第9話 烈烈たる痛みと、清冽たる癒し

 二人で家にはいると、目の前を口元を手で押さえた真理子さんが通り過ぎ、廊下の奥へと消えていった。

 「母さん....?」

 茨さんが呆然と言って、靴を脱ぎ後を追う。

 自分は一体何事だろうと同じく靴を脱いで上がり、ドアに耳をつけて聴覚を澄ませる。まだ終わっていなかったとは、一体こんなにも長く何を話しているのだろうと。

 「___しに乗るな!僕は何もしないが、あいつがいたら本気でお前は殺されるぞ....!」

 居間の中の空気は張りに張り詰めていた。

 耳を遠ざけ、扉を見つめる。

 それ故かギスギスした雰囲気が圧力となって、そこへ繋がる一枚の板がとても重く閉ざされた物に思えてきて、僕は足を中へ進めることを憚った。

 話は続いている。再び自分はそこで耳を当てて、盗み聞く。

 「何度でも言ってやるぞ____!!」

 唐突な大声に身体全体を引く。茨晃の声だ。その怒声にも近しい音声に何がどうなっているのかますます分からなくなる。耳が少し痛むが故に、耳をつけずそのまま僕は続きを聴くことにした。

 「あいつを犯した!最高だった!一瞬だった、だが....。素晴らしかったんだ!妻が離れた私に、暴力を振るう私に、泣くだけ、受け入れるだけ、自分だけの肉便器と成り果てて!妻の代わりにやられ、妹を守る為に気高く散らせて!燃えないわけがなかっただろう!?格好良いよなぁ!?

 彼女は痛む程に美し....」

 ___ポケットの中のメリケンサックを右手で握り込む。そして迷わずドアノブを回して入った。茨晃との間合いを詰める。

 「調子に乗る、な....!?」

 太刀波の反応にも構わず、目の前に立っていた相手の首を目掛け、拳を...!

 「つっ!やめてくれ.....!」

 ___しかし、その拳は相手に接触する寸前で止められる。太刀波の両手で止められたその右手は、力んで震えるも前に進んではくれない。

 茨父は後ろに倒れ込んみ、腰を抜かしこちらを恐怖の眼差しで見ている。

 まだ出来ることがあるはずだ。

 僕はすかさず左手をポケットへ......。

 「ッ!?父さん押さえて!」

 「......!」

 右手が引っ張られているが無理矢理左肩から身体を前に出し、左拳を振り下ろそうと腕を引く、そして___

 「くっ...!?」

 「やめなさい....!!」

 ___これも止められた。太刀波父に動きを封じられたのだ。

 「玖道....!ここにいる人間はあいつ以外、皆気持ちが一緒だ。だけど、抑えてる。そんなところで人を殴ったらみっともないだろう?拳を納めてくれよ。冷静になってくれ....」

 奴はあくまで平静。なぜそんな顔をしていられるのか、と思うほど達観した目線が僕を見つめていた。

 「僕は冷静だ....」

 「そうか、よかっ___」

 「吼烏骨姉さんが犯されていた」

 「......!そうだな.....」

 奴は悔しそうに言った。

 「犯されてたんだ.....」

 「そう、だな.....」

 僕の気持ちを噛み締めるように返した。

 「僕はなんだって構わなかった」

 「そうだよな.....」

 心がないと思っていたけれど、“たちなみ”は泣いた。

 「なんでだ....!?」

 拳を振ろうと身体を揺らす...、

 「なぜだ!?」

 何度も何度も、何度も!!

 「死ねてとは言わない!僕は他人の生を否定出来るほど誇らしく生きていないからな!!でもなぜのうのうとしている!?お前みたいな奴がなぜ僕の世界にいて!なぜ吼烏骨姉さんがいないんだ!?教えてくれよっ!!?」

 「分からない....、分かるかよ....そんなこと...!?だから君の気持ちも分かる。理不尽が許せない性格だものな....。分かるかい...?君の拳止めるだけでも掌が痛いんだぜ?君のその怒りがさ、僕の両手に乗っかっているって分けだよな....。何倍も何倍も辛いよな....もどかしいよな....だが堪えてくれ、殺意にも似たその想いを、今は...どうか...」

 なぜ耐えられるのか....。なぜ僕をそんな目で見つめられるのか!?僕は只あいつを、あいつを!あの醜い...茨晃と同じ存在になってもいい!!夏の日にいてくれた女性がこれに微笑んでくれなくても.....!

 「帳尻が合わないんだよ!僕の気持ちは絶対に!あいつを許せない...!!どうしてどうしてどうして!!」

 後ろの扉が開いた音がして、顔だけをそちらに向けた、曲がりきれず横目で後ろにいる少女を見つめた。

 「玖道君....何やってるの.....?」

 「何やってんだろうな.....?」

 僕は冷静だ。こう思うくらいには。分かっている。この行動が果たせたとして、意味がない。きっと喜ぶ人はいないし、臆病な自分はきっと後味が悪くて後悔するんだ....。けれど...!

