03

「桜庭君、待ってたよ」

「……」


 数日後、見知らぬ女子に廊下ですれ違いざま呼び出されたので、俺は廊下から教室内の空さんの様子を伺ってからその場を離れた。

 意外に思われるかもしれないが、俺と空さんは学校でも常にベッタリ、って訳じゃない。

 そりゃ、呼びつけられればすぐにでも馳せ参じる心意気では居るけど、学校に居る時の空さんは一応「皆のもの」っていうスタンスだから(あくまでも表向きな、本当は友花里のだからな)、俺はさり気なく空さんに近付き過ぎるヤツを警戒し監視はするが、空さんに群がるヤツらがキチンと弁えている人員で構成されてれば、安心して空さんから距離は取る。そんで独りで気ままに過ごす。

 空さんだって俺みたいに図体のデカい男に終始引っ付かれてちゃ、息苦しくて堪ったもんじゃねーだろ。陸に上がった魚の気分になっちまうだろ。

 一匹狼とかカッコイイ言い方すんなよ、ただのボッチなんだからな。……否、全く親しい人間が居ないって訳でもねーんだけど。大体ダチより空さんを優先してる時点で、俺が付き合い悪いヤツってのは言わんでも判るだろ。


「…話って?」


 促しておいて何だが、俺を呼び出す時点でこの手の話ってのは大体一つだ。


「桜庭君って、前々から好いなー、って思ってたんだ。背ェ高いし体格も凄いし。アタシ、男らしい人がタイプだから」

「ふーん」


 あまりにも気のない返事をしたもんだから、目の前の女は少々カチンときたらしい。

 見るからに充実してて遊んでそうな、メイクもバッチリ気合いが入ってる華やかな女子だから、それなりに男受けも良さそうだ。プライド傷付けたかな。


「…それに、真北君は確かに女の子にしとくの惜しいくらいカッコイイけど、女子だもん。やっぱり付き合うなら、本物の男の子が好いよ。桜庭君だって、そうでしょ? いくら綺麗でも、イケメンみたいな女子より、付き合うなら普通に可愛い女の子の方が良いでしょ?」

「はぁ」

「桜庭君ってぇ、真北君に甲斐甲斐しいよね。幼馴染って聞いたけど、いくら美人でも男の子みたいに振舞ってる真北君にあんなに尽くすのって、どうして? アタシ、真北君が羨ましいなぁ。綺麗なだけであんな色気ないのに、ただの幼馴染なのに、あそこまで尽くされてさ。それってやっぱり、桜庭君が自主的にやってるんでしょ? そういう性癖なの?」


 やっぱりな。それが本題だろ。男らしさに惚れただの何だのは、結局建前のハリボテなんだよな。

 要はお姫様扱いで恭しく跪いてくれる彼氏……否、下僕が欲しいってだけだろ。

 俺みたいに徹底して幼馴染の従者やってるのは、確かにそこら辺じゃ見ねーよな。傅きたい性癖とか嗜好なのかって思われても、反論出来ねーわ。実際、今までにも何度も訊かれたし。空さんの方にもこの手の質問って未だ絶えてねーんじゃねーかな。

 俺と空さんの関係性は我ながら思うけど、特殊だ。

 妹の入院費や手術費をマケてもらおうと直談判した挙句、友花里の費用を肩代わりしてくれる真北家に自分が仕えてずっとタダ働きでも良いと空さんに押し掛けて、こんな歪な主従関係になった。

 重ねて言うけど、空さんが「費用を安くしてやる代わりに、私の下僕になれ」って交換条件出したんじゃねーかんな。俺が勝手に言い出して勝手に空さんの下僕に納まったんだからな。

 実はその辺の事、あんま吹聴する事でもねーけど、俺の家庭事情を少しでも聞きかじったヤツらには何でか誤解されている。だっから、空さんが強制したんじゃねーっつの! 俺が勝手に「友花里の事、有難う。何もお返し出来ないから、今日から俺、空の家来になる!」って感じで空さんに宣言して、尽くしてるだけだかんな。

