第8話 幸福の証明

 真理子さんは片手を口へと当てて、目の前にいる変わり果てた茨晃の姿を悲しみながらも諦観する。

 「なんて姿.....」

 そしてそう漏らした。

 「茨晃さん。話してもらいますよ。さっきの質問。橋本さんがいる中でね。聞いて貰った方がいいでしょう?その方が大きな恥が杭となり、貴方はその真実から逃げれなくなる。誤魔化して生きれなくなるでしょう」

 「.....」

 「黙っていては分からないですよ。さっきの問いの内容、望むならば繰り返し口に出して差し上げましょうか?己の醜さを晒してあげましょうか」

 「もういいから!やめてくれ.....、やめてください....。お願いします........」

 そう懇願する彼に対し、溜息を吐いて太刀波は手を組む。そして椅子に座り直し、待つ。

 色々不思議ではあった。茨晃の心情はここにいる誰もが測れず、きっと複雑なものだ。言えるのはそれが願望と現実の矛盾が蔓延った、醜悪なものだと言うこと。中身までは分からない。そして今明かされるのだ。真意が。

 再び俯いた彼は自らの怯えて震える掌を見て答え始める。

 「最初は色が皿を割ったのがきっかけだった。当時仕事が失敗続きで、取引先には謝罪でひたすら頭を下げて周る日々。会社が落ちぶれていくと共に職場の空気は険悪になり始め、私は上司からいじめの対象となったんだ。大人だから暴力沙汰とかはなかったが、言葉が痛かったんだよ...。毎日が苦痛で、家庭もどこか冷めていっているのを感じて、私は甘えたいと思った.....。私には捌け口がなく、だからある日、洗っていた皿を色が割ってしまった音がうるさくてカッとなって、他の家族にばれないように、自分の部屋に引っ張り込んだんだ。そして首から下を殴る。顔は傷が残っては不味いと思ったんだ。だから.....」

 「気持ちがよかったかい?」

 「.....。喋りたくない.....」

 「話してくださいよ。じゃないと誰も納得できない。もう偽善者じゃなくていいんだ。泥だらけの人間がこれ以上泥中で戯れた所で、みてくれは変わらないだろう?」

 太刀波の脅迫に、背を押されゆっくりとまた話し出す。

 「気持ちが、よかったよ....。身体と心が久しぶりに幸福に包まれて...感情を振り回すだけであんなにも楽になるなんて...。そう感じた時には目の前に、お腹を抑えて死にそうな顔で唾を口から垂らし倒れた色とそれを抱え、こちらを心底悔しそうに睨む吼烏骨がいた。それで自分がやったと思い返して絶望して今みたいに手が震え始める。後頭部が一気に冷めてそれが背筋にまで渡るのを、耐えて、目の前の惨状を見ているしかなかった......」

 「辛かったかい?」

 「ああ....辛かった....。快楽を感じるのも絶望を感じるのも、等しく虚しく吐き気がした。自分が染まっていって変容して行く様は恐怖でしかなかったよ.......!」

 「被害者ぶるのかい?」

 「被害者ぶってなんかいない....!」

 「自分の為に言い訳ばっかり並べて.....自覚しても尚、今の自分を滑稽に思うことがないのかい?目に見えるものしか理解できないのか......」

 「あ........」

 気付いたように声を出す様は、とても間抜けで見ていていたくなかった。

 「まぁいい....話を続けてくれよ」

 誰もがその状態を冷めて目で見つめて、同情など一切なかった。あったとしてそんなものあってはならないと思う....。

 茨晃は鼻を二、三度擦って話を戻す。

 「吼烏骨は庇っていた。私から色を。そして言うんだ、”代わりになるでしょう?...私が“って。その時は娘達を黙って帰したが.....一日二日と日付が数を増すたび、身体の中で心痛が増し、欲情も増していった。私がそれらを発散する為に吼烏骨を利用するのに対して時間は要さない。夜中、色が眠った頃に私は居間にいた吼烏骨の両手首を私の片手で掴んで壁に押さえつけた。”何してるの“。恐怖の声がしたが、自分は構わず、溜めていた感情を拳に籠めて腹を殴った。彼女は苦しそうに顔を歪めて吐いて、出たそれが私の服に触れて今度は苛ついて頬を叩いた。手を掴んでいたから娘は倒れることもせず耐えていた」

