国、女王国家カルヴァレロ王国という国だった。

『国は人のために存在し、人は国のために存在するにあらず』これを基本理念とし、代々の女王は、世にあるすべてのけがれを払うべく、この世に遣わされた神の使徒といわれていた。

『国汚れるとき人汚れ、人汚れるとき国滅ぶ』ゆえに、国民の代表にして象徴である女王は、常に正しくあらねばならないと信じられていた。

 そして、何より強かった。強国だ。正義を自認する上で一番に求められる要素といえば、それはやはり力である。

 品行方正ひんこうほせいにして清廉潔白せいれんけっぱく、正道を行く王道の国。

 それが近隣諸国からも聞こえてくる、この国の正当な評価であった。

 そんな国で、ライナスの実家は代々騎士の地位を与えられていたが、国の理念に反し、ライナスの実家は少々窮屈きゅうくつだった。あれをやれ、これをやれ、どうしてほかの姉弟のようにできないか。これを当たり前のように強要し、繰り返した。それこそ毎日のように。

 だからだろう。ライナスは憧れた。建国祭の折に目にした、華々しくも晴れやかな旅芸人たちの姿に・・・ではなく、そんな彼らを目にして笑顔になっていく人々の姿に、だ。

 姉弟きょうだいを苦しめることしか出来ない両親きしよりも、人を笑顔にすることのできる芸人に強いあこがれを抱いたのは、今でも当然の成り行きだったと、ライナスはそう信じている。

「行くとこ、なくなっちゃったの?」

 二階の部屋に入るなり、エナがつぶやいた。

「うぅ〜〜〜ん・・・、どうも、そんな感じみたいだねえ・・・」

 目をつむって腕を組み、鼻から長く息を吐く。ライナスは板張りの天井をあおいで考えた。

「これからどうするの、お兄ちゃん?」

「うぅ〜ん・・・、いや、やっぱり行ってみよう、カーニスにっ。もともと俺に聖剣が与えられるわけじゃないし、魔王がどういうつもりで聖剣の伝説が残る町を襲ったのか、それを知っておくだけでも、きっと意味はあると思うんだ」

 そんな町の中で、とくに被害が大きな所でも見つかれば、その場所に本当に聖剣があった可能性が、ほんの少しでも高くなるような、そんな気がした。・・・あくまで、気がするだけだが。

「でもお兄ちゃん、お兄ちゃんはその聖剣?を探してるんじゃなくて、その聖剣?を使ってた勇者さまの子供を探してるんじゃなかったの?」

「そうだけど、それはもういいんだ」

「ええーっ、なんでえーっ」

 大げさなくらい、エナが驚く。

「なんでって。聖剣の勇者の子孫がほんとうにカーニスにいたとしたら、その人は町を襲った魔物に、すでに殺されちゃったってことになるはずだろ。だったらその人は、そもそも聖剣を使えないか、そんなに強くなかったってことになるからな」

「ああー、そっかー」

 今度は一転、ライナスが呆れるくらい、エナはあっさりと納得する。

(なんだろうな? どこか妙な会話だった気がするんだけど・・・)

 ライナスの中で最初からあった、エナに対する奇妙な違和感を、殊更ことさらに強く感じた。

 だが、それが一体どういう種類のものか、今の段階ではまだ、うまく言葉にするには至らなかった。なにかが引っかかっていた。そういえるに留まっている。

「ま、今はとりあえずご飯にしようか、エナちゃん。俺はもう、お腹が減ってぺこぺこだよ」

「エナもご飯食べるぅーっ、お腹ペコペコなのーっ」

 我先に駆け出したエナを横目に、ライナスは降ろしたばかりの荷物を漁る。

「たしか今は、食材の持ち込みは大歓迎とかいってたからな。今日森で一緒に採った山菜や茸を使って、女将さんに料理してもらおうな」

 ドアの所で振り返り、エナは枠組みを掴んで声を上げた。

「エナもキノコいっぱい採ったーっ」

 だがエナが採った茸は、ほとんどが毒茸だった。が、これはこれで使い道があるので、ありがたくもらっておく。単純に毒の物から、使いようによっては薬になる物もある。

「おや、鹿のお客さんじゃないか」

 顔を見せるなり、喜色満面きしょくまんめんの女将さんに迎えられた。

「またずいぶん食材を持ち込んだものだねえ。それで、あの鹿は今晩の食材にもらってもいいのかい?」

「鹿は食材に入りませんっ」

「エオポルドはお肉じゃないもんっ」

 二人は即座に、否定する声を張り上げた。

 窓の外は、もうとっぷりと暮れていたが、道を行く人々の流れは途切れない。あちこちの店や宿からは歌声や笑い声が響き、町は本当に久方ぶりと思える賑わいを見せていた。

 輪染みのついた古いテーブルの上に酒瓶が並び、サイコロが転がりカードが開く。酔っ払った客がほかの客に絡み、これを振り払おうとした手が、今度は別の客の顔にあたったといって殴り合いの喧嘩をおっぱじめた。