 第一、俺にそれ言われた時の空さんは、ポカンとした後「…勝手にすれば?」だったから。マジで俺、勝手にしてんだよ。無理強いされてる訳じゃねーんだよ。空さんは何も強制してねーんだからな。

 それを判ってないこういう女共が、綺麗だけど女の子らしくないどころかイケメン女子に甲斐甲斐しくお仕えしている俺を見て、自分みたいな女らしい方が傅きたい性癖の俺(と思われてる、マジ屈辱)を簡単に落とせる、満足させられる、なんて勘違いして、こうして告白めいた三文芝居に打って出る訳だ。

 テメーが欲しいのは彼氏じゃなくて、何でも我が儘聞いてくれて傅いてくれる執事みたいな下僕だろ。給料の代わりに身体で需要と供給を補ってあげる、ってクチだろ。

 ……心の中で冷静に今の状況を整理してみると、マジ屈辱。このアマ、どうしてくれよう。

 セックスがご褒美、とか爛れてんぞ。もっと高校生らしい健全な付き合いを模索出来ねーのか。童貞力53万の俺をナメてもらっちゃ困る。

 大体、「セックスさせてあげるからせいぜい私に尽くしなさい」っていう上から目線がもうイラつくわ。一応、かたちだけで言うならアンタは俺に告白してる側だろ。俺がアンタを好きで「付き合って下さい」って言ってるんじゃねーだろ。なのに何その言い方。引くわー。ドン引くわー。


「アンタに俺を満足させられるとは、到底思えねーけどな」


 高身長と長髪だけがアドバンテージみたいな俺なので、せいぜい185センチを無駄遣いしないよう上から蔑むように見下し、冷たい声音で言う。我ながら今の声は温度がなさ過ぎた。こんな声も出せるのか、俺。ちょっと意外だわ…。これじゃまるで、冷血漢みてーじゃん…。


「な、何でよ。真北君と付き合ってる訳じゃないんでしょ? 私、結構可愛い彼女になれる自信、あるよ? それに、真北君と違って、ちゃんと見返りとかもあるし……」


 テメーにはあっても俺には関係ねーっつってんだろ。

 大体、可愛い彼女って自分で言うか。友花里より可愛い女がこの世に居るとは思えんし、空さんより綺麗でカッコイイ女がこの世に居るとも思えん。

 そもそも、彼女作る余裕が友花里と空さんの事で手いっぱいな俺にあると思ってんのか。

 仮にも都内でそこまで偏差値低くない進学校に通っといて、そこに考えが及ばないってどうかしてんぞ。今の俺は花屋を継ぐかデカい企業狙って就活するかのどっちかしか頭にねーんだからな。


「…なら、訊くけど。アンタって俺の事、本当に上手く使いこなせんのかよ」


 空さんは別に俺を使いこなしてる訳じゃねーけど。でもまぁ、人心掌握は上手い方だよな。そうじゃなかったらあんなにモテる訳ねーもん。


「俺の家庭の事情ってヤツ、少しは知ってんだろ?」

「…まぁ、それは……」


 友花里と空さんの事で手いっぱいに見えるけど、学校では空さんにベッタリしてる訳じゃなく、寧ろ空さんに呼ばれなかったら心の中で待機しつつもそれぞれ別行動してるのがスタンダードなので、自由がない訳じゃない。寧ろ校内に限って言えば、俺は放置された忠犬に見えるだろう。

 一緒に登下校してるし空さんへは一貫して恭しいけど、校外でもそんな感じでそこまでベッタリじゃない、って勘違いする輩は多い。その空いてる時間を恋人に使え、とでも思ってんだろうが。そんな訳にいくか。

 空さんは美人過ぎて昔から変なのに好かれ易く、ストーカー被害も二、三件どころの話じゃないし、王子様やるようになってからは学外の女子や女性にも一目惚れされる事がある。

 そして空さんを女子だと知らない他校の人間からすれば、ただ道を歩いてるだけで通りすがる女を振り向かせちまう。恋人や好きな女の視線を掻っ攫う他校の王子様こと空さんは、実に鼻につくイケメンという事だ。そういうおかしな逆恨みで待ち伏せされる事もあったりする。

