第7話 過去の快楽
今回、断定的な考えを多く並べそれが都合よくもほぼ全て当たった。事件の仕組みが簡単だったと言えばそうかもしれない。そして僕が色君を導く為のやり方も簡単すぎる絡繰だ。しかし単純な重なりが複雑を構築する場合がある。むしろそうである可能性の方が多い。つまり、それによって隠れているものがあるのではないか、何かよくない予感があった。今回圧倒的に使わなかったのは、本来多用が推奨される可能性の排除。これを使えば何か分かるかもしれない。やる事は難しくない、同時に進めていこう。可能な限り突き詰めるのだ。事実のみを、絶対にあの上っ面から吐かせる。
太刀波さんの計画に私は耳を疑った。しかしそれは非常に根本的な解決法であり、有効的な事であるとも感じた。昨日の彼曰く作戦会議、あれは作戦会議と言うには少しお粗末だったが、それ故にどんなに小さな子供でもやるだけなら可能なものであると確信できた。これは絶対成功し、私はきっと解放されるだろう。けれど自分はこれからも姉を追って生きていくのかもしれない。しかしそれはどんな状況でもと言う話ではなく、所謂いいとこどりをして行くのだ。自由に生きると共に気高く生きることも望む。ああ....私はなんて贅沢なのだろうか?自分は今回何もしないと言っても過言ではない。それは太刀波さんから自分への最大の配慮でもある。良心の呵責というか、家族故の縁と言うか、彼はそう言う面を気にしてくれている。「いるだけで効果がある」そう言ってはくれたけれど、やっぱりそれは少し蟠りがある。自己の問題に傍観者でいられるほど自分はお利口さんではないのである。だから、なんでもいい。なにか、なにかを成そう。誰に対してでも、どんな行動でもいい。自分もまた役に立てればそれでいい。
「帰って来てなんだ。ノックもせずに入ってくるとはお前らしくもない」
「いたのか...。まあいいや。親父、すまないが、これ二つ借りてく」
「なんだ、進。喧嘩でもすんのか?」
「今回の用途はどちらかと言うと逆かな」
「まぁ勝手にしてくれていいが、無闇に他人を傷つけるなよ」
「分かってるよ。僕もこの家のやり方に従って、“最低限”だ。それは“相対的”な話だけどね」
「どうでもいいけど、やりすぎるな。あと親の手を煩わせるなよ〜」
「自分の手の間違いだろ?親父、自己中だから。でも安心してくれていいよ。そんな飛び火はないはずだから」
「そうか。いってらっしゃい」
「ああ」
真昼の青い空の下で僕たちは風切る様に自転車を走らせていた。
「そう言えば、色君。君は病院に運ばれたんだろう?」
「そうよ、それが?」
茨家に向かう途中で会話が始まった。太刀波はどうやら幾つかの疑問点をここで解消したかったようで、自転車を漕ぎ始めてからその会話が始まるまでは結構早かった。
「病院に二人で一度行った時、君はいなかった。普通様子見だとかなんだとかで一日くらいはいそうなものだけれど、いなかった。何故だい?」
それは確かに僕も気になっていた。もしかしたらすぐ帰宅する場合もあるかもしれない。詳しくないからあまり断定的な物言いはできない。が何か理由があったとしたなら聞いておきたかった。意味はないかも知れないからこれは純粋な興味であろう。太刀波もそうである筈だ。
「ああ、あれはね、あなたの言う通りで、私は暫くの様子見を提案されていたのだけれど.....。自分の身体は傷だらけだし、病院に連絡をもらって駆けつけてきた父にとっては不都合だった。だから半ば無理矢理私は退院させられて、家にいたってわけ」
「成る程」
「でも、搬送途中でも検査とかしたんじゃないか?そうだったらその時にも既にバレていそうなものだが....」
