第5話 Atrosanguineus
「お姉ちゃん!」
「どうしたの?」
「えっと....僕の、お嫁さんに、なってくれる?」
小さい子供が高い声を、辿々しく張り上げて、目線の高いお姉さんに、赤黒い秋桜を手渡した。
「子供って、すぐそう言うこと言うのよね。色々と信じられない」
冗談混じりに笑って言った彼女の目は青く澄んでいて、とても魅力的だった。長い黄色の髪は、不思議なくらいにたなびいて、燦々と輝いて、彼女はまるで太陽みたいだった。いつも白い服を着ていて、太陽の様な彼女に、ある子供は、とても明るい人だなぁと思っていた。
「僕!本気だよ!昔にね、お母さんにも同じこと言っちゃったけど、それは....えっと適当抜かしたんだ!それにもう親にそんなこと言える年じゃないよ、僕は。今回は、マジ!」
「抜かした....?マジ....?」
彼女はよく笑う女性だった。笑顔が素敵だった。小さく柔らかく口の端を釣り上げて微笑んで...そんな顔に恋という言葉も理解できないくせに、雰囲気に酔うように、僕は毎日お姉ちゃんに求婚した。僕が意味も理解せず囁く愛に照れるその顔が好きだった。
「そうだね....。この本を理解できる様になったら付き合ってあげる。お嫁さんはダメよ。お付き合いね」
僕の持ってきた花とその本は交換された。本はミステリ。有名なシリーズもので、内容は記憶喪失の主人公が自分を探す為に奮闘すると言ったものだ。その本はトリックと言うより、心情描写の厚さが見どころで自分がそれを理解するのは少し難しかったけれど、何回も読み直し、歳を重ねて僕は理解していった。
自分は最初、恥じらいつつも明るい、その顔が見たくてプロポーズをしていた。しかし、時間が進むと共にそれは彼女を”女性”とみる、所謂恋愛感情へと変わっていくこととなる。
性の知識は小学校の時点である程度抑えていた。SEXの完全理解は小学四年生時点で、しっかりとしていた。そんな基盤ができてしまったが故に小学五年生の僕の恋愛は早くも実感できるものとなってしまう。
彼女は僕が本の理解を果たしても結局付き合ってはくれなかった。僕を異性として見れなかったのだろう。それはしょうがないことだと思った。謎に納得した。彼女は僕に本を与え続けこう言った。
「本は常に持っておいて。知識も勇気も体験も、擬似的だけれど、与えてくれる。それはあらゆる疑問を証明して行き、きっと君の助けとなる。だから持っておいて、強く、生きるために」
自分はそれを遵守していた。そしてその言葉は正しいと実感する出来事が起こる。
その日は酷いくらいに熱く太陽が照り付けていた。体の窪みには汗が溜まっており、拭いても拭いても消えることはなかった。吼烏骨姉さんは白い生地でできた柔らかい、麦わら帽子の様な形状のものを被っていた。それは何故かその日だけつけていて、僕は不思議に思った。だから「今日はどうして帽子をつけているの?」と聞いた。彼女は歯を見せて笑って「いいの、可愛いでしょ?」と言った。僕はちらり見直してそれに納得した。事実可愛かった。
「いつまで前ばかり見ているの?」
「駄目だ。姉さんは....可愛いいから....」
「正直ね。でもそんな貴方の方が私は可愛いと思うけれど」
今日も彼女は美しく微笑んで、それは眩しかった。だから見れなかった。彼女は目を逸らす僕をネタにしてからかい、いつも小さく笑って、それがまた僕を魅了した。でも自分はそれに対して意地を張り前ばかり見て、恥ずかしくなんかないという風を装った。僕は当時恋に対して純粋だったのだ。気を惹くために格好良くあろうとして、眩しい笑顔から目を逸らして前ばかり見ていた。そして彼女はそんな自分が可愛かったのだろうか、またからかう。僕は結局照れて自分の思う格好いい自分には徹しきれず、気持ち悪い笑いニヤニヤがその顔には浮かんでいた。
横断歩道の信号は赤かった。横にいた吼烏骨姉さんと止まって次の青信号を待っていた。恥ずかしいけれど手を繋いでいた。彼女は僕の告白を相変わらず断り続けていたけれど、その度に僕は拗ねていた。本を理解した後でも付き合ってくれることはなかったし、小さかった僕はその度に泣きそうになったり、機嫌を損ねていた。嫌な奴だ。でもそんな時、必ず彼女は僕と手を繋いでくれた。度に、涙は引っ込んで機嫌は治っていた。僕は単純だった。その時もそうだったのだ。
蝉の声がミンミン、と響いていて空は異常なまでに澄んでいた。それは吼烏骨姉さんの眼と似ていた。
「あっ!」
車が幾つも前を通り過ぎ、風が舞う。彼女は片手で帽子を押さえ、押さえられなかった白いワンピースのスカート部分がたなびいた。僕は前を見ていた。風が治ってから僕は彼女の胸元を見た。やっぱり顔が見れなかったからだ。
「大丈夫?」
「大丈夫。心配してくれてありがとうね」
そう言って帽子を押さえていた方の手で彼女は僕を優しく撫でた。
「もう。僕は子供じゃないよ....」
「ふふふ....」
車道の信号は黄色くなり、次には横断歩道の信号は全部赤く染まって、もう歩けるだろうと思っていた。
突然だった。彼女と繋いでいた手が、離れてしまったのは。彼女は道路へ落ちていって、それはスローモーションで僕の目には映った。何故彼女はそうなったか、理由は簡単だ。その時僕の隣にいたのは、
僕は一瞬茫然としたのち、状況の異常性に気がついて直ぐに手を伸ばした。彼女はいつも僕の手を先に包んでくれた。そしてその時、僕の手を離したのも彼女だった。巻き込まないためだったのだろう。死ぬのは一人でいいと言うことであろう。振り返るようにして倒れていく彼女は僕を見ていた。そしてその時、久しぶりに彼女の顔をしっかりと見ることとなるーーーー。
ーーーーその顔は、いつもの様に笑って、
「愛してる、ごめ______」
