第6話 強くて弱くて小さくて

 「本当に申し訳ございませんでした」

 頭を隣にいる父親と共に下げて謝罪する。僕は高校生ながら恥ずかしくも泣きながら謝る。嘘泣きである。嘘泣きには目薬、あくびによる誘発などやる術は沢山あるが、僕の場合、悲しい記憶を思い出す事で出している。僕は感受性が強いのだ。

 目の前にいる、スーツ姿で体躯のやけにいい男は茨晃いばらあきら。茨色の父親である。髭を剃り揃えて、皺は多くはないが少なくもなく五十代と言った感じの顔つきだ。スーツ姿なのは帰って来てすぐだからだろう。だから彼の手には黒く四角いビジネスバッグを持っている。僕たちが玄関で謝ると彼は驚きの声を上げた。

 「頭を上げて下さい」

 僕と僕の父、太刀波修曹たちなみしゅうぞうはそう聞いてゆっくりと頭を上げる。鼻を横から親指で三度払った後、茨父は僕の肩を掴んで言う。

 「貴方のやったことは、許されちゃいけないことだ。でもこうして涙を流して謝ってくれたのなら、それはきっと本当に反省しているってことだ。そうだろう?」

 彼は少し屈んで笑いながら言った。

 鼻をいじる動作___きっとそれは癖であるがその時はなにを意味しているか、確証はなかった。恐らく感情を隠していたのだとは思う。本当の気持ちが鼻に出ることは多い。それを隠すためにわざと鼻から多く息を吸ったり、鼻を弄る人は探して見れば結構いる。

 茨晃はその後スーツのポケットからティッシュをこちらに差し出した。僕はそのテッシュから何枚かとって涙を拭く______。

  「はい.....!」

 ____そして真剣そうな覇気のある声でそう言った。

 滅茶苦茶、自分が悪いとは思っているが、正直、彼女しきくんを泣かせてしまった事に関して反省できていない。流石にそれは言えないので黙っておく。

 それはそれとして自分にはこの状況が妙に冷めて見えた。それは何故か。理由は分かっている。目の前にいるこの男の顔と言葉が、林檎の皮くらい薄い物でしかないと感じてしまっているからだ。仮にも僕は娘に暴言を浴びせまくって泣かせた相手だ。それを相手はこんな優しく叱る。それは不可解だ。普通はこう思う筈だろう。“この子供は言葉で人を泣かした陰湿な奴で、今態度を一転させ泣いているのは許される為に状況に合わせた猫被りをしている。それは彼の程度の低い狡猾さが成す技だ”、と。

 

 「お前、僕と彼女を教室で合わせる前に、僕の名前を言ったか?」

 「喋ったよ。だがそれがどうしたんだい?」

 十五時、車に揺られながら、顔も合わせずそう話す。僕は今日の朝のように再び外を眺めていた。景色が移り変わっていく。夕方の空はまだ青い。

 「いや、別に。ただ、茨さんは僕のことを最初から玖道進かどうか分かっていていたのかなって。そして彼女は僕が自らの姉の知り合いであると、分かっていたのかなって」

 「.....知らないよ。でもね、彼女と玖道進があったのは偶然だよ。僕が引き合わせたのにそんな意図はなかったし、彼女は僕に対し現状の解決を純粋に望んでいたんだ。最初はそれ以外の考えはなかったはず....」

 「吼烏骨姉さんの知り合いかどうかって部分は?」

 奴は暫く考えて。

 「それは.....そうだな。彼女はきっと確信できて”いない”か、”いなかった”。それ故に彼女は様々な状況をつくって試した」

 「どう言うことだ?」

 それくらい分かるだろう、と彼は言って溜息を吐く。

 「まず君は思ったはずだ。チャンスだ、と」

 「何の話だ?」

 「彼女が自殺未遂をした時の話だ。彼女は少し異なるが、同じ状況を作ったんだ、姉が死んだのと」

 道路への飛び込み。あれは僕を、彼女自身が語った以外の訳があって行った”試験”だったとでもいうのか。

 「それをチャンスとは悪趣味な表現だな.....。だが、心のどこかではそう思っていたかもしれないな」

 彼女は僕になんらかの理由があって、昔と同じ状況をつくったらしい。

 「かもしれないじゃない、そうなんだ。あとは....もう一つ確信的なのはやはり写真になるのか。きっとあれは君の介入なくして見れることはなかっただろう。彼女は君が玖道進と疑ってか、もしくは分かっていて写真を見せている」

 「何のために」

 「自殺さっきと同じで何かを理由に試したのだろうな。具体的には分からないけれどね。彼女は元々、姉に話でも聞いていたのか姉と仲のいい人間が玖道進であることを知っていて、色君はそれを覚えていた。そして今の状況で僕が介入し、その結果偶然玖道と色君は出会う事になる。…君は会ったこともなく名前も聞いていないんだね?」

 「ああ。名前は聞いたことがなかったし、苗字も変わってたせいで勘すら働かせれない。あったことも一切ない。あくまで交流があったの吼烏骨姉さんとそのお母さんだけだ」

 「ならば彼女は一方的に知っていたのだろう。そして何かしらの理由を胸に、彼女の身の上を君に伝えようとした。

 まぁ....理由は何であれ、だ。やることは変わらない。僕たちは彼女の障害を排除し、傲慢にも救済せねばならない」

 「そうか....そうだな」

 「それにもう彼女を救う術はできた」

 「え?そうなのか?どうするんだ具体的には」

 「ちょっと強引な方法だが、行ける筈だ。まだ話さないが.....まぁじきに教える。近い未来にね。君は寸前になってからの方が判断能力がいいから、中途半端なところで話して断られても困るし、まぁ待っててくれよ」

