子実体

 それから数日後。小路亭には今回の騒動に関わった面々が集っていた。

 粘菌は一定の条件がそろうと子孫を残すために子実体という形態に変化する。過剰な餌と部屋の明かりが昼夜問わず付きっぱなしだったという状況が、この粘菌を子実体と変化するための条件を満たしたのだろう。

 子実体となった粘菌は元の形態に戻ることはない。山下のアパートで子実体と化した粘菌は、田口くんの手で手際よく処分された。

 粘菌の形態のときに持っていた知性、あるいは意識と呼べるものは子実体になった時点でおそらく失われてしまったのだろう。もしかしたら子実体によって作られた胞子が繁殖し、増殖すればおそらくは再び知性を持つようになるかもしれない。しかし田口くんによれば室内ならともかくこの近辺の屋外の環境で、子実体となった粘菌の胞子が繁殖する可能性はほとんどないということだった。どちらにせよこの日本で粘菌を食べようとする人間はまずいない。食い意地の張った山下でさえ、食堂で出されたからこそ食べたのだ。

「結局、粘菌はなにをやろうとしていたんだろうな」と山下が言う。

「あくまで仮説ですけれど、先輩はミトコンドリア・イブって知ってます?」と小路丸が聞いてきた。

「またまた変なものを持ってきたな。知らないよ」

「聞いたことがありますよ。確か、人類の祖先をたどっていくとアフリカで生まれた、たった一人の女性に行き着くという説ですよね」と田口くんが口を挟んできた。

「祖先って、人類の祖先はそのアフリカ生まれの女だってことか」

「正しくは、その女性の遺伝子がすべての人類の中に存在しているってことです」と小路丸が答える。

「日本人もアメリカ人もみんな共通の祖先を持っているってことなのか」

「遺伝子レベルではということです」

「それが今回のと、どう関係があるっていうんだ」

「気がつきませんか、アフリカですよアフリカ」

「……アフリカって、粘菌もアフリカから持ってきたものだが……、まさかそれが関係するっていうのか?」

「私は他の動物に食べさせることはしなかったんですが、野中さんはクロマトグラフィーの分析をしたあとで残りの粘菌を試験用のマウスに食べさせたんだそうです」

「ほんとにすみません。興味があったので食べさせてみました」とあやまる野中さんだがあまり反省はしていなさそうだった。

「そりゃネズミもさぞかしびっくりしただろうな。今まで食ったこともないとんでもない美味いものを食ったんだから」

「いえ、なにも反応はしなかったんです」と野中さんが答える。

「えっ」

「あの粘菌を食べて美味しいと感じるのはおそらく人間だけなんです」と小路丸。

「まさか、それじゃあ、お前のいうミトコンドリア・イブと結びつけると、あの粘菌がおれたち人間の祖先だとでもいうのか」

「馬鹿なこと言わないでくださいよ、粘菌が人間に進化なんてするわけないじゃないですか。それに、もしそうだったとしたら先輩も私もご先祖様を食べてしまったということになってしまいますよ」

「お前なあ」

「私の考えでは、粘菌と人間の相性が良かったんじゃないかと思っているんですよ、先輩」

「相性がって、いったい何の相性がなんだ」

「粘菌は人間の味覚を刺激することができたってことです」

「粘菌は人間に食べられたときに、たまたま美味しいと感じさせることができたというのか?」

「偶然だろうがなんだろうが、粘菌は人間の味覚を操作することができたんです。そしてそれは人間がもともとそういう味覚を感じるようにできていたからなんです」

「うーん、いまいち釈然としないがなあ」

「適者生存ですよ、先輩」

「それは人間原理みたいだねえ」とSF好きの今井先生が口を挟んできた。「おっと失敬。まずは小路丸くんの話を聞こうじゃないかねえ」

「すみませんね、今井先生」と言って小路丸はあとを続けた。「ただ粘菌も最初は食べられたくないという行動をしたはずです。食べられてしまったらそれで滅亡してしまいますからね。でも粘菌には手も足もありません。食べられまいと粘菌にできることをした結果が人間の味覚を刺激することで、それが成功したんだと思うんです。最初は吐き気とか、不味さといった部分が刺激されたんだと思います。そこで食べたものを吐き出させることに成功すれば、粘菌は生き延びてその知識を受け継ぐことができます。そして助かる方法、つまり吐き出させる方法を知っていれば、今度はそれ以外に人間にどんなことができるのか知りたくなるでしょう」

