#11 形見

「さゆりちゃん、お父さんっ子でしたもんね」

 さゆりちゃんの言葉を、もう一つ思い出した。

『よーすけくんのことは、おとうさんのつぎにすき。おとうさんとはけっこんできないから、よーすけくんのおよめさんになってあげてもいいかも』

 ずっと小さい頃に別れたまま。

 とても長いこと会っていなかったっていうのに、さっきまでは生死すら知らなかったくらい「遠く」の存在だったのに――今のこの喪失感はなんなんだよ。

 身勝手な自分自身に腹が立つ。

「……あとね、やっぱり怖かったのもあったのよ」

 マリ子さんの声のトーンが変わった。

「怖かった……んですか?」

 俺はマリ子さんをじっと見つめた。

 一呼吸おいて、マリ子さんは話を続ける。

「この村ね、あまりにも死ぬ人が多いのよ。大抵は事故なの……でも……あまりにも数が多くて」

 紀子の手が少し汗ばんだのを感じる。

「村長さんはその話を嫌がるから、みんな表だっては黙っているけれどね」

 曾祖叔父ひいじーちゃんの弟さん――住む家も違ったし、じいちゃんたちが嫌っていたこともあって、ほとんど会った記憶がないんだよな。

 それにしても、ばあちゃんの話にあった病弱っていう雰囲気はあまりないな。

「怖くて逃げ出したかったわ。でも、これ以上人が減っては困るから逃げちゃダメみたいな風潮に村中がね……工場での事故のあと研究所が大きくなって、それで働く場所が増えたから村の外に働きに出なくてもいいだろうみたいに村長さん言い出してね」

 研究所――何度聞いても怪しさ満点だ。

 いったいその裏で何が――。

「小百合も研究所で働かないかって言われてね……他に選べる仕事なんて女にはなかったわ。二人であそこに勤めることになったの。そしたらね、ある日、小百合が突然言い出したの」

 マリ子さんはいったん口をつぐんだ。

 言いにくいことなのか?

「あの工場で兵器を作っているみたいなの、って」

 その一言に、驚いた。

「え? 工場って閉鎖されたんじゃ……」

 紀子も驚いたようで沈黙を破る。

 マリ子さんは首を横に振った。

「表向きはね。でもね、あの研究所、閉鎖したあとの工場をなにやら改良して拡張したみたいなのよ。研究所が大きくなったって言ったでしょ。実質的には工場が再稼動したみたいな雰囲気だったわ」

 マジか。

 でも、公害で閉鎖された工場を再稼動なんて出来るのか?

「兵器を作っているっていうことはもちろん確かめたわけじゃないのよ。研究所の一部として蘇った工場も、働いた人の話では、以前のかまぼこ工場の時より新しい機械になっててね、何を作っているのかわからなくなっちゃってて。『研究のため』って言われて何をしているのか教えてもらえなかったんだって」

 何をしているのか教えてもらえずに――完全にクロじゃないのか?

「でも何を作っているか分からないってだけじゃ、『兵器』なんていう物騒な言葉は出てきませんよね?」

 マリ子さんはうなずいた。

 俺がそう聞き返すのを待っていたかのように。

「そもそもの発端はね……死んだ魚がね、大量に浜辺に打ち上げられたりして、そのせいで立った噂なのよ」

 魚――電気屋で暴れていたあの魚男を思い出す。

「魚がいろいろと変形したり、巨大化していたりしてね。毒の兵器を作っているって噂が立ったの……小百合はそれを耳にしたらしく、調べはじめちゃってね……私にはナイショにしていたのよ」