 「よく分からない言い訳で断るなよ。まぁお前がそう言うなら深くは追求しないが......」

 「そうしてくれ」

 息を吐いて座り直す。少し項垂れる様に、考え込む様に地面方向を見つめる。

 茨さんは僕に何を求め、何をさせたいのか....。こればかりは想像の余地がない。なんせ考える材料が足りない。まぁあったとして、人の心を勝手に推測ってそれが当たるなんて都合のいい事、あるわけがないのだが。精々が勘違いを連続させて、挙句心境を曲解してしまうのがオチだ。

 「なぁ、玖道。君はどうだったんだい?」

 唐突な問いかけに目線も合わせず自分は「何が」と質問を質問で返す。

 「何がじゃないでしょうよ。君は好きだったのかい?小田吼烏骨が」

 ......。

 「好きだったら、どうだってんだ」

 自分は顔色を変えず答える。こう言うのは怖気たら負けだ。

 「照れるなよ。好きだったんだろう?」

 嘲笑しながら太刀波は言ってきて、なかなかうざい。癪だ。だから何か言い返してやろうと、奴の方向に向き直って身構える。

 「.....まぁな」

 「おお。なら相思相愛だった訳だ」 

 「はぁ!?」

 思わず大きい声が出てしまった。なんて事を言うんだ!

 「うっさ」

 急に奴は顔を冷まして、真顔だ。

 「何なんだ、お前....。それはタチが悪い」

 「元からだろう」

 「だからって許される道理はない」

 「許されないなら、謝ったってしょうがない」

 「何言ってんだ」

 「.....暗いね。君も色君もさ」

 脈絡なく、奴はそう言った。

 「関係ないだろ。僕は何だっていいが彼女の事はあまり酷く言うなよ」

 こちらの忠告を聞いた太刀波は椅子にどっかりと体を大の字にして座わりなおし、天井を仰ぐ。

 「分かっている」

 いきなりどうしたんだろうか。

 「.....どうかしたのか?」

 思わず聞くが、奴は少し考えてから姿勢も変えず口を開く。

 「僕は今日の橋本さんの話、ある前提で聞いていたんだ」

 「なんだよ」

 「“絶対に彼女の言葉を疑わない”」

 「そんなの....、当たり前だろ」

 あの人の話を前提にしないと破綻する話が出てきてるし、そもそもこちらから聞いたのに相手が態と嘘をつく意味もない。そう言うのを抜きにしても信じず聞いては今回の話は意味がなくなる。何故なら確かめようがない。モノによっちゃ出来るかもしれないが、家庭事情とか、虐待とかは特に難しいだろう。よく知らないけれど、そういうのは警察とかの仕事であると思う。

 「君は言っていたね、“愛している”。この言葉の意味が分からないと」

 頷く。解釈の仕方は色々あるし、僕の告白を最後まで断った彼女はきっとその言葉に応えるつもりはなかったのだろう。もしくは冗談と思っていたのか。僕はそう思っている。

 「玖道、おかしいな。さっき君は僕の言葉に当たり前と言った。そしてそれならば認めるべきだ。彼女は君が好きであったと」

 「訳が分からん。恋は性欲だよ、太刀波。そしてその欲求が噛み合った時恋愛と言うのは成立する。そうだろう?僕たちは噛み合わない。」

 「それに関しては、僕も概ね賛成だ。だが恋愛と言うのはこう言うモノでもあると思うのだよ。それは君の言う様な、性欲だけのものじゃない。恋愛とは欲求が噛み合った上で”どれだけ相手を大切に出来るか“これが大事なんだ。相手が一人であれ複数であれ....ね」

 「何の話だよ...?」

 「君は卑怯だよ。小田吼烏骨と言う女性に、多くの傷を隠させておいて、必死に格好を付けていた相手の想いを否定して逃げる....」

 

____こんな醜い姿、バレたくない.....。


 「彼女は、僕に心配をかけさせたくなかっただけだよ」

 「だけなわけあるか」

 「じゃあ、見られたくなかっただけだよ」

 「君は殴られたいのか?」

 「え?」

 ビックリした。太刀波搔は日頃暴力関連の言葉を冗談ですら言わない。そんな奴に真顔で殴られたいのか、と聞かれれば空気が凍りつくし、死を覚悟してしまう事だってもしかしたらあるかもしれない。それは大袈裟か...?

 奴は普通に座り直し、こちらをジロリと目線だけ動かしてみる。

 「君はないんだな。理由はどうあれ、泣かせたんだぞ、女の子を」

 女の子を....?泣かせる....?

 そんな事をした覚えはない。僕は....。

 「泣かしたもんか。僕は今まで...」

 「じゃあ!お前の好きな吼烏骨姉さんは誰の為に傷を隠して、誰に対して涙を流したんだよ!」

 自分の言葉を塞いで、こちらの胸ぐらを掴んで太刀波はそう言った。

 「......っ!」

 「お前は、好きな小田吼烏骨さんの涙を否定してまで、何を否定したい!?」

 いつもの口調など崩し、すごい剣幕で。

 「......」

 「言ってみろよ!言えないなら!認めろよ!そんなんじゃ....彼女が何の為に最後まで自分を隠して生きていたのか分からなくなるだろ......!」

 泣きそうな顔で目の前の男は言った...。そしてあまり待たず、その顔は崩れ悔しそうに涙を流す。

 「何で....お前が泣くんだ....?」

 そんな自分の問いに奴は反応することもなく続ける。

 「お前は....!好きじゃないのか....?彼女を」

 「好きだよ....」

 その想いは本物だ。どんなに汚れていたってそれだけは譲れない。そうじゃなかったら僕はここまで彼女の言葉を信じていない。きっと彼女がいなければ今の僕はここまで元気じゃないんだ。

 「好きなら....!好きにすればいいだろう!?彼女もお前が好きなんだよ.....!何があったか知らないさ、僕は!部外者だしさ!でもお前が彼女の傷と涙の意味を無視していいのかい!?忘れちゃ駄目だろう....それだけは。言葉の意味を知りたいと言ったのは君じゃないか......」

 彼女が泣いて、母親の制止を無視して氷水に顔を浸し、消えない青紫色の怪我を、何も構わず只ひたすらに、その痕を残さない様に、したのは誰の為であるか。どんな思いで、痛みを我慢して帽子を可愛いから、と言ったのか。それは僕が貰うにはあまりにも贅沢ではないか.....?いいのか僕が。いや、いいんだな....?