「ちょっと待て、粘菌がそんなことは考えるか」

「山下さん、粘菌はある種の知性を持っているんですよ、粘菌だからって馬鹿にはできないんですからね。あと、記憶することもできるんです。すごいでしょ」と田口くんが言う。

「そうなんだ。しかし知性があったとしても、一歩間違えれば食べられてしまうんだろう。だったら絶対食べられない方法さえ知っていれば十分じゃないか?」

「粘菌には個体という概念はないんですよ。一部を切り取ってもそれは一部でしかなく、個体としての死は存在しないんですよ。だから粘菌にとっては失敗して食べられてしまったとしても一部であればそれほど痛手ではないし、生き延びることができればそれは知識として蓄えられていくんです、そういうことですよね、小路丸さん?」

 田口くんは小路丸のほうを向いて確認をする。

「はい」

「しかし不味かったら食べなくなるだろう」

「先輩、最初っから不味かったわけじゃないんですよ。不味いのはごく一部で、食べる側からすれば、不味ければハズレだった、そんな感覚です。当たりは美味しいんですよ。食べる側である人にとっては」

「それじゃあ、おれたちは粘菌にいいように遊ばれてたってわけか」

「粘菌からすればそういう感覚だったかもしれないっすね。人間の脳は料理をするようになって大きくなったって話は知って……、知らないですよね。味覚が発達したので料理をするということを覚えたんですよ、人は。でもその味覚はどうやって発達したのか、いや味というものに貪欲になっていったのか」

「粘菌がそうさせた……のか」

「そうです、しかし粘菌はきっかけにすぎません。味覚が発達して料理をするということを覚えた人類はそれにともなって大量のカロリーを消費する脳を大きくさせることが可能になった。そして知識と知恵を増やし勢力を伸ばして、アフリカからほかの大陸へと広がっていった。そう考えることも可能だってことです」

「じゃあ、知識を増やしたのは人間のほうも一緒で、粘菌は人間を操ろうなんて考えてはいなかったのか」

「そうともいえません、先輩も私が食べたときのことを覚えているでしょう。あのとき私は意識を失っていました。篠塚くんが脳波を見たときに言ってたでしょう、プログラムが動いているみたいだと」

「なにか目的があったというのか、人間を操る以外に」

「そうですよ、いえ、直接的に操るということはさすがに無理だったでしょう。でも間接的になら可能で、そうしてあることをしようとした、いや、しているんです」

「しているって、粘菌はもう死んでるじゃないか」

「先輩の持ってきた粘菌は死んでいます、でもミトコンドリア・イブにほどこしたものは今でも人間の脳の中で動き続けているんです」

「なにが動いていると言うんだ。そもそもなにかに操られているという感覚なんてないぞ、おれは」

「さすがに粘菌の考えなんてわかるはずもありません、でも生き物が望むものであればわかります」

「生き物が望むもの?」

「ええ、生き物が望むものは生きるということです。だから粘菌は自分が生き続けるためのプログラムを人間に施したんです。つまり粘菌が生存するのに適した環境を人間に作らせているんですよ」

「粘菌が好む環境だと……。でもいっちゃなんだけど人間って自然破壊して好き勝手しているじゃないか。とても粘菌のために尽くしているとは思えないんだが」

「環境破壊して今の地球がどうなっているかわかるでしょう。温暖化ですよ。11月でこの暑さですよ、日本も熱帯気候になりつつあるじゃないですか、高温多湿の粘菌が好む環境に」

「あっ」っといったきり山下は声を失った。


「私達がどうこうできるレベルの話じゃないっすから、先輩が気に病んでもしかたないっすよ」と小路丸は山下をなぐさめる。

「しかしなあ」

「そもそも温暖化が決まってしまたわけじゃないでしょ。だれも好き好んで温暖化を目指そうとなんて思ってもないですよ。だから人は人、粘菌は粘菌です。そういうプログラムが脳の中で動いているかもしれないですけど、だからといって人間がそのとおりに行動しているわけじゃないです。粘菌はたぶん、そうなればいいだろうなあ程度でやったことだと思いますよ」