 そう話す奴の顔は、今までと変わらず胡散臭い。吐き気がする。なにか違うと感じてならない。太刀波はそれを完全に見抜いていようで口をはさむ。

 「楽しそうだね。自分を曝け出して、気持ちがいいとは....理解に苦しむ。それとも記憶の中の快楽を再生しているのか.....」

 茨晃の顔はどこか、笑っていたのだ。語っている時は目が見開いて口を大きく開いて喋り誤魔化していたみたいだが、口が閉じれば節々に喜びが垣間見える。口端が上がっていたのを一瞬でも僕は見逃さなかった。それは太刀波も同じだったようである。

 僕の手がジンジンと痛んだ。気付けば拳にはとても強い力がこもっており、今にも溢れださんとしていた.....。誰の為でもなく自分の為のその拳は、堪えるのが難しい。ポケットの中に手を入れ、父親から借りていたメリケンサックに手を入れる。もしも茨晃が暴れ出した用にと持ってきたそれは.....。使える。奴を......。

 「違う........笑ってなど、いない......!はず....」

 「偽るなよ。常人だったのなら、それを恥じて生きろ、罪人。別にここにその罪を裁く者はいない。筈だとか言い訳はいらない。それでも隠したいならもっと上手く嘘をつくことだな.....」

 「違....う。私は......!」

 静かな場所で誰かの舌打ちが鳴って、僕ははっとする。どきりとしてポケットから手を戻した。拳からは力が抜けていた。

 「聞くに耐えん、聞くに耐えん!!もういい!言わせておいてなんだが、もう話さなくていい!」

 舌を鳴らしたのは太刀波だった。これもまた演技かどうか判断が難しかったが、只言えること張り詰めた空気の中のそれは皆の意識を引いて、僕の考えを妨げたというこだった。

 「いや、わたっ.....!」

 「黙ってくれ。いいかい?アンタがやるべきことは、こちらの言葉を只了承することだ」

 太刀波は再びスマホを出して文字を入力した。そしてすぐにしまって続けて話す。

 「アンタは茨色を自由にしろ。そして関わるな。一生、一人で苦しんで生きろ。

 ......少しでも変な動きを見せるものなら、この録音を警察に持って行く」

 そう言って、太刀波はポケットから黒いボイスレコーダーを出す。そう、ここでの会話を奴は全部録音していたのだった。これも作戦会議で予め決まっていた内容である。

 また玄関が開き、この部屋にもう一人の人間が入って来た。その人は男性で、ふくよかな体型。小さな髭と眼鏡、頭はバーコードといった感じで中央の髪が薄い。彼は誰かと言うと、奴の父親である太刀波修曹だ。

 「お話は伺っております。そしてこの前はお世話になりました。息子が無礼を働いて申し訳ありませんが.....まだ少し付き合ってもらいます。色さんの住居について、うちの息子、真理子さん、私、そして貴方の四人でね」

 「はい....」

 彼は顔をこくりと動かす。

 「僕の言葉にも頷いてくれますね?」

 「はい......」

 そして奴の言葉にも了承するしかなかった。

 

 僕は玖道と色君の背中を押して家から出す。そして僕は懐から自分の財布を出して彼に投げる。

 「二人で遊んでくるんだね。中には五万円くらい入ってる」

 「ガキが財布に入れていい額じゃないだろ。それ....」

 「バイトしている高校生なら普通だよ。僕はしてないけどね。

 まぁ日が暮れたくらいにでも戻ってきてくれ」

 自分はそう言って無理矢理、家から二人を弾き出して強引にドアを閉めた。

 彼らをこれ以上、ここにいさせてならない。特に玖道、彼は茨晃を殺すかもしれなかった。握る強さが強過ぎて、拳の色が変わってきていた時からヤバいと思ってたけど、片手をポケットに入れてからはもっとやばく、今思えば殺気が目に見えているようにも感じたし...。何より目線が確実に茨晃の首を狙っていた。あそこを殴って瞬間、片足を引っ掛ける。転んだ所で顔を狙う。これは玖道のよく使う技....。やると告げていたあの人殺しのような瞳...自分が止めていなかったらどうなっていたことやら。