 「....分かったよ」

 「ほう...?」

 「認めてやるよ.....そう言ってんだ...」

 「本当かい...?」

 ここまで言わせて信じられないのだろうか?

 「ああ....二言はない」

 それを聞くと太刀波は歯を見せてニッカリと笑う。

 「言えたじゃねぇか.....」

 ...。

 「それでもさ、恥ずかしいじゃないか。僕もそう思いたいが、もし間違っていたら....」

 ふふふと奴は唐突に腹の底から笑いを堪え始める。人を馬鹿にしているのか?折角自分が珍しく素直になったと言うのに。こんな仕打ちはあんまりだぞ。

 「ふふふじゃない!黙ってちゃなにが言いたいのか分からんぞ!はっきり言え!」

 すると奴は急に声高らかに笑い始めて、腹を抱えたり、運転手のいる座席を叩きながら爆笑した。

 「おい...!」

 「あぁ....すまんねぇ。そんな顔真っ赤で素直になる君を初めて見たもんだからさ」

 「何だよ!ガラじゃなかったのお互い様だろ!?」

 「いやぁすまないすまない。え〜となんだっけ間違えたら....恥ずかしいだっけ?」

 それを言ってからまた笑い始める。

 流石に落ち着こうと思ったのか、太刀波は肩を動かしながら呼吸して、冷静さを取り戻そうとしていた。次第に治っていくのが見ていて分かり、完全に静かになると奴はこっちと顔を合わせる。

 「間違えたら恥ずかしいってのは、今だけ出来る体験なんだからさ。それはそれで一興なわけだ。自信持ってけよ、女泣かせ」

 こいつ...幸せそうだな.....。

 「それもお互い様だろ。まったく.....」


 「悪いな、送ってもらって」

 自宅の前で車の窓を下げた、太刀波と話す。

 「いいよ、恩は売って損はない」

 自分は電車であの町に行ったのだが、帰りは車に乗せてもらって帰ってきた。

 「徳を積んでいるつもりか?」

 冗談混じりに質問する。

 「”恩を売っている“だけさ。それ以上でも以下でもない」

 さいで。

 「まぁいい。今日はありがとうな」

 窓を閉めながら頷く太刀波に、僕は手を振った。車は前へと動き出し夜闇の中に、ライトの残像だけを網膜に残して消えて行く。

 「さあ、行くか」

 誰もいないのに一人で呟いて、太刀波の車と同じ方向へ歩き出す。覚悟にも似たその言葉は、口に出さねば崩れてしまいそうだった。嘘に化けてしまいそうな位弱い言葉だ。


 奴の車には最早追いつけない。と言うか追いつくことが目的ではなかったのでどうでもいい話だ。寧ろ、いない方がよかったかも知れない。

 

 やがて見えて来たのはいつしか自分が目覚めた、公園だ。いつしかと言っても一昨日か.....。ここ三日間の出来事はとても濃くて、何日分の経験をしたか分からない。だからそんな勘違いをしてしまう。

 公園の中はとても静かだ。聞こえてくるのはキィキィと言うブランコの寂しい金属の軋み。置いてあるのは遊具とベンチと、誰かの自転車。公園内には既に一人の人がいて、僕は彼女を見て声をかける。

 「すまなかった。こんな夜に呼び出して」

 時刻は既に七時を回っている。娘が家から出たとなれば、親は心配に思うだろう。まぁ高校生だし好きにさせろとは思うが事情は少し変わって来ていた。もし彼女の父親が“それ”であるならば、どう影響するか分からない。つまりは”もしも“の為である。理解できていない事は未だ多いのだ。

 茨さんはブランコに立ち乗りしたままこちらに振り返る。目尻の緩んだ目線がこちらを捉え、自分はそれに応える様に笑いかける。

 「もうそろそろだと、思ってた。貴方は私を呼んで聞かねばならない」

 彼女は今日も私服だった。白いシャツの上に赤い前を開けたカーディガン。ズボンはよくある青っぽいような、白っぽいような使い慣らされたジーンズだ。

 「そうだな」

 自分はブランコを横から見る位置に配置されているベンチに座って、茨さんを見据える。

 「それで...何を聞きたいの?」

 「真理子さんに全て聞いた。だからここでも全部聞きたい。中途半端は嫌だ」

 彼女の元の母親の様に全てが聞きたかった。謎に自分を信頼している自分になら、僕にならばその全てを話してくれるのではないかと思った。そして答え合わせがしたかった。それが思い上がりでも構わない。それ以上に、自分は真実を知りたい。

 「全部って...私には分からない。どれから話せばいいか....。貴方が選んで。最初からにしても多すぎるし、私は貴方がどれだけの情報を有しているか知らないから、省くべきところも分からない」

 「君のお母さんから話は聞いた。だから大体してってると思う....。でもまず聞きたいのは、君が“僕に何を賭けているか”。それが知りたい」

 「どう言うことかしら?」

 ブランコに座って、彼女がこちらにそう問いかける。

 「茨さんは、僕のことを最初から吼烏骨姉さんの知り合いとして見ていた。だから君は僕にだけ自殺未遂での試しやら、約束やらをした。

 僕は君の言葉を裏切るつもりはないけれど、その真意は知りたい。君が僕を通して何を見ているのか、何も知らないから」

 暫くの間が、何を意味するかは分からなかった。けれど自分は過去の発言に付け足しをすることなどなく、静かに待つ。態々変なことを言って地雷を踏み抜く必要はないし、きっと僕に何かを求める彼女なら全てを話してくれる。だから自分も彼女を使って求める目標の為、座して待ち、それ以上それ以下のことはしない。

