第2話 猫


高校生の頃。週末の夜は小学校からの友人の家に何人かで集まっては朝までくだらない話で盛り上がっていたことを思い出す。

その家では三毛猫を飼っていて、友人はシンプルに「ミケ」と呼んでいた。

かなりの老猫で、いつも目をつぶってコタツのそばで過ごしている猫だったが、少し日にちが経ったあとに行ってみると「ミケ」はもういなかった。聞くと3日前から行方不明らしい。

「多分、どっかで死んでるのかもなあ。猫は死ぬときはいなくなるって、ばあちゃんも言ってたし。」

と言っていた友人の寂しげな口ぶりを思い出す。


それから20年以上が経った。

何十年ぶりかという大寒波が届いたその日は、雪は降らなかったもののとにかく寒かった。

寒波に輪をかけて、身体を動かされるほどの強い風が吹いていて、まさに大寒波というのがふさわしいその日。地下鉄を出た瞬間に誰に言うとでもなく「寒っ」と言ったほどだった。

厚手のコートのポケットに片手を突っ込み、もう一方の手でスマホを触っていた。

来年には40歳になる僕は、帰宅の途中だった。僕が住んでいるのは都心から近いだけが取り柄の2LDKのマンションだ。

かつては普通に結婚していたが、その暮らしは2年間に妻が出て行ったことであっけなく終わった。

「離婚して。」と言われて差し出された離婚届にサインをして、手渡すと妻は「今週中には引っ越すから。」とだけ言った。

理由はよくわからない。話してはくれなかったし、聞きもしなかった。

妻が出ていった後も、寂しくなると想像したものの、それも案外無かった。僕は自分で思うよりも心が冷えている人間なのかもしれない。だからこそ妻も出ていったんだろう。

仕事は中堅の建設会社で人事をやっている。基本朝型なので誰よりも早く出勤して、その代わりに定時には退勤する。かといって窓際という訳でもなく、今どきの働き方改革のおかげで課長というポジションも与えられている。

田舎の両親は健在だが兄貴が同居しているので心配も無いし、ほとんど交流も無い。妻がいないことを除けば比較的順調な人生と言えるかもしれない。

そんな今日も、定時で終わりせっかくの週末としても特に部下や同僚と飲むことも無く、家に帰るところだった。

せっかくだから外食でもして帰ろうか、それともコンビニで総菜でも買って家で飲むかを地下鉄の入り口で悩んでいると突然に声をかけられた。

「おじさん。岡田さんですよね?」

制服こそ着ていないものの、どう見ても高校生くらいの女の子が僕に声をかけてきた。

「いや、違うよ。」

その女の子はあからさまにがっかりした様子で、

「あー、やっぱり違うか。くそー、また騙された。」

と吐き捨てた後、

「えー。どうしよう。困った。」と言った。

さすがの僕もこれはいわゆる「パパ活か?」と思ったもののつい声をかけてしまった。

「どうしたの?待ち合わせでもすっぽかされた?」

「うん。ここで待ち合わせしてたんだけど。まあ、よくあることだけどね。もしかしておじさん暇?」

その女の子は少しだけ茶色っぽい髪色以外はごく普通の女の子だった。

「今から帰るとこだけど、まあ、暇っちゃあ暇かな?」

「うそ!じゃあ1時間だけ私とご飯食べに行かない?ご飯だけなら5千円でいいよ。大サービスで」

完全なパパ活だ。知識としては知ってはいたもののやる気もやったことも無い。それに高校生なんて危なすぎるし。

「あはは。でも君いくつ?高校生でしょ。僕が捕まっちゃうよ。」

その子は僕にボディーブローをあてるフリをして言った。

「失礼だなあ。こう見えても20歳。大学2年生。でも若い子の方が儲かるからこう見せてんの。ムカつくなあ。」

と怒ったような笑顔で学生証の大部分を指先で隠して僕に見せた。

その指先は本当に白くて真っすぐできれいだった。


「じゃあ、ご飯でも行きますか?」

おそるおそる話す僕に彼女は両手を挙げて「やったー!」と言った。


こんな若い女の子と歩いているとどこからどう見てもパパ活でしかない。会社の人間に見られたら完全にアウトかもしれないが、日ごろの僕を知っている彼らは親戚の子とでも言えば信用するだろうとも思う。