 いやそんなこと今考えいている場合じゃない。

 居間に戻って茨晃を見る。

 「黙ってくれなんて言いましたがね。あれは玖道と色君がいたからです。悪いですが話してもらいますよ、全部。僕達は貴方が話し終わるまで決して口を出しません。だからどうぞお好きに話してください。皆事情は把握しています。さっきみたいに、嬉しそうに....」


 何故太刀波があの場に残ったのか分からなかった。作戦会議では聞くことを全て聞き出して、最後は太刀波の父に任せる予定だった筈なのに......。動きが変わったと言うことは何か、予定外のことをする理由があるはず....。何があったのだろうか。

 「茨さん、どうする?今から夕方までかなり時間あるけれど.....」

 茨さんは俯いたまま黙っていた。無理もない。仮にも父親のあんな醜態を見たのだ。子供として失望すると共にそんな現実に、打ちのめされることもある。

 「.......」

 「茨さん......」

 心配することしかできなかった。何をしていいのか、僕には分からない.....。

 「.........減った」

 茨さんは小声で何か言っているみたいで、最後の“へった”しか聞こえず、

 「ごめん、もう一回言ってくれる?最後の辺りが......」

 僕は聞き返した。

 すると彼女はもじもじし始め、なかなか言い出さない、覗き込んでもう一回聞こうとしたその時だった。

 「お腹減っちゃったって言ったのよ...!」

 彼女は赤面した顔を上げ、すこし大きめの声でそう言った。

 「あ、ああ....。そういえば.......昼前に来てまだ食べていないものなぁ。すまない」

 「なんで謝るの?」

 「なんとなく」

 そうなんとなくだ。


 「なんかゲスだったなぁ」

 ショッピングモールのフードコートに二人できて 僕はかけうどんとれんこんの天ぷらを、

 「どっちが?」

 茨さんはトマトのクリームパスタを食べていた。

 「強いて言うなら、どっちも。太刀波のやり方は相手に効果抜群だったけれど、なんと言うか.....いやらしかったし、茨晃はシンプルにそっちの人間だった」

 「そう....ね。あまり認めたくはないけれど。自分の血を分けた家族だもの。もしかして私もああなっちゃうんじゃないかって思っちゃった」

 そう少し暗く語る彼女に僕は平然と返す。

 「それはないと思うけどな。今回ので分かったけれど痛みを知っているから、他人に優しくできるとは限らない。痛みを知ってるから他人を攻撃する時もある。でも君はそんなことしない。利口だから、いい矜持を持っているから。勝手だけれどそう信じてる。君の覚悟は外面だけの、伊達じゃない。他者に助けを求めれず、行き着いた先で僕達は出会った。そしてそれを貫いて今があるのなら、君は今まで人を傷つけたことはないはずだ。絶望の淵に立っても、悪い手段に走らなかった。それこそ君の意志が美しく、固いモノだったからだ」

 彼女は持っていたフォークをお盆において答える。

 「そうかしら?私の両親は一瞬の快楽に身を溺れさせた。そして私もきっと同じよ。味を知ってしまえばい人を虐げるかもしれない。もし今の自分が何かに当たっていたら私は今ここにいないかもしれない....」

 それを聞いて尚、僕は「大丈夫だよ」と答える。これだけは確信出来た。

 「それは悲しいことかもしれないけれど、茨さんは人を絶対直接的に傷つけることはない。それは君の死の夢に現れている。きっと君はそんな人間なんだろう」

 「自分を殺す.....ということ?」

 「そう」

 彼女の夢は只死ぬだけのグロテスクなものではなかった。きっと他人が傷付く位なら、自分を傷付けるという彼女の優しい意志の現れだったのだと、僕は思う。そしてそれが事実ならそれは悪い性質なのだろう。だけどそれは不幸中の幸いという奴なのだ。

 「もうそんな夢を見ることもなくなる。他者も自己も、傷付くことがなくなる。君は君の為に、生きていいんだ」

 彼女は首を傾けて「私の為?」と言った。僕はそれに応える。

 「君は吼烏骨姉さんが生きている時もそうだけど、彼女の背中を追って生きてきた。そして死んでからは特にその色が強くなっていったと思う。どう思う?これは誰の為に生きているんだ、そう思わないか?あの日遠ざかった真理子さんも、これ以上いなくなって困る人間もいないはずなのに。それに僕は思うことがあるんだよ。もう、誰かの為に生きる必要はないんじゃないか、ないものの為に意地を張ることはないんじゃないかって」

