確かにあたしは
追われている。何者か知らぬものに。それに追いつかれれば、あたしは死ぬ。そんな恐ろしいことを確信して、あたしは逃げる。足が重い。水の中を歩くような速度。なんで、ゆうこと聞いてくれないの、あたしの足。
それは、もう、すぐ後ろにいる。息遣いが聞こえる。人間? あたしは生き残るたった一つの方法を思いつく。
それの手が伸びる。こちらの肩を掴んだ。あたしは、剣を抜こうとした。だけど、いつも身につけているのに、こんな時に限って腰に差していない。
不意とエリカの声が聞こえた。
「だってあなたにはムリでしょう?」
目が見開いた。部屋には、朝早い太陽の弱光が、静かに、当たっていた。孤児院のいつものベッドの上であたしは寝ていたのだ。
自分の荒くなっている呼吸に気づく。身体は汗でびっしょりだ。目だけで、窓の外の光を見ようとする。降る光-線が、ホコリを通して、姿を現していた。
「殺さなくてはならない…」
その言葉を今更のように意識した。罪人騎士団に行けば、人を斬るのを、避けられないだろう。
あたしは、上半身を起こした。シーツの中の膝を上げる。そして、そこに頭を乗せて、ただ、顫えた。
「行ってしまうのね」
エリカは、寂しそうな顔をする。午前の早い時間。大人たちは、それぞれに工場に向かっている。平日。彼女は、学校をサボって来てくれた。
孤児院でエルゼやリアラ、アウクストとの別れは済ませてきた。
シスター・リーゼルは、あたしの両肩に手を置いて、「頑張るのですよ」と言った。この人は、犯罪者になってしまったあたしに、そんな言葉をかけてくれる大人なのか。
エルゼは泣きじゃくった。あたしは5歳にもなる大きな幼児を抱っこする。彼女のすごく柔らかいほっぺたにあたしのほっぺたを当てた。「また、帰ってくるわ」。
リアラが、本をくれた。彼女の好きな物語。たぶん、新しく買ったもの。本を大事にするリアラだから、その本も新品のようにきれいだった。「あたし、大きくなったら会いに行くよ」。リアラが言う。「うん、あたしも来れるようだったらたまに戻る」。
アウクストは、不機嫌だった。むっつりして、何日間か話してない。「じゃあね、みんな」そんな別れの挨拶をあたしがして、背を向けようとした時、「僕は帰ってくるの待ってるぞ」、そんな言葉をついたのが聞こえた。ありがとう、アウクスト。
そして、目の前にいる、エリカ。
あたしは、言葉がなかった。悲しいとか寂しいとか言えなかった。
シスター・リーゼル、そしてエリカ。あたしの保護者のようになってくれた人。あたしは、少し、早い卒業をするのだ。
「シスナ」
ばっと、エリカの左手が上げられた。そして、痛くもない形だけの平手打ちがあたしの頬を撃った。
「え?」
「だって、あなたは、本気でわたしと、剣を戦わせなかったじゃない? これは、その怒りよ?」
そう言うと、彼女は、にこりと笑う。
「あ」
わかっていたんだ。そうだよね。彼女ほどの剣士が、それに気付かないはずない。彼女の右腕がある時に、真剣な勝負をしなくてはならなかった。もう、叶わないのだ。取り返しがつかない……。
「ごめん……」
あたしは、恥じた。彼女のプライドを傷つけたことが、辛かった。
「いいのよ。それが、あなたのやさしさの表現だったのでしょう? この怒りは、わたしの未熟さ」
「そんなことないよ? エリカは怒っていい。あたし、バカにしてたような……ものだから……」
エリカはあたしの右手を握った。あたしの手をしばらく、体温でも確かめるように、触っていた。
そして、エリカは右腰に手を持っていった。2本の剣が下がっていた。
一本はアマテラスだろう。もう一つは?
その不明な剣を腰から鞘ごと外して、彼女はあたしの顔の前に差し出した。
「引き出してみて」
いわれるままに、エリカの持つ鞘から、剣をゆっくりと抜いてみた。
光が反射した。ぼうっとそれ自体が発光しているような。その輝きはどこか冷たかった。宝剣アマテラスの太陽というより、月のような、叡智の閃きのある深い、思索を深めるようなおとなしい光。
「宝剣ツクヨミ。シュタットハーデン家に伝わる東方由来のアマテラスとツクヨミは、信頼関係が作れたもの同士がそれぞれ持つことになる」
「え」
エリカは、鞘を丁寧にあたしに渡した。
「あなたに持っていて欲しいの」
剣と鞘を受け取ったけれど。あたしに、そんな価値があるんだろうか?
「シスナ。あなたは、大きな流れの中に入ったのよ。望んでないでしょうけれども。あなたの運命は、私のそれと、必ず交錯する。お互いが、お互いに恥じないように、生きていきましょう」
エリカは左手を差し出した。あたしは少し間を置いた。怖かった。その誓いをするのは覚悟がいった。でも、エリカに並びたいのだ。彼女ばかりが、辛い道をいくことはない。あたしも力になれる。
思いきらなければ。
あたしも左手を出し、エリカの手を握った。お互いに顔を見合わせて、フフって何故か笑った。くすぐったい感じがした。
春風の暖かさが、あたしたち2人の身体を撫でる。その、温度は、優しさをもって、私の気持ちを満たした。
「あ、列車が来るみたいね」
季節の始まりは、そんなふうにして、あたしを、運命へと導いた。
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