『三つの鏡』ブラックウッドとダンセイニをめぐるイメージ

皇帝栄ちゃん

三つの鏡


 アルジャナン・ブラックウッドとロード・ダンセイニ。両者の著作ではたびたび自然賛美と文明批判が色濃く滲み出ており、その姿勢は生涯変わらなかったという点において共通している。しかし、二人の意識と傾向には根本的なところで差異が見受けられる。その差異について、私は鏡のイメージを持っている。ダンセイニは直線状に等間隔で並んだ三つの両面鏡。ブラックウッドは三方向へ広がる三位一体の鏡である。


 ダンセイニの文明批判は、当時台頭してきた機械文明の発達による弊害――景観の自然美の損失に拠っているという指摘がある。確かにダンセイニ作品のそこかしこに頷ける描写が散見される。人間の生活にあこがれ人の住む土地へやってきた妖精が、機械文明に汚染された都市の実情に哀しみをおぼえる『妖精族のむすめ』などは、如実にそれをあらわしている。また、自然回帰も、太古の自然に還るものを希求しているようにみえる。文明の敗北と自然の勝利を描いた長編『牧神の祝福』のラストは、谷間の村の牧歌的な生活さえも棄てて原始の営みに帰還するというものである。最晩年に書かれたとされる生前未発表の長編『The Pleasures of a Futuroscope』が、「未来を覗く装置を使って遠い未来のロンドンを眺めてみれば、そこは核戦争で荒廃した世界が広がり人類は石器時代のごとき状態へと戻っていた」という話であり、これも晩年に書かれた唯一のSF長編『The Last Revolution』のテーマが「機械により作られたものは機械により滅ぶ」であることからも、その精神が最後まで変化することはなかったことが窺える。

 これらから持つ私のイメージ――直線状に等間隔で三つ並ぶ両面鏡は、一方通行の遥かな道を示す。鏡は変化を伴う門であり、最初の鏡にはいと高きペガーナがきらめいている。中央の鏡にはアイルランドの自然が華やぎ、最後の鏡は人類の辿り着く未だ見えぬ彼方だ。そしてそれら鏡を繋ぐ道こそ文明批判と自然賛美なのである。ダンセイニはその上を歩み続けた。後戻りはできないが、振り返ることはできるその道を、決してそれることなく。前へ進むほど、必然的に背後の鏡面は薄らいでいく。われわれの知る野原の彼方からロンドンへ帰還し、ペガーナや夢の国を顧みることが困難になってきた頃、最初の鏡は既に遠く、中央の鏡までは三分の一の距離となっていた。H・P・ラヴクラフトは、ダンセイニが最初の鏡の傍にずっと佇んでいてくれることを望んだであろう。だが、鏡を繋ぐ道は最後まで変わることはなかったのだ。


 ブラックウッドの文明批判は、景観美の損失を飛び越えて自然崇拝の域に達している。ただし、ブラックウッドの拝する大自然は、新アニミズムともいわれる霊的な超心理学面における大宇宙のそれである。ブラックウッドの自然観の結晶ならびに信仰の書ともいえる長編『ケンタウロス』において、地球は一個の生命体であり大自然とは地球の宇宙生命であると語られている。


  地球そのものが宇宙全体のひとつの意識のひとつの情緒に過ぎず、その宇宙意識は、またそれより大きな意識によって生まれたもので……そして、それらすべてをひっくるめた全体は、群小の神々ゴッズではなく――造物主ゴッドなのだった


 これらの思想背景にはエマソンの超絶主義が影響しているという。紀田順一郎の解説によると「超絶主義とは、物質よりも理性を、過去よりも未来を、経験よりも意識を、伝統よりも自由を希求する精神を培う」、「論理や感性よりも、霊性を重んじる傾向をさす」そうだ。長編『妖精郷の囚れ人』では、卑小な現実を飛び出す自由な精神が謳われている。