静かに言って、彼女は、黄色の信号に滑り込もうとしてスピードを上げていた車の下敷きになる。そして肉になった。即死だった。背中から倒れる様に落ちていったせいで彼女は車の下に入り込み、タイヤで掻き乱されたせいで顔と下半身はぐちゃぐちゃになった。勢いよくタイヤが過ぎていくなか、それの力で死体が車体の下から弾け出て、少しだけ宙を舞った時は心臓が止まるかと思った。その肉塊に原形はなく空に飛んだせいで血がこっちに降ってきて、僕の頬には何滴か紅の飛沫がついてしまった。そして彼女の手を救えなかった右手にもついた。アスファルトの隙間に血が流れ、木の根の様に広がり、その溝の赤を巻き込んで血溜まりは広がっていく。真っ白の服は背中の部分が地面に接したせいで大きくなった溜まりから血を吸って、赤の池に沈んでいく様に、それは彼女だったものを侵食する。皮肉の様に空は異常なまでに青く。大きく聳える雲が現実の理不尽を表している様に思えて、僕は空を見上げた瞬間怖くなった。目線をゆっくり下ろすと白い帽子がひらひらと降ってきて、僕は目でそれを追ってしまった。白い百合が水に浮かぶ様に、帽子は血の池の上を泳いだ。帽子は徐々に骸に近づいていって、虚しく当たる。この時に帽子も服と同じように血を吸って少し沈んで、彼女だったモノの傍らで動かなかくなる。白い百合は赤い百合となって動かなくなったのだ。知らぬ間に蝉の声と近づいてくる野次馬達の声が空間を支配していた。僕はそんな周りの音声達を切り裂くように奇声をあげたのだった。人間が面白がって警察を呼ぶわけでもなく写真を撮って死体を、貶めていて、僕はそれが許せなくて、でも言葉が見つからなくて、否定できなくて、叫ぶしかなかった。金切り声を上げ、眼を見開いて、頭を力いっぱい両手で押さえつけて、蹲って絶望するしかなかった。
彼女、小田吼烏骨は死んだ。六年間の恋は終わりを迎える。そして自分はその時、虚無を孕むこととなる。恋愛感情も、やる気も生きる意味も見失って、その時自分は本当に理解する。恋とは性欲であると。気高かった彼女を汚そうとした自分を酷く呪って自分は、耐えられなかった。「彼女を救えなかった。手が届かなかった。彼女は僕のある種理想だった。そして掴めなかった。僕がいたせいだ。自分がいたから彼女は振り返る様に落ちていって下敷きになって巻き込まれて...。吹き飛んだだけなら助かっていたかも....。やっぱり自分のせいじゃないか」そうかもしれない。だが今思えば正しい言葉でもない。けれど当時はそう本気で考え、絶望した。そしてその時、理想は果たせぬ事であるのだと、この世は理不尽であるのだと、自分は酷い位に思い知らされた。自分が拗けてしまった原因は、あの五年前の夏にあった死。そして拗けた諸刃を産んだ原因もまたあの事件だ。
朝八時三十五分。
「やあ!」
「悪いな、今日は車なんか出してもらって」
後部座席に自分も座ろうとドアを開ける。太刀波には奥に詰めてもらって、自分も車内へ。
「お前なんか強面集団の人みたいだな」
車のドアを閉めて言う。
「黒塗りセダンがそっち系なんて考えは古いね。昔は知らないけどね、今は審査みたいなのがあってそっち側の人間はこう言う車に乗れない。まぁ、このセンチュリーに限った話かもしれないけれどね」
「へぇ〜。あ、ごめんなさい」
運転手に謝る。特に考えず発言したものだから反感を買ってはまずい。この人は別にそう言う人ではないが、嫌に思ったかもしれない。その場合何も考えずそっち方面の話をした自分が悪いし、正直に怒られるしかない。卑怯な話であるが先に謝るのが吉である。
「いえいえ。私はかまいません。それで、どちらに」
運転手は白髪で、寝ているのではないかと思うほどに目が細い、且つ細身のお爺ちゃんだ。黒いスーツを着て白い手袋をつけている。太刀波が遠出する時はいつもいるおじさんだ。
「じゃあ、すみません、
「承りました」
車がゆっくりと動き出し、徐々にスピードは上がっていき、駅の車道から離れてからは一定のものとなる。
「昨日な話の続きをしよう」
「待ってました!」
「そんな気持ちのいい話じゃない。真面目に聞け」
「それはすまない」
暫く、自分は頭を回し、話す順序を考える。まず結論とか答え、知りたいことから話すべきだろう。
窓の外を眺めてまず言う。
「多分、茨さんの姉は、小田吼烏骨。五年前、この町で殺された、僕の....知り合いだ」
知り合い....で間違ってないと思う。近所のお姉さんみたいな感じで接していたし。僕は彼女の相談相手として話を聞いていたが、そこに友人としての意識は薄かった。それに自分は恋人と思いたかったから、そんな友人って想い方はしたくなかった。
「君と彼女はどう言う関係なんだい?」
家がお店が工場が、速いような遅いような間隔で横へと流れていく。しかし自分はその中で動かない空を見ていた。ただ窓ガラスから覗くように眺めていた。
「彼女とは、知り合いだった。初めてあったのは小学一年の時だったか。一人で遊んでる僕に彼女は接触してきた。金髪と青目だったから、ぱっと見で違う人というのが分かったよ。彼女は初めに僕に本の良さをいきなり説いてきた」
「なんだいそれ」
「知るない。まぁでも、その話は意外と面白くて、思いの外に聞き入ってしまった。それは親の知らない人にはついて行ってはいけない、と言う警告に勝ってしまう程に。まぁ何言ってたかは正直覚えてないけど。でもその光景はよく覚えている。話が面白い以上に、僕は惹かれていたんだと思う。彼女の髪だとか眼だとかが綺麗だったから。だから記憶に焼き付いてるのはいつも顔だった。明るく自信満々に話す彼女の笑顔が好きだった」
「助平と言う奴かい」
「水を差すなよ、そんなんじゃない。只、綺麗な花とか、鉱物だとか、風景だとか。僕にとって彼女はそう言う美しいものと同じだったんだ」
「絶世の美女だった?」
「そう言われると、どこか鼻につくが、まぁそんなもんだ。(まだ彼女が妹とは確定していないが)茨さんが綺麗なのも頷ける。初めて会った時の吼烏骨姉さんと妹とを比べると姉さんの方が若かったけれど」
「そうなのかい」
「そうだな.....事件から逆算すると小一のときは....十一か?多分そうだな....。高校生の彼女と比較してまだ幼かった」
太刀波が急に顎に手を当て、少し考えた後、こう言った。
「その歳は若さとか関係あるのかい?」
…。
「ないな...。というか自分はそんなんじゃないぞ」
今の言い回しでは、まるで僕がロリコンみたいじゃないか。しかし重ねての訂正も面倒だ。これ以上言うのはやめておく。決して僕はそんなんじゃない...。
「...何故その、吼烏骨さんは君に話しかけたのだと思う?」
切り出すように相手は質問をする。
「そんなこと今回の件とは関係ないだろう。だが強いて言うならば....そうだな。彼女はこう言っていたよ。いいカモを見つけたってね」
「今の僕たちみたいな関係って事だね」
「一緒にするな。あっちは楽しかったがこっちは驚く程楽しくないじゃないか」
外に向けていた目線を振り向かせ、太刀波を見る。酷いねといって笑うだけで、その顔にはやはり反省だとか、後悔だとかそう言う色は見られない。
外を眺めるのも退屈してきた。でも目線をどこに向けていいのか分からなくて、適当に地面へと向ける。
「なぁ玖道、君は知らなかったのかい?その吼烏骨さんに妹さんがいたってことは」
「知らなかった訳ではないが、あったことはなかったな。僕は毎回公園で姉さんと話していただけだし」
「姉さんと言うのは?」