 うどんを啜る。麺につゆが絡んで.....まぁ、普通の味だ。美味しい。今度は揚げ物を乗せる皿の端に置いた塩をつけて、れんこんの天ぷらを頂く。食感が良い。まぁこれもまた普通の味だ。美味しい。

 「そうかも....ね。終わってないとは言え色んな意味でもう自分は.....、自分を殺す必要なんてない。自己の幸せを願って生きる、か。そうね、じゃないと分からなくなる。何故ここにいて、自分は不幸になって行くのか。幸せも同じで、誰かの為じゃなく自分の為にないと、無意味。そんな生にきっと意味はないんだ」

 暫くして、彼女も再び食事に戻る。僕はその少し後に食べ終わり、だからお盆を持って立った。

 「先に片付けてくる」

 「分かった」


 ショッピングモールを訳もなく歩き回りながら、茨さんが突然言い出した。

 「教えてよ」

 「何を?」

 「ゲーム」

 ゲーム?

 「いいけれど、何故....?」

 「自分の為に、生きる為....かな。教えて欲しいの。私にできること、私がやりたいと思えること.....」

 「それでゲーム?」

 「うん。TVゲーム。一番手っ取り早いかなって」

 確かに.....。それが最も楽で、最も何か、楽しみや幸福を見つけるのが簡単なものだろう。友達とかの仲間も悪くないが、まずはそっちに触れてみてもいいかもしれない。と言っても....。

 「僕はゲームなんて知らないけれど....大丈夫かい?」

 太刀波なら詳しいんだが......。あいつはあらゆる壁を越えて、数多のゲームをやっている男だ。知らないゲームソフトをあいつに聞けば大抵、良い感じの答えが帰って来るくらいには詳しい。僕もゲームをやらない訳ではないが....ここ最近は一切やっていない。そもそも僕の主な趣味は本である。

 「いいよ、別に....。それに実はやりたいのは既に決まってて.....只相談したいだけなのよね」


 「これ....なんだけど....」

 「見たことは....ある。というかこれ太刀波が大好きなゲームだ」

 「そうなの....?」

 作品を棚から取る。パッケージには少年と少女が草原に二人で立って、大空とその先にあるものを見上げている。一番奥には大きな木があり、印象的にもきっと壮大な物語を描いたゲームなのだろうと予想できる。パッケージ裏面を見れば男女が伝説の地なる場所を目指すゲームのようである。その物語は二作目で、同じ棚の段から横へと少し目線をずらせば、無印と三作品目が置いてあった。

 「ゲーム好きのあいつが夢中になっていたゲーム。期待していいねこれは」

 「そう....?良かった....。相談は杞憂に終わったみたいね....」

 「何を聞きたかったんだ?」

 「続編は総じてダメになるってネットで聞いて...」

 偏った意見だ.....。そういうの信じちゃうタイプなのか茨さん。

 「ネット環境は遮断した方がいいんじゃないかな....」

 極端かもしれないけれど。

 「何か言った?」

 「いや、なにも.....。そういえば茨さんはどうしてこれにしようと思ったんだい?」

 「これ.....?」

 「いや、パッケージの説明文的には、話が独立しているのかもしれないけれど結局は三部作。その中で二作目を買いたい理由はなんなのかなって」

 彼女は暫く顎に手を当てて考えて、答える。

 「本当は全部買いたいんだけれど...そうね。二作目を特にやりたい理由はいつか動画サイトでCMを見てね....。素敵だと思ったから....」

 「素敵?」

 「そう、とても綺麗で、こうであったらいいのになって思った。男女が互いに一つの希望に胸を馳せて、互いのことを想いやり、その先を目指していく。美しいと思ったの。さっき、食事の時とはある意味で逆かもしれないけれど、その世界でその二人が、生きているのが。生きる様になって行くのが。とても理想的に見えた。それが私にも出来たらって....」