「そうかもしれない。そしてその可能性はきっとあの人も考えた。しかしあの人にとって重要なのは、疑われる事じゃなくて追及されること。何か言われるのだけは避けたかったんでしょう。だから私が帰らされた時は、手を無理やり引っ張られて、急いでいるようにも見えた。あれは焦りともとれたわ」
それならば確かに辻褄が合って都合がいい。虐待は疑われるにしても、確信に至る証拠などがなければ公的機関は動けないだろうし、気絶で運ばれた彼女の身体をちゃんと調べる時間など医師達にはなかったはずだ。それならば確かに逃げて仕舞えば勝ちとも言える。疑いだけが残って終わりなのだから何が動くこともない。
「まだ聞いたいことはあってね、玖道進という名前を君は誰から聞いたんだい?君は彼を昔から知っていたように思える。ならやっぱり姉からかい?」
その疑問は僕もと彼の間での共通していた。というか少し違うが関係している話をつい最近した。だから大体中身は予想できる。
「答え方は幾つもあると思うけど....初めて知ったのはそうね、姉からの言葉。こんな純粋で可愛い奴がいるってずっと喋ってた」
「じゃあ、彼が姉の知り合いの玖道と気づいたのはどの時点だい?」
「最初はもしかしてと思った。貴方が彼の名前を言ったその時、どこかで聞いたと思ってすぐに姉の言っていた少年の名前を思い出して、それで幾つか試験みたいなのをやって、確かめた....。だから気付いたのは私が自殺紛いの事をしたあたりかしら。あそこらへんで姉が好きそうだなって思ったし....なんか評判通りだったから。あの時はごめんなさいね....」
「いや、まぁやめておくよ。そう言うのは終わったら済まそう。約束だからね」
「そうね」と彼女は呟いた。
会話は終わり、目的地について、自転車を降りる。
二度目の茨さんの家は少し雰囲気が変わっていた。いや、見方が変わったと言うべきか。それは事情の変化と問題の出現によっての印象の切り替わりだ。主には....言語化が難しい、印象的には善から悪?みたいな感じ。前回はある種の願いのようなものを抱いて茨さんに会いに来たのに、今じゃラスボス戦の様な感じがしている。だからそう思ってしまうのだろう。
ここで太刀波は電話をする。話しを終えてまた電話。次の会話は少し長く色々言っていたが長くはなかった。合計二人と連絡を取った太刀波は「じゃあ、行こうか」と平静な面持ちで足を進める。僕と茨さんはついて行く。扉の前まで来たところであいつがインターホンを押す。
「お邪魔しまーす」
相手も待たずに扉を開けて靴を脱いで上がり込む。次にあいつは入ってすぐ右にあるドアを開けた。皆で乗り込んで、僕はその部屋の中を一瞥した。
そこは居間だ。左奥にはキッチンがあり、右にはテレビと長方形状の大きな机が。電気がついていない為薄暗い。衣類が地面に散らばっていたり、ティッシュや空き缶などのゴミも散らばっており不衛生極まりない。入って来た時にまず見えた大きな机には、長方形で言う短辺方面にテレビが歩く場所をつくるため隙間を開けて配置されており、逆に長辺部分には椅子が二つ入れてある。片方の椅子には男ものの上着がかけてあり、もう片方には一人座っていた。そこ佇む男性は顔だけをこちらに向けていた。その顔には苛つきと困惑の混ざった複雑な表情を浮かべ、こちらを睨んでいた。しかしその顔はすぐ変わり微笑んだ。大根役者の急ごしらえは見ていて、信用が感じられない。
「こんにちは」
明るく挨拶をしてから彼は椅子から立ち上がった。次にこちらを一人一人見て茨さんに目を止める。
「やあ!」
「おはようございます。お邪魔してます」
「ただいま」
「お帰り」