 そこでガタイの良さと威圧的な無表情の俺の出番って訳だ。俺をただの従者と思うなよ。

 通学の途中でも空さんが変な危害に遭わねーようにって、柔道を始め各種格闘技を会得しているのは、ハッタリじゃねーかんな。俺は空さんの下僕でボディーガードなんだよ。帯は白のままだけど。

 だって下手に警察沙汰になった時、困るじゃん。黒帯とか取得する意味が判んねーわ。どうせ試合とか出ねーもん、俺。部活にも入ってねーし。空さん護る為だけに身に付けた技術だから、他に利用する意味がねーんだわ。


「空さんが王子様やり出したのは、小三なんだぜ」

「…小三?」

「それまでの空さんは、お人形みてーに女の子女の子してて可愛かった。着てる服はいつもパステルカラーの、レースとかフリルとかリボンが付いてる高そうなフリフリしたヤツで、髪の毛も今の俺みてーに、腰くらいまであったかな。――それがスタンダードだった空さんが小学校三年生で、長い髪もスカートも、女の子らしいもんは全部未練なく捨てたんだぜ」

「……興味が変わったんじゃないの? ボーイッシュに憧れたとか」


 んな訳あるか。おぼろげながら本当の事情を聞きかじったから、俺なんかを手っ取り早く女の色気使って落とそうなんて狡すっからい事考えたくせに。

 俺が空さんに仕える理由。空さんが王子様に全力投球している理由。誰もが関心を向けて、何度だって質問されてきた。高三にもなれば、知らない方がおかしい。

 このアマ、俺を甘く見過ぎだろ。


「空さんが王子様やってんのは、俺の妹に恋してもらう為だよ。小さな女の子が夢見るような、理想の男の子。俺じゃ役不足だから、空さんがやってくれてんだ。……なぁ、アンタに空さんと同じ事が出来るのかよ。俺の妹に恋してもらう為だけに、男から好かれる要素潔く捨てて、綺麗で優しい王子様やれるのかよ。何年も、思春期だってのに、可愛い格好もメイクとかマニキュアとか女子らしい事も一切やらず、男嫌いって訳でもないのに男からの好意も遠ざけて、それでもあの人は王子様を徹底してる。俺の為に。俺の妹の為に。――アンタは綺麗に化粧して、爪も丁寧に色塗って、スカートも短くて、きっと私服も女らしいんだろうけど、俺を傅かせる為に、男から「可愛い」って思われるそういう事、女が「楽しい」って思うそういう事、全部捨てられんの?」

「…………そ、それは、」

「俺が無条件であの人に膝を折ってこうべを垂れていると思ったか? 違ェよ。そんな訳ねーだろ。あの人が可愛い盛りの時から俺の妹の為だけに犠牲にしたものが俺にとっては尊いから、あの人に跪いて傅く事を誇りに思えんだよ。別に性癖でも嗜好でもねーんだよ。そういう性癖でも嗜好でもない俺が「そうしたい」って思える、「そうしたい」って思わせる、あの人の徹底した姿勢と迷いのなさに感銘を受けたからだよ。あの人がずっと犠牲にしてきたものが、俺の大切な妹に捧げられているから、俺は感謝の意をもってあの人に膝を折って頭を垂れる事に迷いがねーんだ。――アンタに空さんと同じ事が出来んのかよ。俺が自らの献身を捧げても良いと思えるほどの器量が、アンタにあるとは到底思えねーんだけど」


 勘違いする輩は、何も空さんに対するものとは限らない。こんな風に、俺に対して妙な期待を寄せるヤツも居る。

 綺麗なネイル、甘い香水、お洒落でフェミニンな服、たくさんのメイク道具……それら全て一切捨てろなんて、こんだけ女を武器にしてるような女には絶対無理だ。

 俺には女ってもんがよく判んねーけど、女をやるのは楽しいらしい。

 女の楽しみ犠牲にしろと言われて頷けたら、俺への好意が本物だって認めてやっても良いぜ。――ただし、俺にとって至上はあくまでも友花里と空さんだから、結局告白なんてされても最初からOKする気はねーんだけどな。



