移動体
沖縄の仕事が終わると山下は、自分のアパートにもよらずに小路亭にやってきた。ちょうど時間も昼過ぎ、まずは腹ごしらえと、今日のおすすめメニューをたのむ。山下が注文したあとでも数人の客が店に入って来て、つぎつぎと注文をしていった。その注文を小路丸は厨房のなかでつぎつぎとさばいていく。
最後の料理を出し終えると小路丸は厨房に置かれた椅子に座り、床の一点を見ながらうーんとうなり始めた。
うなり声を聞いた山下は、うんこ我慢してるなら我慢せずにさっさと出してしまったほうがいいぞと親切心から言おうとして、まだ食事をしている客がいることに気が付き、なにをそう唸っているんだと声をかけた。さすがにまずいと思ったらしい。
「ああ、先輩。この間脳波を調べてもらったんですが、その結果がどうも変で……」小路丸は顔を上げて山下のほうを見た。
「小路丸さん、脳波を調べたってどこか具合が悪いんですか」山下と同じくカウンターテーブルで食事をしていた篠塚くんがおどろいた表情で言った。彼は駅前のビルにあるIT企業に勤めている。
「こいつは健康そのもの、大丈夫だよ篠塚くん。ちょっとめずらしいものを手に入れたんでそれを調べてもらっているんだ」
篠塚くんにどこまで話せばいいのか小路丸が躊躇していると山下が代わりにそう答えた。
「珍しいものが脳波と関係するんですか、気になりますね」篠塚くんが興味深そうに聞いてきた。
「そういえば篠塚くんはコンピュータにくわしいんだっけ、だったら頭いいんだよな」
「頭がいいかどうかは別としてコンピュータに関してならばそれなりにくわしいと思いますよ」と少し照れながら言った。
「小路丸も煮詰まってしまっているようだし、ちょっと頭数を増やしてみるか」と山下は言い、味がないのに食べると味を感じる不思議な食べ物のことを差し障りのない範囲で説明した。
「なるほど、そうですか、で、小路丸さんはさっきから何を見ながら悩んでたんです?」と篠塚くんが聞いた。
「え、お前うんこ我慢してたんじゃなくって悩んでたのか」と山下。
山下の言動を無視して小路丸は、これを見てくださいと手に持った紙の束を二人に差し出した。
「食べながら脳波を測定していると、脳の中で味覚を処理している味覚野の部分で反応が起こったんです。もちろんそうじゃないと辻褄があいません」
「で、これがその脳波ってわけか」ぺらぺらとめくりながら山下が言う「脳波って実物を見たのは初めてだけど、こんなにきれいに山が揃っているのか。ふつうはもっとサメの歯みたいにジグザグと乱雑になっているだろ、お前って結構単細胞なんだなあ」
「違いますよ、先輩。それは脳波全部じゃなくって味覚の部分だけを取り出したものです」
よく見ると線は五段に分かれていて左端に甘味、酸味、苦味、塩味、うま味と鉛筆で書かれていた。
それぞれの線はバラバラに上下に山と谷を描いていたが、奇妙なことに山と谷の高さはどれも一定だった。脳波は一定の高さまで上がり、そこからしばらく一直線が続き、そしてこんどは下降するのだが、これも一定のところまで下がるとそこで止まる。そしてそこからまた一直線が続く。場所によっては一直線にはならずにすぐさま上がったり下がったりとジグザク線が続くのだが、いずれにせよ振れ幅は一定のままだった。
「そんなふうに激しく揺れ動くなんてありえないんですよ。ふつうはこんな感じです」といいながら小路丸はもう一枚、別の紙を差し出した。その紙に書かれた線は、急上昇してそして少しずつ緩やかに下降しているジグザグとした山の線だ。
「それは砂糖を舐めたときの脳波です。味覚はそんな感じで急激に感じたあとで緩やかに消えていくんです。まあ最後はストンと下がりますけど」
「これを見るといろんな味が短期間で現れたり消えたりしているわけだな。しかしそれが旨さの秘密なんじゃないのか」
「そう言われると、そうかもしれないですね」山下と小路丸が悩んでいると篠塚くんがポツリと言った。「でも、これを見ていると味があるかないかってことですよね。オンとオフというわけで0か1。まるでコンピュータみたいだなあ」