「僕が彼女をそう呼んでいただけだ。吼烏骨姉さんと呼んでいたことからきている」
「なるほど」
...続けるぞ、と言ってから僕は話を戻す。
「歳が重ねって自分が小五の時なんかには、彼女の交通手段が増えて、僕を色んなところに連れて行ってくれたりはしたけれど、その時にも別に他の子がいたとかじゃなかったし、家に遊びに行くとかじゃなかった。それに僕は赤の他人だったから、葬式には出なかった。そう言う場には行ってないんだ」
「それは....悪いことだね」
それを聞いて、言葉が止まる。それは痛感するほどに認めていることであるからだ。僕の拗けた諸刃の日々はあの日から始まった。
「今でも後悔してる。どうにかして行けばよかった。けれど僕はその時自分の事で精一杯でそれどころじゃなかった」
それも認めねばならないことだった。恥は嫌悪の対象であるが、ここまでき自覚できないのもまた恥だろう。
「と言うと?」
「自虐で忙しかったんだ。死を目の当たりにして救えなかったんだ。子供ながらに見てしまったんだ。僕だって少しはグレる」
「グレたのかい?」
「グレた。死を見たのもそうだが、子供の時に事情聴取受けたり、野次馬に囲まれてみろ。よく分からない大人が大勢いて、そいつらが色んな目線送ってくる...。当時は気が狂いそうになった。ストレスとプラスして自分が彼女を殺したと負い目が産まれて、蘇っては、自分の部屋で家具とか色んなものをひたすらに荒らして、日頃拳を入れてきた時代錯誤の親父も流石に手を出しにくくって困っていた。理由が理由だったしな」
「あの頑固おやっさんが困るとはよっぽどだな」
「ああ。ひたすら泣き叫ぶ自分を父親は毎日腕で拘束するだけで、特に手は出さなかった。そして何も言わなかった。あそこだけは本当に親父に感謝してる」
普段はあまり尊敬できないし限りなくグレーに近い男だが。
「墓には行ったのかい?」
「もちろん。彼女からもらった本を持って会いに行ったよ」
僕はスマホ出して、URLを太刀波のLINEのトーク画面に張って送る。
「...確認しておくといい。当時の事件の記事だ」
次には通知の音が奴のスマホから鳴って、あいつはそれを取り出す。そして開いて見る。奴はさらっと目を通したようで、頭を掻きむしって唸った。そして、一言呟く。
「『誰でもよかった』...か」
「...現場には道具等、殺人の証拠は一切なく、供述からは犯人が長い間、人を殺めたいと悶々とした日々を送っていたことが分かり、大した計画や、理由があった訳じゃないことも、そこから分かる。はっきり言うが、あの人の死に意味はなかった」
なんと理不尽で不平等だろうか。人の死に意味がなかったなんてよく言うが、それは僕からしてみれば呪いたくなるほどの綺麗事。彼女が僕の手を離して自分は救われた。それには感謝しているし、悔いるところも多い。しかし、死自体には無意味な点しかない。じゃああの時僕も死んでたらどうなると聞かれればそれは、無意味な死が二つに増えるだけだ。人を助けようが、何しようが変わらない。彼女は大した理由もなく、意味もなく、殺された。結局のところ、僕は綺麗事が好きだ。それは憧れで、理想だからだ。だが叶わないこともある。この世界に平等なんてないのだから。だから、自分は呪うしかなく、後悔を忌ましめるしかない。
「お前と言う奴が少し分かったよ...」
謝るのは柄じゃないと奴はそのまま黙った。それに対しては僕も沈黙をして二人ともそれを貫く。
車がゆっくりとなり始め、止まる。
「ついたみたいだ。降りよう」
「ああ」
「ここが花染霊園」
「そう、そして吼烏骨姉さんが眠っている場所」
そこは山の一部分を利用した墓地だ。中心には枯れ葉を僅かに残した木々に挟まれた緩やかな階段が上へと伸び続け、途中で途切れて見えなくなっている。
その階段の段を踏んで、先にある墓地を目指して上がって行く。太刀波もついてくるが昨日とは逆で奴ががついてくる形だ。
「彼女は僕に、知識の大切さを教えてくれた。そして物語の在り方も」
「.....」
ゆっくりと登りながら、自分は喋る。それを話すことなどなんの意味もない。だが僕は自慢したかった。彼女の偉業を。
「小説とか漫画だとか、殆どが空想だ。でもそれは悪い事じゃない。事実を織り混ぜ、設定により事柄を短縮し、そして仮定する。シュミレーションするんだ。例えば人は、主人公はどう思ったか。時にはライバルの前に立ち、神と邂逅し、悪の前に倒れそうになり、死を見る。様々な象徴の前で主人公が立って真っ直ぐと相手を見据え、立ち向かう。そして僕は....それらの過程と定義の世界で導かれた証明に、救われたんだ」
「宗教も、歌も、絵も、物語も、当り前と言えば当り前だが全て何かを表している。それに君は命を繋げてもらったということか」
「ああ。
そして僕がそういう表現に求めたのは結局救済だった。理想を追って、死を見て、叫んで。
さっき僕は部屋を荒らして親も手がつけられなかったと言ったけれど、それの本当の理由は、自分の自殺未遂だ。未遂と言っても死ぬつもりはなかったと思う。自分はその選択を選べる程強くない。自殺は過去の一切と今を無に帰す、勇気いる決断の一つだからね。だけれど...、というか、だからか僕は家族を自虐で脅して、憂さを晴らしていた」
「そうなのかい...?」
「残念ながら事実だ。自分はそれ程までに醜い。
そして理想の求道者は後悔とも言い換えることができる」
その後悔が生まれた一番の理由は自分が意味もなく、自室のカーペットの上でころがっていた時だ。後悔に打ち拉がれながら僕は動けず、横になったまま動かなかった。それはその時の日常でもあった。しかしふと気付く。地面に倒れた僕の目線のすぐ前には本棚があった。そしてその中には、彼女からもらった本があって、視界に入った瞬間それから目が離れなくなった。
霊園の階段の頂上へと至って僕は、世界を見下ろすように振り返った。
「彼女の本を見た時思ったんだ。僕は何をしているのだろう、と。ここまで無価値な塵を築いてきてなんの意味があるのだろうって。その本の中の主人公は強く、死を受け止めたと言うのに、自分は醜く惨たらしく、それを引っ張っている。そして気付くんだ。それはあまりにも吼烏骨姉さんが可哀想じゃないかって。だから僕はまず考える事にしたんだ。本で知識を得ると同時に色んな考えを巡らせて、主人公の様に理想を追って、理不尽に立ち向かう方法を。どんな状況でもあくまで自分を救えるようにって。
僕はどうしても他人の為になれない人間だからそれは仕方ないのだろうと思う。でも最後まで彼女は僕の為を思ってくれていた。赤の他人の少年を。笑顔がその証明だ。彼女の笑顔は潰れたけれど、その価値事態は決して潰れることはなかった。どころか傷一つ付けられなかっただろう。彼女は、僕を救ってくれたんだ」
