キス!キス!キス!

森 四郎

第1話 僕の初恋 

「若い時しか出来ない恋愛ってあるんだぞ。」

そう祖父に言われた高校生の頃。そう、僕には高3のときに少しだけ、もっと正確に言うと1日だけ付き合った女の子がいた。その子は地毛が少し茶色かったので目立っていたが、何よりもはっきり言って、抜群に可愛かった。それは、うちのクラスだけでなく学校中、いや地域一帯の評判で、他のクラスの男子生徒が休憩時間に覗きにくることもよくあったし、机や下駄箱がラブレターで溢れていた、といったまことしやかな噂まで信じられるほどだった。

高知県高知市の東の外れにあったその高校では男女平等とかで、男女の区別なくアイウエオ順で席が決まっていた。3年生で初めて彼女と一緒のクラスになったとき、その子の名前は阿賀(あが)さんで教室の窓側の一番前。僕は小田島(おだじま)で彼女の後ろに席が決まるという一生分の幸運があった。

と言っても身長も学力も家の経済力も、おまけに顔も超平凡な僕に何のチャンスもあるはずがなく、時折、風に漂う彼女の長くて美しい髪の香りをこっそりと嗅ぐくらいが僕に出来る限界だった。

もちろん同級生だし、席が前後なので挨拶もするし、プリントも回すし、時には偶然に手も触れあう。僕みたいな凡人にはそれだけで十分だった。この子はそのうちに誰かと付き合うだろうし、もう誰かと付き合っていても不思議じゃないし、少なくとも僕じゃないことは確かだった。もちろん僕もそれを当然のごとく受け入れていた。

でもそれはある日突然に僕に訪れた。

5月の中旬の金曜日。前からプリントを回されるタイミングで彼女から結構な音量で僕は彼女から話しかけられた。

「ね。今日、一緒に帰らない?」

その声は多くのクラスメートの耳を稲妻のように貫き、僕の返事を聞くためだけに教室内は静まり返った。もちろん「なんであいつが?」とあからさまに言われている気がする空気感を気にする余裕も無く、僕は頷いた。恥ずかしいが何度も。

全ての男性クラスメートの失笑や舌打ち。声にもならないため息。怒り、憎しみの視線。でも僕は舞い上がり過ぎてそれどころではなかった。

その日の帰り道、二人で自転車を押して歩きながら、僕は初めて彼女と二人だけで話をした。もちろん今となっては何を話したかも覚えてもいないので、それだけてんぱっていたんだろう。ただ一つだけ覚えているのは翌日の土曜日に映画を見に行く約束をしたことだった。

その日は、20分ほど一緒に歩いてお互いの家に向かって別れた。少なくとも今の自分なら彼女の家まで送っていっただろうけど、当時の僕はそれほど“初心(うぶ)”だった。

「じゃあ、8時25分の高知駅行きのバスに乗るね。」

僕は家に帰るとすぐに、母親にもっともらしい嘘を言って金をもらい10km以上ある道のりを自転車を飛ばしに飛ばして新しい洋服を買いに行った。そこは当時、高知で一番お洒落なお店だったように思う。


翌日、見に行く予定の映画は当時話題になっていた恋愛映画だった。事前に情報を仕入れ、本も買って夜中まで読んだし、服装も買ったものとすでにあったものを繰り返し合わせて鏡の前であーでもない、こーでもないと深夜まで検討を重ねた。

そして土曜日は気持ちいいくらいに快晴だった。

僕は最終的に昨日買ったばかりのフェイクレザーのライダースジャケットに持っていたダメージジーンズ。そして前から気に入って履いていたスエードのブーツを合わせるという雑誌で見たままの廉価版の格好だった。

彼女はピンク系のタイトなニットのセーターにミニスカート。そしてブーツという目のやり場に困る素敵な格好だった。彼女のとてつもなく可愛い笑顔に可愛い服がとても似合っていて、まさに可愛さが100万倍増し増しになっている。アーケードをすれ違う男どもの「なんでこいつが?」という視線も僕には超気持ち良かった。

映画館では二人分のチケットを買おうとすると「絶対、割り勘」と言われてそれぞれが払った。フードコーナーでは僕はコーラ、彼女はオレンジジュースを注文して、一緒にポップコーンを買った。これも割り勘にして、と言われて母親を騙して手に入れたお金はさほど使うことは無かった。


何やら有名な映画だったらしいが、その時の映画の中身はほぼ覚えていない。なぜなら始まって30分くらいで彼女が僕の手を握ってきたからだった。女の子に初めて手を握られたときの感動はどれくらいの感動かと言うと、まさに天国に召される的な感じとでも言うのだろうか、とにかく温かくて柔らかくて気持ち良かった。

