第3話 少女エナ

「今朝の調子はいかがかな、お嬢さん?」

 朝というには少し遅い時間に起き出したライナスは、開口一番ベッドで眠る少女に声をかけた。

「・・・うぅ〜ん・・・、まだ眠いぃ・・・」

 快適とはとてもいえない空が丸見えの宿屋の一室で、少女が寝返りを打って背を向けた。

「うん。昨日よりは調子が良さそうだな」

 雨が降ればひとたまりもないボロの部屋だったが、幸い近頃は、雨は降っていなかった。

 グラウスヴァーナ王国首都である人口十二万からなる、この国最大の都市であったグラウスは、一日と持たずに魔物たちの猛攻を前に打ち破られた。

 その瞬間、この国の栄華えいがは決したわけだ。

 いまは比較的被害が少なかった西側に、生き残った住民のほとんどが避難してきている。

 ここはその西側、防壁近くにある宿だった。

 ライオンヘッド撃退から、すでに三日が経過していた。その間、少女から聞けた話は一つもない。それどころか名前さえ聞けていなかった。

 それというのも、あの日、ライナスが少女に解熱剤を飲ませた翌日になるが、朝になっても少女の熱が引かず、むしろ悪化していた。医者に見せようにも、そこは森の中だ。進むにしても退くにしても道のりは遠く、どちらを選んでも街につくのは真夜中になりそうだった。進む道は最初から決めていたので迷わなかったが、今の状態の子供を抱えて移動するのは、やはり躊躇ためらわれた。

 一夜経っても少女のそばを離れず、ずっと張り付いていた鹿の背中をぽんっと叩き、ライナスはいかにも冗談っぽくつぶやいた。

「おまえに乗れたらよかったのにな」

 だが鹿は、まるでその言葉を待っていたかのように、ライナスに背を向けた。

「え? いや、でも・・・さすがに、それは・・・」

 知識だけなら、北の山岳地帯では、馬ではなく鹿に乗って野山を駆ける風習があると聞いたことはあるが、でもそれは乗用に調教された鹿であって、野生の鹿ではないはずだ。・・・少なくとも、こいつは毛並みが悪く、野生と判る。

 だが、背に腹はかえられない。それに万一ということもある。ライナスは試しに乗ってみた。

 すると、どうだろう。

「お、おおーっ!」

 鹿はするすると駆け足になって進み出す。

「ちょっと背中が細くて、お尻が痛い気もするけど、歩いていくよりはずっと良さそうだ」

 走りは意外と安定していた。上下の揺れも最小限に抑えられている。くらがなければあぶみもないので、お尻の下に毛布を敷いた。手綱がないから直接、膝に載せた少女越しに背中に手を置く。