 この日の夜は、ライナスもハメを外して楽しんだ。ほかでもない、芸人としての本懐ほんかいを。

「あなたが引いたカードは、これですね」

 ライナスはカードマジックを披露し、相手が引いたカードを当てて見せる。

「いや、違うぞ。それじゃない」

 二度ほど当てたあと、わざと予想を外し、

「あれ? おかしいな? それじゃあ、あなたが引いたカードはどれですか?」

 手持ちのカードを開いて見せた。

「俺が引いたカードは、ダイヤの4だよ。・・・あれ、おかしいな? ダイヤの4がどこにもないぞ?」

 どこにも該当するカードが存在しないことを確認させて、

「あっ。もう、やだなぁ〜。そういう冗談はやめてくださいよぉ〜」

 いって、相手の胸ポケットから目当てのカードが出てくるという、古典芸を披露した。

 そうやって腕前を見せつけたあと、ライナスはイカサマを前提とするカードゲームを持ちかけた。もちろん、お金は賭けない。ほしいのは情報だけだ。

「途中で俺が使ってるトリックに気づいたら、いつでもいってください。もし当たっていれば、その時点で俺の負けを認めます。そしたら俺が、この場にいる皆さんに一杯おごりますよ」

 結果をいえば、ライナスは最後、わざと技をしくじったフリをして、酒を奢って終わりとした。情報のほうは、ゲームを通じて世間話を交えながら、すでに収集を終えている。

 まず、ライナスは自分たちが首都グラウスから来たことを話した。ついでカーニスの話に持っていく。そのうえで、かつて耳にした聖剣について質問をした。

「カーニスの聖剣? そんなものあるわけ無いだろう」

「ま、こんな時期だからな。そういったものに頼りたいって気持ちは、判らなくもないけどな」

「でも、昔はあったんじゃないのか? カーニス王朝時代とかにさ?」

「たしか聖剣って、持ち主を選ぶんだろ? そいつが持ってちゃったんじゃないのか?」

「それってアレだろ? カーニス王の子孫が実はまだ生きていて、王家の証として今も隠し持ってるとか、ってやつだろ?」

 どれもこれも否定的であり、あっても眉唾まゆつばの域を出ないものばかり。

 でも一件だけ、ほかとは毛色の違う話を聞くことが出来た。

「世界樹の聖剣といえば、世界樹の木の実『宝珠』から作られた代物で、正確にいえば金属ではない。魔力の結晶からできておる。いってみれば魔力そのものじゃな。ゆえに形はあってないがごとしじゃ。じゃから聖剣といっても、これが剣の形をしておるとは限らんよ」

「あ、聖剣って、そういうものなんですか?」

 ライナスは知らなかった。いや、それ以前に、どんな本にも書かれていない情報だ。

 振り返ると、そこには誰もいなかった。いや正確には、いるには居たが、それはテーブルに寝かされたエナが大の字になって「くぅー、くぅー」寝息を立てているだけだった。

 直後、ライナスはゲームの続きを急かされ、これに慌てた素振りをして、隠し持っていた別組の同じ模様のカードを盛大にばらまき、お開きとした。


 森の静寂せいじゃくを突き破り、ライナスはエナを抱えて走っていた。

 これに並走するのは、背中に荷物を満載させた鹿のエオポルドだ。

(なんでっ、なんでこんな事になった?)

 ときおり視線を背後に向けて、ライナスはわけも判らずひた走る。

(エナちゃんは、この子はいったい何をしたんだっ?)

 胸に抱えたエナは、ぐったりした様子で眠っている。・・・例の力を使った反動だった。

「きたっ」

 背後から、これ以上ないくらい派手な音を立てながら、焦げ茶色の体毛を生やした腕の長い猿に似た、けれどトロルにも似た青い肌をする怪物が、高く奇声を発しながら追いかけてくる。

 しかもその身軽さといったら、以前戦ったライオンヘッドの比ではない。圧倒的に素早く、小回りが利いて、おまけに暴風のような暴力を振るってきた。

 事の起こりは、ライナスとエナが当面の目的地、カーニスの町にたどり着いたときに端を発した。

 やはり町は、魔物たちの襲撃を受けて、すでに滅ぼされた後だった。

「・・・・・・・・・」

 ライナスは言葉も出ない。カーニスの荒廃ぶりは、首都グラウス以上の有り様だった。徹底的に破壊した。建物の骨組みでさえ、彼の膝上のものは見当たらなかった。

 そんな更地のような有り様だったから、むしろ焼け焦げた死体のほうが目につく。

 あまり子供の目には触れさせないよう、ライナスはエナを自分のほうに向かせる形で座らせた。マントの中でギュッとしがみつき、エナは嫌がったりしなかった。

 とはいえ、周囲からはくすぶりの匂いは消え失せ、えた腐敗臭だけが漂ってくる。

「なんか、くしゃい・・・」

 これ以上ないくらい顔をしかめ、エナはいった。ライナスは無言で取り出すハンカチを、エナの口に覆ってやる。たいした意味はなかったが、ないよりはマシだった。

 そもそも腐敗臭の元凶を考えれば、すぐにでも立ち去るのが正解のはずだ。

(ここは、体にも心にも悪い・・・)