立ち上がってから気付くこともある。彼の髪はボサついていた。黒いジャージのズボンと皺の溜まったシャツ。どうやら寝起きなのだろう、目のどこか、印象的ではあるのだが眠そうに沈んでいる。次に目がいったのは彼の屈強な体躯である。身長は高く筋力を感じさせる身体つき。故に僕の第一印象は怖い、だった。こんなのに本気で暴力を浴びせられたら、身体に確実傷が残って痛みは残響のように何日もこちらを蝕むだろう。彼女達はその痛みに耐えてきた。最後まで生きようとしていた。その心情を勝手に推測って僕は怒りが沸々と湧いてきた。拳を強く固めて、堪える。感情を抑える。押し込める。
「えっと....彼らはお友達かな。太刀波君と君は?」
「玖道進です」
「玖道......?どこかで....。まあいいか。私の名前は
聞き覚えがあるのだろうか?茨父はまあいいかと言う言葉はなかったことのようにされ、相手はこちらの名乗りに再び少し考え込む。気のせいか、小さい声で行って彼は続ける。
「じゃあ君達、少し時間をくれないか?色、手伝いなさい。ここをすぐに片付けるから。最低限ね。もう見られてしまったとはいえそれくらいはさせて欲しい。我が家にもプライドが.....」
「いや、そんなものはどうでもよくてですね。だからまた席について貰って構いませんよ」
太刀波はそう半強制的にあの体躯を押して座らせた。相手は抵抗せず座り、怪訝さを顔へ表していた。
「もしかして、君達は私の方に用事があって来たんですか」
「察しの通りです。まぁ主に話すのは僕ですがね。玖道は緊急用の付き添い人ですな」
「それはどう言う意味ですか?」
その唐突な低い声に、僕は固まった。太刀波は臆さず、茨晃とは反対の位置にある椅子にどっかりと座る。
「まぁまぁ聞けば分かりますよ」
「その事情に彼女は必要ですか?」
変わらず鉛のように重い声で問いかけて威圧する。この時に僕は、この中途半端な怒りのような感情を表す声、それもまた演技臭いなと感じて来た。それは敢えての威嚇なのかもしれない。しかしそれは分かっても僕のうちに恐怖は変わらずあった。それは彼の態度がただ単につくったものでないことを表している。そこには、何か裏があるのだ。
「彼女は事実証明するために必須です。まぁ僕達は色君の言葉が正しい前提で進めるわけですが。父親としてどうですか、晃さん。娘さんの言葉は」
「どう言う意味ですか?いきなり」
「信じられますか?と聞いているんです。子の言葉をまず信用するのはどんな時も親ですからね。例外もあるかも知れませんが.....」
茨さんは左奥のキッチンへと行き、扉つきの棚からコップを四つとって、それにお茶を注いで、彼らが座る机に全部、置いた。茨父と太刀波は手にもって寄せて、椅子がなく、あってもそもそも座れない僕は持っているのも面倒だなと思って置いたままにした。彼女もまた同じ判断をしたようである。そして次に自らの父親を観察するように移動する。止まった位置はテレビと机の間で、そこは椅子に座る二人にとっては中間とも言える位置だ。
「私は娘の言葉を信用します。それが父親として当たり前のことですから」
自分は彼女と距離を置いて横に並び、茨晃の背中を斜めに見える配置へ。
今回の動きには役割分担がある。僕の場合はどう動くか奴を見定めるのが役目。さっきの会話にあったように茨さんは事実の確認だ。太刀波は会話によって彼女とその父親の物理距離を離すよう交渉することである。この中で一番大きな仕事はやはり太刀波だろう。全ては奴の口にかかっている訳であるからその責任はとても重い。共にあいつの手腕次第で、結果は大きく変わる。これは当然であるがこう言う揉め事での対話に関していえば、僕はあいつを信頼している。だから油断するつもりはないが、大船に乗った気持ちで自分は会話を観察することにした。
「いやぁ、その言葉を聞けてよかったですよ。親が子へ向けるべきなのは大きな期待より信頼です。僕は常々そう思ってましてね。勝手に期待した挙句、思い通りにならず怒りの感情を露わにする。そんなどっちが大人なのか分からなくなるなんて状況程醜いものもありません」
