第26話 天井からの挨拶
無言の睨み合いに一石を投じたのはセミノロフであった。
「よう、マルコ。御前ぇさんは本当に利発な奴だなぁ――どうだ、俺の下で働く気はねぇか? 其れなら生命は保障してやるぜ」
嘘が見え見えだな、腹立たしい。
「セミノロフ、ドイツ語、話セルダロウ。其処ノ、中尉殿、解ル言葉デ話セヨ。ソイツ頭、悪ソウダカラ」
僕は少し乱暴な口調で挑発する様に云った。之で奴はどういう態度に出るか。
「利口になれマルコ……折角、拾える生命なんだぜ。そうだ! 御前にスイス行きの手筈をしてやるよ。其れと金も少しは工面してやるからよ、だから大人しく云う事きけよ」
あくまでも懐柔策で来るのか。しかし奴等にユダヤ人の僕を生かしとく理由も価値も無い事は先刻承知だ。何かの時間稼ぎか?
僕は奴等の動きを注意深く観察するも、狭い隙間からでは全体は見えない。
でも幸か不幸か、あの部隊長が油の臭いに気付いた御陰で、いきなり銃撃を浴びせられる事は防げたな。之で暫くは心理戦か――其れにしてもあの部隊長、やけに落ち着き払っているのが気になるな――。
厳つい身体付きの男だ。ポンチョ越しからでも体格の良さが解る。周りの奴等はガスマスクを着けているのに、一人だけ顔を晒しているのが演出掛かっていて嫌味だ。
まてよ、ガスマスク?
良く見ると他の者達がゆっくり後退りしているのが解かる。不味い、ガス弾が来る‼ 最早、一刻の猶予も無い。セミノロフは未だ時間稼ぎに何か話しかけて来ている様だがもう、何も耳には入らない。
――やるか――‼
父さん、母さん、黒い鼬の皆――僕の愛した全ての者達よ。今、其方に行きます‼
僕は手榴弾の安全ピンに指を掛けた。
「ふあ~~ぁ……」
一瞬、場の空気が固まった。誰が此の緊迫した状況下で大欠伸なぞするのか?
皆が皆、辺りを見回す。すると再び、「ふあ~ぁ」と欠伸が聞こえて来た。
「だ、誰だ! ふざけた欠伸なぞする者は」
堪らず、クレッチマー中尉が叫びだす。
「手前等、よくも酒の中に変なモン混ぜやがったな。御陰で眠くてしょうがねぇぜ」
ケムラーの声である。ドイツ兵達は一斉に洞窟の奥に向かい銃を構える。
「よう、セミノロフにズボルトビッチっていったか? 『何処から持ってきた酒だ』とか『変な混ぜ物して無ぇか』なんて云いながら喧嘩してたのは、逆に俺に酒を呑ませやすくする為の小芝居だったのかい。まんまと引っかかっちまったよ――ハハハッ――俺も未だ未だ人生修行が足りねぇなぁ……之でも結構、長生きしてんだけどな」
ズボルトビッチは青い顔で云う。
「馬鹿ナ、アンタニ盛ッタ睡眠剤、他ノ奴ノ倍ノ量ダ! 何故、覚醒シテイル⁉」
「薬に対して免疫力を高める訓練を積んでいるのだ。驚く程の事では無い」
クレッチマー中尉はそう云うと、周りの者達に下る様に命令した。
「クルト・ケムラー殿、我々と共に御同行願おうか。大人しく従えば之以上の荒事を避ける事も吝かではないのだが――其処の少年の生命も保障しよう」
僕の生命を保障すると云うのは、明らかに嘘なのだが――ケムラーは此の提案に乗ってしまうのだろうか。
「ヤダよって云ったら?」と、ケムラーはおどけた口調で返答した。
「其れならば実力行使となるな」
「出来るかな?」と、あくまでもケムラーは挑発的な返答をする。
良かった、安心した。之から死ぬのに安心すると云うのも変な話だが、彼は敵では無いという事実が嬉しかった。
しかしクレッチマーは、其の返事を望んでいたと云わんばかりの表情でニヤリと笑い、両手に明らかに軍指定の物では無い、私物の大型狩猟ナイフを二本携えた。
「ガス弾の使用は暫し待て、其処の少年への攻撃もな。先ずは本官が相手をしよう」
クレッチマーは、そう命令すると狂喜の笑みでナイフを交叉させてカチャリと鳴らし、洞窟の奥へゆっくりと歩を進めた。
「おいおい、何で明後日の方向に行くんだよ。俺はコッチだろうが」
其の言葉に皆が慌てて左右を振り返るが、何処にも姿が見当たらない。
「安いハッタリは止めるのだな。貴様の居場所は此の奥以外に在り得ない」
だが、そう云うクレッチマーにも迷いの色があった。洞窟内では声が反響するので、何処で喋っているのか判らなくなる時がある。他の兵士達も、そう思ったのだろう。周りをキョロキョロと探している。
確かに僕の経験上でも、此の声は洞窟の最深部からでは無く、何処か別の場所から聞こえて来る気がする……一体、何処から……。
「何やってんだ手前等、何処に目ん玉ぁ、付けてやがんだよ。仕方がねぇなあ、教えてやるよ……上だよ上!」
其の言葉にオイルランプや懐中電灯を持った者達は一斉に頭上に掲げた。
――其処に確かに居た……。
複数の明りに照らし出された洞窟の天井に、まるでイモリかヤモリの様に張り付いて いる大きな人影が。
「やあ!」と、クルト・ケムラーは呑気に挨拶をした。
其の表情は、薄っすらと笑みを浮かべてはいるが、何処か虚ろで狂気じみている。
そして何と信じられない事に、脚の力だけで岩肌を挟み込んで上体を起こし、宙ぶらりんの状態となった。そしておどけた口調で、まるで滑稽劇の終幕辺りに出てくる道化師の様な台詞を慇懃無礼に言い放つ。
「諸君! ショータイムを始めましょう‼」
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