 徹底的に破壊した。その事実だけでも確認できたのだから、今日のところは良しとしよう。

 やはり伝承や伝説の中には、魔王にとって都合の悪いものがあるのかもしれない。

 そう思い、ライナスが手綱を引いて鹿を旋回せんかいさせたところ、

「誰かいるっ」

 突然エナが叫んだ。

 ライナスは一瞬下を見て、

「誰かって、どこっ」

 ついで周囲を見回した。けれどそれらしい人影は、どこにも見当たらない。

 ライナスの膝で、エナがくるりと反転して前を向いた。

「あっちぃ!」

 小さな手が指差すほうを、ライナスは見据えた。エナが指差す先は道なりではなく、家の敷地を突っ切った向こう側だった。その家の奥に、申し訳程度に残された塀の一部が、そこだけ綺麗な色をして建っている。・・・だが、やはり人影は見当たらない。

 半信半疑ながら、ライナスは再三の注意を周囲に向けたまま、鹿を歩かせた。

 最悪、人ではなく魔物が残っていた。なんて事態だけは避けたかった。

 ごくりっ。唾を飲み込んで、ライナスはゆっくりと鹿を進めた。塀の向こうに顔を出す。

「っ」

 そこに、ほんとうに人がいた。人間の形を保ったまま、人間の色を残したままで。その人は男だった。わずかに残された塀に背中を預け、どこを見ているともつかない目をして座っている。

 見た目はライナスと同じくらいの年齢か、全身乾いた血まみれで、顔には精気がなく、その濁った魚の眼は焦点を結んでいなかったが、その人はまだ間違いなく生きていた。

 ライナスは鹿を飛び降りた。慌てて男にすがりつく。

「おいっ、あんたっ、大丈夫かっ、絶対に死ぬなっ」

 急いで口に水を持っていくが、もはや飲み込む力を残していなかった。すべて口の端から、だらしなくこぼれていく。

 このままでは男が死んでしまう。けれど魔物の襲撃から二週間あまり、それだけの期間を生き延びていたのだから、今更死ぬなんて認めたくなかった。

 なのに、ライナスにはどうすることもできない。それでも万に一つかもしれないが、この男を救える方法があるかもしれないと気づく。

「エナちゃんっ!」

 少女の名を呼ぶ。

「へ?」

 エナは、きょとんとする顔を向け、

「うん、わかった。わたしがやってみればいいんだよね?」

 ついで頷く。あるいはライナスの期待に応えたいだけの一心で。

 エナは鹿から降りようとしてもたつき、途中からライナスに抱えられて鹿から降りた。

 ライナスは、エナのすることを天に祈る気持ちで見ていることしかできない。

「それじゃあ、やってみるけど・・・でも上手くできなくても、怒らないでね」

 エナは恐恐こわごわと、ライナスのほうを何度も振り返って見つめた。エナは目に見えて怯えていた。以前のことが、ルルリアの町のことがあったからだろう。

「大丈夫だよ、エナちゃん。上手くできなかったからって、俺は絶対に怒ったりしないから」

 できる限り優しく、諭すように言葉を選ぶ。

「それに、たとえ上手くできなかったとしても、それはエナちゃんの所為じゃない。だってこの人は、俺じゃあ絶対に助けることができないんだ。助けられるとしたら、それはエナちゃんだけなんだ。だから、そんなエナちゃんに助けることができなかったら、この人はどのみち誰にも助けることができなかったってことなんだ。わかるね、エナちゃん。今この場で、この人を助けられるとしたら、それはエナちゃんだけなんだ」

 自分でもくどい言い回しと理解しつつ、それでもほかに言いようがなかった。

 エナにしか助けられない。エナだけが、この人を救うことができる。それがすべてだ。

 子供でも緊張するらしく、エナは大きく深呼吸を繰り返す。

「それじゃあ、やってみるね、お兄ちゃんっ」

 やがて決心がついたらしく、エナはいよいよ男に向かって両手をかざした。

 その手から淡い光が輝きを放つーーそんな光景を想像していたライナスの予想に反し、男の変化は急激だった。体のあちこちが凸凹でこぼこと、まるで体内で巨大な蛇かミミズがのたくっているかのように奇妙な起伏を繰り返す。そうして不気味に大きく、徐々に巨大に膨らみ始めた。さらに全身にびっしりと焦げ茶色の体毛が生え、一方で肌が青く変色していく。

 そうして男は腕の長い猿のような、またトロルのような怪物になった。

「キャアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 猿のトロルが絶叫する。それは奇声でありながら、あたかも産声うぶごえでもあるかのように。

「・・・・・・・・・・・・」

 いったいなにが起こったのか、ライナスは呆然と猿のようなトロルを見つめた。

「おにいちゃんっ!」

 振り返ったエナの声に、ライナスはぶん殴られたように正気を取り戻す。

「エナちゃんっ」

 慌ててエナを抱えあげようと両手を伸ばし、

「見てぇっ、元気になったよぉっ!」

 満面の笑顔で得意そうにいったエナの表情を目の当たりにし、

「      」

 ライナスの思考が白くなる。頭髪を一度にすべて引っ張られたように総毛立つ。

(・・・いったい、・・・なにを言ってるんだ、・・・この子は?)