「そうか、だったらおれ一人ぐらいならあの粘菌を食べ続けてもいいか」と山下は言う。

「そこですか、先輩が心配していたのは」

「そうだよ。そもそもおれはこの粘菌で一儲けしようと思ってたんだ。しかしそこは人類のためにぐっと我慢してやったんだから、一人で楽しんでもいいだろう。まあお前もたまには食べさせてやるけれどもな」

「いやあ、私はもうけっこうですよ」と小路丸は答えるが「僕はちょっと食べてみたいですね」と田口くんが言った。

「それじゃあ今度、田口くんにも食べさせてやるよ」

「山下さん、あまり食べないほうがいいかもしれませんよ」とそれまで黙っていた篠塚くんが言った。

「どうして」

「あのですね、この間の脳波の件なんですけど、ちょっと待っててください」といいながら篠塚くんはカバンの中から紙の束を取り出した。

「なんだ、これ、この間の脳波のやつじゃないか」

「ちょっと最後のページのほうを見てください小路丸さん」と篠塚くんは束の後ろの方をめくってみせた。

 篠塚くんが見せたページの脳波は途中までは山の高さと谷の高さが固定で、同じ幅のなかで上下にジグザクと描かれていた線だったが、途中から大きく変化して、山の高さも谷の高さも異なるランダムなジグザグ線となっていた。そして最後はフラットな線となって終わっている。

「お前、これ違う脳波のやつが混ざっているぞ」のぞき込みながら山下が小路丸に言う。

「ああ、それも謎だったんですよね。計測した最後のほうでそういう脳波になったんですよ」と小路丸が答えた。

「これ、最後のほうで大きく変化しているんですね。一番最後がフラットな一直線になっているのは味覚が感じられなくなったからでしょう。でもその手前の部分は違います。それまでオンかオフだけだったものが少しオンとか少しオフ、あるいはその中間と複雑になったんですよ。これって味の重ね合わせと考えれば量子コンピュータの量子ビットのような振る舞いをしているんじゃないかと」と篠塚くんが言う。

「量子コンピュータだって?」

「はい、もちろん仮説にすぎないのですが、でも人間の脳も量子コンピュータであるという説もあります。だからこれまでは普通のコンピュータとして人間の脳を利用していたけれども、今度は量子コンピュータとして人間の脳を利用できるように粘菌も進化したのかもしれません。量子コンピュータで何をしようとしているのかわかりませんけれども、ひょっとしたら新しい意識を発生させようとしているのかもしれませんね。人類とコンタクトを取るために」

「おおっ、それはワクワクするねえ」今井先生が嬉しそうに言う。

「……そうか、まあそれがいつの日になるのかわからないが、粘菌を食べるのはやっぱり止めておこう。人間、身の程をわきまえた行動が一番だな」そういいつつも山下は少し未練がありそうだった。

 ところで……と山下が言おうとしたところで野中さんが「私もその粘菌、ちょっと食べてみたかったなあ、勇気がなくって食べられなかったけれども。そうだ、小路丸さんならその粘菌の味を再現できるんじゃない?」と言った。

「私には無理かな。あれを再現するのは」と小路丸が答える。

「そうなんですか」

「そうですよあれは。でも悔しいなあ、私の味は世界一とまでは思っていないけど、あんなとんでもない味がこの世に存在するなんて、あまりにも高すぎる壁だよ」と小路丸は悔しそうに言う。

「粘菌とお前とじゃ、生きてきた時間の長さが違いすぎるだろ。あっちは何年だ。数千年だろ。それにあの味は卑怯な味だ。お前の味は卑怯じゃない。まずはお前の親父の味を乗り越えろ。粘菌との勝負はその後でもいいだろう、な。お前だったらできるよ」と山下は言ったあとで「ところでお前、粘菌を退治しようとしたとき、最後に何かおれに言おうとしていたけど、いったい何を言おうとしていたんだ」と尋ねた。

「……知りませんよ」と小路丸は答えた。そしてうつむいて皿を洗い始めたので彼女がどんな表情をしていたのかは誰にもわからなかった。


第一話完

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