ただ、この子のバックに危ない奴らがついている可能性が無い訳では無いが、雰囲気からそれは感じられなかった。それはさすがに、そこそこ長い人事経験で何となくわかる。

いざとなれば業務で知り合った弁護士に話してもいい。守秘義務は守るだろうし。そんなおじさんならではのセーフティーネットを考えながら少し歩いた。


何でもいいというので、駅の近くの比較的落ち着いていそうなバルっぽい店に入ると金曜日の夜ということでなかなかいっぱいだった。ジロジロと見てくる若い店員に案内されて、僕たちは狭い2名席に座った。


「僕はお酒飲むけど、君はどうする?」

「生中!ついでにモヒートも」

さすがにこの注文は未成年じゃないね。

僕も生中。と言うと彼女は慣れた手つきでタッチパネルでつまみを頼んでいった。

苦笑しているとまた怒った顔で聞いてきた。

「なに?バカにしてるでしょ。ムカつくー。なんか若い子の扱いも慣れてるし、おじさん、相当遊んでるでしょ。」

苦笑で返す。

「僕が君みたいな若い子と接点があるのは面接とかをやってるからだよ。面接とか、懇親会とか結構あって、よく話すからね。」

「ふーん、そうなんだ。それでね。まあ、いいや。悪いけど、おじさん先にお金もらっていい?」

僕が財布を出しお金を出すところを彼女は目をそむけて見ないようにしていた。案外、育ちがいいのかもしれない。

「じゃあ、1万円あげる。なんだか今日は飲みたかったから。1時間で帰ってもらってもいいし、2時間いてくれてもいい。君に任せるよ。」

彼女はわかりやすくむっとして顔で言った。

「それは嫌。ダマしたみたいに思われるから。5千円でいい。それで2時間一緒に飲む。あと言っとくけど」

急に顔を寄せてきて小声で話す。彼女の甘い匂いにドキッとする。

「私、身体は売ってないからね。食事だけだよ。それでいい?」


僕は残念なような気持ちよりも、少し安心した。

「もちろん。それで良いよ。」


生ビールとモヒート、そしてつまみがドカドカと運ばれてきた。順番も何もあったもんじゃない。

饒舌な方ではないらしいが、彼女の雰囲気そのものがなんだか楽しくて、つい笑顔になる。こんな感じはいつ以来だろう。

「ねえ。追加頼んでいい?」

慌てて頷くと、手早く追加の酒と料理を頼んでいく。決して無駄な注文は無く、しかもテーブルの上は空にしない。

ベテランの仲居さんの仕事のようだと少し笑えた。


他愛もない話だったが2時間はあっという間に過ぎていった。寂しい気持ちも無いでは無いが、ゲームも終わらせないといけない。

「そろそろ2時間だよ。帰らないといけないよね?」

「うん、そーだね。うん、帰る。おじさん今日はありがと。ねえ、またこうやってご飯食べない?次からは半額でいい。5千円で2時間。どう?」


この申し出は論理的には断らなくてはいけない。違法性は無いものの、世間的には完全なパパ活であり、自分の年齢や立場からもありえない。

「そうだね。でも・・・・・・。」

「わかった。LINE教えて。」

彼女にせかされるままにLINEを交換した。


地下街への入り口で分かれると、さっき知った彼女のLINEのアカウントを見てしまう。僕の携帯の友達リストには会社関係しかいない。そこにたった一人、可愛いアバターの「えり」という、おそらくは偽名の、でも可愛い友達が出来ていた。

「おじさん。ありがとー」

地下鉄の入り口に降りていく彼女の後姿を見ていると、何故か寂しさが込み上げてきた。まだ帰りたくない。あの暗くて寒い部屋には。

さっきいた店の隣の居酒屋に入ることにした。カウンターに座り日本酒の鈍燗を頼む。そして見るでもなく、あの子のLINEを見てしまう。どうしようもないエロおやじだなと苦笑した。


と、LINEが入った。

さっきはありがと

でもねイマイチたりない

タダでいいから飲まない?