 「わ、私は、いいえ、私達は貴方に救いを求めている。姉が虐待されていることは聞いたのね?」

 「ああ」

 「.....姉は貴方に恋を見出していた」

 「......」

 「力に負けて穢れて行くと自虐しながらも、貴方を見て生を願った。存在するだけで姉にとって貴方は救い。“どこまでも純粋で、それが愛おしくて堪らないのよ“。あの人は笑ってはよくそんなことを言って私に聞かせてくれた。

 それは、私にとって考えられないことで、いつも彼女と比べられていた私には、そんな個人的で小さな感情に、彼女の平穏があったのだと聞いて私はそんな存在に興味を惹かれていた____」

 やはりとは思っていたが、彼女もまた吼烏骨姉さんの受けていた暴力を認知していた。不思議なことではない。家族の変化には決定的なことがなくても気付くことが出来る。それが異常な家庭環境の中なら余計に敏感になる筈だ。言葉は続く。

 「____そして時を跨いで私は貴方を見つけた。偶然、太刀波掻と言う男を通じて。

 私はあの教室で感じていたのよ、もしかして玖道進、貴方こそが私を救ってくれるんじゃないかって。痛みを、

 「どう言うことだ....?」

 いや、察せれる。その言の意味するところは.....。

 「昔、最初に父親から叩かれたのは私よ。無理矢理腕を強い力で引っ張られて、最初は訳がわからなかった。とても暗いの部屋に押し込められて、その暗闇の中で沢山手やズボンのベルトで叩かれて、私は泣き喚いて...。その度に顔を引っ叩かれて、私は心と喉がきゅうっとなるのだけれど、それ故に口を詰むしかなかった。それでも自分は声を振り絞って...私の口から出た僅かな叫びに気付いてくれたのは姉一人だけだった。父親は当時、鈍臭い私に苛々してたのがキッカケで失敗続きの職場の愚痴を私にぶつけていたのよ。そんなんだから私じゃなくてもよかったの...。庇ってくれた姉はすぐに殴られ、罵倒が連続してぶつけられる。恐怖で自分は黙っているしかなかった。後悔が募っていっても、私は非力だ」

 「そしてそんな状況は変わっていなかった。だろう?茨さん」

 彼女はこちらを見て目だけを点にして、口や身体には出さないようにしているがとても驚いている様だった。それはそうだろう。自分も驚いた。この事実に気付いたのは母親である真理子さんと状況推理力に優れている太刀波だけだ。僕はまた見ているしかなかったと言う訳である。そんな事実を他人が既に知っているとなれば彼女の顔にも変化が現れると言うものだ。

 「そう。なんら変わらなかった。今も昔も___」

 「...?」

 彼女はブランコから立ち上がり、唐突にカーディガンを脱ぐ。するりと肩から抜けて地面に落ちて、地面の砂利で砂どうしが擦れて音が鳴る。静かな夜にも響かないその微かな音は誰かの叫びにも聞こえる。

 「おい...」

 立ち上がって、茨さんの元に走る。彼女はシャツのボタンを一つ二つととって胸元は既にほぼ肌けている。そこには下着だけが残っている。

 「やめて....!痛い....」

 彼女の手を掴んで止める。

 「何をしようとしてた?」

 語気を強めて僕は言った。自分は相手の手を離す。

 「お願いだから....見てて」

 彼女はこちらが手を離すと冬だと言うのに全てボタンをとってシャツを肩から手首まで下ろした。そして両手を背中にまで回した時に自分は悪い予感がして、彼女の肩を掴んだ。彼女は動きを止めてこちらを静かに見る。

 「やめるんだ。身体を大切にしろ。寒いだろ?充分見えている.....自分なんかの目で穢したくない。もっと大切な人に見せるべきだ。癒え始めてもいない傷を僕なんかに見せちゃだめだ」

 彼女の身体には、数々の傷が刻まれていた。押し込まれて出来た青く大きい点や、擦り傷、みみず腫れだろうか雷が走ったような古いぎざぎざの線。痛みが、多く残っているのだ。彼女の豊満な胸や綺麗なラインが特徴的なお腹。流れる様な丸みの肩と華奢な首、そんなガラス細工のような美しさが時に細かな、時に大きな力によって破壊され、その痕跡が残っている。傷付いたガラスはすぐ壊れてしまいそうで、触るのすら危うい。彼女もまたそれ程までに敏感な存在で、目を離せば崩れていなくなってしまうのではないかと思うくらい危うい存在だ。

 「私の言った言葉の意味が分からない....?私は姉と同じモノが見たい。救われたい。どこまでも強かったあの人が、ただ一人の男の子によって救われた。そんな英雄のような少年を私は愛したい」

 潤んだ目でそう語りかける。彼女の考えが少し見えてきたかも知れない。

 「”愛したいだけの想い“が、愛であるものか。そんな一方的なもので人は救えないし救われない。いつか破綻する」

 「....」

 自覚があってやっているのだろうか。そんな疑問がふと湧いて、質問を投げかける。

 「....君のお姉さんは完璧だったのか?」

 「ええ。姉はどこまでも完璧で、誰にでも愛された憧れの人だった」

 僕は彼女のシャツを肩までなおし、ボタンを閉めて行って下に落ちたカーディガンを叩いてから肩に被せる。

 「もしかして君は周りの色んな目に怯えて、出来るだけ彼女になろうとしたのか....?もしくは吼烏骨姉さんが強いから同じ存在になって自分を守ろうとした」

 小田色は比較されていた、母親に。小田色はキッカケを恐れた、父親からの。そして小田色は姉を失って自分の力のなさを嘆いた。

 「....悪い?私は姉になれば力が出来てどんなことも怖くなくなると思ってた。あの人は最後まで格好良かったと思わない?頭が良くて、明るくて、覚悟や度胸も持っていて、純粋なものに恋焦がれて、私を庇ってくれて、どこまでも一途だった。そんな彼女に憧れない私は間違いなの?なろうと思うのはいけないの!?」

