#8 狂乱

 紀子は今にも泣きそうだった。

「気にするなよ」

 俺はそのまま話を続ける。

「それ以外のことはけっこう曖昧でね。確かじーちゃんまで死んで、ばーちゃんが俺を連れて東京に居る親戚の元へ来たんだよ。その後、立て続けに何度か引越しをして。最終的に俺は静岡で刑事やってる遠い親戚のとこに落ち着いて、ばーちゃんだけ沖縄に移ったんだ……寒いところは体にこたえるってね」

「……言いにくい話を……ごめんね。録音、削除した方がいい?」

「せっかく録ったんだ。残しておけよ」

 もしも俺に何かあったとき――なんていやな考えが浮かんじまったからさ。

「ね、洋介は刑事にはならなかったの?」

「刑事やってるその人がね、刑事にだけはなるなって遺言をね」

「遺ご……その人まで……ズビーッ」

 ボロボロと大粒の涙をこぼしていた紀子は、涙ばかりか鼻まで出てきたようだ。

「鼻かめよ」

 おかげでちょっとだけ気持ちが紛れた。

 ありがとうな、紀子。


 鼻かみタイムを経て、俺の話はさらに続く。

「事故だったんだよ。流れ弾に当たったとかでしばらくは息があったんだが……俺が病院に駆けつけてしばらくして」

「洋介……」

 紀子は目を真っ赤にして、俺の袖をぎゅっと握る。

「昔の話さ。今の俺はこうして普通に生活しているし」

「ねえ、私、ほんとの妹になってあげる」

 どうしてそうなる?