馬鹿にするような笑い方でそう言う。
「どう言う意味ですか?私がそうとでも?」
彼の出した声は、少し低かった。そして尻尾を出すのが思っていた数倍早かった。食いついたのだ。
「まさか....、もしかして心当たりでも?」
「.....」
太刀波の態度は挑発的。作戦会議ではこいつが何を話すかは聞いたが、どう話すかは聞いていなかった。....それは効果的ではあるのかもしれない。だが、少し不安である。子供が大人に対し、子供をあしらうように話す。その有効打は奴に釣り針を噛ませた。が、さっきの大船がっていうのは早過ぎるかもしれないが前言撤回である。不安なやり方だ。まさかあいつは”態と”最悪を作ろうとしているのではないだろうか。......でも、出来る事をするしかないのは”お互い”変わらない。
自分は身構えた。只、奴を信じて。
茨父は溜息を吐いて、目の前の太刀波としっかり目を合わせた。顔を止めさながらハシビロコウの様な眼差しが固く動かず、奴を捉える。
「貴方は私に何を話したいのですか?趣旨が分かりません。率直に来て下さい。あまり私はそう言う語り口は好きではありませんので」
「どんな会話も余談から始まるもんでしょう?そう怒ることでもないじゃないですか」
「怒ってはいませんし、それはどうでもいいことです」
「大人相手に貴方は今まで頭を下げて来たでしょう?僕は言うなれば客です。だから会社での上司や取引先の様に穏やかに接してください。貴方はサラリーマンでしょう?まぁこれは勝手な憶測なんですがね。僕が謝りに行った時のスーツ姿は非常に似合っていましたからそうだと思ったんですがね」
「貴方の私がサラリーマンであるという読みは正しいですが、失礼ながら、娘の客に上司や取引先のように敬った対応をしなければならない道理はないと考えます」
言うまでもなく正論である彼の発言に奴は黙り込む。返す言葉もないと言った感じで、奴は相手から目を離さず思考を巡らせている。
次に奴がとった行動は、
「ははは」
笑いだ。
そして明るい声で続けて喋る。
「然り、ですね。いや、すみません。悪ふざけが過ぎました。本題に入りましょうか。余談は終わりです」
「そうしていただければ助かります」
太刀波の笑顔に反し、茨晃の顔は愉快そうではなく、不機嫌そうであった。冷静を装っている風ではあるが彼は全体からその苛立ちが滲み出ており、これはもしかしてと僕は嫌な予感がまたしてしまう。小さなものであるが特に彼の足はガタガタと踵を地面にぶつけており、これはとても分かり易い。貧乏ゆすりだ。僕にとってそれは良い指標で。自分が動く事態になりうるかどうか、見定めるいい材料になる。
「では、言わせてもらいます。貴方の娘さん、色君の住む住居をこちらの用意するものにして頂きたいのです」
「どう言うことですか.....?」
「そのままの意味ですよ。つまり色君はこの家に住みたくないと言うことですね」
「どう言うことですか」
同じ言葉で強く聞き返す。具体的でない太刀波の答えに相手は不満を抱いた。しかし奴はそれを無視する。
「本人とは了承済みです。あとは彼女の親御さんである貴方に許可を貰いに来まし...」
「そう言うことを聞いてるんじゃありません!なぜそんなことをしなければいけないのか、それを聞いているんです!分かっていてどうしてそう言うことをするんですか!?」
“そう言うこと”。太刀波の煙に巻く様な行為に、相手は早くも声を張る。奴はそれでも冷静で、茨父をその瞳にしっかりと映している。心にも身体にもぶれはなく、照準は固まっている。