「あれ、元春。どこに居たんだ?」

「ちょっと野暮用で。何か御用でしたか?」

「否、別に。今日は登校以来、元春を見てなかったから少し物足りなかっただけ。…その綺麗な髪を私に愛でさせておくれ」


 空さん、言い方……。

 つーか唐突にデレるのやめてくれません? さっきまで妙に神経に障る苛立つ女と密会してたからか、そのギャップで滝のような清冽さを前面に押し出してる空さんには心洗われる心境だわ。何か今猛烈に滝に打たれたくなってきたぞ…。

 俺は「私だってヘアケア頑張ってるのに!」「桜庭君め、髪だけ女の敵!」という目で見てくる女子の垣根を分け入って、空さんの席に辿り付く。

 髪ゴムを引き抜き、いつもように解き放たれた黒髪を差し出すように背を向けた。


「どうぞ」

「ふふ…。お前の髪は世界が嫉妬するレベルだな」


 ウットリ言われて光栄だけど恐れ多いわ。あんな高そうなシャンプー、俺ん家使ってねーし。びだるさすーん、とか言いながら後ろ姿で髪の毛をうなじから両手でバサァ…ってやる仕草とかすれば良いの?

 空さんが俺の髪の毛に何を求めているのか、今だけは判んねーぜ……。


「空さん、俺は良いですけど、次の授業って移動じゃなかったですか?」

「あぁ、うん。次の授業は調理実習なんだ」


 こないだカップケーキを貰っていたから調理実習の内容は判っているが、空さんはワクワクとした雰囲気で笑顔を見せた。王子様スマイルは今日も眩しい。


「空さんは包丁持たないで下さいね。火の傍に寄るのもなしです」

「……元春は私に授業させる気がないのか。何で実技だとあれこれ口出ししてくるんだ」


 今俺の髪を弄んでいる空さんの白魚の手に傷が付いたらヤバいだろ。火加減見る作業もなしな。火傷したら…と思うだけで俺の心臓がキュッと竦み上がる。

 俺と空さんが同じクラスだったらなぁ…。俺が全部やるのに。空さんのクラスで調理実習がある度に、俺は胃がキリキリする。

 流石に高校三年間、同じクラスとはいかなかった。中学の時も調理実習はあまり空さんに危ない作業をさせないようにって、殆ど俺がやってたから空さんとしては不満だったのだろう。判らんでもないけど。


「上手に出来たら、元春にも一つやる」


 一番上手に出来たヤツは、いつも通り友花里にあげて下さいね。


「有難う御座います。心して食います」

「何だその言い方。失敗する事が前提みたいに聞こえたぞ」

「気のせいですよ。空さんって何でもそつなくこなしちゃいますよね」


 そうなのだ。空さんは天才肌っていうか、初めて挑戦する事でも大抵上手くやってしまう。だから完璧な王子様も毎日そつなくやっちゃえるんだろうな、って思ってるけど。

 元々手先も器用だし、本当は簡単な料理程度だったら俺がここまで心配する必要もないってちゃんと判ってる。でも心配。だってクラス違うもん。離れちゃったもん。授業中の空さんを、今年度の俺は座学でも実技でも知る事が叶わねーんだよ……。



 調理実習でカップケーキを作った空さんは、宣言通り、上手く出来たと王子様スマイルで俺に一個寄越した。色からしてただのプレーンかな。


「友花里ちゃんにはニンジンとほうれん草の味を渡そうと思う」


 身体が弱い友花里の健康に気を遣ってくれる空さんは本当に良い人だ。友花里はニンジンもほうれん草もパクパク食べられる良い子だから何ら問題ない。

 俺は週に二回、と決めて見舞いに行く。あまり頻繁に毎日寄っても友花里が気を遣うだろうし、可愛い友花里ちゃんに仁王像の兄貴が居るなんて小児科のお友達に知られて、妹が孤立するのは避けたい。

