もういらない。

秋田健次郎

もういらない。

 人生はなだらかな下り坂だ。


 生まれたその瞬間が頂点で後はゆっくりと下っていく。


 だからといって戻りたい過去などなかった。幼稚園も小学校も中学校も高校も大学も全ての段階において、苦い記憶だけが脳に居残り続けていまでも、夕暮れ時の教室で宿題をしている。一生終わることはない。


「選考を重ねた結果、当社とのご縁を持つことができませんでした」


 もう数えることすらやめたお祈りメールがまた一通届く。それを迷惑メールフォルダに掃き捨てる。少なくとも私にとっては迷惑でしかないから、名に偽りはない。


 あるいは、企業にとっては私との面接時間こそが迷惑だったとも言えるかもしれない。薄っぺらい即席の志望動機と、ありふれた自己PR。


 分かっていてもそれしか思いつかなかった。だから、きっと仕方がない。


 似合わないスーツ姿で河川敷を歩いていると、自分が幽霊になった気分だった。


 とぼとぼと下を向いて、表情筋が死んでいる。あと、目も。


 蕩けていく精神とは反対に風が荒ぶ。思考はここ数か月鈍っていく一方だ。


 生ぬるい空気は温度を連れて、私の体から水気を奪っていく。昔、給食で出た高野豆腐のことを思い出した。


 一つたりとも星が瞬かない濃紺の空は見上げるまでもなく、私を押しつぶすためだけに存在している。


 思えば、これまで楽しいことなどまるでなかったのだ。たった今そう思った。


 運動音痴で友達はおらず、人とろくに会話すらできない。それでも、涙を流すほど自分のことを大事に思っていなかった。一番近くにいる他人ですらあった。


 他にやることもないから、大学受験はそれなりに頑張ったつもりだったが、当然のように第一志望には落ちた。大学でももちろん友達はいなかった。


 最近になってようやく自分の人生への当事者意識が出始めたが、それは純なる止めたいという思いだった。


 死にたいのではなく、止めたいのだ。命にかかわる全てを。


 寝ても覚めても視界に靄がかかったようで、その向こうにぼんやりと幼い私が見える。


 そういえば、幼稚園に入る前は楽しかったかもしれない。


 タオルケットをぐるぐる巻きにして、壁に掛けられた時計を見ていた。読み方など理解してなかったが、細い棒がのっそりと動いていた。チクタクはしていなかった。


 父も母も優しかった。いや、二人は今でも十分に優しい。私はこの恵まれた環境で一丁前に絶望しているのだ。私より悲惨な人生などこの世には腐るほどありふれている。


 ふと、自動販売機を見つけて、猛烈なのどの渇きを感じた。


 小銭入れて、一番安いペットボトルの水を買う。


 すると、てかてかと数字のルーレットが始まった。あたりが出るともう一本貰えるらしい。


 7、7、7


 三つの数字がそろうと、派手な電子音が流れてボタンが再点灯する。好きなのをもう一本選べと。


 それを無視して、手に持っている水を一気に飲み干す。胃に流れ込む冷たい液体は魂の形を私に意識させる。


 空になったペットボトルをすぐ横の回収ボックスに放り込む。


 7,7,7


 三つの数字が点滅している。


 もういらない。


 水もコーヒーも炭酸ジュースも。


 7,7,7


 ちかちかと点滅する、その三つの数字はしばらくすると消えた。


 自販機の前でぼうっと立ち尽くす誰かを上空から眺めていた。それが私でも私でなくても、どちらでもよかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

もういらない。 秋田健次郎 @akitakenzirou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