第2話 旅立ちと出会い

 魔物たちによる世界一斉侵略から一週間が経った頃、ライナスは旅に出た。

 芸人として生計を立てていた彼にとって、こんな世界情勢では仕事にならなかった。

 実際、少しでも町の人たちに元気になってもらおうと思って芸を披露しようとしたところ、不謹慎と叱られてしまった。悲しいけれど、これが現実だ。

「座長、いとまをもらいにきました」

 芸人としてやっていけない。これを痛感する夜、ライナスは座長の元を訪ねた。

 彼らは三十人ぐらいの集団を作って旅をしていた。町や村に着くと、それぞれが自慢とする特技を披露して収入を得て、また次の町や村へと移動を繰り返す。・・・今は、いや今までは比較的平和な時代が続いていたが、それでも魔物がいれば野盗も出没する世の中だったから、さらに五十人からなる隊商キャラバンと行動をともにしていた。

「おまえもか、ライナス・・・」

 疲れた顔で、座長が大きく息を吐く。ほかにも一座の何人かが、同様の別れを座長に告げに来たことを、彼はすでに知っていた。

 だが、ライナスは首を振る。

「いえ、俺の理由は、ほかのみんなとは少し違います」

 ほかの者はおおむね、故郷に残してきた親兄弟、親類や友人の安否を確認したいという理由がほとんどだった。だがライナスの理由は、もっと個人的な内容だった。

「俺はこの仕事が、人を笑顔にできる芸人という仕事が好きです、大好きです。本当に誇りに思っています」

「だったら何故、芸人を辞めるなんていうんだ。おまえもこれまで一緒に頑張ってきたじゃないか。とくに今は、こんな時だ。これからもっともっと、みんなに笑顔を届ける仕事をやっていこうじゃないかっ」

 瞬間、あのとき子供勇者からいわれた一言を思い出し、ライナスは人知れず途方に暮れた。

 はたして自分は、人を笑顔にすることが好きなのか。それとも笑顔の人を見るのが好きなのか。

 きっと、どっちも間違っていない。・・・でも、今となっては自信が持てなかった。

 ライナスは静かに、しっかりと強く首を振る。

「いえ、俺は芸人を辞めるつもりなんてありません。むしろこれからもずっと続けていきたいからこそ、俺はこうして座長に暇をもらいにきたんです」

 ライナスは語る。今日の昼にあった出来事を。

「そのことがあって、俺は気づいたんです。本当の意味で人を笑顔にするためには、まず世界が平和でなければいけないと。そうでなければ人は、心から笑うことなんてできないんです」

 さらに、魔物がこの町を包囲した際、町と住人を守るために戦って死んでしまった、あの小さな勇者の戦いの話をした。

「だけど俺にはきっと、いや絶対にあいつを倒すことなんてできない。つらく厳しい稽古けいこを続ければ、いつかあいつを倒せる日がくるなんて、そんな夢にも思えないことをいうつもりはありません。だから俺は他力本願にも、あいつを倒せるかもしれない力を持った逸材を探しに、旅に出ることを決めたんです。・・・もしかしたら唯一かもしれない、じかにあいつの強さを目撃した一人の人間として」

 このときにはすでに、あのときの魔族が魔族たちの王ーー魔王バオル=グシオンであることは広く知れ渡っていた。

「だから座長、俺はあいつが、いつか魔王が倒されて世界が平和になったときにこそ、また芸人として帰ってくるつもりです」

 そんな夢を求め、けれど生きて帰ってくることの叶わないであろう旅に、ライナスは出ることを決めたのだ。

「・・・そういえば、お前の実家は騎士だったか」

「その話はやめてください。俺にはもう関係のない話ですから・・・」

「いや、やっぱりお前は立派な騎士様だ。なに、敵と戦うだけが騎士の仕事じゃないさ。人に笑顔をもたらすことが目的の騎士がいたって、いいじゃないか。・・・そうだろ?」

 そんな座長の言葉に、「はいっ」とライナスは素直にうなずいた。


「なかには馬鹿な奴だって笑う奴もいたけど、でも最後には惜しむ顔で見送ってくれたっけ」

 嬉しいことに、座長だけでなく一座のみんな、旅の同行であった隊商キャラバンの面々からも引き止められた。しかも餞別せんべつとして少なくない旅費と一緒に物資まで融通してくれたのだ。

