第32話 作戦準備

 僕等は来客用の部屋を一室当てがわれて、其処で一先ず落ち着いた。元は旧ロシア貴族の持物というだけあって寝室も二つ有り、浴室まで完備されている、中々に豪奢な造りなのだが調度品の類は余り置いておらず、何処となくこざっぱりとしている。

 此の地に来てからは野外生活が多かった為に、久方振りに文明の匂いを感じた。

 しかし僕の心は逸っている。何故ならば此の部屋に通される直前に遂に我が怨敵、ヴィルヘルム・ヘッシュと対面したからだ。

 ハルベルトを残して通信室を出た僕等は、スタインベックの案内で所長室に向かった。勿論、ケムラー――否さマウラー大尉が到着した報告と云うのが前提だが、ヘッシュの顔を未だ見た事がない僕の為に、面通しをしてくれると云うのだ。僕は緊張して二人の後ろから所長室の扉をくぐった。遂に見えた怨敵の顔は無様な狼狽の色に染まっていた。

 自分の命令で送り出した守衛隊が未だ戻らぬ処か連絡すら付かない事、人造強化人間の情報を持つソビエトの諜報員も捕えられない事、更には親衛隊の面子に拘って、目の前の陸軍部隊に応援を頼めぬ事等々……。

 スタインベックとケムラーが口八丁で宥めると、如何にか安堵の表情になった。

 何と矮小な男だ。こんな奴の為に僕の愛する者達が殺されたのかと思うと、怒りで頭が爆発しそうだ。

 そんな僕の機微を察してか、ケムラー達は早々に僕を連れ出して所長室から立ち去ろうとした際に、ヘッシュが僕に興味が湧いたのか嫌らしい顔で語り掛けて来た。


「マルコ君と云ったかね。君の任務内容というのは、ひょっとして……」


 僕は怒りの感情が押し殺せず、少し怒鳴る様な声で云い放った。


「自分は今作戦について何も語る事は出来ません! 上官殿の許可が無ければ何も申し上げられません‼」


 僕の威嚇する様な怒声に、ヘッシュは少したじろいで、「ああ、いや、無理に訊こうとは思わんよ。失敬、失敬。何にしても此の世には少年愛好者なんていう輩が結構、居るらしいからね――おっと、私は勿論違うから安心したまえ。マルコ君」と下卑た笑いで僕を見送った。

 怒り心頭に発しそうな僕の肩にケムラーは優しく手を懸けて、「今は奴の面を眼に焼き付ければ其れで良い。其の時が来る迄、怒りはしまっておけ」と宥めてくれた。

 僕は二~三回深呼吸をすると、少し落ち着きを取り戻した。そう、僕は怒り過ぎていた様だ。ヘッシュに対しては勿論の事、大人の汚れた感覚というやつにも腹が立っていた。

 僕は未だ、ウブ過ぎるのだろうか?

 客室に案内されると、スタインベックは僕に気遣ったつもりなのか変な事を云う。


「其れにしてもヘッシュの奴、ヌルイ事を云ってたねぇ。今時の子供がアレ位の下ネタで動揺する訳無いじゃないか。因みに僕は両刀……はぐっう⁉」

 

 最後の言葉を云い終わる前にケムラーの鋭い拳骨がスタインベックの身体を、くの字に折り曲げた。


「気にするな。此奴は一寸、病気でね」


 悶絶する彼を其の儘に、ケムラーは最後の打ち合わせを始めた。僕は何となくスタインベックには、かなり破廉恥な悪癖が有る事を肌で感じた。なので余りにも苦しがっている彼を介抱しようか迷ったが――結局、何もしない事にする。

 大まかな計画は整った。後は時が来るのを待つだけである。計画通りならヘッシュとの距離は二メートル未満――眼をつむっていても当てる自信は有るが、しかし油断は禁物である。僕は慣れないワルサーP38・サイレンサーの早打ち練習をする事にした。幸いにも消音銃である。此の客室内でも練習が十分に出来る。更に上手い事にケムラーが何と、アメリカ製の秒針停止機能付きの高性能腕時計を付けていたので、早抜き時間の計測もしてくれた。