 なにが起きた。誰がした。なにをした。男はどうなった。あの猿みたいなトロルは何だ。

 開いた口が塞がらない。ただただ呼吸が荒くなる。

 エナは、男の治療をしようとしたのではなかったのか?

 ・・・じゃあ、エナがしたのか?

 それはそうだ。見ていたはずだ。

 ・・・それで男は、どうなった?

 あの死にかけだった男が、あの猿みたいなトロルになったのだ。

(それを・・・・・・・・・・・・エナがした?)

 それじゃあ、エナがした治療って、いったい何なんだ?

 瞬間、猿トロルの絶叫がむ。

「キィーっ」

 警戒を促すよう、鹿がいた。

 これに突き動かされるよう、ライナスはエナを小脇に抱え、急ぎこの場から逃げ出した。

 追いかけてきた鹿の手綱に片手を伸ばし、

「っ!」

 刹那感じた悪寒に、慌てて手を引っ込めた。

 瞬きの間、さっき腕を伸ばした空間を、凄まじい音を立てて猿トロルの拳が吹き抜け、大地に突き刺さる。その膂力りょりょくの恐ろしさときたら、地面に亀裂が走り、小規模ながら陥没かんぼつさせたほどだった。

「あんな攻撃をまともに食らったら、どこに当たっても死んでしまうぞっ」

 エオポルドと分断されたこともあり、ライナスは乗鹿じょうかをあきらめた。そのまま左右に別れて行動する。鹿もまた状況判断が速かった。一目散に逃げていく。

「エナちゃんっ」

 いったいなにが起きたのか。それを確かめようとして、けれどエナはぐったりしている。すでに昏倒していた。おそらく以前と同じだ。力を使い果たしてしまったのだろう。

(でも、あの時と同じってことは、前のときにも同じ力を使ったって、ことだよな・・・)

 考えないよう、考えたくなかったが、それでも疑問は次から次へと寄せては返す波のように絶え間なく、押し寄せてきた。

 その意味では、後ろを追いかけてくる猿トロルの存在は、慮外りょがいにもありがたかった。

 近づく死がありがたいとは、なんとも皮肉なものだった。

 なにもないに等しい開けた場所で、エナを抱えて逃げるのは現実的じゃない。逃げるにしても、戦うにしても、やはり鹿との合流は必須ひっすの条件だ。

 走りながら遠くに視線をやると、数区画向こうの路地を、並走している鹿の勇姿が見えた。

 こちらを、おそらくエナを見ている。

「うわっとォ!」

 頭上から叩き潰してくる子供グーパンチを、辛くも回避した。

 幸い、猿トロルは力を持て余している様子で、攻撃自体は単調なものだ。打ち下ろしに、薙ぎ払い、両手で掴みかかってくるといった、ほんとうに小さな子供のような攻撃が・・・いや、子供そのものの行動を繰り返す。

(エナちゃんの治療が、もし本当にコレなら、ルルリアで両親が殺されたって話は・・・)

 わずかに生まれた余裕に、ライナスの脳裏をよぎったのは、今は不要なものばかり。

 ライナスは心のなかで首を振る。余計な思考を追い払った。今は逃げることに専念する。

 瓦礫さえまばらな廃墟の町を、それでもクセなのか道なりに走っていると、唐突に横合いから飛び出してくる何者かがあった。それはエオポルドで、ライナスはほとんど体当たりする形で首にしがみつく。さらに両足を腹に引っ掛け、そのまま鹿が走り出す。

「このまま逃げられればっ」

 そう思ったのも束の間、振り返った視界いっぱいに飛び込んできたのは、今にもぶつかりそうなほどに近づいた、猿トロルの顔のアップ。

「エオポルドォーっ!」

 ほとんど感覚だけでエナを背中に引き上げ、ライナスは鹿から手足を放す。

 鹿はぐんっと速度を上げて、猿トロルの体当たりをなんとか躱した。

 しかし鹿は、最後に大きく無意味にジャンプして、着地と同時にエナを落っことした。

「なにやってんだっ、このシカぁーっ!」

 そこへ走り込むライナスが、地面すれすれの位置でスライディングキャッチする。

 その眼前に、巨大な拳が渾身こんしんの力で打ち下ろされた。ライナスは腹筋の要領で上体を起こし、これを躱すと同時に立ち上がった。

 そこに引き返してきた鹿が合流し、手綱をつかむと、エオポルドは走り出す。・・・・・・背中にライナスとエナを乗せないまま、手綱でずるずる引きずるようにして。

「鹿やろうっ、せめてエナちゃんだけでも乗せてから走れェ〜っ!」 

 叫んでみたが、猶予は与えられなかった。背後から猿のトロルが追いかけてくる。

 さらに一連の行動で、鹿に対するライナスの信頼がひどく下落していた。もう安易には任せられない。

 二人と一匹は、猿トロルを引き連れて町を出ると、そのまま近くの森へと場所を移した。


 森の静寂を破り、ライナスはエナを抱えてひた走っていた。胸に抱えたエナは、ぐったりした様子で眠っている。体がひどく熱くなっているのが、服ごしにもよくわかった。

 隣を走るのは、背中に荷物を満載させた鹿のエオポルドだ。

 ときおり視線を背後にやりながら、ライナスは考えた。

(どうする? このままエオポルドに乗れば逃げ切れるか?)