 道なりに歩いていくと、別れ道に差しかかる。

 一方は王都へと続く道だ。もう一方は、そのまま森に伸びている。

「俺が進む道は、当然こっちだな」

 迷うことなく、森のほうに足を向けた。

「王都に生き残った強い戦士がいるなら、そいつは魔物と戦ってくれるはずだ。わざわざ俺が行く意味なんてないからな」

 ライナスの目的は、魔王を倒してくれる可能性を持った、まだ見ぬ逸材の発掘だった。すでに知られている戦士を奮い立たせることじゃない。

 だから最初から、ライナスの旅路は辺境を行くと決めていた。

 季節は春、森を歩くには気分のいい季節だ。夏に比べてむせ返る草木の匂いも気にならないし、まして冬のような凍死寸前の気温や気候との戦いにもならない。

 道すがら、ライナスは目についた食材となる山菜やきのこ、木の実などを採取して歩いた。

 森の奥から、そこかしこで鳥の鳴き声が聞こえ、ときおり目にするウサギやシカなどは、こちらを一瞥いちべつするだけで、たいして気にした素振りも見せず立ち去っていく。

 世界の情勢とは裏腹な、ほんとうにのどかな旅だった。目的はあるがあてのない、人が聞けばお気楽とののしられかねないほどに。

 お昼を過ぎた頃、ライナスは荷物を開いて鍋を取り出し、料理を始めた。食材の多くは森のとれたて山菜と茸、木の実のサラダだ。あとは香辛料を少々と干し肉を入れる。

 腹を満たすと地図を広げた。ムトベルから、ずーっと歩いてきた道をなぞって確認する。

「このまま進めば、明日の昼には町につくな」

 ルルリアとある。壊滅状態と聞いた王都とは違い、こちらは被害が軽微という話だった。

 最初の目的地を、こちらに決めた理由の一つだ。

「でもやっぱり馬ぐらい買ったほうがよかったかな。・・・でもなあ、いまは何もかもが高くなってるからなあ」

 急激な物価の上昇だった。方々で流通が止まり、仕方ないとはいえ、いまは何もかもが足りない。食料や医薬品はもちろん、武具や馬なども高騰こうとうしていた。反面、貨幣かへいの価値が下落している。いまはお金より物資のほうが、ずっと価値があるようだ。

「きっと、これからもっと高くなるんだろうな。・・・あ、でも、そう考えると今のうちに買っておいたほうが得かも?」

 そんなふうに損得勘定していると、ふと違和感を覚えた。手にする地図から顔を上げ、しきりに周囲を見回す。

「なんだろ? さっきまでとなにかが違うような気が・・・」

 そして気づく。

「ああそうか、鳥の鳴き声か。・・・あと動物たちの気配が、少し遠くなったような気がする」

 はっきりとは判らない。けれど感覚として、何となくそう思った。

 これでもライナスは、人の気配に敏感なほうだと自負している。これは芸人として必要な資質だ。客の反応が悪いのに、その芸に固執こしつしていては飽きられる以前に、まず見向きもされない。

 この感覚が自然のなかでも通用するかどうか、ライナスはまだ知らない。

 遠くのほうで何かが聞こえた。なにやら長く尾を引く、動物の声だった。

「・・・ネコの声? でも、ここは森の中だから山猫の類か?」

 だが、森や山に乏しい知識であっても、野生の獣がそんな声を出しながら行動することが、いかにも奇妙だということは判る気がした。

 なにか良くないことが起ころうとしている。ライナスは急ぎ荷物をまとめた。


 声がしたほうとは反対に歩き出そうとして、ライナスは顔をしかめた。

 一瞬の逡巡しゅんじゅん。ちっと舌打ち一つ、声のほうに走り出す。

 森の小道を外れ、木々の間をすり抜けるように森の奥へと向かった。凸凹でこぼこと岩で足場が悪く、たまにある下草をまたいで走ると、運悪く向こう側に段差があって、足を取られて転倒した。すぐさま起き上がり、なおも走る。

 聞こえ続ける尾を引くネコの声に、獰猛そうな獣の声が大きくえた。

「どうか獣であってくれよ〜っ」

 祈りにも似た願いは、けれど目にする現実によって、たちまち裏切られた。

「いやぁ~~っ、こっちこないでぇ〜〜っ」

 小さな子供が、女の子が、巨大な獣に追いかけられていた。そいつの見た目はライオンそのもので、違いは爪や牙が異常に大きく鋭いことと、尻尾がサソリのものであるくらいだ。これで背中に蝙蝠こうもりの翼を生やしていれば、そいつはマンティコアと呼ばれる大物魔物だ。