階段の下の段で太刀波はこちらを見上げている。そして笑っていた。僕の自慢話は薄情な奴の心にも届いたみたいだった。
「格好いいじゃないか。彼女は」
僕はそれに返すように笑って言った。
「そう、あの人は格好いいんだ」
頂上の開けた土地に広がっていたのは墓である。将棋盤の線の様に規則的に列になって並んでいた。僕はそんな墓と墓との間にある道を、少し進んで直ぐ左に曲がる。そして奥へ奥へと多くの墓標を横目に端へと到達する。
”小田家代々之墓“と刻まれた墓石を前に僕は片膝をついて見る。
僕はそれに語り掛ける。
「こんにちは吼烏骨姉さん。最近は....そうだね。また本を読んだんだ。とても面白くて恐ろしい本だ。それがさ、ある人に趣味がいいなんて皮肉を言われちゃってさ.....。茨色......、いやまだ他にも色々言いたいことはあるけど、まだ確証はないからこの辺にしておくよ。貴女は悪くないけれど、吼烏骨姉さんは喋れないから...」
泣きそうで声が震えて....、ちゃんと喋るのに必死だ。喉の震えを抑えることがここまで難しいのはいつぶりだろう。しかし少し考えれば簡単だった。喉が大変だった前回。それはきっと今年の夏、吼烏骨姉さんの命日だ。僕は毎回、顔を合わせるたび、こんな調子だった。嫌なことだから忘れていたみたいだ。本当に申し訳なく思う。これじゃまともに話せないじゃないか。名残惜しくも僕はきっとこの場を長くは耐えられない。直ぐに涙で言葉を感情が押し流してあしまう。故に、短く言いたい事を告げる必要があった。
「突然だけれど、ここに来るたび、疑問が蘇るんだ。君は何故最後、僕に謝り、愛していると言ってくれたのか。死ぬと言うのに何故笑っていたのか。それが最後の励ましだったのか、友人としての愛を言っていたのか。最後まで自分の言葉を断った貴女のその一言に僕はどうしても期待してしまって......。ごめんなさい。自分にはそれが未だに分からないんだ.....」
涙が頬から伝ってこぼれた。ぼろぼろと...雫がいくつも地面に染みた。
「でも、理想と共にいつか見つける、理解する....。どんなにそれが難しくても、最初の頃、貴女がくれた小説みたいに、何度でも何度でも往復して、何度でも何度でも追体験して、経験して、導いてみせるから。待っていてください.....。どうか、答えの先に....」
口には自然に力が入っていた。噛み締めて圧力がかかり、歯の中に振動が伝わる。目尻から流れゆく涙の勢いは、増して行く。今更僕はその姿を恥じて、下を向いて顔を誰からも伺えぬようにする。同時に眼鏡のレンズの両端を片手で押さえて、落ちない様にと勤める、。けれどそれは失敗だった。眼鏡にもそれがポタポタと落ちて、レンズの上から滑り落ちる。また地面へと落ちる。
立ち上がり、眼鏡を外して、持ってきていたハンカチで目元を拭った。眼鏡自体もクローニングクロスを使って水滴を拭き取る。
「こんにちは。久しぶりね、進くん」
懐かしい声がして、振り返る。声からしても少し老いを感じる部分もあるが見た目的にはあまり変わっていなかった。いつか見た美しい碧眼と、風に乗って流れて動く度に輝く箇所が移ろう長く黄色い髪。黒いブーツと白いセーター。そして前を開けた朱色のロングラインカーディガンとグレーのデニム。
「あまりお変わりありませんね。真理子さん」
この人の名前は
「この綺麗なお姉さんは誰だい?玖道」
彼の声が震えた様な言い方には驚愕の色が見える。それはそこにいる人が写真に写っていた人と同じ顔をしていた為であろう。お姉さんと言う表現もその為だ。あの写真を彼はかなり古いものと推察していたようだ。そしてそれは事実だ。つまりは....。一応、五十路手前なのだが....、綺麗に見えるのはわかる。その人は時が止まったように美しかった。あの向日葵の前で撮った写真の人と何ら容姿は変わりない。この母あって、娘ありといった感じである。
「彼女は小田真理子と言って、吼烏骨姉さんから見てお母さんにあたる人だ」
「ほう....」
真理子さんはそれを聞いてくすくすと笑う。
「今は小田じゃないわ。再婚して苗字が
「あ、ごめんなさい。知りませんでした」
「いいのよ、別に。悪い事ではないわ。正直、小田の方が好きだし....。あの娘の....苗字だもの。
それより進くん。今日は何のよう?」
真理子さんは急に落ち着いて見せる。暗い話は嫌なのか、僕の事を慮ってか。
「実は色々....聞きたい事がありまして。茨色さんって分かりますね?」
茨色。その名前を聞いた時、彼女は少しびくりとして、黙す。返事はしてくれないが、知っている、と言う事であろう。
「僕からも話を伺ってもよろしいですか?」
太刀波も会話に入って、情報開示を促す。その口調はこいつにしては珍しく本気で、目にも少し力がこもっていた。真剣さを宿しているのだ。話してくれますか?という姿勢はいつもはおちゃらけた太刀波にはないモノだ。真理子さんは二人を一瞥しながら、ただ僕が思い出話の為に呼び出したのではないと言う事を察したらしい。
「分かりました。詳しい話はどこか、お店の中ででも」
真理子さんとコンタクトを取るのは、難しくなかった。母親コミュニティー、と言うものがある。それらは別の家の子供同士が話していればいつの間にか出来ているものだそうである。まぁ母親の人柄によるだろうけど...うちの母親は結構そう言うのを直ぐ繋げるタイプだった。そしてその時出来たコミュニティーから関係が育まれ、ママ友と言うものが形作られて行くのだ。それはうちの母親と、真理子さんとの間でも変わらず構築された。実は僕と吼烏骨姉さん互いの家に行ったことがない。それはいつも集合場所が公園で、やることと言ったら雑談が主だったからだ。しかし母親との面識は何故かできて行く。僕は真理子さんに顔と名前を覚えられ、吼烏骨姉さんはうちの母親から覚えられる。そして僕と真理子さんはそこそこ話をする仲ともなる。しかしあの事件以来、僕はお葬式にも行かず、真理子さんと会話する事もなく時間は過ぎていった。その中で荒れてゆく僕を真理子さんは、うちの母親伝に知っていたそうである。そしてあるメッセージと自身の連絡先をこの人はうちの母親を通して僕に残してくれたいたのだった。それは吼烏骨姉さんの”母親”としてこの人が最後に出来る気遣いであり、きっと残されてしまった僕へ向けた出来うる限りの配慮だった___。
霊園を少し降りたところに喫茶店があったのでそこに入って、僕らは窓際の隅の席へと座って、僕と太刀波、そして真理子さんといった形で向かい合う。