「分かっていてどうしてそう言うことを....?笑わせないで下さい。それをやっているのはどっちですか?敢えて穏便に済ませようと僕は遠回しに言ってるんです。何も分からないように言ったつもりはない。もし分からないのであれば、それは貴方の理解力が悲惨か、未だ認めない往生際の悪さが露呈しているかの二択でしょうが....貴方は後者ですかね?晃さん」
「何を言ってるんですか?意味が分からない...」
「やっぱ前者ですかね、貴方は。それとも言わないと進みませんか?」
「いい加減にして下さい!」
茨父は勢いよく机を叩いて立ち上がり、奴を睨む。背中からであるから顔が見えないが、彼の睨みはなんとなく動作で分かった。それでも太刀波は何に於いても変わる風がない。
茨父の威圧は奴にとって本当に効き目がないようだ。
「貴方は何が言いたくてここへ....」
「じゃあ言ってやりますがね....!」
ここで太刀波が立ち上がった。そして相手を見張った目で、睨見返して負けじと言い返す。
「貴方が成長しないからこうなったんですよ?貴方は、小田吼烏骨さんを忘れたんですか?」
「なぜ...?」
小田吼烏骨、茨父はその名前に明らかな動揺を見せる。
「彼女に貴方が何をしたか。そして続けて、貴方がその妹に何をしたのか。なにも思わないのか!その手で娘を穢して、知らぬまにいなくなって、後悔の一つもしなかったんですか!?」
相手の身体が横に傾くのを察知して、僕は駆けて、茨父から茨さんを遮るようにして前へ立つ。相手は僕を見ておらず、ひたすら茨さんへ怨みの眼を向けていた。
「どこまで話したんだ。色.....」
重い、静かな怒りの声。それは震えている。
「......」
茨さんの目線もまた相手の瞳を捕まえていた。それは太刀波以上に強固なものであった。邂逅の日の碧眼を、ちらりと横目で見て僕が思い出してしまう程に。
「答えなさい.....。どこまで話したんだ!」
「お父さん.....私は.....」
「茨晃さん、話相手は僕です」
奴の発言によって、茨さんの口が止まる。そして彼女へ行っていた茨父の目線と身体の向きが再び奴へと移る。そして太刀波は再度話し出す。
「...色君がされたことが事実であるのならば彼女が僕達に話してくれたことの量などなんの意味も持たない。いいですか?どこまで話したのかというさっきの問い、必要性が皆無なんですよ。確認は不要です。
それにですね。貴方は先程言ったではありませんか、娘の言葉を信用します、と。自己の言に準じてみては如何でしょう?今から僕が二人に幾つか質問をします。はいかいいえで正直に答えてください。そして僕が彼女に確認してから、貴方が答える。娘を信用し、父は正直に話す。いいですね。
決して、娘さんを裏切らないように.....」
「訳が分からない!人を馬鹿にして楽しんでいるのか!?そんなゲームみたいな...!!」
茨晃と言う男は焦りを表に出してしまっている。奴の捲し立てで完全に己のペースを失い、顔を真っ赤にさせ、汗が出ているせいであろう、おでこがてかりだす。彼の握り拳は震えて、この様子では感情を抑えるのも必死なのだと分かる。
「じゃあ始めます」
「お前っ!」
「茨晃は過去!累計二人以上に虐待を行った!.....そうですね.....?」
彼の制止を振り切って奴は事実確認を開始した。
「はい.....」
そしてさっきの太刀波の誘導通り、茨さんからその質問に答える。ストレートなその問いにあの男はどう答えるのか....。
「そんなの証拠がない!!お前らは言葉だけでここまで..」
「はいかいいえ!それ以外僕は認めない!」
しかし彼が始めたのは言い逃れだった。そしてそれを制す奴の怒声。
「否定も肯定も....個人の自由だ。だがね、まず潔くなれよ。ここは二択、“好きな方”を取れと言っている」