 自問してみるが、やはり答えはNOだった。ライオンヘッドのときと変わりない。

 戦って勝てる見込みは万に一つ。だが逃げ切れる可能性は、考える限りゼロだった。

「きたっ」

 背後から、これ以上ないくらい派手な音を立てながら、焦げ茶色の体毛を生やした腕の長い猿に似た、トロルにも似た青い肌をする怪物が、高く奇声を発しながら追いかけてくる。

 その身軽さといったら、前に戦ったライオンヘッドの比ではない。圧倒的に素早く、小回りが利いて、さらに暴風のような暴力を振るってきた。

 周囲にある邪魔な枝葉をへし折り、駆け抜け、ときおり飛んでくる岩塊や太い枝は、猿トロルが投じた攻撃だ。しかしコントロールが定まっておらず、林立する樹木にぶつかって被害にならない。

 それでも徐々に、ライナスの体力と精神を削るには充分だ。たとえ猿トロルにその意図がなかったとしても、危険を感じる恐怖に憔悴しょうすいしていく。

「ライオンヘッドのときは、なんだかんだで生き残れたのにぃ・・・」

 今となっては怪我をしたとき、エナを頼っていいかどうかも怪しかった。

 ライナスもまた、今追いかけてきている猿トロルと同じことをされたのだとしたら・・・。

 自分はいったい何なのか、何者なのか、そもそも人間であるかどうかも疑わしい。

 そんな疑念が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。

(でも今はっ)

 少なくとも、心だけは人間だ。それだけは断言できる。

「エオポルドォーっ!」

 ライナスは叫んだ。意図を察した鹿が寄る。彼は迷うことなく、幼い少女を相棒に託す。

「ほんとうに一瞬に過ぎないかもしれないけど、俺が時間を稼ぐから、おまえはエナちゃんを連れて逃げてくれっ!」

 ライナスは腰の後ろにさした小さな勇者のナイフを引き抜き反転した。そうして圧倒的に巨大である敵、猿トロルと正面から差し向かう。

 ライナスが一歩を踏み出す刹那、けれど世界が裏返る。

 ・・・視界が、奇妙な揺らぎを見せていた。

(なんだ、これは・・・? 相手の動きが、攻撃が、全部見える?)

 すべてのものが、あまりにも遅く見えていた。さきほどまでの動きを蟻とするなら、今のこいつの動きはカタツムリかナメクジだ。空を飛ぶ鳥でさえ、素手で掴まえることがあまりに容易と思えた。

 上から叩き潰してくる猿トロルの変わらぬ大振りをーーさっきまでなら、これを右に躱すのがやっとだったーーけれど今なら。

(これなら右に避けながら、すれ違いざまに相手の頸動脈を断つことだって不可能じゃない)

 かつて夢見たこともある、まるで達人の剣戟けんげきのような交殺法。これを実現できるかもしれなかった。

 そう考えると、ライナスの心は不甲斐なくも熱く震えた。

 騎士をあきらめ、芸人となった瞬間に捨て去ったはずの戦士としての力、剣士としての技、そして騎士としての心を、まだ完全には捨て去っていなかった事実を知るのだ。

 そしてすれ違いざま、ライナスが繰り出したナイフの一撃は、想像通り猿トロルの首を切っていた。その頸動脈を・・・ではなく、その首そのものを断ち切って。

「・・・・・・・・・・・・はあ?」

 ごとりっ。転がった猿トロルの頭部を、ライナスは冷めた目で振り返り、見下ろしている。

 ライナスはなにかを切ったという手応えを、まったく感じなかった。とてもじゃないが、自分がやったとは思われない。だからまず、手にするナイフを見つめた。だがこれを使うのは初めてじゃない。ライオンヘッドのときにも使った物だった。