「僕は悪い事をしています。貴女のくれた連絡先はこんな用途で使うべきものではなかった筈のモノなのに。まずはこの非礼を詫びさせてください。本当にすみませんでした」
座りながら頭を下げる。
この人は僕に心配して連絡先を母親に託した。しかし自分はそんなこととは関係ない、他の人の問題解決の為に、その連絡先を彼女を呼び出し、情報を出させる為に使った。それはとても無礼だ。軽率と思われても仕様がないことだ。
だがそんな思いとは反し、真理子さんは笑いながらも慌てて両掌を胸元で、激しく左右に振って否定するジェスチャーをしていた。
「や、やめてください。そんなんじゃないんですから。“玖道君が困った時いつでも連絡してきてください”。これには、私が“何か”をしてやりたいって気持ちが詰まっているんです。それは何でもよくて、残されてしまった貴方のせめて助けになればと思って...だから」
僕の為に、何でもいい。残された想いに応えたい。それは何故か。やはり、母親としてなのだろう。
「そんな.....責任を感じる必要はないですよ。貴女は何も悪くありませんから」
「でも....」
さっき言っていた話に入りましょう、と僕は唐突に言って話を切り上げる。それはこの人の責任はきっと大き過ぎるもので、結局僕はその言葉には勝てない気がしたからでである。だから逃げた。きっと何を言っても聞かないのだし、子が話に絡むと親とはこう言う場合が多いので、だからこれもまた仕様がないことなのだと飲み込むしかないのだ。
「色.....の話でしたね」
察してか、こちらの切り替えに相手も乗ってくれた。本当に申し訳がない。
昨日と同じ様に太刀波はペンとメモ帳を出し、構える。
「今日のことはメモさせていただきますが、その内容を他者に閲覧、口外することは一切しません。よろしいですか?」
「ええ」
「ありがとうございます」
太刀波は一礼して再び構える。
「まず、何故僕が貴女を今日呼んだのかについて。これは単刀直入に言うと、茨色と言う女性が今後死ぬ可能性があることに起因します」
「どう言うことですか....?」
目を見開いて彼女は呟いた。
「落ち着いて聞いてください。死という言い方は多少大袈裟なものです。ただその可能性に彼女は怯え、苦しんでいる。これは事実です。そして自分と太刀波はその問題解決の為に今動いています。しかし、その中で僕たちは彼女の言葉に疑問と言うか....裏を感じて....今日はその情報の確認の為、お呼びしました」
ここで太刀波が少し身体を前に出して、話し始める。
「加えて、彼女と僕らはまだ話し足りていない。彼女の死への予感の原因はストレスと考えられます。そしてそのストレスの解消策は大方できています。ですが、それにしても不透明な情報が多い。
貴女はずばり、色君の母親ですね?」
「はい」
太刀波の問いに彼女は平然と答える。それも当然か。予想できていたことだ。茨さんの上にいる姉の死亡時期、そして写真に写る人。この二つの状況で茨色の姉が小田吼烏骨であり、茨色の母親が橋本真理子であることは確信できる。確証はながったがこれで確定した。
それにしても、太刀波、解消策は大方出来ていると言った。自分はそんな情報を知らなかったが...一体どう言うものなのか気になる。が、今はその考えを抑え込む。関係がない。
「やはりそうでしたか。なれば橋本さん。貴女が母親であるならならば、持ちうる情報を持ちうる限り話してください。問題解決の為に僕と玖道は小田家のかつての家庭事情が知りたい。失礼な話かもしれませんがね....」
太刀波がこのとき小田家と言ったのは、茨さんから聞いた離婚と言う話と、吼烏骨姉さんが生きていた当時は苗字が小田だった事から断定だろう。茨さんの言っていた時系列を追うと、辻褄が合うからそれは正しい情報のはずである。そしてそれを聞いて静かに頷く真理子さんの反応を見る限り、そうなのだろう。
「茨さんからは彼女が死を身近に感じる様になってしまったのは、過去に原因があると聞いています。そしてそれは“三年前の両親の離婚”と、その時本人は名前を言いませんでしたが”五年前の姉の死”、つまりは吼烏骨姉さんの事件こそが彼女が死を予感してしまう理由であると言っていました。その二つのトラウマが大きく作用していると」
「そう....ですか....」
目線を下に落としてでたその人の言葉からは、心なしか彼女自身もまた茨色の死を恐れている様に見えた。
しかし、彼女は急にふっと一息、“嗤った”。そして呟く、「私にはそんな資格ある筈がないのに」と。それは誰に向けた言葉か。はっきりとは分からない。それを口に出してしまった真理子さんの心情も僕には測り切れなかった。
「どこまで話そうか....考えていました。四人家庭だった頃の小田家は決して良いものではなかったですし、何よりあの頃の自分が.....逃げてしまった自分が嫌いでした。醜く、女々しかったから、思い出したくもなかった。でも結局は、同じですね....。ならば出し惜しみはなしです」
「全てを、話してくれると?」
僕はそう問う。そして彼女はそれに強く再び頷いて答えた。彼女の吐露は覚悟だったと言うことか?それともただの後悔か。やっぱり言葉だけで人の心を理解するのには限界がある。でもそれの理解は多分すぐでき、それは彼女自身がきっと答えてくれる。
「それでもやっぱり喋れるのは、知っている情報に絞られてしまいますが。いえ、勿体付けるのもやめますね」
そうして彼女は話し始めた。
小田家は最後、小田真理子、
娘が一人だった頃家族は幸せだった。その頃は夫婦は互いに愛を求め合い、子供とは今後の幸福を願った。父は外に働きに出て、母はその頃は生きていた祖父母と共に家で長女を育てた。当たり前だが帰ってくれば父も赤子を相手に遊んで笑って、出来ることをしていたそうだ。
当時は吉報であった。吼烏骨姉さんが年長になった位の時期に、二人目ができる。小田色。次女である。彼女もまた愛され、色々あったけれどすくすくと育って行く。
しかし地面は上下へずれ始め、段となる。その動きが見られ始めたのは、吼烏骨姉さんが小学五年生、茨さんが年長さんになった頃である。
「私はその頃、共働きへと動き始めその生活を楽しんでいました。しかし仕事をするにつれて少しずつ何か....無意識に違和感に近い感覚を覚えてしまいました。そしてそれはすぐに分かりました。家庭より会社の方が楽しいと思ってしまったことを、理解してしまいました」
「.......」
僕はそれに何も言えなかった。それを聞いた時、僕は分からなかった。その感情がどう言うものか。何より在り方が今一見えない。これは僕が子供だからだろうか?