コンピュータ? と聞き返す小路丸に、篠塚くんはコンピュータの原理について簡単に説明をした。
「……というわけで、今のコンピュータは0か1という数字の組み合わせだけでさまざまな命令を実行しているんですよ」
「篠塚くんも毎日0と1の数字とにらめっこしてるの?」小路丸が質問をする。
「いやあ、0と1というのはコンピュータの最小単位で、僕らはもっとわかりやすいプログラム言語で命令を書いています。それを実行するときにはそれをコンパイルというコンピュータが理解できる形に翻訳してから処理させるんですよ」
「ひょっとして篠塚くんならこの脳波もどんな命令になっているのか調べられるのかな」
「それはちょっと無理ですよ。そもそもコンピュータと脳とでは原理が違いすぎます。ハードウェアの原理がわかれば可能かもしれないですけれど、脳がどういう原理で動いているかなんて解明されてませんよ。それにあくまで似ているなあというだけで、これがプログラムだとは言い切れないですね」
「そうだよねえ」
「それに万が一これが何かのプログラムだったとしたら、小路丸さんの頭の中ですでに実行されてしまっているんでしょ。だったら小路丸さん自身が、どんなことが起こったのか理解できているんじゃないですか」
「それがねえ、食べているときは美味しいと感じてはいるけれども、意識がないんですよ」
「ああ、そうだな。お前に最初に食べさせたときも意識がなかったからな」
「え、あのときも私、意識を失っていました?」
「ああ、しばらくぶっ飛んでたな」
「な、な、なんで黙ってたんですか恥ずかしいじゃないですか」
「恥ずかしいも何も意識なかっただけだろ」
「意識がないってときの顔って寝顔を見られたのと一緒でしょ、責任とってくださいよ、責任」
「お前、無茶なこと言うなあ」
「責任といえばこの間、会社の後輩が結婚したんですよ」困っている山下を助けるかのように篠塚くんが口を挟んだ。
「できちゃった結婚で責任をとったのか」
「いえ、そいつの彼女、いやもう奥さんか、その奥さん、ものすごく料理が旨いんだそうです。それでそいつ結婚を決意したそうなんですが、プロポーズするときに、あなたの料理に胃袋を捕まえられてしまいました。もうあなた以外の料理を食べることができません。責任をとって僕と結婚してくださいっていったんですよ。プロポーズというよりも脅しですよね」
「でもまあ、相手も薄々察していただろうからそう言ったんだろう、出来レースだ、出来レース」
「出来レースでもいいですよ。僕も捕まえられてみたいなあ」
「胃袋を捕まえられているっていう意味じゃ、篠塚くんもおれも小路丸に胃袋を捕まえられてしまってるだろ。料理でおれたちをいいようにあしらっているというか、おれたちを操っているというか」
それを聞いた小路丸の顔が青ざめ始めた。
篠塚くんが山下に小声で忠告する「山下さん、ちょっといいすぎじゃないですか、小路丸さん、ショックを受けていますよ」
「この程度のことでショック受けるなんて……」と小路丸のほうを見てその青ざめた顔に山下もショックを受けた。
「すまん、ちょっと言い過ぎた。そんな気にするな」
「そうなんです。操っているんです!」青くなったあとは興奮して顔を真っ赤にしながら小路丸が言った。
二人の会話を聞いて小路丸は粘菌が味覚を使って脳を操っているのではないかという考えに行き着いた。そしてその仮説が正しいとすると山下の家で繁殖をさせている粘菌を始末しないととんでもないことになりかねない。
小路丸の説明を聞いているうちに山下も事の重大さに気がつき、粘菌を処分しに家に戻ろうとするのだが小路丸に止められた。
「徒手空拳で粘菌に立ち向かおうとするのは無謀すぎます」