 芸人として鍛えたライナスにとっては、軽業師としての技より、ずっと楽なものだった。

 鹿は、ライナスが心配するくらい休むことなく走り続け、昼を前にルルリアに着いた。

 その町で目撃する。すでに荒廃し、黒焦げとなった町並みの残骸ざんがいを。

「・・・・・・そんな、バカな?」

 町に、生きている人間はいないと思われた。

「だって、ここの町の被害は軽微だったって、そのはずじゃあ・・・」

 代わりに目にしたものは、切り裂き、引き千切られ、食い千切られ、黒焦げになった人間だったもの・・・その成れの果て。

「あの日の魔物の襲撃から十日と経たず、この町はもう一度襲われたっていうのかよ・・・」

 見たところ、それほど大きな町じゃない。魔王が躍起になって滅ぼすべき対象とは、とてもではないが思われない。いって悪いが、侵略する価値があるとは思えなかった。

 それに疑問は、まだある。

「この子はたぶん、この町から来たはずなんだ」

 地図の上では、ここ以外に近くに町はなかった。それにしたって少女がいた場所は、子供の足を考えると少しばかり遠すぎる気がするのだ。

「この町から逃げてきた? あんな遠くの場所まで? ライオンヘッドに追われて?」

 最後の疑問は、さすがにありえなかった。いくらなんでも体力が持たない。大人でもだ。

「距離を考えれば、まる一日以上は歩き続けてたはず、だよな・・・」

 ゆえに、どれだけ遅くとも二日前には、この町は滅ぼされていたことになる。

 ふと鹿が、何かに気づいた様子で顔を上げた。遠く鼻先をヒクつかせる。

 ライナスは慌ててそちらを眺め、大きく見開く。そこに、かろうじて生存していると思しき、血まみれの男が倒れていた。

 ライナスは鹿を飛び降りた。大急ぎで男の元へと駆けつける。

「おいっ、大丈夫かっ、しっかりしろっ」

 息も絶え絶えの様子でライナスを見上げ、男がほっと息を吐く。

「・・・あ、あんたは・・・」

「もう大丈夫だからっ」そう声をかけようとして、ライナスは飲み込んだ。男はもう助からない。それがわかってしまった。男の顔には、あまりに濃すぎる死の気配が張り付いている。

「・・・町の、ものが、まものに・・・」

「この町は一度、魔物の大群たいぐんを退けたと聞いている。また来たんだな、魔物の大群がっ」

「ちがっ、・・・まちの、ものたち、が・・・まもの、に・・・」

 男は残る命を振り絞り、なにか重要なことをライナスに伝えようとしていた。

 しかし次の瞬間、その目が見開かれた。信じられないものを見た顔になる。

「あっ、あれっ、はっ・・・!」

 震える手が指差す方向を、ライナスは振り返った。だが、そこにいたのは遅れてやってくる鹿と、その背中でつらそうに眠る少女があるばかり。

 わけも分からず顔を戻したライナスの胸ぐらを、男は最後の力で、ぐっと強く引き寄せた。

「あの子の、せいだっ・・・まちは、町の者は、魔物にぃ・・・っ」

 男は使うべき命を言葉にせず、全部違う方向に使ってしまった。そのため死期を早めた。

「せんぶっ、あの子が・・・まもの、・・・にっ・・・」

 そして言葉を残すことなく、町を襲った悲劇を知り得たはずの男は、息を引き取った。

 なんともしこりの残る言葉を、ライナスの胸に刻んで。

「この子が、魔物を引き寄せた原因? この人は、そう言いたかったのかな?」

 だがライナスの中で、その言葉は逆に希望の兆しとなり得た。なぜなら、あの小さな勇者もまた、魔王を引き寄せた原因であったからだ。

「もしも魔王が、どうしてもこの子を殺したかったのだとしたら、それはこの子が自分にとっての脅威となりうるかもしれない存在、そう思えたってことだよな?」

 ライナスは自分の服の胸を強く掴んだ。そして思う。

「もし俺の怪我を治したのが、ほんとうにこの子の力だとしたら、それはたしかに魔王にとっての脅威になるはずだ。だってあれだけの重症だった怪我が、あれだけの短時間で治ったんだ。そんな奇跡みたいな力、俺は伝承に残るお伽噺とぎばなしの中でしか聞いたことがないぞっ」

 もしかしたら、いきなり見つけたのかもしれない。

「そうかっ。だから町の人たちは、この子を逃がそうとしたんじゃないのかっ?」

 魔王を倒し、世界を平和に導いてくれるかもしれない力。その小さな片鱗へんりんを。


 昼を少し回った頃。ようやく少女は、その長い長い眠りから目を覚ました。少女はベッドから起き上がり、しきりに周囲を見回す。

「・・・ここ、どこ?」

 寝ぼけ眼でつぶやいた。

「おっ。やっとお目覚めかな、眠り姫のお嬢さん」

 一階の食堂で昼食から戻ってきたライナスは、ちょうど目を覚ました少女と対面する。

「気分が悪くないようなら、俺と少し話をしようか。俺の名前はライナス。ライナス=アドベージェス。もしよかったら、キミの名前を教えてくれないかな」

 聞きたいこと、聞かなければいけないことは沢山あるが、ライナスは焦らず、まずは当たり障りのない、ごく普通のことから始めた。

「・・・わたしは、エナ」

 やや時間が経ってから、少女は口を開いた。

「・・・ルルリアっていう町に、住んでたの」

「エナちゃんだね。俺とは森の中で会ったんだけど、そのことは覚えてるかな?」

 尋ねると、少女は目に見えて怯えた顔になる。きっとライオンヘッドに追いかけ回されたことを思い出したのだろう。あるいはそれ以前、町での惨劇さんげきを思い出したのかもしれない。