 目を細めて彼女は僕を睨みつける。否定されたと思ってしまった彼女を僕はどうすればいいか考える。

 「そんな訳がない。でも君が僕の目をそう見てしまうのならば、きっとそれは叶わないことだからだ。君がその現状に不満を待っていて、それが許せなくて自分にぶつけているからだ」

 彼女はついに泣き出してこちらを両手で押して後ろに下がる。自分も少しふらついて後ろへ。

 「自分が嘲ていない、とでも言いたいの?」

 「太刀波からの僕のキャッチコピーは、必死な人間を嗤わない、じゃないのか...?」

 「そんなの理由になってないじゃない」

 そうだな......。僕は人を笑わない。理由自体は語っていないが、それに大した理由があるわけでもなかった。只、あの日、吼烏骨姉さんが死んだあの日のあらゆる人間の目線と、その現実が理不尽で許せなかったから、そういったものに必死に抗う存在を僕は笑えないと思っただけだ。それは自分がそうありたかったからだ。叶わぬと知ってなお自分は希望を見たかったのだ。

 「君を通して僕は.....欲しかったものを見つけたい。正直に言う。あの夏の日取りこぼした命を、救えると証明したいんだ.....!非力な僕でも笑顔で生きていていいんだと思えるように.....。必ず救いがあると信じたいから。だから笑わない。そんな足を引っ張る行為しても意味はない」

 人を無意味に嘲笑しても、そこに生まれるのは道を進み続ける人間などでなく、進化の停滞。最悪人は歩みを止め、全てを手放す”虚無“へと還ってしまう。脱力し、執着をなくした人間へと後退してしまう。利己的にも利他的にも何もない。

 「矛盾している。それを証明したら、貴方は貴方自身を許せない」

 彼女はこう言いたいのだろう。今の僕が茨さんを救えるのだとしたら、じゃああの夏の日、吼烏骨姉さんを僕は何故助けられなかったのか。そうやって自己を責め始めると言いたいのだろう。しかし、だ。

 「過去がなかったことにはならない。だから僕はもう繰り返したくないだけだ。傲慢だけれど目の前で死んでいい命があっていい訳がないと思ってしまうんだ。だってそれこそが、自分の許せないことだから」

 許容できないことだから。絶対に譲れない。

 目の前の女性は泣いていた。静かに、怯える風でなく、只瞼の下へと零れ落ちていた。

 「わ、私は.....」

 「....」

 「私は未だ....父親から虐められている」

 ____ずばり言うぞ、彼女は恐らく、父親から暴力を受けている。

 太刀波と真理子さんの推測は当たっていた。彼女は父親の目が自分に集中することを恐れた。

 ____三年前、両親は離婚してしまいました。それ以来です。私は父親からの目を一身に受けている様な気がして.....。

 自分が死にたくなる程。そんな理由は限られると言うものだ。心的外傷後ストレス障害《PTSD》の発症、それも男性の高圧的な態度、太刀波は以上の情報と、真理子さんの言っていた話でそれを導いた。

 自分はここまで来ても無力だった。でも、そんなことはどうでもいい。

 「ありがとう。言ってくれて」

 その事実を彼女が隠し続けたのも無理はない。強い女性を目指す、恐怖に最も弱い彼女がそんなことを志すのはとても勇気がいることだ。プライドというのはどんな時でも自己防衛機能としてつけるものだ。自分が誰から見られても貶められない為の盾だ。彼女はそれを強めるあまり、そういう自分のある種弱さを言い出すことを畏怖していた筈だ。それを....茨さんは....。

 「私、色々されて、痛くて、耐えるしかなくて.....」

 茨さんは吹っ切れた様に涙をぼろぼろと流し始める。子供のようにそれを手で何度も擦って、涙をなかったことにしようとも、すぐに次の涙が溢れ出る。

 「ああ....」

 「身体中触られたりして....!胸の先を撫でられたりつねられたりしても我慢して...!手がお腹あたりから伝って降りていって、服の中で指が這って、中に入り込んで来て上下に動いて....私は父親にそんなことされたと思うと何度も吐きそうになって......!」

 小さくも強く、篭った様な声。

 自分の手は無意識に拳になっていた。虫酸が走った。悪寒も感じた。身体中に不快感が巡り出して、知らなかったその事実に僕の脳は悶える。だけどそんなことは今重要ではない。

 「これっぽっちも気持ちよくなんかない...!それなのにあの人は煽り立ててくる.....!遂には男性器をあてがってきて、もうダメだと思った!私は思わず突き放して.....!そしたら怒って...!!私は辛くなって、泣いて、また気を失った.....」

 「いつの話...」

 「昨日よ.....。あんな事されるなんて....初めてで.....。私はだから今日気が気でなかった....!寝ているうちに犯されたんじゃないか?そもそもいつも私が寝ている時にあの人は夜這いをしているんじゃないか....?とか色々なことが脳裏をよぎって、気持ち悪く呻きや叫びを漏らしたかった!耐えられなかった.....!」

 通り過ぎる様に、彼女の恐怖心が口から速く駆けていった。逃げるようでもあったそれはもろに茨さんの感情が現れている。

 「え...ちょっと....」

 僕は頭を深々と下げる。

 「言わせて....すまない。そして本当に言ってくれてありがとう......!」

 彼女の勇気に感謝を、そしてそれを使わせてしまった情けなさを謝る。

 「やめてよ....。頭を上げて!」

 少し強めに言われたのでスッと頭を上げて彼女を見る。その顔には心苦しいだろうに、無理した笑顔が。彼女はどこまで演じようとする。姉と言うキャラクターを役者として、それもまた必死だ。しかし大根役者がすぎる。最初からそうだったのだろう。太刀波がそれを見抜いて、僕に差し向け今に至っている。それは何だか馬鹿馬鹿しい話だ。