 僕は壁に掛けてある余り上手とは思えぬ風景画の額を外すと、其の場所を的にすべく丸印を書き込み、少し長目に凡そ二・五メートルの距離を取って射撃訓練を始めた。

 銃身が結構長いのでホルスターではなく、コートの内ポケットに入れると丁度良い感じである。先ずは一撃目。

 やはり銃身が長い為、抜き去る感覚が今迄愛用していたワルサーPPとは全く違う。之は遣りにくいな――時間も二・五秒と話にならない。続いて二撃目。

 今度は上手く抜き切れた。時間も一・三秒と格段に上がったが、的の中心を少し外してしまった。こんな短い距離で外すなんて屈辱だな。更に、三撃、四撃、五撃……。

 弾倉一つ撃ち終わる頃には、完全にコツを掴んだ。二つ目の弾倉では毎回、約0.7秒で銃を抜き去り、命中率は十割。おまけにヘッシュは片眼が無いから、動体視力も反射神経も常人より鈍い筈だろう。

 問題無い。之ならイケる。

 ケムラーも大した腕前だと褒めてくれている。一寸、照れるな。

 不意に扉をノックする音が響いた。僕等は慌てて弾丸のめり込んだ壁に、元通りに額を掛けてから返事をする。入って来たのはスタインベックだった。


「やあ! 此方も準備万端、整いました。後は夜を待つばかり。其れ迄の時間――手間賃として、君の身体で払って貰おうかな……」


 彼が話しを終える前にケムラーがまるで鬼神の様な表情で、剣の鍔に手を掛ける仕草を見ると、「冗談だから許して下さい」と涙声でケムラーの前に両手を組んでひれ伏した。

 彼はあからさまに『身体』と云ってきた。

 僕に何をする気だったのだろう――いや、其の求めに応じては絶対にいけない気がする。死ぬ前に下手な汚点を残したくは無い、僕は鞄の中から金時計を取り出した。   

 ロンジン製の懐中時計、之は父の形見である。母の形見の紅玉のブローチは昨晩、オーリャに捧げてしまったので、僕の持っている金目の物といえば之だけだ。


「あの――僕に差上げられる物は之しか有りませんが、どうぞ御納め下さい。其れなりの高級品です。御協力して下さった、せめてもの御礼として――だから其の、か、身体とかは御容赦して……」


 いきなりスタインベックは僕に抱き付き、「ごっめ~ん! 美少年に健気な事をさせちゃって! 其の金時計、誰かの形見とかじゃないの? しまっといてね、大事にしなさい。其れよりも、やっぱり御礼は身体で……」等と色々云いながらも、やはり全てを話し終える前にケムラーが彼の頭部を、さっきの様に鷲掴みにして物凄い力で宙吊りにした。

  

「ああぁ~‼ 御免なさい、御免なさい‼」


 まるで断末魔の様な悲鳴に僕はおもわずたじろいだ。ケムラーは乱暴にスタインベックを投げ捨てると、険しい表情で僕に云う。


「之じゃあ、さっきの与太話が現実になっちまうじゃねえか! マルコ、用心しろ。あれは本物の変態性欲者だ。隙を見せたら御終だぞ‼」


 何を如何やって用心すれば良いのだ。


 スタインベックは半ベソを掻きながら、計画の中間報告を始めた。


「グスッ、えっと先ずね――営繕、烹炊、通信、車両班の二十八名を先発隊として撤退させるよ。だからチャンとした食事を取れるのは、今日の昼食が最後ね」


 親衛隊とはいえ、エリート達の身の回りの世話をする為に徴兵された連中という事で、先に逃がしてあげるんだよと彼は云う。


「彼等は虐殺なんて、して無いしね」


 やはり此の人達は自分達の基準で相手を選んでいる様である。殺しても良いか否か――だからと云って正義よりも寧ろ、悪の側の人達なのだろうけど――悪人には悪人なりの拘りでも有るのだろうか? 美学とでも云うべき物が。