「あ、べつに怒ってるとかじゃないからね。それどころか俺、エナちゃんのことを助けようとしたくせに、逆に助けられちゃったみたいで。なんていうか、ありがたいやら、申し訳ないやら、かっこ悪いやらで、ホントなんていっていいかわからないぐらいで・・・」

「・・・助けた・・・のかな、わたし?」

 エナは怯えた表情のまま、ライナスを窺うように上目遣いになって見つめた。

「うん、そうだよ。エナちゃんは、俺を助けてくれたんだ。おかげで俺は、今こうして生きていられるわけだしね。ライオンヘッドにやられて倒れてた俺を助けてくれたのは、エナちゃんなんだよね?」

 エナは小さく頷いた。

「・・・たぶん」

「エナちゃんは、魔法が使えるのかな」

 我慢できず、ライナスは勢い訊いてしまった。

「それで俺を助けてくれた。そういうことだよね」

 重ねて訊くと、エナはうつむいてしまう。みるみる悲しそうな顔になり、ついにはボロボロと涙をこぼして、わんわん声を上げて泣き出してしまった。

「えっ? いきなりどうしちゃったのエナちゃん? なんで泣いてるのっ?」

 どうして泣きだしのかわからず、ライナスはおろおろするばかり。

「だって、町のみんなは、わたしのお父さんとお母さんが魔物に殺されそうになったとき、わたしがお父さんとお母さんのケガを治してあげたら、・・・そしたら、わたしのことを化け物だって・・・町が魔物に襲われたのは全部、わたしのせいだっていってたから・・・、わたしはいっぱい止めてってお願いしたのに・・・、なのに町のみんなが、お父さんとお母さんを殺しちゃったから、・・・だからわたし、こわくなって・・・」

 それだけいうと、少女はまた激しく声を上げて泣いた。わんわん泣く。

 ライナスは困惑する。少女は町のみんなが逃してくれたものとばかり思い込んでいたが、しかしその実、少女は町の人たちから逃げ出していたのだ。

「そんな、バカなことが・・・」

 あるはずがない。そう思い込もうとしても、ルルリアの町も、やはりムトベルと同じだった。

 あの町もまた、小さな勇者のために、魔王自身が訪れてまで彼を殺そうとした。・・・幸い、といっていいか、ムトベルは魔王のはからいで侵略されなかった。だが、ルルリアは違う。有象無象の魔物や魔族たちのために滅ぼされたのだ。

(でも・・・)

 なにかが腑に落ちなかった。ライナスの中で警鐘けいしょうがなる。どこか話が噛み合わない。

 だが今は、目の前で泣き続けている少女が気になるあまり、ライナスは考えがまとまらなかった。

 芸人とは、人を笑顔にすることを生業とする職業だ。笑顔じゃない人が、それも泣いている子供が目の前にいるなんて耐えられない。どうしても許しておけなかった。

「そうだエナちゃん、これを見てくれっ」

 ライナスは荷物をあさり、赤と黄色、青のゴムボールを取り出した。

「よっ、はっ、ほっ」

 これを左右の手を器用に使って、つぎつぎ空中に放り投げていく。

 エナは泣き顔のまま、ライナスのすることを無言で眺めた。

 少女が見ていることを確認し、ライナスはさらにボールの数を増やした。合計6つのボールを使ってジャグリングする。

「ほんとうはリングとかボックスとかも使って、輪の中にボールをくぐらせるジャグリングもあるんだけど、今はあまり多くの荷物を持ち歩けないから・・・」

 ほかにもナイフを使ったジャグリングもあるが、あれは子供向けじゃない。最後は頭の上に載せたリンゴなどを狙ったナイフ投げに移行するのが常道だからだ。

「今はこれが精一杯」

 最終的にライナスは、赤と黄色、青のボールをそれぞれ3つずつ、9つのボールをジャグリングする。赤の3つを右手、青を左手、そして黄色のボールを左右の手を使って床にバウンドさせて行う技を披露して、フィニッシュとした。

