#13 転機

 いやいや、タモっちゃんの後ろ姿を見送っている場合じゃない。

 急いで紀子の元へと戻る。

 いまだ放心状態だ――そうだよな。

 最初の魚男を見たとき、あの街の住人の大半がおかしくなっていた。

 人って理解できないモノに遭遇すると心を落としちゃうことがあるって――誰が言ってたんだっけかな。

 とにかく早く紀子を介抱しなきゃだ。

「紀子、紀子っ」

 肩をつかんで軽くゆする。

「大丈夫か? 紀子」

 頬を軽く叩いてみる。

「……ん……洋介? え、私……」

 意識が戻ったな。

「紀子、ごめん……俺が」

「ううん……私が、飛び出したりしたから。声を出したのだって私だし」

「いや、結果的に紀子が傷ついたら俺の責任だ」

「なんで? 私が悪いのに」

「ここへ来る判断をしたのは俺だしな。それが大人の責任ってやつなんだ」

「洋介……」

 紀子は俺にしがみつく。

 大きな深呼吸が聞こえる。

「マリ子さんのとこでトイレ借りといて良かった」

 ん?

「大丈夫。もう足手まといにはならない。行こうよ。工場へ行くんでしょ?」

 ああそうか、タモっちゃんとのやり取りの間は、意識が飛んでたのか。

 そのタモっちゃんは、さっきの上り坂を三本松の方向へ登っていったようだ。

 分校へと続くこの小径と、あの三本松の道との分岐点まで車が下りてきた気配はまだない。

 引き付けてくれているうちに真魚島へ――本当はここで紀子だけ車へ戻しておきたいが、今あっちに近づいたらタモっちゃんのせっかくの陽動が無駄になりかねん。

「とりあえず今、三本松の方へ近付くのは危険だ。だからいったん村へと戻る」

 緩やかな三本松の坂からこの小径を通る道を、当時の俺たちは「大回り」と呼んでいた――つまりもっとショートカットできるルートがあるってこと。

「わかった。でもそしたらあっちの坂道に戻るのも危険じゃないの?」

「ああ。だから賭けてみる」

 そのショートカット――「近道」がまだ残っていることに。

 鎖の巻かれた分校の門を乗り越える。こっちには鉄条網がなくて良かった。

 紀子にも手を貸し、乗り越えてもらう。

 ガラスが破られている校舎へは、鍵を外して窓枠を動かし、簡単に侵入できる。

 中を通り抜け、それほど広くない校庭へと抜ける。

 雑草だらけの校庭を突っ切って壊れかけた柵扉の間際まで。

 この辺は柵の向こうが崖になっていて、崖下からは五、六階建てのビルくらいの高さはある。

 下を覗き込むと鉄製の非常用階段がまだ残っていた――かなりサビっ錆ではあるが。

 降りきるまで壊れないでくれたらいいが。

 本来ならばこの「近道」は村から丸見えだったのだが、今は幸い竹林が目隠しになりそうな位置にわさっと生えている。

「近道が残ってた。まずはここを降りる」

 柵扉の向こう、非常用階段へと踏み出し、激しい錆が俺たちの体重を支えられる程度かどうかを確認してみる――行けそうだ。

 というか、行くしかないのだが。

「紀子」

 紀子へと手を延ばすと、紀子は決意した表情で俺の手を取り――しゃがみ込んだ。

「無理。この高さは無理」

 参ったな。高所恐怖症か?

 車が一台、分校の向こう側で急ブレーキをかける音が聞こえた。

 タモっちゃんは一人だった。

 いくら魚男へ変身したとしても、車が何台もあったらその全ては抑えきれないだろう。

 ということは時間勝負だ。

「じゃあ、目をつむってろ」

 紀子を背負い、その両手を俺の首に回させてしっかりしがみつかせる。

「つ、つかんだ」

「もしかしたら時々、手を放すかもしれない。しっかりな」

「はいっ」

 紀子は両足でも俺の腰をしっかりホールドする。

 出来るだけ急いで、そして出来るだけ音を立てず、俺は非常階段を下り始めた。

 あまり大きな音を立てたら気付かれかねない。

「舌噛むかもだから歯ぁ食いしばっててな」

 紀子は頭で背中にこつんと返事。

 音を立てないよう、そして錆で劣化した非常階段を踏み抜いてしまわぬよう、細心の注意を払いながら、俺は下り続ける。

 何かあったときのためと筋トレを欠かさずやっていた自分に感謝だな――なんて調子に乗ったからか?

 まだあと二階分くらいは残っている所で俺のかかとが階段を大きくぶち破った。

 すぐに足を引いたおかげで怪我はないが――今の音、大丈夫だったか?