「え?」

 紀子は俺の左腕を引っ張って抱え込んできた。

 ミンクちゃんがおねだりの時にやるような胸を押し付けるやり方ではなく、もっとなんというか小猿が母猿にしがみつく時のような。

 この子なりの優しさなのだろうか。

 気持ちは嬉しいが、寂しさ舐めあうようなそんな人間関係は持ちたくない――ああ、そうか。

 紀子が俺に「与えたい」と思っていることはきっと、自分がしてほしいことなのかもな。

 ここで俺が紀子を抱きしめれば、彼女の中の何かが満たされるだろう。

 だが、それではいけない。

 今の紀子を抱きしめるのは彼女の両親であるべきなのだ。それも、二人揃って。

「明日の朝には帰ろうな」

 紀子の頭を撫でると、猫みたいに目を細めた――と思ったら見開いた。

「洋介、聞こえた?」

「ああ。ちょっと見てくる」

 ところが紀子は俺の左腕を放さない。

「私も行く」

「だめだ」

 紀子は頬を膨らませながら俺の手の指のそれぞれの間に自分の指をすべりこませようとする。

「一人の方が怖いもん。それにここだと逃げ場ないし」

 まあそれも一理ある――仕方ないか。

「危なくなったら、逃げるんだぞ」

「うん。頼りにしてるから」

 そう言いつつも紀子は俺の手を握ったまま放さない。

 仕方なしに俺は助手席側のドアから降りる羽目に。




 駐車場から表通りまで出ると、向こうのほうに人だかりができているのが見えた。

 俺たちは手をつないだまま騒がしいそちら側へと近づいてゆく。

 パトカーのサイレンも近づいてくる。

 人混みから「電気屋」とか「暴れている」とか「被害額高そう」いかいう単語が漏れ聞こえる。

 田舎町なだけあって、野次馬の最前列へは容易に割り込める。

 確かに電気屋だった。

 大通りに面したその店で、ひとりの男が店内のパソコンを壊していた。

 ガラス張りのために中がよく見える。

「ねえ、あれ、さっきの……」

 紀子が俺の後ろに隠れつつ指差す。

「ああ、そうだな。あの時からラリってる感じがあったもんな」

 喫茶店で紀子のリュックを盗もうとした男だった。

 到着したパトカーは二台、野次馬の輪の内側へと車を停め、拡声器で「おとなしくしろ」とか「出て来い」などと怒鳴っている。

「私のノートPCもああされていたかもしれないってこと?」

 紀子の声は震えている。

 ひょっとしたら彼女にとっては生まれて初めて観る、生の「暴力」なのかもしれない。

 「何がそんなにパソコン憎しなのかね……動いた」

 電気屋の入り口から店員らしき男が転がり出てきたのと入れ替わりに、警官たちが店の中へ突入する。

 そのとき紀子が俺の左腕に再び強くしがみつく。

「あ、あれ……」

 ガラス張りの店の中で、暴れていた男がいつの間にかカブリモノを被っていた。

 それもリアルな魚っぽいやつ。

 映画の撮影なのか、という俺の仮定を、周囲の野次馬たちが否定した。その絶叫をもって。

 絶叫する者、震えてうずくまる者、極端に怯えて周囲を警戒する者、呆然と立ち尽くす者、失神する者、「お前も魚人間か!」と叫びながら周囲を指差しまくる者、逃げ出す者――野次馬の三分の一ほどがそういった狂気にかられると、残りの者たちもパニックに飲まれて逃げ出し始めた。

 それは警官たちも例外ではない。

 四人いた警官の一人はその場にうずくまり、もう一人はブツブツ言いながら空を見上げている。

 先陣きって突入した警官は警棒で魚頭の男を取り押さえようとするが、変身後の魚男は明らかに筋力が強くなっている。

 警棒を持った警官を持ち上げて、もう一人の突入した警官に向かって軽々と投げつけた。

 俺の左腕がやけに震えるからと確認すると、紀子が目を見開いたまま震えている。

 どうして――俺の中に一つの疑問符が浮かぶ。

 どうして俺は、「見たことがある」ような気がしたのか。

 記憶の奥底に、俺はまだ何かを封印している――ような気がするが思い出せない、というか、俺の体が思い出すことを拒んでいるような感覚。

 思い出したらいけないことなのか。

 鼻腔の奥に、磯の香りがする、ような。

 潮の……痛い香り……。

「耐えた」

 紀子がボソリと呟く。

 見ると紀子は俺の陰に隠れながらデジカメでなんだかやたらと連写しているっぽい。

「おい。とにかくいったん逃げるぞ!」

 俺は紀子を抱えあげると、さっきの駐車場へと向かって走った。

 遠ざかる狂乱の中心で、幾つもの銃声が響く。

 ヤバすぎる。

 わけがわからねぇ。

 別のサイレンも近づいてくる――なんだ?

 聞き覚えのあるような。ないような。

 パトカーとも救急車とも消防車とも違うサイレンの音。

 駐車場の入り口にまで到着したとき、サイレンを鳴らした車が俺たちの横を通り過ぎる――カラーリングこそ救急車だが、何か違う。

 普通、救急車はあんなゴツくない。

 まるで軍用車みたいなフォルム。

 救急車とは違うよな?

「もう、自分で歩ける」

 紀子の声に、自分が気を取られていたことに気付き、車へと慌てて戻り紀子を地面へと下ろした。

 車のロックを外して運転席へと乗り込む。

「あの魚男、やっぱり工場から来たのかな?」

 助手席へと乗り込んだ紀子はやけにテンションが上がっている。

「いや、ピクニックはお終いだ。今から帰るぞ」

「私、免許は持ってないけど運転できるんだよ」

「何を言い出すんだ急に」

「洋介、私を守ってくれるんでしょ? じゃないと一人で行っちゃうかもよ?」

「紀子、俺の言う事聞くって」

「何が怖いの?」

「怖い? 俺が?」

「洋介、何か思い出しかけているんでしょ? 探しに行こうよ。ここまで手がかりが揃ってて」

 正直に言えば、確かにこのまま帰りたくはないという気持ちはある。

 しかも俺の中の閉ざされた記憶は、紀子の言う通り、ここへ来てどんどんと蘇っている。

 俺は思い出すのが怖いのか?

 怖い?

 クールでハードボイルドな池袋鮫が?