 つまり、すべてはライナス自身がやったこと。

 首を失くした猿トロルが、そのまま数歩を歩き、その先にあった木にぶつかり、ずるずると沈み込んだのは、ようやくこのときになってのことだった。

「・・・何なんだ、これは?」

 ライナスは我が手を見つめた。力だけじゃない。その目からして、すでにおかしかった。相手の動きがひどく緩慢で遅く見えたことからして、とっくに異常なのだ。

 ・・・これでは、まるで。

「今更なにをうろたえておる。うすうす気づいておらぬわけでもなかろう」

 聞こえた声に振り向くと、そこには具合を悪そうにしながらも、

「お主は存外に、察しのいい男のようじゃからな」

 鹿を巧みに操る、エナがいた。

「エナ、ちゃん・・・」

 その名を口にし、

「じゃ・・・、ない、よな?」

 こわばる顔で、呆然と続けた。

「そうじゃのう。さしずめ悩める青年を導く、その相談役といったところかのう」

 少女の声はエナのままでありながら、しかし低く威厳ある大人の女性の声に聞こえた。

 そしてその声に、ライナスは聞き覚えがあった。これまでに二度、聞いたことがある。それはグラウスの街を散歩していたときであり、また第7ラップタウンの酒場でだ。

 その言葉遣いと、ふざけた内容はともかく、

「・・・・・・っ」

 ライナスとしては具合が悪そうにする幼い少女の容態が気にかかる。

 そんな気持ちが顔に出たか、エナの顔をする少女が不敵に笑う。

「やはりお主はおもしろいのう。人は危機に直面したとき、その本性があらわになるとよくいうが、その点お主はおもしろい。いや、好ましいというたほうがよいか?」

「おまえは、誰だ? エナちゃんは、どうなったんだ?」

 問いに、エナの顔から笑みが消えた。一瞬にして冷めた目つきになる。

「よい、許そう。特別じゃ。問には一つだけ答えてやろう。問うがよい。今のお主の体に起きておることか、それともエナのこと。お主はどちらを知りたいとーー」

「だからっ、エナちゃんはどうなったんだって、そう聞いてるだろうっ」

 少女の言葉を遮って、ライナスは苛立ちさえ込めて、重ねて訊いた。

「それは、自分のことはどうでもよいということか?」

 少女の視線が怪しく、すぅーっと細められていく。

「それとも、自分のことは聞きたくないと、そういう意味か?」

 ライナスは少女の気配に気づいているのかいないのか、かまわず答えた。

「俺のことは知りたいし、同じぐらい聞きたくない。でも今は、そんなことはどうだっていい。エナちゃんはどうしたんだ? それとも元々、そんな子はいなかったってことなのか?」

「あはっ、あははははっ、やはりお主はおもしろい、いや好ましいのう。意外と強欲でありながら、そこには明確な優先順位というものがちゃんとある。そうじゃ、そうでなくてはならん。自分を蔑ろにするものが、いったいどうして他人のことを気にかけられよう」

 いって、大げさに息を吐く。もしかしたら見た目より、ずっと具合が悪いのかもしれない。

 これを目にするライナスが、ぴくりと震えた。やはりエナの体が心配になる。そのまま一歩を踏み出しそうになり、これより一瞬早く、エナの顔をする少女が答えた。

「安心せい、エナは無事じゃ、ちゃんとおる。今は疲れて眠っておるだけじゃ。なれぬ力を無理やり使わされてしもうたからのう。その反動で、眠っておるわ」

「力っていうのは、・・・あの、人を化け物に変えてしまった力のことか?」

 ライナスは辛そうに歯噛はがみする。それこそ泣きそうな顔をして。

 あの男には、ほんとうに悪いことをしたと思っている。こんなことになるくらいなら、彼には人として、あのまま死なせてやったほうが、まだしも幸せだったはずなのだ。

「お主は治癒魔法というものが、いったいどういう原理で作用しておるか、知っておるか」

「え? いきなり、なにをいって・・・」

「よいから答えよ」

 わけはわからなかったが、そこには拒否を許さない絶対的な支配者としての貫禄がある。

「基本的な治癒魔法なら、その対象の細胞の代謝を活性化させることで、その人が本来持ってる治癒能力を極限まで高め、これによって傷の回復を促進させることができる、だよな」

「うむ、正しい」少女は頷いた。

「そうじゃ、治癒魔法といっておきながら、そのじつ身体活性化魔法といったところじゃ」

「それは、正直俺も、同じように思ったことはあるけど・・・」

 実際、古い魔導書では、本人の体力を消耗すると書いておきながら、これを回復魔法と記してある。これを初めて読んだとき、回復するのか消耗するのか、いったいどっちなんだと憤りを覚えたほどだった。事実、重症を負った患者は回復するための体力がない場合、そのまま死んでしまうことがある。そのため近代書物では、呼称は治癒魔法で統一されていた。

「そうじゃろう、そうじゃろう。それが正しい見解というやつじゃ」

 うんうん、何度も満足そうに頷く。

「あれは正しくは、治癒魔法などではなく、身体補助魔法に属するからのう。じゃがエナが使った力は、つまりはわしが使う力は、これとはまったく異なるものじゃ」

 手綱を片手に持って両手を広げ、少女は鹿の背中で世界の広さを表現した。

「外に存在する魔力をかき集め、これを対象に注ぎ込むことで、仮初めの活力に変えておる」

「つまり、上位治癒魔法である『復活リザレクション』ってヤツか?」

 基礎回復魔法が、本人の体力に依存する治癒魔法であるのに対し、こちらは完全に外部から治癒力を与えられるため、たとえ瀕死状態であっても回復することが見込まれた。

 だが本来、これを使用できるのは上位の聖職者に限られる。そういわれていた。

「でも、それがどうして、あんなことになるんだ・・・?」

 ライナスは横目で、首を失くした猿トロルを見やる。エナの力が通常の魔法じゃない。それは理解していた。エナが力を行使してから男の体に起こった変化は、あまりにも性急すぎた。

「お主は、過剰回復反応という現象を知っておるか?」

「え? たしか通常の回復魔法・・・えっと、さっき言ってた身体活性化魔法をかけすぎたときに、まれに起こる過剰回復反応の、こと、で・・・」

 過剰回復反応とは、すでに元気な細胞に対し、さらに活性化を促したところ、かえって細胞を悪くさせてしまう現象のことだ。空気を入れすぎた風船がパンクして破裂するのと同じだった。