 そうだな。

 そういう行動力はあった。清楚で大人しそうな見た目に反して。

 そういうところも好きだった理由のひとつだったっけ。

「そして、ある日ね……」

 マリ子さんは何度か言いよどむ。

 しばらくの沈黙。

「魚頭の人とかですか?」

 紀子がまた口をはさんだ。

 考えていることは同じか。

 だが軽い気持ちでいったであろうその言葉に、マリ子さんは身震いしながら反応した。

「あれを……見てしまったの?」

 テーブルの下で、紀子の手をキーチェーンへと誘導する。

 レンタカーの鍵がついていて、紀子に持たせているあのキーチェーンに。

 最悪のシナリオも想定する。

 考えたくはないが、マリ子さんが敵対する可能性。

 紀子は、少しタメてから言葉にした。

「町に出現したんです……バスの終着駅の町に」

 マリ子さんは見開いた目をいったん閉じて、顔を左右へと振った。

 再び瞼を開いたときには、決心したような表情になっていた。

 やっぱりさゆりちゃんのお母さんだなって表情に。

「洋介ちゃん、紀子さん、明るくなる前にここから逃げなさい。もうこの村は呪われているの」

 マリ子さんの瞳には強い想いがこもっていた。

「村の中にはもう何年も前から……あれが……うろつくようになっているのです」

「何年も前から?」

 思わず聞き返してしまう。

 マリ子さんは口をキッと閉じたまま頷く。

「あれは人間の力を超えた恐ろしい存在。孝子ちゃんにも言ったけど……早く逃げて」

 この村で――俺の故郷で、いったい何が起きているというのだろう。

 得体の知れない、考えるだに恐ろしいことが実際に、しかも現在進行形で起きている。

「逃げるときは、一緒に逃げましょう」

「それはできません。夫と娘をこの地で失いました。私はここを離れるつもりはありません。お気持ちは嬉しいけれど……」

「でも……」

 マリ子さんの瞳からは涙があふれていたけれど、それでもまだ強さは失くしていなかった。

「夜が明ける前に早くお逃げなさい。あなた達にはまだ未来があるのですから」

「……ま、マリ子さんにだって、あるよ!」

 紀子が立ち上がってマリ子さんのすぐ横にまで行き彼女の手を握った。

 マリ子さんは悲しそうに微笑み、紀子を静かに抱きしめた。

 さゆりちゃんは、ちょうど今の紀子ぐらいの歳に死んだんだっけ……。

 さゆりちゃんの最期は――とてもじゃないが、それは聞き返せない。


 ふいに幼い頃のさゆりちゃんの記憶がまた少し戻る。

 五人で遊んでいたときも、かくれんぼの途中でよく二人だけで抜け出して、さゆりちゃんの家の屋根裏に隠れたっけ。

 押し入れの上の段にのぼって天井の板をずらし、布団を足がかりにしてもぐりこんでいろんな話をした。

 そう、いろんな話。

 遊園地に行きたいなって話もそこで聞いたんだ。

 さゆりちゃんの遊園地には、さゆりちゃんの考えた乗り物がたくさんあった。

 他にも彼女のやりたいこと、行きたいところ、欲しいものをたくさん。でもいい子で居たいから、おとうさんやおかあさんには言えないって言ってたっけ――それだよ。

 さゆりちゃん、日記を書いていた。

 将来結婚する俺にだけは見せてあげるって言っていた、ヒミツの日記を。

「あの……ちょっと小百合ちゃんの部屋、行ってもいいですか?」

「どうぞ。形見分けになんでも持っていってあげて。洋介ちゃんと一緒に……」

 紀子と目を合わせると、さゆりちゃんの部屋へと向かう。

「私も見ていいですか?」

「ええ。どうぞ」

 背後から二人のやりとりが聞こえたあと、紀子が足早についてきた。

 きしむ板廊下に、二人の足音が鳴る。

「どうしよう。マリ子さんを置いていくの?」

「マリ子さんもさゆりちゃんも頑固なところがあった。無理やり連れていくのは難しいだろうし――それに娘と旦那さんが眠っている場所から離れたくないって気持ちも理解できる。それについては尊重してあげたい」

