RiNNATE

靴屋

第1話 記憶 part.1

 都内某所、晴天。夏の蒸し暑さに溜め息をつく昼下がりの交差点。俺は赤信号で信号待ちをしながら夏の暑さを手のひらで後ろに流していた。周囲の人間もそうだ。どうにかしてこの暑さから逃れようとしている。木陰やビル陰に身を潜める者もいれば、小型扇風機を顔の前に掲げる者もいる。交差点では規則正しい車両の整列が行進している。つまり、これが日常だと、俺は把握していた。夏が来ればいつもこうだと、どこかで割り切りながら人生を送っていた。この上りも下りもしない、平坦な人生で立ち止まっているのだ。非現実の足音がすぐそこまで来ているとも知らずに。

 朦朧とした意識で俺はふと夏期講習のことを思い出した。一学期の期末テストの点数が極端に酷かったが故に担任に呼び止められ、強制的に受講させられた夏期講習だ。うちの担任は容赦がない。鬼との形容は妥当だと思っている。そんな夏期講習がこの信号の先にあると思うと、いっそのこともう信号は変わらなくていいんじゃないかって、そう思ってしまう。車道側の信号が黄色に変わり、赤が俺の網膜を照らした。結局、時間は俺の都合では動いてくれないらしい。俺の溜め息とともに目の前の歩行者用信号が青になる。周囲の人間は少しフライング気味に歩き出す。俺は学生かばんを肩に引っ提げて車道に引かれた等間隔の白線上を歩いた。

 その時、視界の隅の方で不自然な発光が見えた。太陽の光が手鏡に反射したような小さな光だった。小さな光だったが、俺の目はそれを逃さなかった。交差点の真ん中辺で俺は顔を上げた。確か、あのビルの屋上の方だったと見当をつけて一つのビルを見上げる。誰かが狙撃しようとしているのではと、少しわくわくした気持ちもあった。これから夏期講習に出向こうとしている人間を狙撃する人間がいるなんて、そんな非日常があったら、どれだけ面白いだろう。

 と、そこまでの記憶ははっきりとしている。その先の記憶がどうしてか歪んでいる。どこまでが正確なのか分からないが、肩の辺りに鈍痛を覚えたと同時にビル群に覆われた青い天井が見えて、悲鳴が聞こえたような気がする。俺は磨りガラス越しに夏を見ているような、そんな感覚に陥った。俺の身体を揺さぶっている女の人がいる。申し訳ないけど、俺、ちょっと眠たくて。その後は真っ暗だった。



第一章 記憶



 はっと目覚めると青い天井は真っ白な天井へと変わっていた。白色の嫌なくらい眩しい電灯に目が眩んだ。咄嗟に目を細め、上体だけをゆっくりと起こす。すると、左肩が動かしにくいのを感じた。そこには包帯でぐるぐる巻きにされた俺の左肩があった。丁寧な処置だ。左の手には点滴の管が通っていて、その近くで一人の看護師が俺の様子を見ていた。

「目が覚めましたか。元気そうですね」

「あ、はい」

「お名前は分かりますか?」

「日戸田 悠」

「お歳は?」

「十七だ」

 看護師はカルテと俺を交互に見やって、少し微笑んでからこう言った。

「大丈夫です。問題ありません。ただ、これから数日は安静にしてもらわないといけません」

「え、あの、学校には」

「こちらから連絡してあります」

「先生は何て言ってましたか?」

「夏期講習についてだと思うのですが、今回はいいとのことで、後に補習を設けてくださるのだそうですよ? 入院中にオンラインでできないかとの相談はありましたが、いつ目が覚めるとも分からない容体でしたので、断っておきました」

「そう、ですか」

 俺は自分の左手を見ながら小さく相槌を打った。看護師のこの女は俺の周りを世話してくれる専属の看護師のようだ。ナースコールの位置やトイレ、食事、就寝時間と起床時間についても説明をしてくれた。そして、ここが「篠崎病院」であることも。篠崎病院はこの辺りでも一、二を争う有名な病院だ。学校からは少し離れているから、俺は搬送されたのだろう。いや、そもそも、あの時、何が起きたんだ?

「っと、これくらいですかね、重要な説明は。あと、何か聞いておきたいことはありますか、日戸田さん」

「俺は、どんな状態でここに運び込まれたんですか?」

「覚えてないんですか?」

「はい。倒れたあと、意識がなくなって、何も」

「日戸田さんの付き添いの方が一一〇番通報をされて、篠崎病院に担ぎ込まれた、ということらしいですが」

「一一〇番? 俺は意識を失って倒れただけでは?」

「違いますよ。あなたは左肩に『大型野生動物用の麻酔銃』を受けて気絶したんです。街では大騒ぎになって、報道番組でも大々的に取り上げられるくらいだったんですから」

 大型野生動物用の麻酔銃? あの時、ビルの屋上から見えたあの光がそうだったのか。確かに、俺は非日常を求めて少しわくわくしていたが、実際に巻き込まれると、クソだ。なぜか、沸々と苛立ちが込み上げてきた。願ったのは俺だが、なぜ今なんだ。

「でも、あの『付き添い』の方。ものすごく博識で日戸田さんに的確な応急処置を施したそうですよ。もしかすると、あなたが今、こんなにも早く目を覚まされたのも、あの方の応急処置があったからかもしれませんよ」