 「すまない.....そんな顔をさせてしまって」

 彼女は不器用に笑顔を作ろうとして、ハの字になった眉や固く本心の現れた口を、無理やり曲げて少し変な表情になっていた。未だに目尻からも水分が感情となって現れていた。寧ろ勢いは増しているのではないかと思うくらい多い。

 「やめてって!そんなことをしても....許さないんだから......」

 「え....?」

 許さないとは何のことだろうか...?そんな問いに意識が切り替わる。何か....重要なことを忘れてしまった

 「え?じゃない!もう忘れた?昨日の約束」

 「あ、ああ....あれか...」

 「あれかあ、じゃなくて!」

 「忘れてないよ。絶対守る。やり遂げる。そして僕も君を許さない。君が僕を試したこと」

 茨さんは目を擦った。もうその頬には何もついていなかった。

 「うん!」

 歪な笑みは柔らかく自然になっていた。その満面な笑顔は吼烏骨姉さんに負けずとも劣らずだ。姉妹揃っていい顔をするものだな。

 僕もいつの間にか微笑んでいた。見えなくても感覚でわかる。釣られていたのだと思う。それは悪い事じゃない。寧ろそんな自らに僕は喜びを覚えていた____。たまにはこう言うのも悪くないかもしれない、と。


 「馬鹿野郎!君と言う奴は!君のせいで計画が繰り上げだ!!」

 電話の向こうで金切り声手前の高さの叫びが轟く。今髪でも掻いてるんだろうな太刀波。

 「すまんな....」

 取り敢えず適当に謝っておく。

 「それに何だ!?部屋が空いているだろだと!?ふざけるな!僕の家がいくら広いからって、部屋貸しを始めた覚えはない!一体どう言う訳があって....!」

 「察してくれ、それを言える程笑える状況じゃないのは確かだ」

 電話の向こうで沈黙が暫く.....。

 「分かったよ...。父さんに取り合ってみる。あの人なら茨さんとも面識あるし、話が多少は分かる....かもしれない」

 「おいおい不安だな。人を丸め込むのはお前のお得意芸だろ?すまんが頑張ってくれ」

 「そればっかだな玖道!そんな謝罪に意味はないんだぞ!まぁいい、どうせやろうとしていたことだからな!」

 電話が切られる。大分勝手なことをしてたからとても怒られた。

 にしても、繰り上げとかどうせやろうとしてたとか、考えていたことは同じだったようである。彼女の死の要因が増えたとて原因はやっぱり一つで、やることも変わりはしない、と言うことだろうか。まぁ何だっていい。彼女がさっきみたいに、自然に笑える時間が増えるなら僕は満足だ。

 「えっと....どう言うこと....?」

 「これから茨さんには太刀波の家に泊まってもらいます」

 「え?」

 「だからLINEでもなんでも使ってまず親に連絡してください。今日は友達の家に行っていて帰れませんってね」

 「そうじゃなくって....」

 「安心して欲しい。彼はいい奴だよ」

 「そうじゃなくて!そんなの聞いてない」

 単純に戸惑っているようである。無理もない。いきなりこんなこと言って困惑を隠せる人間の方が少ない。

 「言ってないからなあ。でももっと前に言っていたら君はきっと断るんじゃないかと思ったんだ。他人に迷惑かけるとか勘違いして.....」

 「そんな....こと」

 「大丈夫、君はどこに出しても恥ずかしくない人だ。それにどうせ明日は日曜日。君は課題とかとかなんやらは先に終わらせていそうだし、気にすることなんて何もない」

 「.....そうね。分かった」


 「え......?」

 彼女は目を丸くして大きな門を見つめていた。

 二人で自転車をその前に駐める。

 「知らなかった....?太刀波はここら辺では有名な金持ち一家なんだ」

 門はどこから伸びているのか夜の闇の中では分かりにくい位長く続いている。高さが大体三メートル弱。中の様子は窺い知ることができない。

 大して抵抗も覚えずインターホンを押す。

 「多分こうしたら....お」

 重々しく黒い扉が重低音を上げながら一人でに動きだした。僕は慣れているのですぐ門をくぐろうとするが、茨さんは足を止めていた。

 「どうかした?」

 「いや...、自転車ここでいいのかなと思って」

 茨さんの背後にある二台のチャリを見る。置いていっていいのかということか。心配の必要はない。

 「大丈夫大丈夫。明日になったら勝手に家の敷地に入ってるから」

 「どういうこと......?」

 「大丈夫大丈夫」

 「そう...?なら信じるけれど」

 二人で横になり中へと入っていく。

 白石の道が洋館の様な建物に続いている。所々には電灯があり、見た目は普通の道にあるようなものでなく昔のヨーロッパとかにあったガス灯を想起させる。しかし動力はやはり電気である。近代的だ。

 茨さんの家がでかいと言う妄想は大体この家のせいである。ここには家より何倍もでかい土地を使った庭とか、掃除がめんどくさそうと思ってしまうプールとか、遂にはいらないだろと考えてしまう様な別邸がある。あり得ないくらいの豪邸を持っている太刀波家の事情とかはイマイチ知らないが、きっとネットあたりで検索したら名前が出てくる有名人だったりするのだろうかと思ったりもする。一応、太刀波の父が実業家と言うことだけは聞いているが、やはりそんな深い所までは分からない。

 やがて太刀波邸の玄関に着く。ここに入るのは久しぶりだ。ここに来たのは確か、奴が開いた二つな持ちの集会、定期ORCA《おるか》集会で革命が起こって、それきりだった。orca....シャチのことであるのだが....オルカ集会がどう言う意味なのかは未だにわからない。ここにも太刀波のネーミングセンスの悪さが現れていると言うことなのだろう。きっと大して意味はない。

 扉がまた勝手に空いて、後ろから人が出てきた。

 「やぁ!二人ともまず入って」

 