 いや最悪の場合を考えろ。

 時間はないし、ここから先もまだぶち抜く危険性もある――じゃあ、と俺はそこから地面へと跳んだ。

 笹が積もっている地面は予想通りクッションになってくれた。

 足跡が丸見えにならないよう軽く笹を散らして、すぐに竹林へと駆け込んだ。




「紀子、もうしゃべってもいいぞ」

「……ふぅ」

「すまんな」

「なんか時々うろついてたっぽいね。洋介の背中からだとよく見えなかったけど」

「見てもいいことないぞ」

 見えないでいいんだよ。

 うっかり悲鳴でも出ちゃったりしたら大変だったから、ずっとここまで背負ったままで来た。

「海の匂いが濃いね」

「浜辺にかなり近い廃屋だからな」

 村の中はサイレンが鳴ったからだろうか、さっきとは違って人の気配がちょいちょいあった。

 何人かは頭が魚だった。

 そういうのを避けていたら、本当は紀子を匿ってもらおうと思っていたマリ子さんの家へは近付けなかったのだ。

「真魚島へ行くんでしょ? その……泳ぐの?」

「そのつもりだが?」

「……私、泳げないわけじゃないけど、海で泳いだことないし……海って塩っぱいんでしょ? さすがに水中ゴーグルは持ってきてないし」

「紀子はここで待っててくれ。もしくは人の気配がなくなったら、マリ子さんの所へ移動してくれてもいい」

「いや。絶対に一緒に行く」

 まあそう言うだろうなとは思ってた。

「だがもしも、あの魚男みたいなのと海で遭遇したら、俺は紀子を守りきれないかもしれない」

「どういうこと? 魚男って他にも居るの?」

「恐らくな……」

 俺はタモっちゃんと会った時のことを説明し始めた。

 いざってときのために情報はなるべく共有しておいた方がいいだろう。

 紀子なら、この非常識な現実をちゃんと受け止めてくれるだろうとの期待も込めて。




「ってことで、これをタカコに渡さないといけないっぽいんだ」

 終始無言で話を聞いていた紀子が、深く息を吐いた。

「ね、洋介も魚男なの?」

「いや、そんなことないと思うんだが……」

 歯切れが悪いのは、タモっちゃんが魚男に変身したということの他に、俺自身の記憶がまだ完全には戻っていないという理由もある。

「そのタモっちゃんさんは……魚男になっても意識、ちゃんとあったんだよね?」

「ああ。それは間違いない」

「じゃあ、洋介も……もしも変身しちゃうようなことがあっても、絶対に私のことは忘れないで」

「わかった。約束する」

 それが俺の覚悟――んっ?

 紀子の唇が、俺の唇へと突進してきた――そして避けるのに失敗って、マズいだろっ!

「洋介の記憶に、私のこと、しっかり残った?」

「そ、そんなことしなくともしっか」

「そんなことっ?!」

「い、いや、そんなことではないです!」

 なぜか敬語が出てしまう。

 そんな俺に紀子は再びしがみつく。

「初めてだったんだからね」

 耳元でそんなこと言われて、そんな紀子は震えていて、いくら依頼で手を出すなとは言われていても、こんな状況で突き放すわけにはいかねぇじゃないか。

 俺は、紀子を優しくハグして、頭を撫でた。

「Oh! It's a love scene!」

 刹那、俺は紀子を引き離し、声のした方へと向き直りながら紀子と声との間に体を割り入れる。

 手近な瓦礫を一つ握り、状況次第ではノータイムで攻撃を――って。

 そこに居た「誰か」は両手を挙げていた。

 上半身裸で、下半身は青っぽいミリタリーパンツ。髪の毛は短く、その男は手のひらまで開いて敵意がないことを示しては居るが――信じてよいのか?

「You が Mr.タモツ? モウ一人、タカコじゃないネー?」

 中途半端にカタコトの日本語。胡散臭さしかない。

 村の人って感じはしないが、工場がアメリカ企業に買われたって話を俺は忘れちゃいない。

 ならあの金属の筒を狙っているのか?

 その可能性がある今、筒を持っている俺がタモっちゃんだと詐称する意味はないよな?

「いや、人違いだと思いますよ?」

「Kidding aside, タモツ! Hurry up! This boat 乗るネー! The deep ones 来ちゃうネー!」

「ディープ……ワン?」

「それって、陶蝶とうてふ先生が書いてた泥腐腕でいふわんのこと?」

「そのデイフワンってのも初耳だぞ?」

「Shh!」

 怪しいカタコト男は突然、両手を人差し指だけ残して握り込む。

 左手の方を口へと運ぶ。

 これ、アメリカでも静かにって意味でいいのか?

 そして右手はミリタリーパンツのポケットへ――瓦礫を投げるか? いや、ここは様子を見よう。

 そう思えたのは、近づいてくる足音に気付いたから。

 それもタモっちゃんとはまた異なる妙な足音に。

 カタコト男は右手をポケットから出した――何かを握り込んでいて、親指をぐりぐりと動かしている。

 キュルルル!