 右手を握り込む。

 「僕はぁっ___」

 ___瞬間、いきなり僕の横顔に激痛が走って、その痛みの原因が、勢いが地面にむかって僕を伏せさせる。同時に眼鏡は宙を舞って見えた。フレームの歪んだそれが一瞬映った。

 歪みとその落ちていく無機質さが

 背中から倒れて、あいつが僕に馬乗りになる。

 「馬鹿じゃないのか...!こんなひ弱なガキが、私に吠えたのか?これでは、痛めつけられるだけの子犬だ...」

 「調子に乗るんじゃないよ!クソ!力だけの肉だるまが...!」

 太刀波は家族揃って、いばらあきらを止めようとしてくれている。二人で奴の腕を引っ張ろうとするものの、力が足りず何度も後ろに飛ばされる。

 「同じようにしてやる...」

 「っ...」

 自分は一発、二発三発と殴られる。左右に横から横へ往復が続いて頭が揺すられクラクラし始める。けれど僕は揺れる視界の中、確実に見る、この理不尽を働く人間が見せる特有の眼を。哀れみのような、嘲笑のような曖昧な感情が見せる特殊な眼を。思い出す。あの夏の日、只の布を着た肉も、またこういう眼で見られていた。混ざった感情の比率はバラバラだったけど、確実に皆同じものを宿していた。邪悪を、孕んでいた。

 「なぁ....」

 「あ?」

 僕は声を絞って問う。どうしても聞きたかった事を、首を上げて睨みつけるようにして、

 「否定しない相手とやるってのはどんな気分だ...?」

 「はぁ?最高だろう....」

 「そんな全肯定のさ、自分みたいな存在と変わらない奴とさ!やるのってさ?嫌悪しないわけか!?オナニーと変わらねぇだろう!!よくそんなんで精神安定して、生きてこられたよな.....はは、笑いもんだよ。最高か....。自分のブツでも舐めとけよ.....」

 「それだけか...?」

 ___真顔で見つめてくるアイツの顔が僕にはもう恐怖には思えなかった。

 「十分じゃないかね、それでさ」

 ___善人みたいだから怖かったのに、今じゃ只の憎たらしい人間で、畏怖を浮かべようがない。

 バレぬよう左手からメリケンサックをそっと外す。

 「ああ....そう」

 右から拳が迫る、が、その前に、

 「い“っ!?」

 相手の右耳を思いっ切り左手で掴んで、引っ張る!そしてそのまま金属が嵌められていた右拳で___横顔を__!

 「う”っ....!」

 ____殴り抜ける!!

 相手は横へと勢いよく倒れ込み、自分はすかさずさっき相手がやったように上に飛び乗る。しかしこの体格差、普通にやっていてはすぐ、目の前のポジションの人間が僕になる。手に嵌めていたメリケンサックを外して右拳を握る。そしてその拳の側面を使って、

 「お前あ“...!」

 相手の鼻を執拗に狙って殴りつける。効く場所を選ぶ。”僕は”加減していては、どうなるか分からない。

 「痛みには強くないようで....」

 回数を重ねる度、相手が轢かれたカエルみたいな喘ぎをあげる。

 「たずヶ...。っ!」

 殴りを止めず、愚痴を相手へと流し込む。

 「格好良いだろう?格好良いんだ。気高かっただろう。全部お前の言う通りさ。最後までさ、誰にも言わず、助けも呼ばず、隠して隠し通して綺麗であろうとして....!きっとさ、嫌だけど、黙っているしかなくてお前にもされるがままだった筈だ。お前さ、他人を他人としか思ってないだろ?だから平気でこう言うことできるんだよな。自分が可愛すぎるからさ、自分と何発もやれんだよな。他人を個人とも見ていないで何が親だよ!笑わせんなよ!最後まで生きたかったのは誰だよ!お前の何倍も辛かったのは誰だよ!辛さを受け入れてでも、幸せを願っていたのは!!誰だったんだよ!!!」

 感情が顔に表れて、拳に想いが宿り、雫が集まり溢れ出す。また情けなく泣いて、僕は顔をしわくちゃにして泣いて、それでも問いたかった!拳を止めて目の前の、ボコボコになった相手を睨みつける。胸ぐらを掴んで起こさせる。

 「聞いてんだ下郎!お前の辛さが吼烏骨姉さんのものだったら、きっとこんなことしなかったさ!痛くても痛くても笑顔を見せてくれたさ!それなのに、なんでその父親であるアンタがそんなに弱いんだよ!!そのくせ何で理不尽を振るう側なんだ!!この矛盾はなんなんだ!!!」