「ふわぁ〜っ」

 口を大きく開けたまま、ぼうぜんと眺めていたエナのお腹が、ぐぅ〜っと盛大な音を立てた。

 少女は慌ててお腹を抑えたが、無理もない。エナは三日も眠り続けていたのだから。

「あははっ。それじゃあ下に行って、ご飯にしようか」

 その間に、少女が口にしたものといえば、ライナスが与えた水と解熱剤くらいだった。

「お腹がびっくりするといけないから、最初はスープかシチューにしてもうか」

「シチューがいいっ」

 エナは元気よく手をあげて、そう返事をした。


 ライナスはエナを連れ、戦火の爪痕が色濃く残る外に出ると、宿屋の角を左に曲がった。

 そこに、若い男女が待っている。

 ライナスたちが顔を見せると、二人はその場に立ち上がった。そんな彼らの足元には、きれいに折りたたんだ毛布が置いてある。

 事前に話はつけていた。エナが食事をしている間のことだ。

 ライナスはまず、深々と頭を下げて一礼した。

「ありがとうございました。ほんとうに助かりました。おかげでご覧のとおり、この子も元気になりました。・・・あ、エナちゃんっていうそうです」

 軽く背中に触れられたエナは、ぽかんと惚ける顔をライナスに向けた。

「いえいえ、こんな時ですから、困ったときはお互いさまです」

「でも、ほんとうによかったわね、エナちゃん。元気になったみたいで」

 まだ新婚らしい夫婦は、幼いエナを見下ろして、安心した様子で微笑んでいる。

「・・・だれ?」

 ライナスの服の袖を、くいくいっと引っ張り、エナが不安そうに尋ねた。

「こちらの二人は、スレッドさんとフォルフェアさん。具合が悪かったエナちゃんのために、自分たちが借りていた、あの宿の部屋を貸してくださってたんだよ」

 あの日、街を訪れた夕刻遅く。ライナスは戦禍の爪痕が残る街中を駆けずり回り、ようやく医者を見つけたが、今は魔物被害のためにエナ以上の重症者が多数いて、まともに取り合ってもらえなかった。そこでひとまず、エナを休ませる場所を探していたところ、偶然出会ったのが件の夫婦だ。彼らは具合の悪いエナを見かけると、たいして理由も聞かず、自分たちが借りていた宿の一室を貸してくれた。そして当然のように、自分たちは外で野宿していた。ほかの多くの人たちが、そうするのと同じように。

「日中はともかく、せめて夜だけでもエナちゃんを部屋に残して、俺と部屋を代わってもらおうと思って、そう提案したんだけど、それも聞き入れてもらえない徹底ぶりだったんだよ」

「いやいや、そういうキミこそ、その子とは縁もゆかりもない他人だって話じゃないか」

「そうよ。それに、もし夜中に目が覚めて、ライナスさんどころかまったく知らない私たちが一緒にいたら、それこそエナちゃんが怖がっちゃうでしょ」

 出会ったときも、そういって奥さんにやんわりとたしなめられた。こんなときでも、いい人はいるものだと知って、ライナスは正直、安心したものだった。

「でも、あのときは本当に驚いたよ。まさか鹿に乗って旅をしている人がいるなんてね」

 それで思わず声をかけてしまったと、旦那さんはそういうのだ。

「シカって?」

 エナは小首をかしげた。

「あの子のことだよ」

 宿屋の裏手にあるうまや。そこに一頭だけ、毛色どころか姿形フォルムからして違う生物がいた。

 牡鹿は、おいしそうに草を食んでいる。

「森であったときから、ずっとエナちゃんのそばを離れなかったんだけど・・・、エナちゃんの知ってる子じゃないの?」

「あぁー。それじゃあ、たぶんあの子だ・・・」

 やはりというか、エナの知っている鹿だった。

「最初あの子ね、親子のシカでいっしょにいたの。でもあの子、おっきなライオンに食べられちゃったの」

「えっ」

「ライオンって・・・」

 夫婦が揃って、ぎょっとする。

「あ、いえ、エナちゃんと初めて会ったとき、エナちゃんはライオンヘッドっていう魔物に追われていて、そこを俺が助けようとしたんですけど、・・・あ、でも大丈夫ですから、そのライオンヘッドは、どうにか俺が退治しましたから」

「ライオンヘッドをっ」

「倒したんですかっ」

「え、ええ・・・まあ」

 ライナスははにかみ、言葉をにごす。さすがに本当のことはいえなかった。自分が死にかけたことは正直どうでもよかったが、その怪我をエナが治癒したことは、その真偽を確かめないことには、誰かにいってしまっていいことじゃないように、ライナスには思えたからだ。