 ――いやいや、乗せられるな。

「俺は、紀子を守り抜く義務がある。この状況だとそれが困難に」

「それは言い訳だよ。私、武器だって持ってる。魚男はきっと水属性だからスタンガンとか効くと思うな。催涙スプレーだってあるし」

 紀子がパーカーのポケットから物騒なものを出して並べ始めたダッシュボード越しに、目の前の大通りを何台もの土木作業車が横切るのが見えた。

 俺たちが来た方向へ向かっていた。

 なんか嫌な気配がするのは、さっき見た怪しい救急車のせいか。

「とりあえず、いったん駐車場を出るぞ」

 話し合うにしてもここはなんだか事件現場に近すぎる。

 あの一本道に何かあったのだとしたら、この地域から容易には出られなくなる。

「また土砂崩れとかあったのかもね?」

 紀子が俺の横で微笑む。

「行ってみりゃわかる」

 とは答えつつも、心のどこかでは近寄らない方が良いような気もしていて。

「戻って無駄足になるくらいなら、先に進んでみない? 逆方向から別の地域へ抜けられるかもよ?」

 不本意だが、その判断は間違っていない気はする。

「さっきの車もあっち行ったよね。きっと抜けられる道があるんだよ」

「あー、仕方ねぇな」

「わー! 大好き、お兄ちゃん!」

 こんなときだけ調子いいな。

 しかしあんな事件を目撃しておいて、紀子の緊張感のなさが心配になる。

「さっきは震えていたろ?」

「大丈夫だよ。グロ画像なんてネットで耐性できてるの。あの程度平気だから」

 俺がその言葉を受け入れしまったのは、俺自身も不思議とあの魚男を怖いとは思わなかったから。

 その理由まではわからないけど。




 ドライブイン的な建物も見当たらず、大きなコンクリ工場とか朽ちかけた施設跡くらいしかない田舎の一本道を、対向車とも出会わず、進み続ける。

 紀子が操作するカーナビに映る情報は、どうにも現実の景色と違うようにも感じる。

 陽はだんだんと傾き、不安ばかりが増す。

 だけど間違いないはず、という確信は、自分の中で次第に固まってゆく。

「さっきのナポリタンさ、俺、小さい頃に食べたことあったよ」

「うっそ? そんな時代からあったの?」

「確か、家族に連れていかれたんだよな。たまには珍しいものも食べさせてあげるよって。詳しいことはまだ思い出せないけれど、あの味は、なんかじわじわと思い出してきたんだ」

「へぇ。良かったじゃない」

「で、その帰り道、この道を通ったのを、今思い出しつつあってさ」

「そうだよ。変に怖いこと考え過ぎなんだよ、洋介は。単なる里帰りじゃない? だからもっと気楽に行こうよ」

「だな」

 と、口元に笑みを浮かべつつも、音楽をかけようって気は起きない。

 さらに不安が募るのは、思い出したがゆえなのだろうか。

「あ、見て!」

 紀子が前方を指さした。

 道路の真ん中に、何かが置かれていた。






● 主な登場人物


笹目ささめ洋介ようすけ

 笹目探偵事務所の所長。二十七歳。三島建設代表取締役の次女紀子のりこ捜索依頼を引き受けた。現在紀子と行動を共にしている。


・三島紀子

 三島建設代表取締役三島行男ゆきおの次女。伊豆の人肉腸詰工場の噂を追っている。


綯洗ないあら陶蝶とうてふ

 作家。伊豆の名家の生まれ。代表作は『魔女狩られ』と『海の王』。一作目は実際の事件を元にしたと言われ、二作目は遺作で断筆。


・洋介の兄と両親

 工場が有害だとして閉鎖されたあと、それを監視する「政府の研究所」で働いていたが、兄は失踪、直後、両親は自動車事故で帰らぬ人に。


・洋介の祖父母

 漁師だったが、祖父は洋介の両親の事故死と同時期に死亡。その後、祖母は関東を転々とし、洋介を別の親戚へと預けた後、現在は沖縄在住。


・遠い親戚

 静岡県で刑事をしており、幼き日の洋介を引き取った。刑事にだけはなるなと遺言を残している。


・魚男

 喫茶店で紀子のノートPCを奪おうとした男。その後、電気屋に入って暴れ、パソコンを壊しまくり、頭部が魚のように変形した。その後、警官に撃たれたようである。

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