 「おい!もういいだろう!?離してやれ!!」

 教えろよ、教えろよ。

 僕はまた奴を殴り始めた。今度は拳の四本並んだ指の部分で、ストレートに。痛くても痛くても、茨さんが、吼烏骨姉さんが感じた痛覚の何分の一である強さのその激痛を、自分は我慢する。彼女たちが嫌々できて、僕が好んでできない訳がないのだから、するのだ。怒りと悲しみは、あらゆる記憶を呼び戻す。数々のあの人との思い出が連鎖反応を起こし、また記憶が出てきて、そこから気持ちがいっぱいになって、際限なく増えていく。

 止められても、抑止力が外部から働こうとも、振り解き僕は戦う。

 不条理が許せなかった。理不尽が許せなかった。この平等が謳われる世界で、現実はどこまでも残酷だ。じゃあどうすればいい?僕は何をすれば、それを否定出来る?どうすれば自分は自分を救えるのか?僕は....、僕は......。

 「玖道君!」

 いきなり誰かが背中から抱きついて、僕は思わず手を止める。彼女は....茨色。理不尽と戦った勇敢な少女。彼女なら知っているだろうか?示してくれるだろうか?僕が怨むその世界の根源を。あの日のトラウマを晴らしてくれるだろうか....?

 「やめて玖道君!そんなことしても相手は答えられないでしょ?だって、気絶してる....」

 霞んでいたいた腕で視界をこすり、改めてよく見てみれば.....、確かに相手は意識がなくなっているようだった。半開きの目は白目をむいている。鼻血と鼻水と、涙がだらしなく、垂れ流し状態になっており、気持ちが悪かった。

 「そう.....だな...」

 「ええだからもうやめましょう?」

 僕はその言葉を無視して気持ちを少し整える。そして問う。

 「なぁ?」

 「なに?」

 「教えてほしいんだ.....。なぜこ.....?」

 泣きそうな声が背中を通して響いてくる。茨さんもまた、

 「やめてよね....姉は幸せだった。貴方といて、理不尽だったけど幸せだったんだから....!頼むからもう....そんな事を言わないで」

 「そう....か。そうだった...」

 頭の熱が抜けて行く。泛かされていてそんなことも忘れていた.....。彼女は愛してくれていた。僕を。でもそれで全てが片付けられるわけがない。それじゃ綺麗事だ。醜悪だ。無価値だ。許容できない。

 「やっぱり許せない。理不尽が、目の前の男が!そして僕自身が!死んだ彼女が何を抱いていたとしても!」

 「それでいいの....!それでいいのよ....。私分かったの、理不尽が、名前がついた矛盾のことだって。虐げられた人が、あまりにも違う自分と他人とを比べてつくった言葉なんだって....。只の言葉なんだって.....。世界はいつも不平等なのよ。なら当たり前じゃない、そんなこと。だから理不尽なんて本来ない、只の言葉なの.....。そして人はいつだってそれに対して立ち向かうしかない!それはみんながいて、初めて戦える敵なのよ!姉も貴方と一緒にそれと戦っていたのよ!!だから助けてよ....偽善でも傲慢でもいいから救って、私を、そして貴方自身を。最後まで姉を笑顔にした貴方なら、救い続けた君なら、それが出来るんだから.....」

 僕の手が震え始める。涙は勢いを増しそれを隠す為に片手でそれを拭う。それじゃ足りなくて...両手を使って拭う。何度も何度もその涙を拭って、枯れることのないそれを、いや、枯れたとて出したりぬ程のそれを僕は。喉から子供のように、吐き出す。だらしくなく、叫ぶ。

 「あああ.....っ、ああああ.....!ああ...!!ぅあああ!!!」

 顎が外れそうなくらい口を大きく開けて、嘆いた。そうするしかなかった。何故ならこの一瞬は短すぎるんだ。それを認めるにはあまりにも短すぎる。ないものは否定できない。そして否定できないが故に、抗って立ち向かうしかない。幸せとは犠牲の上でなるものだ。しかしこれはあまりにも現実的すぎる.....。どこまでも救いがない....。だからこそ受け入れたくない....けれど受け入れるしかない。それを否定すれば、僕は過去おだくうこを、そして未来いばらしきを、そして何より今を生きる自分をすることになる。

 「いい....。今はひたすら泣いていい....。折り合いをつけるのには時間がいるでしょう?誰だって同じ、世界は平等じゃないけど時間は平等。私もまだ救われてない.....。だから一緒に、癒える道を歩めばいいじゃない.....。仲間なんだから....それも悪くないでしょう?」

 自分は返事もせず泣き続けた。誰もがそれを見つめ、最後まで黙っていてくれていた。そして今更ながらに解する。僕が恵まれていることを、贅沢な人間であることを。そして故か、分からなかったが心の中で僕は呟いた。

 ”そうか、知らなかった。皆はこんなにも優しかったのか”。

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