そして高3の男なんて考えることは一つしかなくて、この後、キスしたかった。上映中に出来るか?いやさすがに早すぎるだろ、色々な小さな僕が脳内で大戦争を起こしていた。

でもそんな勇気や経験値は、そのときの僕には全く無く、時間はあっという間に過ぎてしまった。

彼女は何も無かったように「次はカラオケいこ!」と言ってどんどん歩いて行く。その後を少し前かがみの僕がついていく。

カラオケボックスに入るとランチ付の学割セットを頼んで、食べて歌ってそれだけで大した話も出来ず、もちろん念願のキスも出来なかった。せっかくの二人きりの個室が全くもってもったいなかった。でも、最高に可愛い女の子と二人きりでカラオケなんて、それだけでも本当に幸せで僕は大大大満足だった。

でも、楽しいほど時間は残酷なほど早く経った。3時間コースのはずが僕の体内時計では3分しか経過していない。

あっという間に夕方が近づいて、まだ高校生だった僕たちには門限という厳しい掟があった。二人でまた市バスに乗って帰らざるを得ない。

本当に寂しいし、ずっと一緒にいたいし、本当ならこのまま持って帰りたい。でもそんなことは高校生の僕には当然無理だった。

バスの中では、また彼女が何も言わずにそっと手をつないでくれたが、僕はドキドキし過ぎて一言も話すことも出来なかったし、彼女もずっと黙っていた。二人は手をつないだままバスの前方を見つめていた。

彼女は僕よりも二つ前のバス停だった。バス停に着いてしまった。

「小田島君、今日はありがとう。」

そう言って彼女は立ち上がった。ありがとう、と僕が言おうとしたそのとき。

本当に突然に、彼女は僕にキスをした。

そして何も言わずにバスを降りていった。

バスの外から僕を見つめる彼女に、僕は大きく手を振った。そんな僕を彼女は笑顔のような、泣き顔の様な顔で見つめていた。


その日の夜、彼女に電話をしようとして携帯番号を聞いていなかったことに気付いた。それだけ緊張していた自分が情けなさ過ぎるし、自分のバカさ加減に怒りを覚える。思いっきり自分の顔を殴ったらマジで意識を無くしかけたほどだ。「月曜日には会えるし」と自分を慰めるしかなかった。

でも。顔はずっとにやけていた。何しろキスしたってことはもう僕の彼女だから。だよね?


月曜日。普段なら起きてもいないくらいの相当に早い時間に登校してしまい、もちろん教室には誰もいなかったが、これからのバラ色の高校生活を夢見た。とりあえず次の休みはどこに行こうか?とか、僕の家にも遊びに来たりして、親から冷やかされながら、部屋でキスしたりなんかして。そのうちクラスメートには言わなきゃな。「あ、こいつ俺の彼女だから」とかを想像している僕は、本当に気持ち悪い顔をしていたと思う。

時間が過ぎ、同級生たちが次々と教室に入ってくる。僕の鼓動もどんどん上がっていく。


あれ?

いつも早めに来る彼女が今日は20分前になっても、10分前になっても来ていない。5分前。あれ?もう授業始まっちゃうよ。


そしてホームルームが始まる時間になっても僕の前の席は空いたままだった。

朝一番で、担任の先生が言った。

「皆さんにお知らせがあります。阿賀さんはお父様のお仕事の都合で昨日、名古屋に引っ越しされました。皆さんには寂しくなるので言わないでほしい、と言われていました。」


「ドーン!」

昔見た再放送のテレビアニメ「笑ゥせぇるすまん」の決め台詞が目の前に出てきて周囲が暗転して音も何も聞こえない。一昨日のあれが最後って。えっ?どういうこと?

金曜日に一緒に帰ったのは僕だったから、事情を知ってるんじゃないかと思った同級生や明らかな阿賀さんファンからしつこく聞かれたが、当然のように僕は何も知らなかった。知ってたらもっと何か出来たし。こうして僕の初恋はたった1日で終わった。


と普通の人は思うだろう。だって僕には手が届かないに行っちゃったから。高校生にとっての高知と名古屋は果てしなく遠い。ほぼ異世界だ。

でも僕は絶対にあきらめたくなかった。だって僕のファーストデート、ファースト手つなぎ、ファーストキスの相手だぞ!僕は絶対に終わらせないと固く固く自分に誓った。俺の初恋を舐めるなよ!


まず彼女の近くにいかないと話にならない。僕が名古屋に行こう。名古屋の大学に進学しよう。

彼女はかなり頭が良かった。国公立志望とも誰かが言っていた気がする。そして文系の科目が好きだった。進路指導室に行ってすぐに調べると、さすがに都会は国公立だけでもたくさんある。でも文系で偏差値が高い、というとN大学かNI大学、そしてAK大学になるだろう。その中で、名古屋市内はN大とNI大、AK大は名古屋市じゃない。この2校としてみていいのか?うーん、わからない。

よし、彼女は本命N大の文学部ですべり止めがNI大の人文学部と決め打ちにしてみよう。他の可能性も無いでは無いが、これ以上考えていても、そもそもたいした根拠が無いから仕方ない。

N大とNI大に入ろう!と単純な僕は思いこんだ。しかし現在の僕の偏差値を考えると到底不可能だ。両親にこの大学への進学すると言うと「はいはい。受かったらいいよ」と軽く言われた。もちろん合格するとは確実に思っていないし、先生もクラスメートもあきれた顔で見ていた。でも「愛に不可能は無い」はずだ。僕の初恋を舐めるなよ。