「マンティコアの劣等種で、ライオンヘッドって奴かっ」

 はっきりいって、すでに後悔していた。この場に、のこのこやってきてしまった自分にだ。途中で気づかなければこなかった。知らなければ、それだけのこと。でも、気づいてしまったから来てしまった。そんな自分を呪いたくなる。

「こっちだっ、もう少しだけ頑張れぇ〜っ!」

 背負った荷物から数本、ライナスは細身のナイフを取り出した。これが彼の武器だった。

(四足の獣に、走力で勝てるわけがない。だったらここは、やるしかないっ)

 勝てる可能性は万に一つ。けれど逃げ切れる可能性は、完全にゼロだ。

「あっ」

 声に気づいた女の子が、ライナスのほうを見た。

 一瞬の躊躇ためらいのあと、

「えっ、なんでぇーっ!」

 女の子は、かまわず走り抜けてしまった。ラインヘッドもまた、そんな少女を追いかけていく。

 一瞬の間、ライナスは慌てて両者を追いかけた。

 向こうが助けを拒否したのだから、これ以上かかわる必要はない。そういえてしまえば楽だったが、相手が子供とあっては、そうはいかない。

「さすがにそれは寝覚めが悪すぎるだろうがっ」

 追いかけながらライナスは、内心ひそかに舌を巻く。前を走る女の子が、ちょこまかと右に左に進路を変えて、追手に的を絞らせない。

 子供であるため足は遅いが、そこは体の小ささが逆に有利に働いていると思われた。

 ライオンヘッドは接近するなり、口を大きく開けて噛みつこうとし、また前足で攻撃を仕掛けたが、そのことごとくは空を切り、木の根をえぐっただけだった。サソリの尻尾は論外で、足を止めて狙いを定めようとした時点で、終わっている。

 右往左往する両者を尻目、最短距離を直進してきたライナスは、ようやくこれに追いつく。

「あんっ」

 声を上げた少女にかまわず、小柄な体を小脇に抱えた。

「なんでとかいうのは無しにしてくれよなっ、俺だって自分が、なんでこんなことしてるんだろうって本気で思ってるところなんだからなっ」

 早口で怒ったようにいってしまったのは、単純に怖いからだった。次の瞬間死んでいても、殺されていてもおかしくない。

 走る速度は多少上がったが、代わりに小回りが効かなくなった。ライオンヘッドの攻撃的中率が格段に上がる。それでもかわすことができたのは、背後を見据える少女のおかげだ。

「右からきてるっ。今度は左っ。口を開けて突っ込んできたあっ」

「こっちかっ。次はこっちだなっ。口ってことは、まっすぐだよなーっ」

 右に左に避けながら、ライナスは違和感を覚えていた。さきほどからライナスは、少女が指示するとおり右に、左にと避けていたが、どうもライオンヘッドの攻撃は、そのまま右から、左からときているようなのだ。

 つまり、こういうことだった。少女は右から攻撃がきていると見たままをいっているのに対し、ライナスは少女が指示したとおり、右に避けているといった具合なのだ。

 しかしこれが、たまたま上手くいっていた。相手の右からくる攻撃を、あえて自ら、そちらに向かって避けていたおかげで、これがたまたま偶然、まるで達人のような紙一重の回避につながっていた。

 だがそんな神業かみわざ、そうそう長続きするはずがなかった。それはライナスも承知している。

「逃げ切れる可能性はゼロ、勝てる可能性は万に一つ。だったら最初から、やることは決まってるだろうがっ」

 ライナスは走りながら、荷物から取り出すある物を、大体の見当をつけて後ろに向かって放り投げた。

 間をおかず、ガシャッと硬く砕ける音がして。

 まっすぐ追走するライオンヘッドが、地面に転がしたガラス瓶を踏み砕いた。

 驚きと痛みに、ライオンヘッドが苦痛に吠える。

 この一瞬を見逃さず、ライナスは反転する勢いを利用して投擲とうてきした。右手につかんだナイフは三本、これを一度に狙った箇所、ライオンヘッドの左右の目玉に向かって投げつける。