 太刀波に誘われるままにお邪魔する。

 「ここは土足だから、脱がなくていいよ」

 「なんだろう...本格的ね.....」

 いまいち太刀波の言葉を飲み込めていない茨さんはそんなことを呟いて部屋を見渡している。

 入ったすぐそこは広間だ。真ん中には全体的に露出した階段がまっすぐ伸びており二階へと行ける。地には赤いカーペット、天には美しく輝きを放つシャンデリア。

 「ピカピカね」

 「そんないいもんじゃない。この家は部屋ごとに雰囲気が異なるんだ。このフロアは赤の地面と白い壁と天井、装飾品には大体金色が使われていて典型的な豪邸と言った感じだ。左手に廊下があるだろう?」

 「ええ」

 「あっちに行くと和洋折衷、さらに奥に行くと完全に和室になったりする。逆の位置にある廊下は、これまた典型的な洋館。黒檀の様な木と白を基調とした派手さより趣を意識した設計になっている。つまりはこの家には節操というものがないんだ」

 「おいおいなかなか酷いな。そして謎に詳しい。てか家主の前でそういうこと言うかい?普通。君は節操以前に礼儀がないな」

 「怒ってるのか?落ち着けよ。日頃の怒りはこう言うところで発散するに限るんだ。やられて嫌ならば、今回の件が解決してからは絡んでくるな」

 「嫌だよ、僕はね君みたいな....」

 「それより私はどうすれば.....」

 「ああそれね.....。色君の部屋はもう決まっているんだ。ついて来てくれ」

 二人は右の廊下に進んで行く。

 「お邪魔しました」

 僕の仕事は終わった。もう出来ることもないのでここは身を引くことにする。

 「おい!玖道!君も来るんだ!」

 そう奴は振り返って言った。

 「なんで」

 自分は露骨に驚いて見せて引き返すため足を進める。

 「君のせいだぞ」

 その言葉に足を止める

 「と言うと?」

 「計画は繰り上げになったと言っただろう?やるなら明日だ。本当はもっと遅くやるつもりだったが....君の言った通り察してやったんだ現状はそれ程までに逼迫しているのだろう?ならば今日のうちに明日の作戦に備え会議をして、動きを決めておくことが重要なんだ」

 自分は振り返って答える。

 「作戦って...どうする気だ?もしかして今日あそこで言ってた....」

 「そうだ。君には今日ここで泊まってもらう。君は保険用だとはいえ外せない」

 あのことが関係しているなら.....。決着をつけると言うなら....、断る理由はない。スマホを出して親父に、太刀波の家に泊まってくると言っておく。連絡を返すのも通知が聞こえるのも煩わしく面倒なので通知はオフにでもしておこう。きっとあっちもそういう年頃なのだと分かってくれる。

 「お前左の最奥の和室ってまだ空いてるか?」

 「ああ自由に使ってくれ。それよりついて来てくれ。話すことは多い」

 「ありがとう」

 再び進み始めた太刀波達に追いついて、続いて歩く。


 「ここが君の部屋だよ。ベッドは勿論、トイレとお風呂もあるし、電気も回線も通ってる」

 「高級ホテル.....」

 高級ホテルと言う形容は正確だった。ホテルで例えると大体四人部屋くらいの広さで、壁と天井は白基調。黒い木の柱とそれに合わせる様に淡いオレンジ色の放たれる灯り。左手の壁には机とその上にあるそこそこ大きいテレビ。その反対には人が二人は手を広げて転れそうなベッドが一つ。ベッドの側にはコンセントの差し口も幾つか付いている。一つの丸い机とそれに二つの椅子が置いてある。....一人にしてはあまりある範囲の部屋はさながらVIPルーム。この家の財力を表している様だった。

 「君達はこの部屋で少し待っててくれ。少し用事を済ませてくる」

 奴はそう言ってスマホを弄りながら廊下へと消えていった。再び彼女と二人になってしまった。

 自分はその部屋の二つあるうちの片方に座って、茨さんはベッドへと腰を下ろした。

 「.....貴方に、綺麗な思い出ってある?」

 唐突な彼女の声に、僕は顔だけ動かす。

 「綺麗な思い出....?」

 彼女は振り絞る様にゆっくりと口を動かす。

 「私は父のこと....。父は好きだった」

 「.....」

 彼女が始めた話は突拍子もなかったが、何も言わずに聞いて見ることにした。否定する意味もないし聞かない意味もない。それに話の内容にまだなにか“嫌なモノ”が残っているなら自分が取り除くだけである。少しでも彼女が生に対して安定してくれれば僕はそんなに嬉しいことはない。

 「私は父が好きだった。私達は家族は仲の良かった頃よく夏にひまわり畑に行ってて、何歳の時だったかな、覚えてないけどとてもちっちゃかった頃に盛大にこけてしまったことがあった。私はそれはもうわんわんと泣いて、夏の青い大空を仰いだ。蝉や風の音と共に、家族全員の声が流れてやって来て皆心配そうに寄り添ってくれた。姉と母が心配そうに声を掛けてくれて父が私の服や身体についた汚れをはたいてくれる。私はそから父に抱っこされて水道口まで運ばれた。『色はきっといいお嫁さんになる。だから汚れてちゃいけない。綺麗でなくちゃ』そこで私は痛いけれど、そんな父の言葉に押されるゆに、傷口を水道で洗って砂を落とした。痛くて目を瞑っていた私の瞼と瞼の間に汗が溜まって、それが小さな隙間を通り、瞳に到達して、目が痛んで今度は目を開ける。その時には水道は止まって足から水分は拭き取られ、絆創膏で封が成されていた。全てやってくれたのは父だった。そんな些細な事でもとても嬉しくて、たまにふと気づいた時思い出してる。だからあの時も思い出してしまった、私の下半身に父の股間がついて、怖くなって....それで綺麗でなくちゃって思い出して、私はあの人を思わず突き飛ばした。