「こういってはなんですが、正直意外というか」

「ええ、ええ、人は見かけによらないというか」

 続いた「お強いんですね?」という言葉は、夫婦揃って疑問符付きで一緒だった。

「いえいえっ、運が良かっただけですからっ」

 首と両手を力いっぱい振って、否定する。

「たまたまっていうか、千回戦って一回勝てれば上出来なぐらいでしたから、ほんとうにっ」

 そもそもライナスは、勝てていない。よくて引き分け、エナがいなければ死んでいた。

 エナは鹿の所に行って、なにやらお話をしている。言葉はわからないはずなのに、なんとも会話が成立しているように見えるのだから、不思議なものだった。

 とうの鹿は、しきりに外に出たそうにしている。もしかしたら、元気になったエナと一緒に遊びたいのかもしれない。


 あけて翌朝。ライナスは旅の準備を進めた。鹿の背中に鞍と鐙、そして手綱をつける。エナの体調が回復するのを待つ間に、ライナスが馬具に手を加えてこしらえた物だ。

「もう行かれるのですか?」

 鹿に鹿具かぐ(?)を装着していると旦那さん、スレッドが声をかけてきた。

「はい。まずはエナちゃんが落ち着ける場所を探さないといけないので」

 エナから話を聞いた限り、彼女に親類はいなかった。いたとしても会ったこともない遠縁で、今の情勢では頼るに心許ない。邪魔者扱いされるのが目に見えている。

「せめて、ルルリアが無事ならよかったのですが」

「ええ、ほんとうに、そうですね・・・」

 ルルリアの件は、ライナスから兵士に伝えた。すぐに確認のための兵が出され、戻ってくるなり訃報ふほうはまたたく間に広がった。・・・これでまた一つ、町が魔物に滅ぼされたと。

「ですが、きっと大丈夫です。いつか魔王は討たれて、また世界は平和になりますから」

 スレッドは笑顔で朗らかに語る。

「『黒鳥こくちょう』様の勇者が現れて、きっと世界を平和にしてくださいますから」

「黒鳥の勇者さま・・・」

 口の中でつぶやき、ライナスはこの国の国教でもある『黒鳥聖典こくちょうせいてん』について思いをせた。

「たしか世界は、これまでにも幾度となく魔王や魔物の侵略を受けている。けれどその都度、これを討ち果たす勇者が現れて、魔王が支配する世界を打破してきた・・・」

 誰かはいった。ーー世界は、そういうふうに出来ている、と。

「そのなかでも『黒鳥の勇者』といえば、最悪の時代といわれた世界の七割を魔王に支配されていた時に現れたという、ここグラウスヴァーナ王国に生まれた勇者の伝説ですよね」

 黒鳥の勇者は一人ではなく、ひとつの一族、その体に流れる血によって繋がっていた。一人の黒鳥が死んでも、その力と経験、記憶が次の勇者に受け継がれ、少しずつ、けれど莫大ばくだい力を身につけた黒鳥の勇者が、ついには魔王を討ち果たしたという伝説である。

 黒鳥の勇者の一族と魔王の戦いは、じつに三百年の永きに渡って繰り広げられたという。

「ええ、ええ、そうですそうです。よくご存知で」

 スレッドは鼻息も荒く、満面の笑顔で頷いた。彼はこの国の出身者ということで、黒鳥の勇者を本当に心の底から尊敬し、また敬愛し、あるいは崇拝しているのだろう。

「でもたしか、アレですよね。そんな世界中に伝承が多く残ってる黒鳥の勇者の伝説なのに、グラウスヴァーナ王国と一つ国をまたいだ東国ゲルムント国では、その伝承に異を唱えているとか、いないとかって話があるそうで・・・」