 だがこれは、前足の一振りで二本を、さらにはサソリの尻尾に一本を叩き落された。

 わずかに後ずさるライナスと、ガラス瓶を踏んづけた肉球を舐めながら、一歩を踏み出そうとする魔獣ライオンヘッドーーその眼前に、すっと影がよぎった刹那のとき。

『っ!』

 さきほどとは比べ物にならない絶叫が、魔獣の口からほとばしる。むちゃくちゃに振り回した頭、その右目には一本のナイフが突き立っていた。

「これで諦めてくれるのが、野生の獣なわけだけど・・・」

 ライナスが右手につかんだナイフは三本。けれど左手に隠し持っていた一本を、彼はライオンヘッドの死角となる上方から、大きく弧を描いて投げつけていたのだ。

「さすがにおまえは、退いてはくれないんだろうな・・・」

 このナイフに力はなく、その重量と重力による加速だけで、すべての生物にとっての弱点といえる箇所、目玉を貫いた。ここに防御力は皆無のはず。

「さあ、どうする。おまえの獲物は変わらず、このお嬢さんかな? それとも大事な目玉を奪った、この俺かな?」

 頭を激しく振った勢いで棘が抜けたように、ライオンヘッドはゆっくりと隻眼になった顔を持ち上げた。そして見る。激しい憎悪を込めた目で、憎き敵、ライナスの顔を正面から見据えて。

「さあっ、一世一代の大勝負っ。文字通り命をかけたショーの開演だっ」

 ごおぉっと獣が吼えたのと同時、ライナスは背負った荷物と一緒に少女を放り出した。

 そうして駆け出した先は、ここまで逃げながら目をつけていた、ライナスにとって唯一勝ちを拾えるかもしれない絶好のポイントだった。

 ライナスは後ろを振り返り、前と上に向かってナイフを放つ。だがライオンヘッドは首をわずかに動かしただけで、まったく動じなかった。上に投じたナイフには見向きもしない。

「ゲストに対してリトライは無しってことかっ」

 すでに小細工は通用しない。魔物はライナスを殺すべき敵と定めている。狩りの時間は終わった。ここからはるかられるかの真剣勝負、相手に有効打を与えたほうだけが生き残れた。

「けどそうするとっ、俺のほうが圧倒的に不利だよなっ」

 そもそも走力に差がありすぎた。それでも気力を振り絞り、ライナスは走りに走った。

 ほかでもない、生きるために。

「こんなことならマタタビでも用意しておけばよかったかっ」

 下らないことをいってしまうのは、単純に怖いからだ。次の瞬間死んでいても、殺されていてもおかしくない。

(なんかこれっ、さっきも同じこと考えなかったか、俺っ!)

 背後の気配が近くなる。ライナスは無理やり体をひねって横に跳んだ。軽く後ろに引っ張られた感触があり、ついで熱さが背中を襲った。

「爪で引っ掛けられたっ。でも、それだけだっ。致命傷じゃないし、サソリの毒針でもないっ」

 大地を転がる勢いを利用して、すぐさま起き上がった。なおも走る。

 ライナスは自分の力で、技量で、こいつを倒せる自信なんてまるでない。だが逆に、自分の力で倒せない自信なら、たっぷりとあった。

「戦いの基本は3つの利だっ。人の利っ、地の利っ、時の利ってやつだっ」

 人数や人材。地形や戦場、種目など。季節や時間帯、天候などを指す。

 そしてこの場に、人数の要素はなかった。勝負のときは今、変えようがない。ならせめて地の利だけでも味方にできなければ、ライナスに勝ち目はまったく見えない。

「見えたっ。あそこが俺の唯一の勝機っ」

 木々の間を抜けた先、森の中にぽつんと空いた空き地のような場所があった。そこだけ小さな草原のようになっている。赤や黄色、青にピンク、紫の花々が春を盛りと映えていた。

 ライナスは歯を食いしばり、無作法を承知でそこを突っ切る。さらに走る速度を限界まで上げた。なにをいわれようと、これ以上はもう速くならない。

 後ろからは変わらず、ライオンヘッドが猛追してくる。しかも巨獣は、せまい木々から開放されて、さらに走る速度が格段に上がった。

 さほどなかった両者の距離が一瞬でなくなり、ライオンヘッドは大ぶりのナイフのような鋭い爪を、無慈悲にも振り下ろした。

 ライナスは、これを紙一重で躱した。右でなく、左でもない。前でも後ろでもなく、上に飛び上がって回避する。

 草原の向こう。新たに続く森の手前、そこに転がっていた岩を足場に跳び上がり、積み上がった大きな岩の上に乗って、さらに跳ぶ。そしてその大岩さえ足場に、重ねて跳んだ。だがそこで終わらず、ライナスは最後にもう一段、今度は木の幹を足場に跳躍する。

