#16 洞窟

 紀子を連れていくことへの不安と、紀子を置いてゆことへの不安とが漠然と渦を巻く気持ちのまま、俺の手は濡れちゃ困るものをまさぐっていた。

 まずは財布とタバコとジッポーライター、後は――とポケットの中、指先が触れたのはあの茶封筒。

 すっかり忘れてた。

 ほんの数日前までの池袋での日々から、ずいぶんと遠くまで来ちまったんだな。

 いや「来た」んじゃねぇよな。

 俺はこの村出身なんだから「戻った」だよな。

「なにそれ。ラブレター……じゃないよね?」

 紀子が覗き込む。

「そんないいもんじゃねぇよ。多分この字は……」

 恐らく、ばーちゃんから。

 しかもこのタイミングで。

 運命なんていう他力本願な言葉は好きじゃねぇが、なんというか兄ちゃんとか両親とかじーちゃんたちの意思のようなものを感じてもいた。

 だからすぐに開く。

 先ず手のひらへと転がり出てきたのは……何だこれ。

 全体的に灰色の、ハート型のオブジェ?

 見た感じ縦は十何センチ、幅は十センチないくらい。手のひらに収まるか収まらないか、ぐらいの。

 紐を通す穴のようなものが一応空いてはいるが、クリスマスツリーに飾るには地味そうだ。

「大きな魚の鱗とか? ……あれ? 後ろなんかついてない?」

 紀子の指摘通り、後ろ側には小さなボタンのようなものがついている。

 試しに押してみると、ハートの先端部分から何かが飛び出した。

 ボールペン? いや、針か。

 その針はボタンから指を放すとすぐに引っ込んだ。

「なんだろうな」

「見せてー」

「指を怪我しねぇよう気をつけろよ」

 興味津々に見つめている紀子へそれを渡すと、俺は改めて茶封筒を覗き込む。

 あとは便箋が一枚だけ。書かれているのは……。

『御守り』

 ばーちゃんの字。

 余計なことは一切書いてないの、ばーちゃんらしいっちゃらしい。

 でもな、ばーちゃん。これだけじゃ皆目見当がつかんのよ。

「It's a shark tooth !」

「鮫の歯かぁ、かっこよ!」

 なんか盛り上がっている二人の方を見ると、紀子がどこから取り出したのか銀色の鎖を「鮫の歯」とやらの穴に通してネックレス化していた。

「どうしたんだ、その鎖」

「去年の誕生日にもらったの」

「そうか。じゃあ大事に持っといてくれよ。それ、御守りらしいからさ」

「そうだよ。大事にしてね」

 紀子はいきなり俺に抱きついてきた。

 いや、変な意味の贈り物じゃ――と一瞬、身をこわばらせた俺の首の後ろで紀子の指がモゾモゾと動く。

「紀子?」

「大好きなおばあちゃんのね、形見分けなの。大事な大事なシルバー・チェーンだからね。必ずちゃんと帰ってきて、手渡しで返してね」

 紀子が俺にしがみついたまま、動かない。

「ああ、必ずな」

 俺は紀子の頭を撫でながら、そう答えた。


 俺はずっと紀子を守っているつもりだった。

 でも紀子は紀子なりにいつも俺のことを守ろうとしてくれているように感じる。

 兄ちゃんも言ってたな。

 「助ける」とか「教える」とか「信じる」っていうのは一方通行じゃないんだって。

 助けることで助けられることもある。

 教えることで教えられることもある。

 信じることで信じてもらえることもある。

 今がまさにそれじゃないか。

 俺は紀子を守ることで、守られてもいるんだなと、実感する。

 紀子の年齢は俺の半分ほど。

 一方通行じゃないなんて名言を俺に言ってくれた兄ちゃんだって、今の俺の半分くらいの年齢だった。

 そんな未成年たちに支えられまくって――大人のはずの俺は何やってるんだろうな。

 長いため息を吐く。

 銀の鎖にぶら下がる鮫の歯をシャツの内側へとしまう。

 大人とか子供だとかそういうことにこだわっていること自体、ガキ臭ぇじゃねぇか。

 俺は池袋鮫。

 食らいついたら放さない――だろ?