 第三作品目のパッケージを見る。六人の背中を見せる若者が、今度は山と空をまっすぐと見ていた。そもまた話のスケールの大きさと、青く澄んだ空が話が希望へと向かうものであることを予感させた。

 「確かに、それは魅力的だね。もしそれが....出来るなら.....」

 真っ直ぐとその世界に迎えたなら、人はとても幸せだろう。そこにどんな理由があろうときっと彼らは分かり合い、気持ちを共有し合い打ち解けていくんだ。それはどれ程までに美しく魅力的だろうか。

 僕がもう掴めなくなってしまったもの...。きっともう得られないもの...。

 ___いや違うな。”彼女“が僕を想っていてくれていたのならそんな言い方は良くないし、その言い分は間違いだ。もう立てないだけだ。過去自分はその魅力的な位置に立っていたではないか。彼女と共に.....。いなくなってしまった。けれど残してくれたものが自分を生かし、足を進めさせてくれる。充分じゃないか?それで....。

 「贅沢だな、僕は」

 「え?」

 あ、やべ。また口から言葉が出てしまった。

 「いやなんでもない.....。それより....なんだ...。買う必要ないよこれ」

 茨さんは訝しむ。

 「それはどう言うこと?」

 「全部太刀波から借りればいいのさ。ハードウェアもソフトウェアも。きっと奴なら喜んで借してくれる。全てがそうではないけれど、物語の感想は共感を呼んで、人同士を信頼に導く。その作品の好き同士ならね。だから歓迎してくれるのさ。カタルシスの為に」

 「そんなものかしら....」

 「そんなもんさ」

 吼烏骨姉さんの顔が思い浮かぶ。自分の考察に「いや違う!」「分かるねー」「ここの描写がね!?」そんなことを言って、語り合って....。とても楽しかった。それが出来ないだけで心のどこかがポッカリ穴が空いて僕は、あの頃に帰りたいと何度思ったことか。過去は幸せが、絶えなかった。

 「じゃあ次は、僕が本を教えよう。幾つか.....」

 「それはいい。貴方が呼んでるの....アレだし」

 「アレとはなんだ、アレとは。吼烏骨姉さん直伝だぞ」

 「あの人の趣味って.....」

 「そういう意味で言ったんじゃない!」


 そのあと僕たちはショッピングモール内の色んな場所を巡った。ゲームセンターでモチモチしたぬいぐるみを狙ってとれず散財したり、僕の趣味で本を見に行ったり、その本屋さんで文房具を新調したり.....他にも多くのことをしたけれど、互いにここで出来る好きなことを探しあって、やりたいことは大方やった。あんなことの後で思うのもあれだけれど、僕にとっては充実した一日だった。いや、振り返るのはまだ早いのだろうか。

 「日が暮れるのがどんどん早くなってきている」

 茜色の空を見て僕は呟いた。一列で自分が後ろ、自転車を二人で漕いで、帰路を行く。いつも同じ物を見ているはずなのに、僕は今日のそれが少し新鮮に思えて、何か感想を言いたくて、意味もなくそんな一言を溢してしまったのだった。

 「そうね.....」

 彼女の髪を後ろから僕は見つめていた。あの日の教室の映像が思い出される。そして毛束に赤白い光とあの日がプロジェクターの如く映って、毛のたなびきよって、波を打っている様に見える。

 世界は緩やかな風を吐いていた。その息吹に枯れた草木が震えて、その音が気持ちよく沈黙は気まずく思うことはない。秋が終わるのだなと静けさと冷たさが僕に告げて、その実感が湧くと共に事件は終わったのだなと、勝手に思って、一連のことを思い出す。


 「ねぇ」

 もう茨家のお家が見えてきて、着くという時に彼女が話し出す。

 「ん?」

 「私たち三人の関係も....、終わっていくと思う?」

 顔も動かさずされた、その問いに、自分は迷わず返す。

 「茨さんが望むなら」

 じゃあ、と繋げて茨さんは問いを重ねる。

 「三人の関係は続いて行くと思う?」

 さっきと同じ、答え方をする。

 「茨さんが望むなら」

 「それ....ずるくない?逃げてるみたい」

 「ずるくないさ、君は自由になる。けれど、私生活はあまり変わらず、数日前の当たり前のものに戻って行く。そうなれば君は僕と太刀波からは遠ざかって、学校での威厳のある普通の女子になって行くんだ。そうなればあいつと自分は、もう君のところには行けなくなる.....」