 少し離れた場所で鳴った音が、かなりの勢いで遠ざかってゆく。

 近づいてきていた足音もほとんどその音を追っていった。

「タモツ and 物知り girl! Hurry up!」

 カタコト男は小声でそう言い残すと、港の方へと走ってゆく。

 まだ信用したわけじゃない。

 だが少なくともあの妙な足音の連中は確実に味方じゃないだろう。

「紀子、絶対守る! だから」

 俺は紀子を抱きかかえ、全力で謎のカタコト男の背中を追った。


 廃屋から出ると、港は目と鼻の先。

 今はほとんど使われてなさそうな、小型の漁船が幾つか並んでいる。

 そんなまばらな漁船の間へ延びる小さな桟橋に、カタコト男が身を低くして待っていた。

「Come here!」

 勢いでお姫様抱っこしてしまっている紀子を抱えたまま、俺は桟橋へと走った。

 誰にも見られていないといいけど。

 で――カタコト男は――え?

 桟橋の先端近くの水面に、カタコト男の上半身だけが浮いていた。

 まるで逆犬神家――思わず足が止まった。

「洋介を信じてるから」

 紀子の声で我に返り、俺は上半身へと近づいた。

 マジか。

 これ、のっぺりと平べったい楕円形の船体の、カタコト男が上半身を出している四角い開口部以外全てに夜の海が映っている。

 反射とかじゃなく、映像として映し出しているみたいだ。

「Hurry up!」

 カタコト男は開口部の中へ引っ込む。

 俺は意を決して、なんとかその開口部の縁へと乗り移った。

 バランスを取りながら、紀子を中へと下ろし、俺自身もすぐに中へと潜り込んだ。

 床までは浅いが船内は広く、紀子に船腹の端へと寝転がってもらった後、俺はその手前へと寝そべる。

 紀子とは反対側の端へ収まっていたカタコト男はドアを閉じ、そのドアに付いているコンソールで何かを操作した。

 ドア部分からプシューと音がしたかと思うと、船全体にゴボゴボと水が流れ込む音が響き渡る。

 紀子が俺の背中へとしがみつく。

 俺たちが居る部分に水が入ってきているわけじゃない――そういや乗り込むときにこの怪しい「ボート」の壁、やけに厚みがあるなと感じたっけ。

「This is a submarine.」

 せ、潜水艦だと?






● 主な登場人物


笹目ささめ洋介ようすけ

 笹目探偵事務所の所長。二十七歳。三島建設代表取締役の次女紀子のりこ捜索依頼を引き受けた。紀子と一緒に故郷を訪れている。


・三島紀子

 三島建設代表取締役三島行男ゆきおの次女。洋介と一緒に行動する覚悟を決めた。


綯洗ないあら陶蝶とうてふ

 作家。伊豆の名家の生まれ。代表作は『魔女狩られ』と『海の王』。一作目は実際の事件を元にしたと言われ、二作目は遺作で断筆。


・洋介の兄と両親

 工場が有害だとして閉鎖されたあと、それを監視する「政府の研究所」で働いていたが、兄は失踪、直後、両親は自動車事故で帰らぬ人に。


・洋介の祖父母

 漁師だったが、祖父は洋介の両親の事故死と同時期に死亡。その後、祖母は関東を転々とし、洋介を別の親戚へと預けた後、現在は沖縄在住。


・遠い親戚

 静岡県で刑事をしており、幼き日の洋介を引き取った。刑事にだけはなるなと遺言を残している。


・洋介の曾祖叔父ひいじーちゃんの弟

 体が弱かったが、太平洋戦争中に墜落したアメリカ人パイロットを助け、村長にもなった。十年ちょい前もまだ村長をしていた。


・タモっちゃん

 洋介の幼馴染で、一番家が近かった。本名はたもつ。魚男化していた。


・さゆりちゃん。

 洋介の幼馴染で初恋の相手。本名は小百合さゆり。十七歳で亡くなった。遊園地に行ってみたいと言っていた。


・のろまのひろし

 洋介の幼馴染。


・マリ子さん

 さゆりちゃんの母。現在も村に残っている。十年ちょい前に夫を、十年前に娘を失っている。


高古たかこ孝子たかこ

 洋介の幼馴染。いつも洋介の後ろをひっついてきた。幼少時は自分の名前をちゃんと言えなかったため「タコのタカコ」と呼ばれていた。真魚島に仲間が居るらしい。


・ふくはらときじ

 デブふく。洋介よりも早く村から引っ越していった。恐らく喫茶店で会った力士、福乃海。


・カタコト男

 上半身裸で下半身は青っぽいミリタリーパンツ、髪の毛は短く、胡散臭さ満点の男。洋介のことを保だと勘違いしている様子。謎の潜水艇へ洋介と紀子を誘った。

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