『ケンタウロス』の主人公オマリー(ブラックウッドの分身ともいえる)は語る。


  ぼくは確信しているが、大自然こそわれわれが次に取るべき手段だよ。理性は幾世紀もの間最善を尽くしてきたが、もうこれより先へは行けない。行くことは不可能なんだ、唯一の真実である内的生命に対して理性は為す術を知らないからね。われわれは、大自然と、純粋の直観へと、還らなければならない。現在はまだ意識下に埋もれているものへの更なる依存の状態へと、原始的な生活と共に投げ棄ててしまった大宇宙のあの甘美な重々しい導きへと、単なる知性と真に訣別した精神的知性へと、戻らなければならないんだ


 ここでは理性の限界性と大自然への回帰が示されている。その直後、オマリーの言葉を語り手が次のように補足している。


  かれの語った大自然とは未開の状態へ逆戻りすることではない。オマリーの荒々しい言葉のなかには逆行という観念は含まれていない。むしろかれは、人間が理性の最上の結果のみをポケットに詰めて本能的な生活へ還ることができるような状態を待ち望んでいたといえる。(中略)オマリーはそれを「大自然への回帰」と呼んだが、かれのいわんとするところは、知性のみを神として崇めたために失ってしまった大宇宙との一種の近親関係へ復帰することだと、わたしはいつも感じていた。現代の人間たちは大自然をおのれとは別個の遊離したものと見なし、大自然に対するおのれの優位を誇っているが、オマリーはかれらとは逆に、大自然と近親関係をもつことによって、汚れのない本能を再生――とまではいかずとも――発達させることを目ざしたのである。その本能とは、極端なことをいえば、みつばちや帰巣する鳩を導くように、動物も霊感を受けた人間も一緒くたにして、そして魂をも、神へと導いてくれる本能である


 大自然への精神の拡張、解放による新アニミズム的帰還という点が、あくまで土地の霊性に身を置いたダンセイニの自然回帰との大きな違いであるといえるだろう。また、ここでいう神とは、地球意識の反映のことである。フェヒナーやウィリアム・ジェイムズの影響も示唆されているが、両者の精神思想哲学が自然科学との融和に着陸しようとしているのに対し、ブラックウッドはその傾向が薄いとされる。

 晩年の選集の序文でブラックウッドは、霊的なものや人間意識の拡張・拡大への常なる関心を述べており、晩年の長編『王様オウムと野良ネコの大冒険』では主人公のオウムが大自然回帰を夢見て恍惚感に浸る場面があり、それらが終生一貫されていたことが窺える。南條竹則が『恐怖の黄金時代』で、怪奇小説家は超自然的なものを信じている人とそうでない人にはっきりとわかれ、ブラックウッドは前者であること、現実を越えた世界への確固たる信念を根底にして、それを作品に表していると述べているが、まさにそのとおりであろう。

 最初に提示した、三位一体の鏡というブラックウッドのイメージであるが、それぞれに映るものは、霊的世界の心霊・心理、夢想への精神的飛翔、大自然の脅威と回帰である。これらは三方向に広がっているが、実質的にはひとつだ。この鏡の中央に存在する椅子にブラックウッドは座り、決してそこから動くことはない。首をめぐらし、目を留めた鏡の景色が作品に放射されるのである。そしてその椅子こそが文明批判と自然賛美にほかならない。


 以上がダンセイニとブラックウッドの似て非なる三つの鏡となる。


 ※引用 アルジャナン・ブラックウッド『ケンタウロス』(妖精文庫5)八十島薫・訳 月刊ペン社




 余談ながらマイク・アシュリーのブラックウッド研究書『Algernon Blackwood: An Extraordinary Life』には、ブラックウッドとダンセイニは実際に会ったことがあると書かれている。1920年くらいにダンセイニとブラックウッドがトブガン(ソリ遊び・競技)に興じたそうだ。もしも互いの自然観と文明批判について認識があったなら、どう思っていたか、非常に知りたいところだ。

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