 紀子は黙ってうつむく。

 優しい子だよな。

 金持ちの娘ってあまり良い印象なかったが、紀子は本当に良い子だ。

 依頼だからじゃなく、人間として、大人として、守ってやりたいと思える子。

 俺は紀子の頭を撫でてから、さゆりちゃんの部屋へと入る。

 まっすぐに押入れに近づく。

 天井と壁の重なる端にわずかな隙間がある。軽く押してみると、記憶通り持ち上がる。

「紀子、一応、周りを見ておいて」

「はい」

 押し入れに足をかけ、上半身を天井裏に乗り出した。

 すげー埃っぽい。こりゃ息をとめながらだな。

 LEDライトを灯して周囲を軽く照らす。

 ぐるりと半周したときだった。

 四角い影が見えた。

 手を伸ばして引き寄せる。やっぱり……見たことがある。

『おどうぐばこ みなせさゆり』

 さゆりちゃんの道具箱だ。

 静かに箱を開けると、カビと埃の匂いが少しだけ濃くなった。

 埃が収まるのを待って箱の中を見ると、中には一冊のノートと小さな鍵。

 ノートは、密封性の高そうなストックバッグみたいなのに二重に入っている。

 ライトで照らすとぼんやりと浮かぶタイトルは『にっきちょう』。

 間違いない。

 さゆりちゃんのヒミツの日記だ。

 しかも何冊かあるみたい。

 鍵はミリタリージャケットの隠しポケットへ、日記帳はストックバッグごと、シャツのボタンを外してズボンの内側へと挟み込む。

 板を元通りに直して床へ降りると、紀子は机の上の写真を眺めていた。

「この写真、私と同じ歳くらいでしょ? 綺麗な人ね。さゆりさんって」

「まぁね」

「お兄ちゃんのこと褒めたわけじゃないのに」

「……」

 確かに。

 気まずさを誤魔化そうとしてさゆりちゃんの机の引き出しを開く。

「え」

 小さな箱にティッシュを敷いて、その真ん中に大事そうに収められていた果物型の消しゴムが目に入った。

 これは、あの日――ナポリタンを食べにあの街まで遠出したとき、街の文房具屋で見つけてせがんで買ってもらったおもちゃ消しゴム。

 俺はそれを、さゆりちゃんにだけって秘密のお土産にした。

 ――ずっと――ずっと、とっておいてくれたんだ。

 そんなさゆりちゃんを、俺はずっと一人ぼっちにして……。


 紀子にゆすられてハッと気付く。

 おもちゃ消しゴムを収めた箱の中のティッシュが、雨が降ったみたいに濡れていることに。

 死は、決して覆らない事実。

 事実に対してできるのは、どう向き合うかということだけ。

 さゆりちゃんが死んだということに対して、俺は今の今まで向き合えてもいなかった。

 もう居ないということを情報としては理解していても、俺の心は理解できていなかった。

 俺がさゆりちゃんを忘れて生きていた間も、さゆりちゃんはずっと俺と生きていてくれた、そのことが薄情な自分を責めたてる。

 もちろんさゆりちゃんは、俺を責めたりするような子じゃない。

 俺が、俺自身が、俺を許せないのだ。

「紀子、ごめん。紀子だけ車に戻っていてくれるか?」

「え、どういうこと?」

「タカコたちがここへ戻っているって聞いただろ。あいつらはここへ何かを成し遂げに来たんだ。俺はそれを手伝わないといけない」

 紀子が俺の腕にしがみつく。

「いいよ。覚悟できてる」

「馬鹿紀子。人が死んでいるんだ。あの魚男だっているって」

「だからよ。私一人で戻る途中、あの魚男に出遭ったらどうするの?」

 言葉に詰まる。

「それに……お兄ちゃんの大事な人なら、私にとっても大事な人、だよ?」

 俺の目からこぼれた液体が、俺の服をつかんでいる紀子の手の甲にも落ちる。

 それを親指で拭った手で、紀子の頭を撫でる。

 やるしかないぞ、洋介。

 簡単なことだろ?

 紀子を守りながら、タカコたちのサポートをすればいい。

 そしてマリ子さんに笑顔を取り戻して、堂々とこの村を出ていけばいい。

 池袋鮫にならそれができる。

 なあ、そうだろ、洋介?


 想い出の消しゴムが入った箱を、引き出しへと戻して閉じる。

「形見分け、いいの?」

「これは、さゆりちゃんにあげたやつだからさ――それに、もうもらったし」

 シャツのボタンをちょっと外して中を見せる。

 紀子が顔を近づけたところでズボンのベルトを緩めようとした手を紀子が止めた。

「ちょ、ちょっと……そこまで見せなくてもいいって」

 紀子にちょっとだけ笑顔が戻った。






● 主な登場人物


笹目ささめ洋介ようすけ

 笹目探偵事務所の所長。二十七歳。三島建設代表取締役の次女紀子のりこ捜索依頼を引き受けた。紀子と一緒に故郷を訪れている。


・三島紀子

 三島建設代表取締役三島行男ゆきおの次女。洋介と一緒に行動する覚悟を決めた。


綯洗ないあら陶蝶とうてふ

 作家。伊豆の名家の生まれ。代表作は『魔女狩られ』と『海の王』。一作目は実際の事件を元にしたと言われ、二作目は遺作で断筆。


・洋介の兄と両親

 工場が有害だとして閉鎖されたあと、それを監視する「政府の研究所」で働いていたが、兄は失踪、直後、両親は自動車事故で帰らぬ人に。


・洋介の祖父母

 漁師だったが、祖父は洋介の両親の事故死と同時期に死亡。その後、祖母は関東を転々とし、洋介を別の親戚へと預けた後、現在は沖縄在住。


・遠い親戚

 静岡県で刑事をしており、幼き日の洋介を引き取った。刑事にだけはなるなと遺言を残している。


・洋介の曾祖叔父ひいじーちゃんの弟

 体が弱かったが、太平洋戦争中に墜落したアメリカ人パイロットを助け、村長にもなった。十年ちょい前もまだ村長をしていた。


・タモっちゃん

 洋介の幼馴染で、一番家が近かった。本名はたもつ


・さゆりちゃん。

 洋介の幼馴染で初恋の相手。本名は小百合さゆり。十七歳で亡くなった。遊園地に行ってみたいと言っていた。


・のろまのひろし

 洋介の幼馴染。


・マリ子さん

 さゆりちゃんの母。現在も村に残っている。十年ちょい前に夫を、十年前に娘を失っている。


高古たかこ孝子たかこ

 洋介の幼馴染。いつも洋介の後ろをひっついてきた。幼少時は自分の名前をちゃんと言えなかったため「タコのタカコ」と呼ばれていた。


・ふくはらときじ

 デブふく。洋介よりも早く村から引っ越していった。恐らく喫茶店で会った力士、福乃海。

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