「誰ですか、その付き添いの方って」

「え、知り合いじゃあないんですか? あの方はあなたの『友人』だと、そう仰っておられましたが」

 俺の友人? あの場にいたとは思えない。なぜなら、俺の友人が夏期講習を受けるとは思えないからだ。それに、夏期講習がないからと言ってあんな朝早くから外を出歩くような生活習慣じゃないはずだ。俺はその「友人」に全くと言って心当たりがなかった。

「今、その人はどこに?」

「あなたが目覚めるほんの少し前に『少し用事があるから』と外へ出て行かれました」

「そうですか」と、近くに視線を動かすと、快復を祈るようにブリザードフラワーが飾られていた。白い病室に彩りを添える花々の明るさに自然と先程までの苛立ちが消える。いや待て、俺の友人がこれを? そんなことを考えると益々その「友人」が形をなさなくなっていく。もはや人間の形を保っていない。

「もう少しすると戻って来られると思いますよ」



 そう言って何時間が経っただろう。就寝時間ですと言われ、病室にも夜が来た。この時間、本当ならまだ夏期講習で数学の関数にひいひいと言わされている時間だっただろうに。今こうして暗くなった天井を見上げながら考え事に耽ることができているのは不幸にもある狙撃手のおかげなのだ。俺は時間に身体を委ねるように目を閉じた。

 そもそも、どうして俺は撃たれた? しかも、「大型野生動物用の麻酔銃」を使って撃たれた。余程、俺に恨みを持っている人間の仕業だ。「友人」? いや、まさかな。アイツとはよく遊ぶ。仲も良好だったはずだ。まさか、アイツが俺を。

 その時、俺の病室の扉がゆっくりと開くのを感じた。ナースコールは押していない。だから、これがあの看護師ではないのは明らかだった。それに、足音がない。俺は目を閉じたままその気配の動向を追いかけた。ブリザードフラワーのある右側を歩いているのが分かる。すると、その気配がクスリと笑った。その時漏れた声は女のようだった。だが、看護師のものとは違う、もう少し柔らかく、高い。

「ねぇ、ユウ。起きてるんでしょ?」

 その女は突然、俺に向けて言葉をかけた。俺は反応せず、寝たふりを続ける。何者か分からない以上、下手に反応するのは命取りになり兼ねない。俺は寝息のような音を繰り返した。

「折角、君の『友人』が迎えに来てあげたというのに」

 その気配はまるで俺の顔を覗き込むようにして立っているようだった。そして、「友人」と口にした。すなわち、コイツは俺をここに運び込んで、適切な処置を施したという「友人」ということになる。現役の看護師があれほどまでに舌を巻いたのだから、本物だと思うが。話しかけて見るか。

「何者だ、アンタは」

「おお? ホントに起きてるの?」

 女の声は少し焦燥したような声色になった。だが、依然として足音はしない。気配だけが右から左へと移動し窓の開く音がした。窓からの風に乗って彼女の匂いが漂ってくる。

「アンタだろ、俺をここまで運んで、看護師に『俺の友人だ』と説明したってのは」

「んー? そうだけど、それがどうしたの?」

「俺はアンタと友人になった覚えはないし、そもそも俺の名前を女に教えた覚えもない。なのに、アンタは俺の名前を知ってた」

「あー、それは君の学生証を見たから知ってるってだけだよ。別に特殊能力ってことじゃないから。そんなファンタジーの人間じゃないし、私」

「どうして俺を助けた?」

「え、人間って助け合う生き物でしょ? そりゃあ、交差点のど真ん中で倒れられたら、一一〇番の一つや二つ、すると思うけどね」

 確かに。

「俺はアンタとは初対面のはずだよな」

「そうだね」

「どうして、『友人』だと偽った?」

「これから友人になる予定だったから、先約しただけ。偽ったつもりはないよ?」

「俺にはアンタと友人になる予定はないんだが?」

「酷いこと言うね、ユウは。でも、『友人にならざるを得ない状況がすぐそこまで来てる』って言ったら?」

「はあ?」

 その時、外で金属音と爆発音が聞こえた。窓を開けていたからか、爆風のような温い風が入り込んできた。どこからともない悲鳴が夜の街と病院、俺を包み込んだ。俺は意図的に閉じていた目を不意に開けてしまった。すると、窓の桟に腰かけている女のシルエットが見えた。月明りに背中を照らされていて、神々しく見える。窓の外の黒煙と病室がコントラストになっていることには後で気付いた。

「おや、目が覚めた? まだ、寝ててよかったのに」

「アンタが病室に入って来た時から、ずっと目は覚めてるよ」

「知ってるよ」

女はふふと笑うと桟から飛び降り、俺の伏せている病床に近寄った。その時、ふわりと彼女の髪の匂いがした。とてもいい匂いだった。

「急いで、時間がないの。この状況については後で話す」

 俺は薄暗い病室で何に圧倒されていたのだろう。麻酔銃に爆発音。見知らぬ女にクソみたいな状況。そうだ。こういうのを「非日常」って言うんだな。篠崎病院の駐車場から昇る黒煙は俺の心の中にも昇っていた。最悪の気分だ。

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RiNNATE 靴屋 @Qutsuhimo_V

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