2.失踪
「あれは、俺の親父の物や。ってどういう事?」
弘は、マスターに尋ねた。
一番奥から二番目のカウンター席に、腰掛けている。
一番奥のカウンター席には、トレイが置かれている。
テーブル席のお客さんに、水と、おしぼりを出す時に、そのトレ一番に準備する。
だから、一番奥のカウンター席は、使用出来ない。
弘の他に、客は一組だけだ。
美術館通りの、昔ながらの喫茶店というと、「砂時計」だ。
まだ、弘が独身の頃、よく通っていた。
今でも、白亀町商店街へ行くと、アーケードを外れて、コーヒーを飲みに行く。
店内の調度品も、コーヒーカップもメニューも、昔のままだ。
強いて云えば、マスターの、七三に分けた髪に、白髪が増えたくらいだ。
マスターとは、殆んど話した事が無い。
オーダーをしなくても、ブレンドコーヒーが出て来る。
声を掛けるのは、たまに、コーヒーの、お代わりを注文する時くらいだ。
「学生さんが、男の親父さんのキャンバスを盗んだ。ちゅう事と、違うかな」
マスターが云って、また、何か思い付いたようだ。
「もしかしたら、学生さんが、男の、親父さんの絵を盗作した。ちゅう事かもしれんなあ」
マスターが付け加えた。
「キャンバスにしろ、作品にしろ、盗まれたのに、わざわざ金、出して買うかなあ」
弘が否定した。
「そしたら、男の親父さんが、どこかで失くしたんや。それが、高価なキャンバスやった。かもしれんな」
マスターが云った。
「けど、キャンバスは、ベニヤ板や。盗んでまで、欲しい物でもない。と思うんや」
弘が、また否定した。
マスターが、思い付いた事を云った。
案外、マスターは、お喋り好きなんだ。
その時、入口の鈴の音が鳴った。
ドアが開き、ツヨシが入って来た。
「ヒロムさん。ちょっと良いですか」
ツヨシが、弘を見付けて、隣の席に立って云った。
「若いサラリーマン。宮崎の絵を買いたい。って言ってた男。殺されてますよ」
ツヨシが云った。
「卒展」の片付けを手伝っていた二年生が、テレビのニュースに気付いた。
初日に来ていた男に似ていると云いだした。
「卒展」の初日は、日曜日。
スーツ姿で、午前十一時頃、画廊に来ている。
身内以外、滅多に一般の人は、来ない。
更に、絵の購入を希望している。
だから、目立つし、印象深い。
約三十分後、「砂時計」へ宮崎は、若い男と一緒に入った。
そして、正午過ぎに、宮崎だけ画廊に戻って来た。
男は、その後、どこへ行ったのか、分かっていない。
その夜から、宮崎が、行方不明になっている。
殺害された男の名は、谷岡透。年齢は、二十六歳。会社員という事だ。
谷岡と連絡が取れないのを不審に思い、母親が、マンションを訪れた。
居間で死亡しているのを母親が発見した。
谷岡は、何者かに殺害されたものとみて、警察が捜査している。
宮崎が、関係しているのだろうか。
また、厄介な人探しになった。
宮崎の描いた「八ツ手」に、二人の男が、購入の希望を申入れた。
「卒展」最終日なのに、二人の購入希望車は、画廊へ来ていない。
若い男の方が、谷岡だとすると、来ていない理由は分かる。
とにかく、「卒展」に来た男が、谷岡かどうかを確認する必要がある。
それと、もう一人、宮崎の絵を購入したいと云って来た五十代の男。
どういう関係なのか。
宮崎は、一年生から春と秋の年二回、毎回、展覧会に参加している。
だから「砂時計」を利用している。
マスターとも顔見知りだ。
だが、会話は、無かったそうだ。
マスターと、だけではなく、一緒に来ている仲間とも、話しをしている様子は、無かった。
大人しい学生だったそうだ。
ヤッシーしか居らんな。
ヤッシーは、弘の高校時代の同級生で、栗林北署の刑事だ。
林刑事に相談してみようと思った。
谷岡は、宮崎と会っていたのかもしれない。
いつ、谷岡が殺されたのか、分からない。
谷岡と、いつから連絡が取れなく、なっていたのかも分からない。
伝えてさえいれば、何かの手掛かりに、なるかもしれない。
だから、林刑事に情報を提供するのが、良いかもしれない。
「お疲れさまです。秋山です」
弘は、林刑事に連絡を入れた。
「おお。久しぶり。どしたんや」
いつも通りの挨拶が返って来る。
「実は…」
弘は用件を伝えた。
谷岡らしい人物が、日曜日に、栗林大学、美術部の「卒展」に来ていたらしいと伝えた。
林刑事が、すぐに来る。と云った。
美術館通りの「砂時計」と伝えた。
いつの間にか、テーブル席の客は、帰っていた。
マスターが、カウンターから出て、テーブルのグラスとコーヒーカップ、おしぼりをトレイに片付けている。
カウンター席の奥に、そのトレイを置いた。
今日は、ママさんも暇そうだ。
「砂時計」は、平日なら、この時間、サラリーマンで、満席になる。
それでも、一番奥のカウンター席は、空けている。
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