 なのにまだ、できることを全てやり尽くしてもねぇ。

「もう一つ、先に確認しておきたいものがある」

 さゆりちゃんの日記帳を取り出し、開いた。




 岩をどかして二十年ぶりくらいに現れた洞窟の海中部分を先へと進む。

 サワダの持つ強力なLEDライトがすぐ先に海面があると知らせてくれる。

 俺は紀子の手を強く引きながらその空間へと顔を出す。

 暗闇の中、光を走らせて、岩の比較的なめらかな場所を選んで水から上がった。

 肌寒さはすぐに落ち着いた。

 外よりも明らかに暖かいし、乾燥もしている。

 これは今でも工場からの排気が送られてきているままだと考えていいのか?

「足下、気をつけろよ」

 ビニール袋を大事そうに抱える紀子の手を引いて、水から上がらせる。

 サワダも上がってきて、小さなLEDランタンを点けた。

 照らされた洞窟内は、記憶よりも少し狭く感じた。

 あの頃よりも明かりが強力だからか、もしくは俺が大人になったからだろうか。

「紀子、風邪引くぞ。体を拭いておけ」

「……うん」

 紀子はその場へしゃがみ込み、緩慢な手付きで二重ビニール袋を開く。

 俺のと紀子のと二人分の靴を出し、続けてハンドタオルを出して……ぼんやりと見つめている。

 さっきから紀子の元気がない。

 さゆりちゃんの日記帳を見たからだろうな。

 あの秘密の日記帳には、工場についての様々な情報が書き込まれていた。

 工場の見取り図、村の外から実験体として連れてこられた人たちの身元と思われる情報、工場へ出入りする例の企業に属する連中の名前、工場は閉鎖なんかされていなかったことや、政府の研究所というのも嘘なこと、研究所の所長の名前が網場あみば時景ときかげというのだということまで。

 その名前はサワダも知っていた。

 網場は旧陸軍731部隊に所属しており、戦後は例の軍需企業にスカウトされた研究者だという。

 もっととんでもないことも書かれていた。

 村人全員が実験体とされていたことが。

 かまぼこ工場で作った特別な「かまぼこ」を村人へ無償提供していたのは俺もなんとなく覚えていた。

 そのかまぼこ支給が、村長の善意ではなく、ハイブリッド・ディープ・ワンへの爆発的な変異能力の負荷に体が負けないよう、実験体である村人の体を慣らすためであったと書かれていた。

 人間の兵器化は、二段階に分けて行われるのだという。

 気付かないうちに村人全員が呪われた血を入れられていたと書かれていた。

 タモっちゃんが「適合」したこと、さゆりちゃんやマリ子さんは、その血が体に合わなかったのだということも。

 最後のページには、セロハンテープで、メモリカードが貼り付けてあった。

 紀子がブルートゥース対応のメモリカードリーダーを持っていて読み込んだら、さゆりちゃんの日記に書かれていることの裏付けとなりそうな情報がたくさん記録されていた。

 その横に俺を名指しで「ようすけくん、助けて」と、十年前の日付と共に。


 さゆりちゃん。

 すごく――すごく遅くなってごめんな。

 でも俺は来たぜ。

 話したいことはいっぱいあるけど、今は感傷に浸っている時間はねぇんだ。

 俺は大人だからさ、やるべきことを先にするんだ。

 タモっちゃんから託されたアレとさゆりちゃんのデータはあの多機能ボートに乗せ、自動操縦でインターポールの母船へと送った。

 あと必要なのは、ここに本当にそれがあるという証拠。

 サワダと俺で潜入して工場を撮影して送れば、すぐにインターポールが踏み込んでくる――そういう算段。


 紀子が眺め続けているハンドタオルを取り上げ、紀子の顔と肩とを拭いてやる。

 ハッとした表情で俺を見る紀子へタオルを返すと、俺は数歩下がった。

「紀子、ショータイムだぞ」

 俺は腰を軽くグラインドさせながらもったいつけてTシャツを脱ぎ、雑巾みたいに固く絞った。

 そのTシャツを改めて着ると、今度はトランクスへと指をかける。

「No! 教育上、ヨロシクナイネー」

 サワダが照明を消す。

 紀子のやつ、ピクリとも笑わなかったな。

 まあこの間にトランクスも絞っておくか――と脱いで絞り始めた途端、サワダのヤツ、明かりを点けやがった。

 本来ならばツッコミ入れるべきな俺も無言のまま耳をそばだてる。

 洞窟の奥の方からサイレンが聞こえたから。

 あのサイレン――工場の方で何かあったってことか?