「うむ。つまりは、そういうことじゃ。アレは、その過剰回復反応を引き起こした結果、力を注ぎ込まれすぎた細胞が耐えられず、変異・変質してしまったーーなれ果てじゃ」

「ちょっとまってくれっ、でもふつう回復魔法をかけただけじゃあ、あんなことにはならないはずだろっ」

 エナの顔をする少女は、ライナスの顔に片手を向けて遮った。

「察しの悪い男じゃのう。これはお主に対する、わしの評価を改めねばならぬか? わしはいうたはずじゃ、わしが使う力は魔法とは異なると」

「・・・魔法じゃ、ない?」

「そうじゃ。アレは魔法ではない。あれは、わしが生まれつき持っておる、わしだけの力じゃ。その力をエナが使えるのは、わしがエナの体を間借りしておる、その代償のようなものにすぎぬ。そしてエナは、この力をうまく使えておらぬだけじゃ」

 ひとまず、ライナスは飲み込んだ。まだまだ言いたいこと、聞きたいこと、理解できないことは多々あるが、それでもこれだけは、やはりどうしても聞かないわけにはいかなかった。

「それで、結局・・・俺は、人間なのか?」

 この言葉に、少女の顔が、その目が、探るような挑むような色になる。

 少女は挑発するように、ニタリと笑った。

「おやぁ〜? これはおかしなことじゃ。たしかお主、さきほど自分のことはかまわぬと、そういわなかったかのう?」

「・・・いった、間違いなく。それでも、これだけはどうしても知っておきたい。・・・いや違うか、絶対に知っておかないといけないんだ」

「知らぬ。お主の都合じゃ。わしには関係ない」

「いや、関係ならある」

「ほぉー、どう関係ある。いうてみよ。じゃが、もしもつまらぬ理由であれば、わしがこの場でお主をほうむってくれる」

「いや、おまえには、それはできない。これから俺がいう理由と、まったく同じ理由でだ」

「ならば試してみよ」

「俺は、俺が人間でなくなってたら、そのときは自分で命を絶つつもりだ。そしたらもう、エナちゃんを守ることができなくなる」

 少女の眉が、ぴくりと跳ねた。

「なるほどのう。たしかにそれなら、わしも無関係ではあるまい。特別じゃ、答えてやろう。お主は間違いなく人間じゃ、このわしが保証してやる」

「理由は?」

「なんじゃと?」

「いったいなにを根拠に、あんたは俺が人間だといってるんだ。まさかこの期に及んで、はい、そうです、あなたは人間ですっていえば、それで俺が納得するとでも思ってるのか?」

「このわしが保証してやるといっておるのじゃから、それで聞き分けぬかっ」

「そんなわけに行くか、俺にとっては死活問題なんだからなっ」

 この上もなく面倒くさそうに、少女は頭を掻きむしった。

「ええーいっ、面倒くさい奴じゃっ。まったくお主といい、エナの両親といい、ブラックウイングといい、どうして人間というやつは、こうも面倒くさい連中ばかりなのじゃっ。お主は今生きておるのじゃから、それでかまわぬではないかっ。なのに勝手に自分で死のうとするでないわっ」

 身勝手にまともなことをいいながら、少女は鹿の背中に突っ伏した。ただでさえ具合が悪かったところ熱くなってしまい、よけい具合を悪くしたものと思われた。

 だが今、それ以上に聞き捨てならないことを、この少女の姿をする女はいわなかったか。

「エナちゃんの両親が、自分で死んだ?」

 それは、エナ本人から聞いた話と、ずいぶん異なる。エナの両親は、ルルリアの人たちに寄ってたかって殺されてしまったのではなかったか。

「そうじゃ、エナの両親は、自らの意思で死ぬことを選んだ・・・」

 鹿の背中で少女が語る。

「あの日、町を魔物が襲った日、エナの両親は重症を負った。そして泣き叫ぶエナを見かね、わしはエナに力を貸した。・・・結果は失敗じゃった。それでもエナは、両親が元気になったと喜んでおった。たとえその見た目が、どんな化け物に変わってしまったとしてもじゃ」

 そのときのエナの喜ぶ姿を、ライナスは容易に想像することができた。

『みてぇ、元気になったよぉーっ』

 さっきも嬉しそうにいった、エナの表情が思い出される。

「エナの両親は、その見た目に反し、まだ自我を残しておった。じゃから戦った。町を襲った魔物すべてを倒し終えるまで、二人は倒れなかった。どれだけ傷を負おうともじゃ」

 その言葉を再現するよう、少女は鹿の背中から、ゆらゆらと起き上がる。

「・・・・・・・・・・・・」

 ライナスは言葉もなく聞いていた。そんな二人の気持ちを理解できる気がした。たとえどんな姿になろうとも、たとえそれが我が子が変えてしまった化け物の姿であったとしても、それでも命ある限り我が子を守ることは、二人にとって当然の行為だったはずなのだ。