静かな怒りが相手に向けられる。茨晃とのやりとりのせいか奴にも熱が入って来たようで口調が崩れ始めてきている。あいつも流石にこんな不毛な会話をしていたくないらしい。その急かすような言葉遣いから、相手への苛つきが全面に出てしまっている。ここまで純粋な怒りの感情を露わにした彼を見るのは初めてだ。
そんな少年を前に大人は喋れずにいた。やれることと言えば、歯を食いしばったり、眼を見張っり、両方の拳を机に立てて我が身を支えたり。奴の言葉が飲めないなら黙るしかない。のだが、それは質問をする人間の神経を逆撫でるだけの行為だ。
「はいかいいえ!早く答えろ!!」
彼も限界であるはず。そしてそれを証明するように奴の言葉に脅迫されて遂に茨晃はゆっくりと、口を開けた。
「....は...、い......」
心底悔しそうに、眉間に多くの皺を寄せ、歯を何度も何度も擦らせて鳴らし、眼を細めて、只、誰かを怨むように。彼の手の震えは大きさを増し、拳が机の上でぷるぷるとゆれ、振動でコッピとその中のお茶が小さく揺れ続ける。茶の液面の小さな波紋は重なって大きくなって行く。
はぁ、と太刀波は大きく溜息をして喋り出す。
「じゃあ二つ目です」
「......」
もはや茨父は何も言わず、只耐えるようにして言葉を聞いていた。それはペースが完全に太刀波掻の物になったことを表していた。
「茨晃さんは夏のあの日、小田吼烏骨を背中を押したよう犯人に命じた人物である。どうですか?」
これは正真正銘のデマ。が、これは態と。鎌をかけようとしているのだ。これは作戦会議でやると予め言っていたことである。僕と違って奴は未だに疑っているのだ。”茨色を“。
「はい」
ここで茨色は、はいと答える。これも決められていたこと。
「何を言っているんだ!?そんな訳がない!!」
その言葉によって幾つかのことが証明される。まず吼烏骨姉さんの死と茨晃は無関係である。それは逮捕された犯人への取り調べで判明している。犯人は「誰でもよかった。人が死ぬところを見てみたかった」と言ったそうである。これは恐らく事実だし、犯人が誰かに指示されて動いた証拠等一切見つかっていない。吼烏骨姉さんは死ぬ必要がなかった。なのに殺された。これは変わらない事実だ。つまりあの事件は意味不明であるが解決されていない事件という訳ではないということである。故に彼は正真正銘の白なのだ。
「彼女ははいと答えました。まぁ僕も彼女の考え通りだと思いますよ。辻褄が合うんですよ。車の下敷きになって娘は命と面影をその身体から消して、更には貴方が行った暴力の痕も消えて。それはもう都合が良かったのではありませんか?」
蛸のように真っ赤だった彼の顔が青ざめて行く。「違う違う....」と何度も繰り返して言葉を重ねる。俯きながら汗を吹き出し、頬からは汗が滴下してもたれかかっている机にポタポタと小さな溜まりをつくる。眉は八の字に絶望がその表情に現れる。
太刀波は焦るだけの茨晃に痺れを切らし、
「はいかいいえどっちなんだ!?」
と迫る。
それに、
「いいえだ!いいえ!!それは私じゃない。私はそんなことをしていないっ!絶対っっ!」
即答だった。
「よかったです。貴方は正直者ですよ。そして臆病者です」
そのせせら笑うような奴の声から解放されたように、彼は椅子へとへたり込んで、深呼吸をし始める。流石に殺人犯に仕立てられるのは怖かったのかとても緊張していたのがその白い顔に出ている。