 ゲルムント国の言い分では、黒鳥の勇者の伝説は、諸元の魔王と呼ばれた『魔王ゾーマ』の伝承と酷似こくじしていると、そういうのだ。

 ゾーマは造魔の意味であり、後に出現したすべての魔王や魔族、魔物の親にして母だという。

 ゆえに、すべての魔物は『造魔』によって生み出された、その子供というわけだ。

「・・・まさか、ライナスさん。あなた、あんなデタラメな国の言い分を信じてるわけじゃあ、ないですよねぇ?」

 いつも温厚で人が良さそうなスレッドの顔に、いま初めて嫌悪けんおの色が、いや憎悪ぞうおの色さえ垣間見えた。完全に目が血走っている。

「いやっ、まさかっ、そんなはずがあるわけないじゃないですかっ」

 ライナスは慌てて否定した。言い逃れじゃない。これでも英雄譚えいゆうたんの類には、人並み以上のあこがれがある。彼らのことを尊敬していた。だから今、自分たちは生きていられるのだ。

「だいたい黒鳥の勇者の伝説といえば、それこそ世界中にその伝承が残ってるわけですよっ。その功績を無視できるわけがないじゃないですかっ」

「ですよねぇ〜」

 それで溜飲が下がったらしく、いつもの温和な顔にようやく戻る。

「黒鳥様が世界の救世主であることは絶対の事実であり、また真理なわけですから、これを否定するゲルムント国の連中がひがんでいっているだけですよねぇ〜」

 彼のいうとおり、黒鳥の勇者が最悪の魔王を打ち破り、世界を救った救世主であることは絶対の真実だ。が、ゲルムント国もまた、これについては否定していない。

 黒鳥の勇者。その姿こそが問題なのだ。黒鳥の勇者は、その背中に炎に似た、けれど影を思わせる黒い翼を生やしていた。これもまた、すべての伝承に残されている。だからこそ『黒鳥の勇者』だ。黒鳥の翼は戦闘時にのみ展開され、常日頃の外見は、ほかの人間と何ら変わるところがなかったという。

「でもたしか、黒鳥の勇者といえば、もう存在しなくなってしまったんじゃあ・・・」

 さきほどの豹変ひょうへんぶりを警戒し、恐る恐る尋ねた。

「いやいやいや、どうやら他所の国では、そういうふうにいわれているみたいですが、そんなはずはありませんよ」

 意外にもスレッドは、むしろ笑顔で否定した。

「ただ黒鳥様は、世界が平和になってしまったために、今は自分たちの力は必要ないと、そう思われているだけなんです。ですからもうじき、彼らは再び現れてくださいます。そして今いる魔王もまた、すぐに倒してくださいます」

 彼は自信満々の表情で、あたかもそこに黒鳥の勇者がいると言わんばかりに、遠い空を見上げた。


 スレッドが去ったあと、ライナスはしばらくその場に残り、ただ澄み渡る青い空を、ぼうっと眺めていた。

「・・・黒鳥の勇者か。でも俺にいわせれば、当代の勇者はもう死んじゃったんだよな」

 彼が考える勇者といえば、それはもちろん、あの少年勇者のことである。

 ライナスは歩き出す。目的があるわけじゃない。ただ歩きたかった。考え事をするために。

 かつて首都であった街並みは、いまも多くの雑踏にあふれている。だがそこにあるのは華やかな繁栄はんえいではなく、衰退すいたいを極めた荒廃のむしろであった。

 人伝ひとづての話を聞く限り、北から押し寄せた魔物の軍は、そのまま南に駆け抜ける形で首都の街を蹂躙じゅうりんしたそうだ。そのため北を中心に、とくに被害が酷かった。王城のあった中央は当然壊滅、今や瓦礫がれきの山ばかり。南もひどい有様だ。そして魔物も獣であり、食物倉庫のあった東にも殺到したらしい。そのため西だけが、比較的被害が軽微だった。

「だれが死んじゃったの?」

 いつからそこにいたのか、下を見るとエナがいた。

「あれ? エナちゃん、ついてきちゃったの?」

 ライナスが気づいたからか、エナは彼の手を取った。もしかしたら手をつなぐ機会タイミングを、ずっとうかがっていたのかもしれない。

「魔物たちのせいで、多くの人が死んじゃったって話だよ。世界中でだ」

 その小さな手をきゅっと握り返し、ライナスは静かに息を吐く。

「でも、なんとかっていう勇者さまが現れたら、その人がものすごく悪い魔物を倒して、世界を平和にしてくれるんでしょ? おじさんがさっき、そういってたよ」

 どうやらスレッドとの会話を聞いていたらしい。だが彼は、まだ二十代と若く、おじさんと呼ぶのはちょっと気の毒な気もした。でも、エナくらいの歳の子にしたら、あれくらい年の離れた大人は全員、おじさんやおばさんになるのかもしれない。