 「ふふ....」

 なぜかこちらへ笑い声が来た。それの意味が僕には理解できず、だから聞くしかない。

 「おかしいかな」

 と。

 また彼女はその問いに、ふふふって声を出した。何がそこまで愉快なのか、本当に分からない。

 彼女はふっと息を吐く。それは白く丸まって舞い上がり、大気に霧散する。

 「それは詭弁でしょう?」

 そこで自分はそうかな、と言うとそうよと即答された。そして彼女は続けて話す。

 「人はいつもこんなにも近くにいて、時にくっ付き合って、時に反発しあってる。関わりあった人はその立場が遠ざかっても物理的に近付ける。だって私たちの縁はそんな細く脆いものじゃない。なら必要なのは、幾つかの言葉。おはよう、こんにちは、こんばんは.....。なんでもいい。そんな簡単なこと、拗けた諸刃と言う忌み名を持っている人でも出来る」

 「そんなことしたら学校での僕達がどうなるか。君を含め....」

 「ははは!!」

 「ん!?」

 僕が言い終わる寸前で彼女はいきなり笑い声を上げ、失礼にもそれに驚愕を隠せず僕は声を出してしまった。

 家の目の前で僕達は止まり、自転車を二人しておりる。スタンドを下げて、駐車する。そして鍵を閉めてから、茨さんは振り返る。彼女は微笑んでいた。

 「そうかもね....。でもいいじゃない、別に。そんなこと些細な事だったのよ。私分かったの。幸福っていうのは不幸って言う犠牲を払ってつくっていくモノだって。そしてそれにはそれだけする価値がある。自己中心的なものだって。何かをすることが重要なんじゃない。何かを超えてその頂を見る事が大事なんだって。本質は掴み取る事だったの....。そして私は貴方達がいないとその壁を超えれる自信がない。貴方達と、私のお互いの心を犠牲にして、そこに手を伸ばさないと届く自信がない.....」

 「そうだ....ね」

 吼烏骨姉さんもそうだったのかも知れない。傷を受けてもそれを隠して僕とあってくれたあの人。僕もまた同類だ。全部が全部、それではないと思うけれど、自分の周りに同じくも犠牲が積みあがっている。僕は自己の理想を建てる段階でそれを理解していた。拗けた諸刃とはその犠牲から逃げたい臆病者の名前なのだから。理解していない訳がなかったのだ。

 「だから自分勝手だけど、罪人の貴方に、依存関係の下に命じます!私といつまでも続く友達になって.....!そして同じ命令を貴方が太刀波さんに言って!この三人でいられるように!」

 悲しいけれど僕らの現実は差し示した。僕はそれを否定できず....顔を上下に動かすしかない。そして彼女は僕に望んでくれた。結局自分は詭弁など弄してはいなかった。でも黙っておこう。

 「喜んで、その命受けます。どうせ太刀波にはプライドがないのだから、聞けば二つ返事でOKでしょう....、奴の分もここで僕が了承しておきます」

 些末な事だ。だからこのまま....戯れればいい。沼から、抜け出すために自分を踏み越えて、進む。

 「そんな自分勝手、太刀波さんが可哀想だと思わない?」

 笑いながら言っていてその言葉に本気と言った印象は微塵も感じられない。だから僕も笑い返して答える。

 「理想の求道者とは、そういう者です。自分もまた自分勝手な幸福を欲する、普通の人間だからね」

 もし望んだことが叶っていても、人はまた別の何か望むだろう。それは悪いことじゃない。だから人として生きるのが望みならば、僕らはそこにある道を突き進むしかない。それが人の生きる意味であり、幸福なのだ。

 空は紫がかってきた。また夜が来る。暗黒が訪れる。人はそれに備えるしかない。犠牲もその上にある理想も、選択によって大きく変わる。だから人は苦悩し葛藤する。でもやることはやっぱり変わらない。最悪にならないよう、踏むところを考え、超えていけ、最善の未来になる様に。それが明日も世界を見る為に必要なことなのだ。

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