「成る程....」
でも太刀波は分かっている様だった。
「私は醜くも認められたかったんだと思います。その時期家庭は忙しかった。晃さんは失敗続きの会社の後処理に追われ、子供は教育機関に預けていたからまだ良かったものの、誰も認めてくれない、無人の家庭をどうしても私は目を向けれなくなってしまっていた。一瞬の楽しみも、刹那の快楽も、何も考えなければその後に残るものはない。それは十分知っていはずなのに。自分はその頃から大切にする心を忘れてしまった____」
自分は真理子さんをこう言う人だとは知らなかったし、吼烏骨姉さんに似て常に笑顔をする人なのだろうと勝手に思っていた。失望したといえばそれは事実だ。だが今は関係ない。話に集中する。
「____また歳月が経ち、姉妹の間に違いが見えて来ました。テストの点数。姉は高く妹はそれに比べて数値が低い。姉は勉強が上手くて、妹は苦手なだけ。親としてはそう思うことが普通です。でも当時の私は母でありながら、見守るものとしての”親“ではありませんでした。ひたすらに妹を叱りました。どうして、なぜ、質問責めで毎日姉と比べては泣かせて....。最後に”手“が出かけました。毎日楽しい仕事に追われて、疲れて帰って、妹と姉の間違い探しをして貶めて叱る。それもまた疲れるだけだと言うのに、その末自分が限界になって手を上げようとしたんじゃ....動機も珍紛漢紛でした。結局は疲労しながらストレスを発散しているんだなと、矛盾と後悔を感じて、気持ち悪く泣いて、許してなんて甘い言葉を散々吐いて.....。結局私が選んだのは仕事に逃げる事でした。私がそっちに専念すれば、きっと子供は傷つかず、家庭にはお金が入って、報いとしては最善であると思ったんです。ですが、そのせいで家族同士の距離感は離れて行きました。吼烏骨は家を離れ、家から少し離れた公園へ。妹は家に帰ってからは異常なまでに毎日毎日部屋に篭って必死に勉強して、一人孤独に泣いていました。まるで私が離れて行くことを色は自分のせいだと思っているかのように。流石にまずいと下手な取り繕い方しかできなかった私は母親の皮をかぶることしかできなかった。公園に行って吼烏骨たちを見守ったり、公園に様子を見に来ていた進君の母親と散歩と嘘をついて偶然を装い交流をもったり....。でも妹には何もできませんでした。彼女は内向的になり、私が絡むとすぐ距離を取ってしまっていましたから。私は最初の時点で彼女に一人で努力することを強いてしまったのですから。比較対象の姉から教えてもらうなんて出来ませんし、母親の私にも、怒られると思って聞けなかったのでしょう。私が家庭をバラバラにしてしまったんです」
茨さんは学校では頭脳明晰で通っている。しかしそれは決して才能ではなく、自分の為の頑張りの賜物でもなく、歪んだ努力が産んだ悲しい知恵の塊....。僕は偶に尋ねていた。吼烏骨姉さんの妹の話を。きっと自分は、同じ年位の彼女の妹の情報を聞いていたため、意味もなく好奇心で気になっていたのだ。彼女はそれに対し、いつも決まって「私よりも優しくって、誰かの事を考えられる頑張り屋さん」と言っていた。それは確かにそうなのかも知れない。けれど今のこれはあまりにもひどい末路ではないか?順序立てて整理すると彼女は、母親の為に勉学に励み望み通り上に立った。母から嫌われぬ様他にも様々な努力をした筈だ。しかしそのせいで彼女は色んなもので雁字搦めになり、夢には自分の死体を眺めて、それに怯え、助けを求める。優しすぎる故か?他人のことを考えられても自分を気遣ってやれない.....。だから、じゃないのか?抑え込んでいるから君はふとした時に泣いてしまうんじゃないのか?どうしようもないのか、これは。
考えを振り払って、再び彼女の話に耳を傾ける。今重要なのはそんな事じゃなくて、とりあえず聞くことだ。今は落ち着け....。
「すみません.....。気分を害してばかりでしょう」
心配して相手は話しかけてくる。
「僕はそうでもありませんよ。玖道は少々辛そうですが。まぁ気にする事ではありません。何も覚悟がないわけではありませんから」
「大丈夫です....全然」
僕のその言葉に偽りはない。そして太刀波の言葉通りでもある。気にすることはないのだ。覚悟は一昨日作った急造品だが、たかが言葉で壊れるほどやわじゃない筈。弱点が突かれなければ崩壊する事は決してない。
「分かりました。ですが、次は進くんにとって酷な話になると思います....。暫く席を外して貰った方がいいとも...」
その時の真理子さんは只真剣な顔でこちらを見つめていた。嬉しくも悲しくも怖くも憤ってもいないと言った風に。それは何を意味するのか.....。察することも難しい。僕は他人の親のこんな顔見たことがなかった。自分の親でさえないかもしれない。
「どうする玖道。終わったら通知で伝えてやってもいいんだぜ」
急な格好つけと皮肉な笑みを浮かべ、太刀波はそう言う。
「今更そんなことしても、気持ちに収まりがつかない...。聞かせてください真理子さん。きっと吼烏骨姉さんのことなんでしょう?ならば僕は聞かねばならない.....」
彼女は頷いた。その頷きは多分、話すことに対しての了承の意と、吼烏骨姉さんについて話すと言う確認の意が混在していた。
何を言うのか身構えた。彼女の死についてだろうか、それとも....また別の何かか.....。
真理子さんは一つ大きく息を吸って吐いた。そしてキッパリと言った。
「吼烏骨は元夫の晃に虐待されていました」
「は?」
信じられなくて、突拍子がなくて僕は間の抜けた声を出す。
「ほう....」
太刀波は謎に納得していた。
「.....今、なんと....?」
「玖道、繰り返すつもりか?やめておけよ。痛くなるだけだ」
そう言って、聞こえた言葉を信じたくなかった僕に太刀波は忠告した。
......。そうだな。確かにそれは....痛くなるだけだ。僕が聞き返し、真理子さんがもう一度その事を話せば、自分はもう一度嫌な事を知ってしまう。それは苦しいだけで何の意味もない。
「それは、本当なんですか.....」
「ええ....」
「何故.......?」
激しく放ちたい声を抑えた結果、弱々しく疑問は口から出て行った。気付かぬ間に、脳が熱を帯びていることを感じる。自覚する。頭に血が昇り、呼吸が乱れていたのだった。感情的になるなと心中で自己に呼びかけ、それはお前の悪性だ。落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け_____。心の中で何度も何度も唱えて、大きく二度深呼吸をする。
「.....」
相手はこちらの様子を窺っている。そして僕の呼吸が安定してきたのを見て真理子さんは話を再開する。
あれは忘れもしない。発覚したのは五年前の六月三十日。私はその日、〇時に帰宅してリビングのソファーで倒れ込むように寝てしまっていた。そして深夜の三時。冷蔵庫の白い光とその中身から聞こえるガラガラとした物音で目が覚めた。私はその時期家庭で喋る事などほとんどなく、誰だろうと思いました。再び聞こえるガラガラと言う音が廊下を通って洗面所に向かっているのを私は音の響いてくる方向から知覚して、その後を追いました。____真っ直ぐな廊下の向こうから白色の光が漏れて、廊下まで伸びている。自分は何か良くないものが向こうにあるんじゃないかと、無意識に思って気配を消して、その先に向かう。水の流れる音と、個体がぶつかり合うカラカラとした聞き馴染みのある響きが、廊下へと響いています。