「なんとかの勇者様って、黒鳥の勇者さま?」

「うんっ、そうっ、それっ、その人っ」

「でもね、エナちゃん。黒鳥の勇者さまの血筋は、もう何百年も前に途絶えていて、もう誰も残ってないって話なんだよ」

 スレッドは否定したが、そんな都合のいい話、あるはずがなかった。

 黒鳥の勇者の血筋は、とっくの昔に途絶えている。どういう経緯かは知られていないが、魔王を打倒したあと、黒鳥の勇者がその消息を絶った事実だけが、世界中の伝承にまことしやかに残されている。それは長い時の流れの中で、いつしか自然と途絶えたわけじゃなかった。理由はわからないが、最初からそうするつもりでいた。そう考えるのが妥当なようなのだ。

「それじゃあ、もう世界を平和にしてくれる勇者さまって人は、いないの?」

「いや、黒鳥の勇者以外にも、ほかにも勇者と呼ばれた人は、たくさんいたよ。『聖剣の勇者』に『魔導王の勇者』『賢者の石の勇者』に『竜の勇者』、ほかにも沢山の世界を救ってくれた勇者と呼ばれた救済の使徒しとが、過去にはたくさんいたんだ・・・」

 七聖剣の七人の勇者に、地形を変えてしまうほどの強力な魔法の使い手であった勇者。錬金術の最高峰、魔法の万能機といわれる賢者の石を創り上げた知恵の勇者。そして神から力を与えられ、単身百万の魔軍と戦い続けた、最強の武を誇った竜の勇者ーーその伝説である。

(でも、彼ら救済の勇者は、その時代に一人しか現れなかった。もちろんこれは、すでに平和になった世界で、ほかの勇者が現れる必要がなかったからだろうけど・・・)

 だから当初、ライナスはこれを探してみようと考えた。救済の勇者の影に埋もれた、勇者になりそこなった英雄たちの幻影を・・・。

 だが、スレッドの話を聞いて考えが変わった。かつて存在した勇者の伝説。もしかしたらその子孫が、今もどこかで生存しているかもしれなかった。

「それじゃあ、お兄ちゃんは勇者さま?」

 突然いわれて、ライナスは硬直した。間の抜けた、キョトンとする顔を少女に向ける。

「・・・俺が、勇者? なんで、そういう話になるの?」

 思考の隅で、俺はおじさんじゃなくてお兄ちゃんなんだと、密かに安堵し、嬉しく思う。

「だって、エナのこと助けてくれたもん」

 少女が嬉しそうに、恥ずかしそうにはにかむ。

「いや助けたっていうか、アレはどっちかっていうと、むしろ俺のほうが助けられちゃったくらいで・・・だって俺、エナちゃんが助けてくれなかったら、絶対に死んでたからね」

「じゃあ、エナが勇者さま?」

 ライナスは笑った。卑屈ひくつに笑う。バカにしたわけじゃない。そうなればいいと思っていたはずなのに、実際にいわれてみると、・・・違っていた。これをまったく望んでいない、自分がいる。

「どうだろ? どっちかっていうと、俺は反対かな。そうならないほうがいいな」

「ええーっ、なんでぇーっ」

「だって、危ないからね、勇者様は。・・・いつ死んでもおかしくない」

 そうなってほしくない。心からそう願う。

(俺はいったい、なにがしたいんだろうな。自分じゃ絶対に勝てないから、だから代わりに魔王を倒してくれる誰かを探そうとしてたはずなのに、そのくせ実際に傷つくのが子供だと思った途端、今度は戦わせたくないって本気で考えてる。これじゃあ矛盾してるだけじゃないか)

 でも嫌なものは嫌だった。誰かに死んでほしくない。死なせたくないと思うことが、そんなにおかしいだろうか。・・・それも、こんな小さな子供がだ。

「だからエナちゃんは、自分で戦わなくてもいいよ。怪我をした誰かの傷を、それこそ勇者の傷を癒やしてあげられるようになれば、それでいいよ。今は力を使うと具合を悪くしちゃうみたいだから、その力はこれから少しずつ使えるようになっていけば、それでいいと思うよ」