顔よりも心臓がドクっと反応する。

OK

さっきの店の隣の居酒屋で呑んでる

と返してしまった。

ものの1分ほどで彼女は息をはずませて走ってきた。


「おじさん、ごめんね。奥さんに怒られちゃうね。」

そういう彼女に言われてはっと思う。

「いや、僕バツ1。一人暮らし。申し訳ない。この年で独身なんて気持ち悪いよね。」


「へえ。子供は?奥さんが連れて行ったの?」

「いや、子供はいなかった。」

「そうなんだ。いつ別れたの?」

「ちょうど2年になるかな?」

「おじさん寂しいね。」


僕の中ではすっかり終わった話だったのに、あらためて他人から言われると寂しい自分に気がついた。39歳。もうすぐ40歳と言えばもう世間的には十分孤独なおじさんだ。

「あんまり思わなかったけど、そう言われてみると寂しいね。」


その後もたわいもない話をポツポツと彼女は話した。でも家族や友達の話はしなかった。僕も聞かなかった。飲んで、ゆるゆると話した。そして、あっという間に終電が近づいてきた。

「そろそろ帰ろうか?」

「うん。そーだね。ごちそうさまでした。」

と言って彼女は手を合わせた。

彼女がまた、地下街の入り口から下に降りるのを見届けて、僕は家路につくことにした。

雪は降りそうで降らない。こんな日が一番寒い。

ポケットに手を入れようとすると、突然後ろからポケットに手を突っ込まれ、驚いて振り返ると彼女がいた。彼女は僕を真っすぐに見て言った。

「ねえ。今日、おじさんの家で泊めてくれない?実はもう帰れる電車無いし。」

僕は正直ドキドキした。でも、

「いや、ご家族が心配してるよ。タクシー代あげるから帰りなさい。」

彼女は言った。

「あたし、おじさんと同じで一人だし。家には誰もいないから。誰も心配しない。」


ここにも世間的には寂しいやつがいたのか。酒の勢いもあったんだろう。でも自分でも驚くほど下心とりも、彼女と一緒にいたい、という気持ちがあった。

「いいよ。」

数分で着いた僕の部屋は外と変わらないくらい暗くて、そして冷えていた。

急いで照明とエアコンを点け、熱帯魚の水槽にも灯りをともす。


「冷蔵庫にあるもの好きに飲んで食べていいよ。眠くなったらあそこの部屋のベッドを使って。シーツは替えといたから。」

「うん。ありがと。」

彼女はダイニングテーブルに缶ビールを出して飲み始める。

僕はネクタイだけを外してソファーに横になった。


睡魔に襲われうとうとしていると彼女が声をかけてきた。

「おじさん、ベッド借りるね。でも扉を開けたままで、寝るまで話ししていい?」

僕は「いいよ」と言った。

会話の内容は覚えていない。でも誰かと話しながら眠りに落ちるのは心地よかった。


翌日、目が覚めると彼女はもういなかった。

夢だったかと思ったらダイニングテーブルにメモが置いてあった。

「ありがとう。名前は小林絵里 090-××××-×××× 電話かLINEして」

ドキッとして財布やカバンを確認した。でも当然のように触った形跡も無かったし、中身もそのままあった。

昨日は一体、何だったんだろう。


その日はたまった洗濯物とアイロンがけ、クリーニング出しと回収。そして水槽の水換えを済ませて昼から飲んでいた。

メモはテーブルの上に置いたままにしてある。

電話しようか悩んでいると日曜日になり、いつの間にか月曜日になっていた。

結局のところ僕は電話もLINEも出来なかった。


月曜日になり、いつもと変わらない日常が始まったが、帰り道のルートだけは変えた。

彼女が待っているとは思っていない。でもいたらどうする?僕はありもしない空想を膨らませて少しだけ怯えていた。


1週間が過ぎ、2週間が経った。少し忘れかけた休みの前の日。こそこそとマンションの裏口から入ろうとすると彼女が立っていた。

「やっと会えた。」

彼女の笑顔を見て、何か、全てが溶けてしまった。

「うん、そうだね。」