「緊急事態に際しての急遽撤収とは云え、所長や幹部連中はゴネなかったのか?」

「先発隊よりも後発隊の方が、援軍も来るし護衛が厚くて安全だと云ったら、あの阿呆共、喜んで了承したよ」


 因みに護衛部隊が来て、一緒に撤収作業を行うというのは真っ赤な嘘らしい。

 そして一番の懸念である、機甲化部隊についてはハルベルトが情報操作中であり、上手く行けば今夕にも全部隊員が北に向けて、移動を開始する筈だとの事である。


「そんな訳で唯今、施設内は撤収準備中でてんやわんやだよ。青瓢箪共は小生意気に暫く缶詰しか食えないなとか云って、不満気だけど。腑わけしている位なら、自分達で料理の一つもすれば良いじゃない」


 気持ち悪い事をさらリと云う。


「まあ何はともあれ、先発隊の連中と前の機甲化部隊が居なくなれば、後は科学者気どりの気狂い共が六十数名といった処か?」


 そんな処だねと、スタインベックは頷く。

 そうか――其れでも六十人も居るのか。幾ら戦闘部隊ではないとは云え、其れだけの人数が居るとなれば、逃げるにしても厄介であろう。彼等は僕がヘッシュを殺った後の事は心配しなくてもいいと云ってはいるが、彼等の枷にはなりたくない。

 僕は再度、ヘッシュを殺した後の自分なりの作戦を提案したのだが、自分達の計画の方が遣り易いとの事で、却下されてしまった。

 因みに僕の立てた計画は、ヘッシュを私室で殺った後に偽の館内放送を流して、残っている全兵員を玄関前のフロアか酒保に集めさせて、其処に身体に爆薬を巻き付けた僕が赴いて自爆する――というものである。

 スタインベックには「美しくないから駄目だね」と、にべも無く断られた。

 其れから暫くしてスタインベックが立ち去ると、ケムラーはまるでルームサービスでも頼む様に、二人分の食事を届けさせた。

 ゲシュタポ捜査官の威光を存分に利用して寛いでいる。


「使える特権は使っておかないとね」


 ケムラーは悪びれずに云い放ったが、もしかしたら僕に気を遣ってくれたのかもしれない。士官食堂に赴けばヘッシュと顔を突き合わせる事になるかもしれないし、其処で僕が何らかのヘマを踏む事を心配したのかも。

 其れにしても雅か、最後の晩餐に清潔な室内の厨房で作られたばかりの食事が――其れも故郷の料理が食べられるとは思いもよらなかったな。本格的なドイツ料理を食べるのは久し振りだ。敵陣でというのが一寸、変な感じだけど。

 奪った物資の中から何度かドイツ軍の戦闘糧食を食べた事はあるが、大して美味い物ではなかった。其れと比べても別段と豪華な料理という訳では無いが実に美味かった。

 何故かと云えば、此処の炊飯長は徴兵される前はドイツ国内でも、屈指の一流レストランのコックだったそうで、飯が不味いと評判のドイツ軍部隊の中でも別格の味を出しているとの事である。

 白アスパラガスのクリームスープ、馬鈴薯に酢漬けキャベツ、主菜には豚肉のシュニッツェルという定番料理であるが、食糧事情の乏しい前線で之程の物は幾ら将校と云えども、そうそう食べられる事は無い筈である。如何やら烹炊班が撤収する前の最後の食事という事で奮発してくれたらしい。

 そう――之が僕にとってもヘッシュにとっても、最後の御馳走なのである。

 最後の最期に故郷の味を堪能出来た事は御互いに僥倖だろう。僕はデザートに出されたコーヒーとクッキーを平らげると、自分の中で全ての覚悟が決まった。

 僕の戦争は今夜でケリを付けてやる。



 食器を下げさせた後――ケムラーは暫くの間、食後のタバコを燻らせながら寛いでいたが、「折角、浴室が在るんだから一っ風呂浴びようか」と云い出した。

 そして僕に向かい、扉の鍵を閉める様に命じると真剣な表情で、「いいかい、――いや、スタインベックが訪ねて来ても決して鍵を開けてはいけないよ。君が入る時もちゃんと僕が見張っているから」と冗談では無く本気で云っている処が少し怖かった。