「Could it be...タカコ?」

「ちょっ! 痴漢っ! 変態っ! 色情狂っ! さっさと隠すか履くかしてよっ!」

 あっ――俺は慌てて絞ったトランクスを履く。

「ごめん」

「Sorry...ゴメンナサイ、ネー」

 紀子は頬を赤らめながら二重ビニール袋から俺のズボンとシャツと靴下とを出してくれる。

 ミリタリージャケットは、さゆりちゃんの鍵だけ出して紀子の肩へとかける。

「体冷やすなよ」

「うん……」

「タカコ、心配デス! 早ク、進ミマショ、ネー」

「そうだな。当時のルート思い出してみる。サワダ、ライト借りていいか?」

「モチノロン、ネー」

 受け取ったライトを洞窟の奥へと向ける。

 二十年前の蓄光クリスマス飾りが今も反応してくれるかどうかは怪しいが――マジか!

 俺はとっさに紀子の手を引いて、俺の後ろへと回らせる。

 岩陰に白いものが見えたのだ。

 骨だった。

 人の体に、鮫の頭を無理やりくっつけたような、歪な骨。

「ごめん、洋介。見ちゃった……でも、大丈夫だよ。だってこの人、洋介のお兄ちゃんでしょ?」

 紀子の振り絞るような声の横でサワダが情けなく頭を抱えてしゃがみ込んでなければ、もっと感動的なシーンになったかもなんだけどな。

 でも、おかげで気持ちの切り替えには役立ったよ。

 兄ちゃん、ごめん。

 もう死んじゃっている兄ちゃんも後回しでいいだろ?