何事も無かったように二人で僕の部屋に入り、買ってあった食材で僕が鍋を作ることにした。彼女が食器を配る。


今日の鍋は出来が良くて良かった。

鍋には熱燗、と言う彼女は電子レンジで何度も日本酒を温めては一緒に飲んだ。

テレビを見ながらどうでもいい話しをしたが、お互いのことは二人とも話さなかった。でもそれで十分だった。

彼女は何も言わなかったが帰りたくないのはわかった。

かなり大きいはずの僕のスウェットとタオルを出し、お風呂を入れる。彼女を先に入れ、少し後に入浴するとなんだか優しい匂いがした。


僕が風呂から出てくると、彼女はダイニングテーブルの椅子を水槽の前まで寄せて体育座りで熱帯魚を見ながらビールを飲んでいた。

この前と同じようにベッドルームを彼女に渡して僕はソファーに毛布を持ち込んだ。


いつの間にか寝落ちしていたらしい。暗い部屋の中、気がつくといつの間にか彼女がソファーに無理やり入ってきて言った。

「してもいいよ。」

僕は無言で首を振って、その代わりに猫を抱くように優しく彼女を抱いて眠りについた。

温かくて柔らかくていい匂いが僕を満たした。なんだかとても幸せだった。


翌朝ソファーで目を覚ますと彼女はスウェット姿のまま台所に立っていた。

「台所借りてるね。」

ご飯を炊き、冷凍庫にあったらしい干物を焼き、みそ汁を作っていた。味は少しだけお世辞もこめてとても美味しかった。自宅で出来たての朝ご飯を食べたのはいつ以来だったろう。


僕は、本来であればいい大人としてきちんと色々なことを聞くべきだろう。でも僕は聞かなかった。いや、聞けなかった。年も大きく違う。環境も違うだろう。接点が今この瞬間にあるだけで、興味が離れれば、いつの間にかいなくなるだろうと僕は思っていた。


その日、僕は自分の名前と電話番号を書いたメモを彼女に渡した。

「小田島 昭 39歳、もうすぐ40歳。 電話番号は080-××××-××××。いつでも連絡して。」

彼女は「うん。」と言って携帯に登録して、そのメモは自分の小さくて可愛いバッグにしまった。


朝ご飯を食べた後、

「ちょっと出かけてくるけど夕方には戻ってくるね。」

と言って出て行った彼女は、言ったとおり日暮前には大きめのトランクを抱えて戻ってきた。

「引き出しを2個だけ貸して。」

と言うとあっという間にクローゼットに自分の着替えを入れて、ダイニングテーブルには授業の本やノートを広げ始めた。

まあ、いいか。


僕たちの奇妙な二人暮らしが始まった。掃除や洗濯、料理はその時に気が向いた方がやる。さすがに毎日ソファーで寝る訳にはいかないので夜は同じベッドに少し離れて寝た。一緒に朝ご飯を食べた後、それぞれが必要な時間に部屋を出る。

僕はその日の帰り道。ちょっと高級なブランドショップに入って、可愛い財布を買ってきた。適当なお金を入れて「食材とか何でも買うものがあればこれで買って。」と言って彼女に渡すと彼女は嬉しそうに笑った。


夜中に目が覚めると彼女が腕の中にいたりする。その時、彼女の髪の香りや柔らかい身体に触れていると興奮もする。抱きたいともよく思う。

でも抱いていない。何故抱かないのか?僕もよくわからない。それは多分、もっともらしい道徳心なのかもしれない。でもそれだけじゃなかった。

彼女を抱くことで、この生活に変化が起きるのが怖かったのかもしれない。このままずっとなって無いのに。そう、永遠なんかあり得ないのはわかっているのに、つい夢を望んだのかもしれなかった。


彼女が必要そうな物は気がついたら買うようにしていたが、シャンプーやコンディショナー、その他もろもろはさっぱりわからないので生活用財布の中から買うように言っておいた。翌日、キャラクターの絵が描かれたセットが風呂場の隅に置いてあった。


幸い(?)僕は妻に捨てられた男なので、慰謝料も養育費も無く貯金もそれなりにあった。それに財布のお金の範囲で欲しい物を買うように言ったのに、それがあまり減ることは無かった。パパ活を止めろとは僕は言わなかったが、彼女はもうしていないようだった。