「ぁあ.......」
次に聞こえたのはか細い、吼烏骨の声。今まで聞いた事のない悶えるような、堪えるような、悲痛な声色でした。次にはザバッ、と水面に勢いよく何かが突っ込んだ音響がこっちまできて、いよいよ何をしているのかと私は右の廊下へと駆けました。白いキャミソールを着た彼女は洗面台に顔を突っ込んでいた様で、私の足音に気付いて、水浸しの顔を上げました。そして振り返り、長い髪から多量の水が滴って地面にぼたぼたと水音が強く響いて消えます。彼女の目は丸くなっていました。時間が時間だからかバレると思っていなかったみたいで、見つかり驚いたのと共に恐れているような表情が震えた瞳に表れて、それが私を見つめています。
「ちょ...お母さん」
「何これ......」
こんな時間に一人で何をやっているのか。
近寄ってまず洗面台を見ました。そこには溜められた大量の氷水です。
嫌な予感がして彼女を一瞥します。じっくりとキャミソールの端のあたりを特に見ました。そして、太ももの辺りには赤色の斑点の様なものを見つけて悪い予感は強まります。
「ごめんなさい.....!」
私は怖くなってキャミソールを無理やり脱がせます。
「え...なに、やめ...!」
嫌がっていたけど、構ってられないと思って、無理やりパンツ一枚まで脱がせました。
「なん....で」
私は信じたくありませんでした。悪い予感は当たってしまっていました。彼女のその白い肌は、特にいつもは服で隠れる、腹部や胸部、背中に赤く二センチほど太さの線と、青紫の点が痛々しく様々なところについていました。結局私はパンツも脱がせ全裸にさせました。そうしたら陰部の周りやお尻のあたりにも、その何か物を使って叩かれた痕と痣が残っています。新しいのと古いのを含め沢山ありました。
「お母さん待ってて....!」
そう言って彼女は再び顔面を氷水に突っ込みます。
「ちょっと....。やめなさい....!」
私は洗面台から彼女を引き剥がして、肩を両手で掴んで顔を見合わせるように仕向けます。そして片方の手を彼女のおでこへと当て、前髪を掻き上げました。そしてそこにも見つけます、おでこの端にある大きな痣を。
「あははは....えっと....ぶつけちゃって」
「そんな訳ないでしょ!」
私はどうしていいのか分かりませんでした。これは確実に暴力の跡であったから、まずどう行動を取るべきかよく考えようとしましたが、その時また吼烏骨は氷水へと顔をつけようとして、私はさっきと同じ様にまた引き剥がそうとしました。しかし今度の力は強く離れません。それでも負けてられないと私は更にかつてないほど身体を力ませ引き離しました。
「貴女これいつのなの!?」
「えっと...二十二時位かな...」
私の気迫に押されてそう口を開きます。
「吼烏骨、それはもうアイシングして消し去ってしまえる傷じゃないの!小さくは出来るでしょうけれど、それなら後からでもまだ間に合うだろうから...今は私の話を聞いて...だからもうやめて!」
それを聞いて彼女は抵抗をやめました。そしてこちらに目と顔をしっかりと合わせます。久しぶりに私はちゃんと娘の顔を見ました。顔が濡れていて分かりにくかったけれど彼女は涙を頬から流していました。じきにその涙が小粒から大粒になっていくのに自分は気付きます。
「残っちゃうの.....?」
私は黙ってそれを肯定しました。
「私の傷が見られちゃうの.....?」
彼女の言葉がぶるぶると震え始めます。
「え」
傷が見られる、に関して言葉の意図が一瞬では分かりませんでした。
「もう、進に会えないの......?」
その言葉は、声の震えが大きくて、音声の高さがおかしくなっていました。それ程までに彼女はその傷を、進くんに見られることを気にしていました。涙は数を増していきます。
「ねぇ....お母さん.....!私見られたくないよ...!知られたくないよ!私に傷がついてるって痛がってるって......!」
私の服を強く両手で握って、吼烏骨はひたすらに訴えて、遂には脱力し膝をつきます。
「どうすればいいの.....?私、明日も彼に会いたのに」
____こんな醜い姿、バレたくない.....。
僕は気付けなかった。あの人は虐待されていたのか...。昔の僕は何をやっていたんだ?何故彼女は傷つかねばならなかった?何故痣を必死に、隠す為に身体の部位を凍えさせねばならなかった?
「そんな顔しないでください....」
真理子さんは、心配そうにこちらを見ていた。その目はこちらの心情を見透かしている様で、多分その感覚は当たっている。
僕の拳はいつの間にか力んでおり、丸く固まっていた。その握り拳は自分の手に痛みが走り出してしまう程に、はち切れんばかりに力が入っていた。
「何も出来なかった。これを悔やまずにいられますか?僕は彼女を見てきました。五年間のその歳月の中で、彼女の異変を感じる事が出来なかった」
なんて無力なんだろうか。何か違う所は絶対あった筈だ。いつもと違う彼女が。好きだったあの人が変わっていったところが.....。僕は本当に何をしていたと言うのか?
「気持ちは分かります。ですが思い詰めないで欲しい。あの娘は幸せでした。隠せていて、最後まで君の前で格好良く見せれていて」
「ですが....それは」
「あの時本当に気付いてあげるべきは私でした。母親として、絶対に娘の変化を見逃してはならなかった。貴方は自分を恨まず、私を恨んで下さい。それが道理であるはず」
「そんな....」
「それに、です。小学生の貴方に暴力の痕を気付けなど、それ程残酷なこともありません。それは吼烏骨も感じていた筈....。だからあの娘は必死に隠していたんじゃないでしょうか?」
言い訳に出来るか?自分の弱さが露呈していくと言う醜さを前に、人のせいに出来るか?出来るはずがなかった。小学生だとか彼女の想いがどうだとかやはり関係ないのだ。罪の原因を外部に求めるのは決してしちゃいけない行為なのだ。
「私は彼女が死んでしまう日に、おでこの痣がバレないように帽子を被せて行かせました」
「......ぁ」
思わず、声が漏れた。あの帽子は.....そうだったのか.....。やっぱり気付けなかったんだ。あの人の変化に。なんという事か...。
「吼烏骨は正直に話してくれました。父親からの暴力を受けていること。会社でのストレスが晃を変えてしまった事.....。私はその日彼女を外に行かせ、元夫と二人だけで話し合うはずでした。離婚を前提に。妹は部屋に篭りっぱなしでしたから、悪いと思いながらもそのままで。そして話し合いは実際に行われました。しかし、ある程度話が進んだ時、電話がかかって来て....。貴女は母親ですね?と確認を受けて、彼女が車に轢かれて死んだと言うことを知りました」