 さとすようにいうと、エナはみるみる膨れた。食べ物を入れすぎたリスのように、頬がパンパンに膨らんでいく。

「どしたの? エナちゃん」

 指でつつくと、ぶぷぅ〜っと音を立ててしぼんだ。

「だってエナ、勇者さまがいいもんっ」

「勇者がいいって、エナちゃんいくつよ」

「んっ」とねるようにうなって、エナは力いっぱい開いた手のひらを、ライナスの顔に向けた。

「そっかー、エナちゃんは五才かー。でも俺は二十歳だから、俺の勝ちだな」

 一体なんの勝負だろう。けれど子供には有効だ。

「ああ〜んっ、ずるい〜っ」

「ズルくないズルくない。だからエナちゃんは、今は世界のことより、自分が大人になることを考えればいいんだよ」

 そういってライナスは、声に出して笑った。

『その時まで、世界が無事であればよいがのう』

 ふと、低く威厳ある大人の女性の声が聞こえた気がした。

「へっ?」

 気の抜けた声を出し、ライナスはぼうぜんと辺りを見回した。たしかに人は大勢いる。しかし誰も彼もが下を向いていて、ライナスたちを気に留める者などいなかった。

 それから、すぐ隣を見下ろし、

「どうかしたの、お兄ちゃん?」

 不思議そうに見上げてくる、無垢むくな瞳と視線が合う。

「エナちゃん、今、なにか聞こえなかった?」

 エナは上を向いたまま、やはり不思議そうに小首をかしげた。

「それじゃあ、エナちゃんが、・・・なにかいったのかな?」

 瞬間、エナの顔がけわしくゆがみ。

「お兄ちゃんが、ずるいっていたのぅ」

「ああ〜、そういえば、そういう話だったけ?」

 気のせいか? ほっとした気になるが、そう思い込みたいだけだった。今もまだ、恐ろしく冷たい何かで心臓を、ギュッと鷲掴わしづかみにされているような悪寒おかんが、ずっと全身を支配している。

「でもエナね、エナが勇者さまじゃなかったら、やっぱりお兄ちゃんが勇者さまだったらよかったって、そう思うの」

 彼の中で終わらせたつもりでいた話は、けれど少女の中では、まだ続いていた。

「だってそうしたら、お兄ちゃんがいったみたいに、お兄ちゃんがケガをしたら、そしたらエナが治してあげられるもん」

「でもね、エナちゃん。そしたら俺、すぐに怪我しちゃうよ。それでエナちゃんが治してくれて、でもエナちゃんはすぐに具合が悪くなっちゃうから、そしたら俺が看病して・・・でもそうなったら、ぜんぜん旅が進まなくて、いつまで経っても世界が平和にならなくなっちゃうよ」

「エナ、それでもいいもん。そしたらお兄ちゃん、エナとずっと一緒にいてくれるから・・・」

 この子が勇者にこだわる理由を、その言葉の真意を、ライナスはこのとき、この瞬間まで、完全に失念していた。

(そうだった・・・。この子は、エナちゃんは、両親を亡くしたばかりなんだ・・・)

 しかもその両親は、どうやら町の人たちに寄ってたかって殺されてしまったようなのだ。

 だからエナは、自分が誰かに必要とされる人間であれば、誰かが・・・いや、ほかでもない、ライナスが一緒にいてくれると信じて・・・いや、そうあってほしいと信じたいのだろう。

(この子が大人になるまでの十年から十五年、それまで世界が無事かどうか以前に、まず俺が生きてる保証もないけど・・・、でも、今だけは)

「大丈夫だよ、エナちゃん。少なくとも今は、エナちゃんが安心して暮らせる場所が見つかるまでは、俺が面倒を見るつもりだから。それまでは一緒にいようね。もちろん、エナちゃんが嫌じゃなかったら、だけど」

「うんっ、エナっ、お兄ちゃんと一緒にいるっ」

 元気よく返事をしたエナは、これまで見せたどんな表情よりも明るく輝いて見えた。

 ・・・が、それはそれとして。

 ライナスはなんともいえず、芸人としての誇りを深く傷つけられた思いがして、悔しく思う。

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