休みの日は家で過ごすことが多かったが、時折は映画を見たり、買い物や外食にも出かけたりした。健全なパパ活があるとも思えないが相当に健全だ。おままごとみたいに。


彼女は週に2~3日は学校に行っていっているようだったが、僕が会社に行ってから出るし、僕が帰る前には帰っているので本当に行っているかどうかはわからなかったが、僕も確認はしなかった。


毎日が何も無くゆっくりと過ぎていく。

若い彼女には面白くないかもしれないが、僕にとっては心がいつも静かで穏やかな日々だった。


そんな生活が2ヵ月ほど続いた日曜日の朝。二人でコーヒーを飲んでいるときに、突然、部屋のインターフォンが鳴った。僕が見に行くとモニター画面には、1階のエントランスにスーツ姿の男性2人と、制服の警察官が映っていた。僕は彼女を連れ戻しに来たんだ。と直感した。


「小田島さんですね。少しお話があるんですが開けていただけますか?」

「わかりました。」

インターフォンを切るとすぐに彼女に

「警察が来てる、非常階段から逃げろ!」

と言った。エレベーターホールの反対側に非常階段があってそこから外に出られる。休みの日に何度か一緒に下りたこともあったからわかるはずだ。


あとで電話するから、と言いながらいつもの財布を彼女に握らせると、自分のバッグをつかんで、部屋着のままで出て行った。


1階玄関から8階の僕の部屋にくるまでに玄関だけは片づけておく。捜索願か?家出か?それとも事件か何かか?悪い想像しか頭に浮かばない。きっと彼女の親か誰かが探しているんだろうし、何かのきっかけでここがわかったんだろう。今までのことが明るみに出れば僕は何もかも失うかもしれない。

それは仕方ない。それもわかっていてやっていたことだ。随分と面白おかしくニュースになるだろうけど、失って心底困ることは特に無い。自分一人くらい何とかなるだろう。

でも、でも、彼女だけには自由でいてほしい。


彼女は上手くやり過ごせただろうか?動悸を無理やりに落ち着かせていると部屋の前のチャイムが鳴った。少しもったいぶってドアを開けるとさっきの男たちがいた。

「小田島さん?ですよね。警察の者ですが、実は昨日なんですが、このマンションで空き巣被害がありまして。捜査にご協力をお願いできますか?」

彼女には何の関係も無かった。


聴取はドアの前で5分足らずで終わった。

ドアを閉めると僕は腰が抜けたように玄関に座り込んだ。すぐに彼女に電話をする。

出ない。というか彼女のスマホはリビングのテーブルの上で鳴っていた。

部屋の中は何もかもそのままで彼女だけがいなかった。すぐに近くの公園や、一緒に行った近所のスーパー。コンビニ。ドラッグストア。立ち寄ったことがあったところは全て覗いてみたが彼女はいなかった。


翌日になり、2日、3日が過ぎ、1週間が過ぎても彼女からは何の連絡も無かったし、帰ってこなかった。

スマホにはロックがかかっていて暗証番号をでたらめに入れてみるが当然のようにはじかれてしまってどうしようもなかった。


始めて出会った場所や近くの似たような場所にも毎日のように足を運んだ。

でも彼女はいなかった。


どこに住んでいて、どこの学校に行っているのか、僕は何も聞いていなかった。彼女がここまで逃げなければいけない何かがあることをわかっていなかった。もう二度と会えないのかもしれない。

僕の部屋は暗くて寒くて、空っぽに戻った。


それからひと月が過ぎ、随分暖かくなってきた。僕は毎週金曜日は、あの時間、あの場所に30分以上は立っている。同じような若い女性を見かけてはっとするがやっぱり違う。時には同じようにパパ活で声も掛けられもする。

毎日、近くのコンビニやスーパーで弁当や総菜を買ってマンションに戻ると裏口を見てから表口に回って部屋に入る。もしかして、と思って部屋の鍵もかけていない。

彼女の携帯は定期的に充電もしておいた。本人がかけてくるかも、と思って自分の携帯と一緒にいつも持っていたが、一度も、誰からもメールも電話がかかってくることは無かった。