 後味悪いね....。だから聞かせてほしい。貴方の嬉しかった事全て....口直し?的な感じで」

 感傷的な彼女の顔を僕は伺ってからすぐ机を見つめて考える。

 どんな気持ちだろう。最高の思い出が、最悪に蔑められてしまうと言うのは。しかもそうなった原因が彼女のその綺麗だと感じた過去をつくった人物であるとなれば、それはきっと、僕には理解し切れないほど重いものになるだろう。僕の過去はあの日の死以外全てが綺麗だった。苦労や後悔は多くあったけど、そこまでの絶望は僕にはなかった。僕は知らないうちに多くの物に助けられていたのかもしれない。本棚に入った吼烏骨さんの一冊がその最たる例だ。それ以外にも彼女の言葉と思い出と想いそのものが僕をこの世界に繋ぎ止めていたと言っても過言ではない。....吼烏骨姉さんですら不幸の連続の最中にいた。理不尽の中、彼女は勝てなかったと今でも思う。

 「僕は吼烏骨姉さんに出会ってからは大体があり得ないくらい幸せだった。色んな言葉をもらったよ。個人的には“この本を理解できるようになったら付き合ってあげる”。が一番嬉しかったな。半分は僕が言わせた様なセリフなんだけど、小学生の時は彼女を本気でお嫁さんにする為に奮闘して、まずその第一歩として僕はその言葉を聞いて、本を貰って理解できるまで何ヶ月も何度も読んだ。本当に頑張ったなぁ。彼女が納得するまで幾らでも感想を言って、その度にプロポーズした」

 「プロポーズ?告白じゃなくて?」

 「プロポーズ。必死だったんだ。いつかどこかに行っちゃうんじゃないかって。彼女は最後の時には大人になって行ってて、会える時間が少なくなってたりしてたしその予感はあながち嘘じゃなかったと思う。最初の本の時はそんな事関係なかったけどね。プロポーズという名の感想文を最後には彼女は認めてくれた。けれど肝心のプロポーズの方は上手く行かなくて躱された。自分はそれに対して抗議して、彼女はこう言うんだ。“じゃあこれを読んだら”。それで多くの本を自分は馬鹿真面目に読んで....最後まで僕の想いは実らなかったけれど、当時はそんな状況に安心してたと思う。ああ、また会えるんだなと思って。次の本が貰えるたびに彼女と話す機会が増えて、自分はそれに平穏を感じていたんだ。いなくなっちゃうという予感とは逆のその思考が、矛盾と葛藤を生んで、そんな苦労ですら幸せだった。けれど彼女が死んだ。僕は躓いた。結局、吼烏骨姉さんとの思い出のおかげで立ち上がった時ですら僕はどこか違う日常に不満を感じていた。自分はもう手に入らない過去を理想と呼んで、希望を求めて、今まで生きて来た。最近色んなことを知った。彼女の抱え込んでいた問題と、それでも尚一緒に僕といようとしてくれた彼女の真意。彼女はどこまで行っても僕に対して救いをくれた。消えた後も、最後の言葉ですらも、何もかも顧みず、自分の為にいてくれた。僕は現実に悲観したけれど、嬉しかった。彼女の心が僕の側にいつまでもいてくれている様で......。暗くなっちゃったけど僕は今も幸せだ。それは眩しい位で、全て小田吼烏骨という女性がいてくれたお陰なんだ」

 「いいね。その話」

 「そうだろう。これは長いけれど僕のとっておきなんだ」

 その時茨さんと僕の目が合う。まじまじと彼女が僕を見つめて来たので顔に変な物でもついているかなと思って手で顔を擦る。

 「あれ.....」

 手には水滴がついていた。今日は泣きすぎではないか?きっと暫くあくびをしてもでないのではなかろうか?そう根拠もなく思ってしまうほどに僕の頬からは液体が流れていた。

 「.......」

 「どうしてもダメだな....彼女の話をすると。涙腺が中年のおっさんくらい緩んでしまう.....」

 何度見ただろう。彼女の分と自分の分でこの三日間、多く流れすぎた。

 偶然が生んだこの物語のような騒動の終わりがもうすぐそこに来ていることを僕は感じる。それは良い事なんだろうけれど、どこか寂しく感じてしまう。僕の物語と言う形容はきっと振り返った時の言葉で、無意識にそこから何かを学び取ろうとしている証拠だ。ふとこう言う考えが巡る。僕はこれからの結末にどんな答えを見出すだろう?茨色と言う女性はどんな世界を見せてくれるだろう?まだ不透明だけれど、しかしもうそれはいらないんじゃないか?僕はそう思った。僕は実はもう救われていたのだ。小田吼烏骨の愛が僕を既に満たしている。そして自分は生きている。最後の理想に僕はもう執着する必要はないんだろうと分かってしまう。

 「ああ....良かった」

 「ん....?何か言った?」

 「あ、あぁ....いや何も」

 気が抜けて思っていた事が口から漏れてしまった。

 ___けれど、である。

 僕がやるべき事はもう少ない。と言うかないに等しい。そして僕は与えられたことだけをやればいい。過去の壊れた想いを結局引きずって、バネにして、理想を追うようにして......決着だ。

 終わらせるのだ。この悲しき連鎖を。拗けた諸刃として、理想の求道者として。只、自分の為に。

 閉じていた部屋の扉が開いて太刀波が入って来た。その顔は恍惚としており、どこか薄気味悪い。彼は大袈裟に手を開いて僕らを一瞥した。

 「完璧だ。君達以外の段取りはできた。明日、拗けた諸刃と師走の韋駄天である僕は、彼女を救う」

 やっぱりダサいな、呟いて僕は笑った。茨さんは奴を見て冷ややかな目をしていた。奴はそんなこちらに反応に怖気付かず続けて言った。その台詞もまた寒かったが、今はそれも逆にいいのではないかと思った。

 「作戦会議を開始する!」

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