彼の思考能力はギリギリで真面に働いていなかった筈だ。太刀波の度重なる捲し立てる威圧的な物言いは、急かしと脅しで相手の判断能力を鈍らせるものであり、あくまで善人面をして、攻めることをせず攻撃を受けるだけでいた茨晃にとても効いたのだ。善人たろうとする意思は、彼が虐待をしたという事実から、世間体の眼をから自分を遠ざける為につくられたものである。その姿勢は隠し事をするのには最適ではあるのだが、隠し事がバレている人間がしたらそれはなんの意味もなさないガードであるし、それ故に攻撃されるだけの弱味にしかならず、只一方的に言われるしかない。プラスして娘を信じると言うその建前も、茨晃を不利にした原因だ。あの一言がなければここまで彼が一方的に言われることはなかった。生きる為の臆病さは、時に自己の仇となる。
『父親としてどうですか、晃さん。娘さんの言葉は』
簡単な誘導はこの為だけにあった。茨晃のなりたい自分は善人。だからこれには、はいと答えるしかないのである。そしてそこで一度目は事実を聞き出す。二度目であの質問。彼からあくまで優しい親であると言う上っ面を引き剥がすと共に、彼の言葉の信用度を高めているのだ。太刀波は最後まで疑っていたのだ。”茨色が、本当に虐待されていたのか“。
「少しは落ち着きましたか?茨晃さん。では最後の質問を答えてください。と言っても最初と同じモノですが。貴方は過去二人の娘に暴力を振るって来た。そうですね?」
「はい」
真剣な眼差しで茨さんは肯定をする。茨晃は姿勢を変えず衰弱した身体から目だけがじろりと、太刀波に向ける。そして嘘を吐くのを諦めた顔が告げた。
「はい.....」
彼も肯定した。
「やっと貴方の”本当の言葉”が聞けましたよ。よかったです」
太刀波は平常に戻ってそれに対し微笑む。このいつも通りの様子を見る感じ、あの本気で憤慨したような太刀波掻は演技だったのだろう。よくあそこまで迫真に演じられるものだ。まさか茨さんに初めて絡んだ時もこんな感じだったのではないだろうな....。
.....もうここまで来たら隠し事はないだろう。何故なら彼はこれにより、娘を信じる親と言う虚像が壊され、只の下郎であることを自ら証明し、もう守るモノなど対して残っていない。故に、最初の虐待したと言う自白が只奴は言わされたものではなく、二度目の質問により、”真実“を言わせたことになるのだ。これで小田吼烏骨と茨色は本当に虐待されていたことが明らかになった。もう、やることは少ない。最後にすること、奴のやることは、彼女と彼の物理的距離を離すため、彼女にとっての心の害悪を取り除くだけ。
「自分が傷つけた娘が死んで、貴方はどう思いましたか?」
「.......」
只項垂れる。目だけが相手に構えて、身体は脆弱。堕落しているようだ。
ここで太刀波がスマホを出して片手でキーボードを打った。何を書いているのかは見えないが、どうやら長い文を書いたとかではないらしい。彼の手はすぐに止まりスマホはポケットの中へ戻される。
「彼女が死んで、夫婦は離婚して。その先の生活を頑張っていたと思ったらまた人に暴虐を働く。今までどんな想いで生きてきたんですか?教えて下さい、0から全て」
茨晃は、無気力そうな顔を上げた。拷問にも近いその問いに遂には無視できず身体を動かしてしまったのである。果たして彼はなにを答えるのか、彼は何を思って生きて来たのか。ここで問われた。しかしそれは不必要な問いだった。奴は今回の問題としてはどうでもいい、茨晃の内側へ迫ったのだ。
「来ましたね」
突然だった。玄関から扉が開く音が鳴り、人の足音がこの部屋に向かってきている。そこにいた誰もがその一つのドアを見つめた。謎に緊張が走り、空気が静まる。そしてそれは開けられる。
「お前.....!」
茨晃の驚愕は当然のものだった。誰が予想できただろうか。まさか相手が子供だけの話し合いでここまで発展しようとは。
「やぁ!橋本真理子さん!」
そこに立っていたのは茨晃の嘗ての妻、橋本真理子さんであった。
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