海月になりたい

片耳

プロローグ

海月。

刺胞動物門に属する動物のうち、淡水または海水中に生息し浮遊生活をする種の総称。体がゼラチン質で、普通は触手をもって捕食生活をしている。また、それに似たものもそう呼ぶことがある。


あの夏に見た海月は、僕に深遠なる傷痕とトラウマを刻印するには十分すぎた。

湿気と熱で前髪が重く感じる海日和。あの日は、まるで皮膚が溶けそうになるほどの甚暑だったことを覚えている。


父は夜勤明けで、冷房の効いた部屋で大きないびきを立てながら眠っていた。

夜勤というものを僕は経験したことはないが、余程疲れていたのだろう、いびきがいつもよりも少し大きかった気がする。

当時、僕はあまりに活発な少年だったため、母は僕が父の眠りの邪魔をしてしまうことを恐れたのだ。僕は隣町の水族館に連れて行ってもらった。


後に知ることになるが、父は重度の癇癪持ちで、母は些細なことで日々暴力を振るわれていたという。そして、父はEDだった。これについての理由を、僕は詳しく聞かされてないが、父が会社でいじめを受けていたこともまた事実である。

そして、うちは決して裕福な家庭ではなかったため、水族館へは1時間ほどかけて徒歩で行った。


午前中のうちに出発できたため、時間にはかなり余裕があった。普段家族で出かける時は、父が身勝手なことに行くのをやめると言い出したり、支度の途中で寝てしまったりして、なんだかんだ予定より1、2時間遅くなってしまうことが多かった。

そのため、この焦燥感に追われない外出がなんとも新鮮で、そして母と2人きりで出かけることに嬉しさを感じていた。


水族館では、監獄の中を悠々と、心無しに泳ぐ、鮮やかで、そしてどんよりとした灰色の命があった。僕はそれらに多少の気色悪さと嫌悪感を覚えながらも、純粋に水族館という娯楽施設を楽しんでいた。

しかし僕は極端に人混みが嫌いだったので、当然休日の水族館にもストレスを感じていた。

疲れて水槽から少し離れたところで、空気の冷たい、まわりの雰囲気からは完全に淘汰されたような場所を見つけた。

なぜだかそこに見物人はおらず、丁度よかったので少し覗いてみることにした。


水槽の隣には、「ミズクラゲ」と書かれたプレートが貼られていた。

その生き物はあまりに不思議で、そして魅力的だった。かさの頂に描かれたシロツメクサのような模様。秀美な曲線と躍動を紡ぐ半透明の触手。濁りも偽りもないその姿に、僕は心が湧いたというか、もっと抽象的な、感動といえばいいのか、もはや恐怖ですらあったのかもしれない。


そんな僕をよそに、母と過ごす時間はあっという間に過ぎていった。水槽に反射する人口の青い光とともに、時は僕らを置き去りにした。


今日の感動とトラウマを、僕は嬉々として父に語ったが、父が魚嫌いだったということもあり、興味を示さないどころか僕を1発小突いて、再び眠りについた。


今思えば、日常が崩れていったのはこの日からだ。できることならこの日に戻って父を刺し殺してしまいたいが、不可能なんて考えるだけ無駄だ。お口のファスナーを閉じ、鍵でもかけておこう。


ところで、父はこの2日後に蒸発する。

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海月になりたい 片耳 @tadou

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