「これが俺の軽業師げいにんとしての実力だァああああァァァァ〜っ!」

 一呼吸の間に、ライナスは7mほどの高さまで昇りつめた。空中で反転し、頭を下に落下する。その手には抜き放つ、大ぶりのナイフを携えて。

「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ〜っ!」

 ナイフを下に落ちるライナスを、ライオンヘッドは後ろ足で立ち上がり、その鉤形爪を両手に伸ばして迎え撃つ。

 両者は激しくぶつかり合って、もつれ合うように草原に倒れた。

「くっ」

 考えるより先、ライナスはすぐさま体を起こした。その手からナイフが消えている。

 そして見た。相手の潰れたばかりの右目。そこに突き刺さる、大ぶりのナイフの存在を。

 ナイフの刃は、その根本まで埋もれていた。おそらく脳まで達している。

「・・・やっ、た・・・」

 思わず、笑みがこぼれた。ライナスは右手に拳を作ろうとして、その肩に痛みが走る。

 見ると、血が滲んでいた。思うに最後、ライオンヘッドの爪がかすめたのだろう。だが目測を誤り、致命傷には至らなかった。隻眼になったばかりだから。

「紙一重の勝利ってやつか・・・。でも、勝ちは勝ちだ・・・」

 もとよりライオンヘッドの隻眼は、ライナスが与えた負傷だった。運ばかりとはいえない。

「やっぱり、このお守りのおかげかな」

 ライオンヘッドの右目から回収するナイフを、ライナスはしげしげと眺めた。

 これは、あの日、あの小さな勇者が腰に差していたナイフだった。

 本来なら、これは形見の品として、親元に返すのが常識ある行いのはず。

 だがライナスは、そうはしなかった。誠に勝手ながら、お守りとして預からせてもらった。魔王の剣は折れ、ボロボロに朽ちていた。そして見つけたのが、このナイフだ。

「このナイフを手にしてることが、俺が旅を続ける理由の一つだ」

 わずかにある罪悪感は、そのまま決意の表れとなる。

 ふぅ〜っと長く、ため息一つ。ライナスは残してきた少女のもとに帰ろうとした。

「・・・・・・ぅっ」

 ふと、小さなうなりが聞こえて振り返ると。驚くことに、ライオンヘッドがまだ生きていた。だが今にも死にそうで、痙攣けいれんするようにうごめくばかり。

「・・・悪いな。でも俺も、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ」

 死に切れない苦痛にあわれを覚え、せめて介錯してやろうと思い、ライナスは一度は納めたナイフを抜いた。そのまま無造作に近づいて、心臓を一突きにしてやろうと振りかぶり。

「ーーッ!」

 大きく空いた脇腹に、なにやら鉄の塊のような物体がぶつかってきた。

 ライナスは地面を四転五転、10mほども転がった地点で、ようやく止まる。

「・・・いったい、なにが?」

 這いつくばるまま視線を上げたが、どこにも敵なんていなかった。

 ひどく痛む脇腹を押さえながら起き上がろうとして、ライナスは体に力が入らず、滑り落ちるように前のめりになって草花に沈んだ。

(・・・あ、れ?)

 声を発しようとして、代わりに血を吐いた。妙に息苦しいと思ったら、盛大に鼻血を垂れ流している。ライナスはわけも分からず、徐々に視界が赤く染まっていくのを見ていた。自分ではわからなかったが、目から血の涙を流している。脇腹の骨は粉々に折れ、なにかがぶつかったと思われる中心には、大きな穴がいていた。

(サソリの尻尾かっ!)

 これに刺された。ライナスは完全に失念していたが、こいつは野生の獣ではなく、正真正銘ライオンヘッドと呼ばれる魔物だった。

 なのに、いったい何を勘違したのだろう。ライナスは苦しむ敵を哀れみ、介錯してやろうと無防備に近づき、取り返しのつかない痛手をこうむった。

(はやく薬をっ)

 薄れゆく意識の中で、かろうじてそう思ったが、けれど無駄だった。

(・・・荷物が、ないっ)

 全部、少女と一緒に置いてきた。仮にこいつの毒に有効な解毒薬を持っていたとしても、この場には存在しなかった。そしてこの毒は、すぐに対処しなければ間に合わない。

(ここで、終わり・・・なのか? こんなにも早く、俺の旅は、終わるのか? まだなにもやってない、まだなにも、始まってもいない、って・・・いう、の、に・・・・・・)