あの日の記憶が蘇る。彼女が押されて、笑って落ちて、凄い勢いで車の下敷きになって、身体がその衝撃で弾け飛んで、血が舞い、手につき顔につき、彼女は肉へと成り果てた。身体のどこからか血が漏れて、溜まりをつくって帽子が乗って。液面を泳いで、最後に止まって吸って沈んで....白は赤く染められて、彼女の横に寄り添った。その時横では男が笑った。人が集まり、喋って撮って。同情が虚しく刺さり、僕はそれが許せなくなる。その日は蝉が鳴いていて、大きな雲が並んでいた。アスファルト太陽でやかれ、陽炎をつくり、僕の意識の朧さを表している様だった。
「.....!」
何か喉へと迫り上がってくるものを知覚して...ギリギリのところで飲み込む。もう慣れたつもりだったけれど、他人から聞いて思い出すとなかなかキツい。
「大丈夫か?玖道。水でも飲んで一度落ち着こう」
「あ、ああ....。すまんな」
机には透明な水の入ったコップが三人にそれぞれ一つ置いてあったので、僕は目の前のコップをとってゆっくりと中身を飲む。
「ここからは少し楽になるでしょう。...彼女の死が絡むことは多くないでしょうから、嫌な記憶を思い出すことも少ないでしょうから...」
真理子さんに僕は頷いて、それを確認して相手はまた話し出す。
「彼女が死んでから家の中の空気は一変しました。妹は今までにないくらい、毎日毎日泣いていました。父である晃は会社には行きますが、毎日無気力状態で、私もまたそうなっていました。しかし皆折り合いをつける為に動き出します。一番最初に立ち直ったのは晃でした。私が何も出来なかった頃、仕事をしながらも家事を全てこなして、私はそれに甘えて、結局立ち直る術に仕事を選びます。ダメだと分かっていても私は再びその道を選び、自身は本当に母親でないと悟ってしまう。彼は改心した様に、私には映ります。色は父親に釣られる形で笑顔が増えて、部屋を出て顔を見せる事が、増えていく...。それは吼烏骨が死ぬ以前より光って見えて、その父と娘の団結に私は私自身を邪魔に思って、その頃有耶無耶になっていた離婚の話を切り出します。今度は虐待する相手としてでなく、娘の死で改心した父親として見て、だから親権も財産も娘の死で発生した多くのお金も彼に全て渡しました。そして彼は元の茨の苗字に戻り、娘も茨色となることになります」
彼女は深呼吸か、二度三度吸い吐きを繰り返して見せた。
「それが....全て、ですか?」
太刀波は未だ手を動かしペンを走らせてそう問う。
「はい。これが小田家での出来事の全てです」
「そう....ですか.....」
奴は手を止めてペンの頭をおでこに置いて考え込み始める.....。
「一つよろしいですか....?」
真理子さんが小さく挙手する。言い忘れたことか、それとも何か全く新しい情報か。どちらかそれ以外のものかは分からないが、今僕たちにとって一番必要なものである可能性は高い。
「どうぞ」
太刀波がそう了承の言葉を言って、再びペンを構えた。
「今話した様に、私のいたかつての家庭では多くの問題がありました。今色がその記憶をストレスに思っているなら....もしかして私の言ったことと矛盾が生じるのではありませんか?」
言葉の意図がいまいち掴めなかった。横目で太刀波を見るが、奴の顔にも疑問が浮かんでいるのが見えた。
「と言うと?」
太刀波のその問いに、真理子さんは考えながら、言葉を探しながら答える。
「私から見て妹は....姉との死に折り合いがつけれている様に見えました。しかし今ストレスを感じていて、死に対して色が何か思っているならば、きっと彼女は人生について前向きなどでなく、私に見せた笑顔とはどうしても食い違うと思うのです」
まだ少し、分かりにくい....。太刀波と僕で二人して黙っていると真理子さんは続けて話す。
「えっと....つまりですね。彼女の笑顔が喜びならば、きっとあの娘は今でも笑うと思うんです。ですが彼女はその事に精神的疲労を感じていると聞きました。この喜びと悲しみは反対の感情で、共に混在するこの現状は矛盾であると思いませんか?」
成る程。
「そう....ですね」
太刀波は唸って考える。僕もまた、考え疑問を探す。そしてその果てに思ったことを思ったまま言うことにした。
「....真理子さん。でもそれは後から変わる事だってあると思います。だからそれは....」
「いえ、変わったのならば、何故変わったのか。これもまた問題だと思います。それは彼女の幸福が不幸に変わった意味し、また別のキッカケがある事を意味します。私はあの家庭から身を引く事を決意して、妹を見放しました。それは客観的に、正直に言って良かった事だと思います。それを言えば母として私はどうしようもない屑ですが、同時に、人間として彼女の元にいてはならなかったとも思いますから。今私があそこに行ったとしてあの二人の家族を前に足を引っ張ることしかできませんから。だから彼女にとっても離婚と言う結末は、心に穴が開く事があっても恨む対象でも、嫌に思う対象でもないと思うんです。私が離婚後の色を知らないとは言え、それだけは分かるんです。姉の死を受け止め、私がいなくなり、父親と幸せに暮らす彼女に、不幸がある筈がない」
太刀波は納得したように成る程、と言った。
「今まで僕たちは、彼女が皆からの期待や軋轢でのストレス。そして過去の二つの記憶をトリガーに死の夢を見ると考察して来たわけだが.....そんなふわふわした話じゃなかった.....」
「どう言うことだ?太刀波、まるで分からんぞ」
太刀波はこちらを見ていつもの皮肉めいた笑みも浮かべずこちらを見る
「つまりだね。彼女は今姉の死を受け止め、母がいなくなり、父親と幸せに生活をしているとする。まぁこれは例えとは言い難いが、まぁそれはどうでもよくて、重要なのはこれを否定する要素だ」
否定する要素....?吼烏骨姉さんとの思い出を胸に秘め、父親とは笑って食卓を囲む。これからも彼女と彼は幸せに暮らして行くだろう。しかしその上で茨色が否定する条件。彼女がその生活を不幸に思う条件。確かに違和感を感じずにはいられない。そもそも彼女は何故死を夢に見ていたのだったか。茨さんは精神状態が不安定だ。PTSDを患う程の、傷を抱えている。しかしこれもまた、矛盾だ。かつて幸福であったはずの彼女には闇がある。
「まだ分からないかい?彼女の精神疲労は尋常じゃない訳だ。しかし彼女は強い。そもそもがおかしかった。言い回しも謎だった。彼女は父親の目を一身に受ける様になり、疲れているとも言っていたが、それは詭弁だ。じゃなくても、詭弁のように聞こえてしまうわけがある。人が多い方が辛く感じるはずだ」
___「三年前、両親は離婚してしまいました。それ以来です。私は父親からの目を一身に受けているような気がして.....」
「あー馬鹿だ、僕は!何故こんな事にも気付けなかった!?彼女の頭が良かったせいか?分からないが、彼女の話からして根本的におかしかったとは!」
太刀波は頭を両手で掻いて、見たこともないくらい感情が乱れる。
「おい、どう言う事なんだ?つまり...」
「理解力が悪いね、君も!ずばり言うぞ、彼女は恐らく____」
それを聞いて耳を疑った。何故そうなるのか。分からなかった。こいつは、僕達は、探偵でもなければ理解力が高いわけでもなんでもない。だからこれもまた推理半分、勘が半分だろう。しかし僕はそれを疑うことが出来なかった。
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