 まぁ、俺が友花里の兄貴ってのは、同じように身体が弱くて小児科の世話になりがちな顔見知りの子達にはとっくに知られてんだけど。


「残念だけど、今日はジムに行く日なんだ」


 友花里の見舞いに行けないから、と空さんは俺に友花里宛てのカップケーキを託した。

 金持ちの空さんは地元のスポーツジムに会員登録していて、週に二回、火曜と金曜に泳ぎに行く。体力作りと体型維持の為らしい。

 空さんは元々お人形系美少女だった頃から手足はスラリとしててスレンダーだし、細身の割によく食うけど太り難い体質らしくてぽっちゃりとは無縁なんだけど、体型維持って言うのはこの場合、水泳で鍛えた肩を指す。

 確かに空さんって言われてみて納得したけど、女子にしては背が高いだけじゃなく肩幅もある。否、あくまでも「女子にしては」だから、男の目から見るとやっぱり華奢だと思うし肩幅だって女子の範囲内なんだけど、水泳って肩に筋肉付き易いらしくて、それで王子様を徹底している空さんとしては、この体型維持は欠かせないのだそうだ。

 こういう、誰も気付かないような努力すら陰で平然とやっている姿が、俺にとっては尊く見える。こういう姿勢を貫くってのは、並大抵の意識では無理だ。今日、あわよくば俺を彼氏(笑)にしようと浅はかな考えで近付いてきた女とは、この時点で色々格が違うんだよな。己の磨くステータスに対する美意識っつーか、美貌を維持する為の努力の方向が別次元っていうか。

 俺は空さんをジムまで送り、帰る頃にメールなりLINEなり寄越すよういつものように伝えた後、真北総合病院に向かった。

 何年も通い慣れた道。顔なじみのナースさんと挨拶を交わし、友花里の病室に辿り付く。


「友花里、今日は空さんが――、」


 言いながら、「あ、しまった鋏とか忘れたな」なんて思って病室のドアを開けた俺は、ベッドに横たわる友花里を見た瞬間、その場に立ち竦んだ。

 友花里は点滴して鼻にチューブを挿していた。口元を覆う呼吸器。ベッド回りに大掛かりな装置。瞼は伏せられていて、顔色が悪い。

 元々心臓が小さくて弱い友花里は、血液の循環が悪い。だから幼いのに体温が低く、顔色も血色の良い日の方が珍しい。末端まで満足に血液が行き渡らない友花里の身体は、先端になればなるほど温度が冷たく、指は夏でも冷ややかだ。

 蝋のように血色を失った横顔は、まるで死人のように白い。


「友花里…っ、」


 病院で大声を出すのはマナー違反なのに、俺は思わず駆け寄って、呼吸があるかどうか確かめる。

 微かに上下する薄い胸に全力で安堵する肺の中から絞り出すように長いため息と脱力する身体。

 情けない。こんなガタイの良い、良い歳した男なのに見っともなく震えてる。でも、こうした情景は見慣れていても、何度だって心臓に悪い。


「友花里……」


 声まで震えている。細い首筋に親指を宛がって脈を計った。薄い皮膚、トク…トク…と血管から伝わる規則的な振動が小さくとても頼りない。

 友花里は体力の消耗が激しいのか、深く寝入っているようでさっきの俺の悲鳴染みた声ににも駆け寄った時に立ててしまった雑音にも首に触れている指にも一切気付かない。

 どんな夢を見ているのか。それとも夢すら見ないで命をこれ以上削らないよう、深く深く眠っているのか。

 王子様を待つ眠り姫なら、まだどんなに良かった事か。


「空さん…」


 今、ここに王子様は居ない。俺だけだ。図体のデカい、無表情で面白い事も何も言えない、王子様やってる幼馴染の下僕やってるような兄貴しか。


「空さん、空さん……」


 ――助けて。たすけてたすけてたすけて。

 心の中で幼馴染を呼ぶ。友花里か俺か、どっちを助けてほしいのか自分でも判らない。

 あの人は今、ジムに居る。水の圧力で身体を鍛え、水の冷たさに身体を磨き、明日も女なら恋に落ちずには居られない、王子様で居続ける為に。

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