「戦える限り、動ける限り、命ある限り、二人は我が子を守るため、エナを守るために命と心をすり減らして戦った。そしてすべての魔物を倒してしまうと、二人は心まで化け物になってしまう前に、自分たちを殺してほしいと、そう町の者たちに嘆願たんがんしたのじゃ・・・」

 泣き叫び、止めてくれと懇願こんがんするエナを見ながら、二人が最後までなにを思っていたのか。・・・それはきっと、我が子エナの未来をうれいてのことだったのではなかったか。

「死の間際、二人は最後の頼みを町の者たちに託した」

 ーー『娘を、お願いします。』ーー

「すでに人の言葉かさえ怪しい声で、そう言い残して・・・」

「じゃが」いって少女は、遠い目をした。ここではない場所、遠い過去を見据える。

「あやつらは裏切った。人を魔物に変えてしまったエナの力を、わしの力を恐れた。そして幼いエナを幽閉ゆうへいしてしもうたのじゃ。じゃが、それだけならまだよい。わしがおる。出ようと思えば、いつでも抜け出すことは容易じゃった。じゃが、疑心暗鬼に駆られた幾人かが、こっそりとエナを殺してしまおうと考えたのじゃ。自分に向けられた敵意と殺意の眼差しを前に、エナは恐怖に駆られ、わしの力を暴走させた。その力は目の前にいた連中ばかりか、町にいたほとんどすべての人間に対して作用した。わしの見た限り、力の影響を受けて化け物になったのは、エナに対して強い敵意や悪意を抱いておった連中ばかりのはず・・・」

 だいたい町の人間、その半数ほどが姿を変えた。エナの姿をする少女は、そう語る。

「それがあの町、ルルリアが滅びた真実じゃ。・・・まあ、ある意味、当然の報いじゃがな」

 ライナスは思い出していた。ルルリアで会った、ただ一人生き残っていた男の最後の言葉を。

『せんぶっ、あの子が・・・まもの、・・・にっ・・・』

ーー変えてしまった。

 あれは、そういう意味だった。言いたいことがいえなかったわけじゃない。ライナスの先入観が邪魔をして、正しく伝わらなかっただけだった。

 いうだけいうと、またぞろ少女は鹿の背中に突っ伏した。今度こそ精も根も尽き果てたらしく、再び起き上がってくる様子は見られなかった。

 ライナスは、そっと少女に近づいた。

「・・・あと、ひとつだけいいか?」

 少女の具合の悪さは想像するが、それでも聞かずにはいられなかった。正直少女の話は、ライナスの質問をはぐらかしていることには気づいていたが、この際、今はどうでもよかった。

「・・・ブッラクウイングっていうのは、いったい誰のことだ?」

 少女の口ぶりからして、その人物を知っているはずなのだ、ライナスは。だが、どうしても心当たりがない。そもそも少女が、ライナスの友人関係を把握しているはずがなかった。

 前後不覚の朦朧もうろうとする瞳で、少女は視線だけで見返した。面倒くさそうに重たい息を吐く。

「・・・ブラックウイングは、わしがつけた名前じゃ。・・・お主たちは、其奴のことを、また別の名で呼んでおる」

「その、別の名前っていうのは?」

「お主も、エナと話しておったじゃろう。ブラックウイングの別名はーー『黒鳥の勇者』ーーあれは、わしが作った人間じゃ・・・」

 一瞬、ライナスは少女が口にした言葉の意味を理解できなかった。

「・・・ちょっと待まって、黒鳥の勇者を作った? それって一体、どういう意味だ?」

「どうもこうもあるまい。そのままの意味じゃ・・・いまさら、なにを驚くことがある。・・・お主も見たはずじゃ。・・・人間が、まったく別の生き物に変わっていく、その様をのぅ・・・」

 少女が長く息を吐く。もはや意識があるかどうかも怪しいくらいだ。それでも続けていう。

「そもそも、魔族や魔物ばかりか、エルフやドワーフを生み出したのは・・・、ほかでもない、このわし、なのじゃからな・・・」

「なっ」

 それは、あまりに聞き捨てならない。だってそれは、それじゃあこの娘は・・・。

「それじゃあまさかっ、おまえはっ、あの魔王っ、自分が諸元の魔王ゾーマだって、そういうつもりなのかっ!」

 過去に存在したすべての魔王や魔族、魔物たちの親にして母たる大魔族。ゾーマは造魔の意味であり、魔王の中の魔王と呼ばれた存在だ。

「つもりもなにも、わしはその者・・・本人じゃ。ただし、ゾーマとは、お主たち人間が勝手につけた、偽りの名じゃ・・・。わしの本当の名はーー『エキドナ』ーー魔族や魔物ばかりか、人間たちが口にする神々さえも創造した、神の中の神じゃ・・・」

 そういうと少女は、なにかに気づく顔をして、辛そうに、けれど得意そうにニヤリと笑った。

「じゃから、そんな神であるわしが断言してやる。・・・ライナスよ、お主は人間じゃ」

 そして意識を失う寸前、さらに重ねて、とんでもないことを暴露ばくろする。

「なぜなら人間もまた、わしが生み出した存在、なのじゃか、ら・・・」

 魔王ゾーマことエキドナは、人類を創造したーー本物の“神”だった。

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