しばらく思案して小路丸は厨房の棚からアルミホイルを取り出し、山下の頭に巻き始めた。何をするんだという山下に、「『サイン』を観たことないんですか。シャマラン監督の『サイン』ですよ。あの中でメル・ギブソンが宇宙人からの電波を防ぐためにアルミホイルで作った帽子をかぶっていたじゃないですか。あれだったら粘菌の電波も防げます」
「お前、ときどき頭が良いのか悪いのかわからなくなるときがあるな。あれは映画だ。フィクションだ。しかもおれたちが退治するのは粘菌だ。宇宙人じゃない」
「……じゃあ、燃やしましょう。燃やせば全てなくなります」と言いながら今度は厨房の棚から調理用バーナーを取り出して、工作をしはじめた。
「お前、今度はなにをするつもりだ」
「火炎放射器ですよ。火炎放射器。この間、ネットで作り方を見つけたんです。調理用バーナーで作れるんです」
「おれのアパートごと燃やして消滅させるつもりか」と小路丸の頭を小突く。「あわてるな小路丸。常連客に粘菌のプロがいただろう。そいつに連絡して弱点を聞き出せ」
「ああ、そうっすね。先輩、頭良い!」冷静になった小路丸は田口くんに電話をかけた。田口くんはすぐに出て、小路丸の話を聞いてくれた。
「うん、うん、そうなの。……え、ホント」そう言う小路丸の顔に笑顔が浮かんだ。「田口くん、暇なんで一緒に来てくれるって」
「そうか、それは心強いな」
篠塚くんも行きたそうな表情をしていたのだが、納期間近の仕事が残っているので一緒に行くことができないなあと残念そうに言う。そこで二人の手助けができないかわりに脳波の紙をしばらく預かってもいいですかと聞いてきた。なにか手がかりが見つからないか調べてみるつもりらしかった。
三人が山下のアパートにたどり着いたときには日が暮れ始めていた。
外から見る三階の山下の部屋には明かりがついている。
「ひょっとして、おれ、電気つけっぱなしだったのか?」
「先輩、電気止められていたからスイッチが入れっぱなしだったのに気が付かなかったんじゃないっすか。……ああそうだ、忘れていましたけど、建て替えておいた電気代、支払ってくださいよ。利息はとりませんから安心してください」
滞納していた電気代を小路丸が建て替えて支払ったので電気が通じて山下の部屋は明かりがつけっぱなしになっていたのだ。
玄関の鍵を開けて山下が中に入ろうとするところで小路丸が山下の手を掴んだ。
「待ってください、先輩を死なせるわけにはいきません」と真剣な顔で言う。
「死ぬと決まったわけじゃないだろ。縁起でもないことを言うな。そもそもおれもお前も粘菌を食った仲じゃないか。死ぬんだったらとっくに死んでるだろ」
「仲ってそんな……」と顔を赤くする小路丸だがすぐに我に返って自ら先にアパートに入ろうとする。
そして「とにかく私が先に入ります。先輩たちはそこで待っていてください」と玄関の扉を開けずんずんと先に中に入っていき、奥の部屋の扉を開けたところで、小路丸の動きが止まった。
くるりと振り返った小路丸の顔は真っ青だった。
「だめです。手遅れです。私が犠牲になりますから先輩たちは外に出てください」
「どうした」と山下。
「なにがあったというんです」と田口くんは玄関をあがろうとする。
「来ちゃだめです、第三形態に変化しました」
「えっ」田口くんは土足のまま上がろうとしたところで、あわてて靴を脱ぎながら驚く。
「第三形態ってなんだよ、第二は飛ばしたのか?」と山下。
「先輩、最後だから言います。私、先輩のこと……」と小路丸が決意した口調でなにやら言おうとしたとき、靴を脱ぎ終えた田口くんはのっそりと小路丸のところまで近づいて部屋のなかをのぞき込んだ。そして「ああ」と言った。
「なにがあったんだ、やっぱりやばいのか?」と山下は玄関で叫ぶ。
「子実体ですよ、これは。安心してください大丈夫です」田口くんは落ち着いた口調で言った。
「子実体?」「子実体?」山下と小路丸が口をそろえて聞き返した。
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