 タモっちゃんやタカコが危ない気がするんだ。

 兄ちゃんが居ない今、俺が皆の兄ちゃんになるんだ。


 俺たちは兄ちゃんに手を合わせて先へと進む。

 その間、サワダがディープ・ワンとハイブリッド・ディープ・ワンについて説明してくれる。

 ディープ・ワンは、骨も含めて人間が半魚人のように変形する。

 何年もかけ、その変形は一方的だ。

 陸上での移動が遅くなるが、水の中で呼吸は可能だし、人間よりも早く泳げる。

 身体能力も、人間よりも強靭になるのだとか。

 しかしハイブリッド・ディープ・ワンは、細胞の爆発的な増殖と細胞死アポトーシスとを繰り返し、一瞬にして変身する。

 陸上での活動能力も維持したまま筋力は増強され、驚異的な回復力を備え、しかも双方向変形を行う。

 しかもハイブリッドの方は、それぞれが別々の魚の形状を有し、しかもその魚が持つ特性を使える者もいると。

 兄ちゃんがハイブリッド・ディープ・ワンの姿のまま亡くなっていたのは、人間状態のときよりも回復力が高いと判断したのではないかとサワダは診断した。

 というのも、兄ちゃんの左腕の肘から先と左足の膝から先がなかったから。

 その先端は布で止血したと思われる形跡が残っていた。

 骨の砕かれ方を見たサワダは、自分で咬み千切ったのだろうと言った。

 洞窟の入り口を爆破して自分の死を偽装し、ほとぼりが冷めてから戻るつもりだったのかもしれないと。

「呪われた血って違うよね」

 ずっと黙って聞いていた紀子が突然しゃべり出した。

「どうした?」

「その軍需企業とか、網場とか、そいつらが勝手にけがしただけじゃない!」

「だな。ありがとうな、紀子。だけど涙を拭いて、そろそろ声を抑えよう。もうそろそろ排気口が近いはずなんだ」

 紀子は小さな声で「うん」と答えた。


 しかし、覚えているもんだな。

 蓄光のクリスマス飾りは、光を蓄える効果はもう本当にほとんど残っていなかったが、そこに存在しているというただそれだけで、俺を支えてくれた。

 劣化した飾りの代わりに、サワダが持ち込んだLEDマーカーを置いてゆく。

 あのタブレットからブルートゥースを飛ばすと光らせることができるというもの。

 技術の進化に関心しつつも、黙々と道を思い出し、探し、進み続ける。

 排気口へ繋がる場所から折り返すように、別の横穴へ。

 そして俺たちは程なくして辿たどり着いた。

 二十年前に俺が侵入した、ゴミ捨て場近くの水路へと降りられる穴へと。

 付近の岩場へ楔を打ち込み、米軍御用達の特殊ロープとやらを結びつける。

 俺とサワダが降りたらロープを上げるよう紀子へ頼むと、サワダがあのタブレットを紀子へと渡して画面の一点を指した。

 電波がわずかだが入っている。

 遠隔であのボートを呼び寄せることができる、ということ。

 紀子は無言で頷いた。






● 主な登場人物


笹目ささめ洋介ようすけ

 笹目探偵事務所の所長。二十七歳。三島建設代表取締役の次女紀子のりこ捜索依頼を引き受けた。紀子と一緒に故郷を訪れ、そこで故郷の村の真実に気付いた。今できることをやるだけ。


・三島紀子

 三島建設代表取締役三島行男ゆきおの次女。洋介と一緒に行動する覚悟を決めた。


綯洗ないあら陶蝶とうてふ

 作家。伊豆の名家の生まれ。代表作は『魔女狩られ』と『海の王』。一作目は実際の事件を元にしたと言われ、二作目は遺作で断筆。


・洋介の兄

 中学卒業後、工場へ勤務。プロ野球選手になる夢があった。工場へ迷い込んだ洋介を助けた後、兄弟秘密基地の洞窟で死亡していた。The hybrid deep ones 化していた。


・洋介の両親

 工場が有害だとして閉鎖されたあと、それを監視する「政府の研究所」で働いていたが、洋介が工場へ忍び込んだ直後に「自動車事故で帰らぬ人になった」と研究所の所長に告げられた。


・洋介の祖父母

 漁師だったが、祖父は洋介の「両親の事故死」の日までは生きていた。その後、祖母は関東を転々とし、洋介を別の親戚へと預けた後、現在は沖縄在住。


・洋介の曾祖叔父ひいじーちゃんの弟

 体が弱かったが、太平洋戦争中に墜落したアメリカ人パイロットを助け、村長にもなった。十年ちょい前もまだ村長をしていた。


・タモっちゃん

 洋介の幼馴染で、一番家が近かった。本名はたもつ。The hybrid deep ones 化していた。


・さゆりちゃん。

 洋介の幼馴染で初恋の相手。本名は小百合さゆり。十七歳で亡くなった。遊園地に行ってみたいと言っていた。The hybrid deep ones の適性がなかった。


・のろまのひろし

 洋介の幼馴染。


・マリ子さん

 さゆりちゃんの母。現在も村に残っている。十年ちょい前に夫を、十年前に娘を失っている。The hybrid deep ones の適性がなかった。


高古たかこ孝子たかこ

 洋介の幼馴染。いつも洋介の後ろをひっついてきた。幼少時は自分の名前をちゃんと言えなかったため「タコのタカコ」と呼ばれていた。この村に拠点を置く軍需企業の秘密を暴こうとしている。


・ふくはらときじ

 デブふく。洋介よりも早く村から引っ越していった。恐らく喫茶店で会った力士、福乃海。


・ケンヤ・サワダ

 INTERPOLのAgent。上半身裸に見えるが薄手のウェットスーツっぽい。下半身は青っぽいミリタリーパンツ、髪の毛は短い。タカコと共にこの村に拠点を置く軍需企業を追っている。タカコにフラレ続けている。


・The deep ones

 ディープ・ワン。十九世紀初頭、マサチューセッツ州の小さな港町インスマウスで公的に知られるようになった「インスマウス病」という伝染病のようなものに罹り、普通の人間が魚みたいな蛙みたいな醜悪な生き物に変化した状態のこと。


・The hybrid deep ones

 ハイブリッド・ディープ・ワン。その後の人体実験によりディープ・ワンを超える超人兵器として開発された存在。見た人に与える衝撃は、ディープ・ワンを凌駕する。

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