仕事は変わらず、生活にも何の変化も無いが、僕の世界から彼女だけがいなかった。


そして半年近くが過ぎた大雨が降っていた初夏の夜。

たまたま溜めこんだ不燃ごみを捨てにマンション1階の裏口近くのゴミ集積所に行った。

通りから見えないようにコンクリートの壁で半分囲われた3坪くらいのスペースの隅の暗がりに丸い小さな影があった。


初夏とはいうもののずぶ濡れで震え、薄汚れた猫のような。

彼女だった。


差していた傘を彼女にかぶせるとビクッと身体を震わせ、僕を見た。僕は少しぎこちない笑顔を出して言った。

「お帰り。」

少しの間の後、彼女は俯いて言った。

「ただいま。」


風呂は沸いていたのですぐに入るように言って、彼女が入っている間に服を洗濯機に入れ、バスタオルと彼女の部屋着を出して脱衣所に置いた。

風呂上りのタイミングで熱いコーヒーをカップに注ぎながら僕は言った。

「あの時、警察が来たのは他の部屋で空き巣があったからっていうだけだったよ」

彼女は「そうなんだ。」とだけ言って言葉を終えた。

彼女はこれほどまでに逃げ続けた訳を言おうとしなかったし、僕も聞きたいと思わなかった。話したくなれば話せばいい。

そう。理由なんて、過去なんてどうでもいい。彼女さえいてくれればいい。


その日。初めて彼女を抱いた。

僕と彼女はずっと無言でお互いを確認した。


次の日から以前と同じ日々が始まった。それぞれが目を覚まして、それぞれが支度をして出掛け、それぞれで帰ってくる。ご飯はどちらかが用意して出来るだけ一緒に食べた。


お互いが好きな時に掃除したり、洗濯したり、風呂に入る。

リビングのソファーで僕はテレビを見ながら新聞を読む。彼女は水槽の前でネット動画を見る。眠くなればそれぞれの時間でベッドに入る。

そしてときには食事や買い物に一緒に出かけ、たまにセックスをする。


それが僕たちの毎日だった。


出て行った妻は何でも話したがり、何でも聞きたがった。

自分の仕事や同僚のこと、嫌な上司のこと。テレビで見たこと。何でも話していたし、僕にも聞いてきた。僕はそんな話に上手く合わせていたつもりだった。夫婦として当たり前のことはきちんとやろうとしていた。

ゴミを出し、洗濯や掃除、その他の家事も手伝った。そしてもちろんセックスもした。でもある日突然としか僕には思えないようなタイミングで妻は出ていった。

そのときの僕には理由がさっぱりわからなかった。でも今はなんとなく妻が出て行った理由がわかる気がする。


彼女と一緒にいる時間が長くなってきても二人の距離感は変わらなかった。

彼女は時々気が向くと突然僕の隣に座ってゴロゴロしたりするし、飽きれば水槽の前でゲームをしている。

この感じが心地良い。

お互いがお互いの何か抜け落ちている部分に、優しく温かい、柔らかいゴムのようなものをゆっくりと少しずつ流し込んでいるようだ。そしてそれは少しずつ固まっている。


仕事の帰り道。駅前の花屋で名前も知らない花を一輪買ってガラスのコップに活けてみた。

ひょこひょこと彼女はやってきて、その花をずっと眺めている。

「これなんていう名前?」

「いや、わからずに買っちゃった。」

「ふーん。きれい。」

こんな生活が何年続くかはわからないし、そう長くは続かないかもしれない。それで僕は良かった。


一度だけ彼女が言ったことがある。

「ねえ、おじさん。おじさんは今ならまだ結婚とか出来るだろうし、そろそろわたし出ていったほうが良いと思うんだけど?」


僕は本当に久しぶりにはっきりと答えた。

「いや、僕はこのままでいい。君さえ良ければ。」

彼女は僕の方を見ずに言った。

「わたしといると人生をダメにしちゃうかもしれないよ。」

「このままでいい。君がここから出たくなったら出ていけばいい。それでいい。僕は今が一番いい。」


彼女は振り返らずに、でも何度も頷いた。


今日も彼女は僕の部屋にいる。

多分、これからも。

そう。もう少し当分は。

まるで猫が生きていくように。


ゆるやかに、温かく一日が終わっていく。

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