 徐々に狭くなっていく視界が、完全に黒一色に染まる頃、ライナスは完全に意識を手放した。

 最後に夢見た光景は、芸を披露する自分に笑顔を向けてくれる幼い子供たち、さきほど助けようとした少女の姿だったことは、はなはだしい皮肉だっただろうか。

 ともあれ。弱冠二十歳になる人間の青年、ライナス=アドベージェスが目を覚ますことは、もう二度とない。・・・彼は、その生涯を終えた。


 黒に近しい濃紺のうこんの海に、様々な色彩しきさいを放つ無数の小さい光点が見えた。

 肌に感じた撫でるような刺激は、吹いた風だっただろうか。

 草の強烈な青い匂いの中に、花々の甘い香りがふわりと混じっていた。

 風が揺らした葉擦れの向こうから、夜の森の番人であるフクロウの声が遠く聞こえる。

「・・・・・・・・・?」

 黒に浮かんだ光点に触れようとして、引き裂くような鋭い痛みを右の脇腹に感じた。

「痛っ、た・・・くない?」

 左手でさすってみるが、どこにも怪我をした痕跡がない。

 彼、ライナスは起き上がり、暗闇に目を凝らしてみたが、やはり服が裂けているだけで、そこに怪我をした痕跡がない。だが、その代わり、右脇腹の服が一面、乾いた血が赤黒くなって固まっていた。さきほどの痛みは、どうやら服と皮膚に張り付いた血を、無理やり引き剥がしてしまった所為らしい。

「・・・俺、どうしたんだ? ・・・死んだんじゃ、なかったのか?」

 妙にごわごわする顔を触ってみると、こちらもやはり血が乾いて固まっていた。服の袖で乱暴に拭い、ばりばりと血を剥がす。

「あれ? ライオンヘッドがいない? 死体もないみたいだから、傷を癒やすことを優先して、俺のことは見逃してくれたってことかな?」

 あるいはライオンヘッドとの死闘自体、夢かと想像したが、でもそうじゃなかった。

 すぐ隣に、ライナスの荷物を枕にして眠る、あの幼い少女がいたのだ。

「・・・ずっと、泣いてたのかな?」

 目のまわりが赤く腫れていた。

「でもよかった。この子には怪我はなかったみたいだ」

 生来のお人好しらしく、心底からほっとする。脱力し、草原に仰向けになって倒れた。

 その眼前に、ぬっと影がさす。

「ひぃっ」と声を上げて飛び起きたが、なんてことはない。そいつはただの鹿だった。ライオンヘッドじゃない。立派な角を生やした牡鹿おじかである。

「なんだ、こいつは?」

 疑問をよそに、とうの鹿は少女に鼻先を向けた。しきりに匂いを嗅ぎ回る。

「この子のことを、心配してるってことなのか?」

 声に反応したらしく、鹿がライナスのほうを見た。「なんとかしろ」まるでそういっているように思えたのは、はたして気のせいだろうか。

「そういえば、少し肌寒いか」

 どれだけ寝ていたかは知らないが、すでにあたりは真っ暗だ。春になったとはいえ、陽が沈んでしまえば、まだまだ肌寒い季節である。しかもここは森の中だ。その冷え込みは一入ひとしおだった。大人のライナスはともかく、こんな小さな子供では風邪を引いてしまうかもしれない。

「ちょっと失礼するよ」

 眠っている子供に声をかけ、荷物を回収しようと、少女の頭にそっと触れた。

「あれ? この子、ちょっと熱すぎないか?」

 少女の体が異常に熱い。いくら子供の体温が高いとはいえ、この熱さはただ事じゃなかった。

「風邪を引いたのかな? いや、それよりアレだ。あんなバカでかい魔物に追いかけ回されて、それで怖くて緊張したとか、とにかく必死で、そういう諸々の疲れが出たんだろう。そうでなくとも子供は体調を崩しやすいっていうからな」

 荷物の中から固形ではなく液状の解熱剤の瓶を取り出し、これを少女に飲ませた。毛布をかけ、衣服を丸めて枕に寝かせる。

「これで落ち着いてくれるといいんだけど・・・」

 解熱剤を探していて気づいたが、荷物の中から解毒薬がなくなっていた。

「助けようとして、逆に助けられたってところかな?」

 だが、に落ちない点もある。

「でも解毒薬だけじゃ、あれだけの怪我が一瞬で治るはずなんてない。・・・いや、違うか。そもそもどんな薬を使おうと、あれだけの怪我がこんなにも早く治ることなんてありえないんだ」

 その証拠に、傷薬は減っていなかった。

 なら、ライナスの怪我は、いったいどのようにして治癒されたのだろうか。

「それを知ってるのは、きっとこの子だけなんだろうな・・・」

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