 幸いにもスタインベックは訪ねては来なかった。ケムラーが浴室から出ると僕に向かって、「君も禊をしたまえ」と云った。

 禊――世界中に見られる風習で、神事や闘いの前等に身体を洗い清める。今時そんな古臭い事をする人も少ないと思うが、入浴なんて久し振りなので入る事にした。

 何時以来だろう。御風呂に入るのは。

 折角なので下着は取り換えようと思い、鞄の中から洗ってある下着を取り出した。

 そういえば之で、着ている物は全て新しい物に取り換えた事になるな。死ぬ前に身支度を綺麗に整えるか――禊の完成だな。

 久し振りに浴びるシャワーの御湯は骨身に染みた。とても気持ち良く、今迄の疲れや緊張が吹き飛ぶ様だ。

 僕は御風呂から上がると、セントラルヒーターの前で髪を乾かした。こんな文明の利器に触れるのも久し振りで心地良い。最期に良い思いが出来たものだ。後は本懐を果たして散り逝くのみだな。

 其れにしても不思議だ。僕は実に静かに落ち着けている。昨晩、アジトで襲われた時の様な恐怖や緊張感はまるで無い。自分の人生が今夜で終わるというのにも関わらずに……人間、考える時間を置いてから覚悟を決めると、こうも心情にゆとりが持てるのか。

 そんな物思いに耽っていると扉をノックする音がした。如何やらスタインベックが来た様なので鍵を開けると、例の如く底抜けに明るい調子で入ってきた。


「やあ、御待たせし……んん⁉」彼は突然言葉を止めると、険しい表情で叫びだした。


「石鹸の良い香り――君達御風呂に入ってたの? 何で僕も誘ってくれなかったの‼」


 怒り気味に訳の解らない抗議を始めた。

 そして此方も例の如くにケムラーが恐い顔で、「手前ぇを誘う必要が何処にある」と凄んだら、彼はたじろぎながらも口の中で何かモゴモゴと呟いている。そして僕に向かい、「ずるいよ、二人だけで良い事しちゃってさ。僕の方が上手いのに」等と背筋が寒くなる様な誤解を始めた。

「何もしていません」僕は力なく、そう呟いた。其れ以外に言葉が見つからない。

 ケムラーはソイツの云う事は気にするなと云っているが、スタインベックは「いいよ、今回は君が先に唾を付けたのだから、僕は我慢しよう」とあくまでも誤解を続けている。死ぬ前に此の不名誉な誤解を解いておきたいとも思ったが――もう如何でもいいやとも思ってしまう。


「其れよりも君達、耳を澄ませて御覧。何か聞こえてくるだろう」


 スタインベックが唐突に云うので、云われた通りに耳を澄ますと、確かに前の機甲化部隊の駐屯地から、車のエンジン音や人々の慌ただしい様子が聞こえてくる。そして暫く経つと、けたたましい大きなエンジン音が幾重にも響き始めて来た。此の大地を揺らす轟音は間違い無く戦車部隊の出撃音である。

 僕等は窓を開けて様子を見ると、其処には既に北東に向かって全体出撃を始めている、機甲化部隊の姿があった。


「やるなぁ、あのチビ。こういう能力だけは称賛出来るぜ」


「彼に掛かれば、此の位の情報操作は朝飯前だよ」と、スタインベックも得意顔で云う。確かに凄い、恐らくは偽情報であろうが――其れで此の大部隊を動かしてしまうとは――。

 玄関先では此処の所員達が数人集まって、不安げな表情で機甲化部隊の出撃を見送っている。之でもう、自分達を守ってくれる者が居なってしまったという様子が良く表れている。誰も彼もが、まるで留守番を任された子供の様な情けない顔をしていた。そして後、一時間程すれば此処の先発隊も出発予定である。御膳立ては整った。


「後はマルコ。君の出番を待つばかりだな――心の準備は出来ているかい?」

「残りカスは心配しなくていいよ。僕等に御任せあれ!」


 僕は二人に大きく頷いてみせる――約三時間後の午後九時――終幕が上がる。



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