母親に土下座してすぐに塾に通い始めた。学力を試す試験結果を見た塾の先生の顔色で目指す頂の高さがわかった。しかし、そんなことには僕は動じない。それがどうした。僕は寝ずに勉強するし、全ての時間を勉強に使うことにする覚悟が出来ていた。


N大文学部とNI大人文学部を受験することを進路指導の先生に伝えると、笑いもせずに真顔で「絶対に無理。もうちょっとランクを下げなさい。」とも言われたがかたくなに断った。それ以外は受けないと断固として言うと、あまりの迫力に先生もあきらめたのか「好きにしなさい」と言って参考になりそうな本を見繕ってくれた。


それからというもの朝も昼も夜も休みも何もなく、先生にもらった参考書、塾で出された課題。本屋で買った過去問集などなどを毎日毎日、まさに朝から朝まで勉強した。寝そうになるとパーティーグッズのビリビリマシーンを押し当てた。それでも効かなくなると父親が使っていた高周波治療器プロ仕様をパワーMAXで使うと瞬間的には強烈に目が覚めた。手の甲や太ももはあっという間にボールペンでつけた傷だらけになった。

通学は自転車だと勉強出来ないので参考書を読みながら歩いて通った。おかげで二度ほど用水路にも落ちたが気にもしなかった。休みの日は風呂にも入らずに自分の部屋から一歩も出なかった。食事だけを勉強机の横に置いてもらって、脳を動かすための燃料として体内に取り込んでいった。普通はお腹いっぱいになると眠くなるらしいが、僕の体質は違っていたようで、むしろ食べていると脳が活性化しているような気がした。食べては勉強。勉強しては食べ。脳をひたすらに動かし続けていった。

学校の授業は目指すレベルが違っていたのでほとんど聞かずに自習をしていた。体育は先生に土下座して休ませてもらった。とにかく僕のやばいくらいの熱意は同級生にも先生にも、家族にも伝わっていた。

クラスでもあまりにも僕の無謀な挑戦の志望大学や学部はあっという間に広まっていたが、僕はその理由を誰にも言わなかった。でも何人かの同級生は「阿賀さんが名古屋にいるもんね」と言っていたし、聞かれたこともあった。でも僕はそれに肯定も否定もしなかった。そんな噂にかまっている暇は全然無かったからだ。

僕はその半年間、どこの座禅している人よりも動かず、どこの受験生よりも寝ずに、ただひたすらに勉強した。世間では夏が過ぎ、秋になり、そして冬がきて、遂に受験の時期になった。受験が近づくと家でも学校でも誰一人話しかけてこなかった。もちろんそれは話しかけるなオーラが全身を覆っていたからだった。

僕は宣言どおり2校、2学部しか受けていない。受験失敗も全く考えていない。絶対に受かるという確認しかなかった。


受験が終わると数日間はまさに死んだように寝た。

そして遂に発表の日となった。


ネットで合格発表は出る。

合格発表のその日。僕は担任の先生のパソコンでそれを見ることになっていた。先生がスクロールする画面をまさに祈る気持ちで見ていく。合格発表者というアイコンを更にクリック。出てくる合格者の番号をまた少しずつスクロールしていく。


無い。

N大は不合格だった。

僕はあまりの絶望に本当に、本当に死にそうになった。それに気づいた周囲の先生は誰一人声をかけてこなかった。

NI大が受からなければ僕はもう終わりだ。


あっという間にNI大の発表の日がやってきた。また同じ先生のパソコンで見ることにしていた。画面を覗き込む先生も死ぬほど緊張している。

僕は画面を見ることも出来ずにいた。

ドンっと背中を強く叩かれてむせる。先生が叫ぶ。

「おい!小田島!お前、合格だぞ、やったぞ。遂にやったな。よくやった!みんな小田島がNI大に合格したぞ。万歳だ、万歳。せーの、バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ。」

職員室の先生全員が万歳をしてくれる。

教室に戻っても先生がまた同じ報告をしてクラスのみんなも万歳をしてくれる。

僕はわき目もふらずに勉強だけしてきて、正直、この半年はクラスメートと話したことすらほとんど無かったのに。こんな僕に。

「ありがとう。・・・ございます。」

声にもならないような声を絞り出すのが限界だった。涙が出た。


家に帰り合格を報告するとその日の夜は高そうな肉のすき焼きだった。父も母もこれぞ上機嫌という笑顔だった。

僕はまだスタートラインに立っただけなのに。先生、クラスのみんな。親。僕は自分のことしか考えていなかったのに。素直に嬉しくかった。僕は自分だけのことを考えてやってきただけなのに。ごめんなさい。


自分の部屋に入って少し落ち着いて考えてみた。

ここからの選択肢は二つある。一つは浪人してもう一度N大を受けるか、それともまずはNI大に行って同じ大学なら良しだし、いなければ名古屋で阿賀さんを探すか、だ。

冷静に考えてみよう。そう、答えは決まっている。まずはNI大に入ろう。そして名古屋で阿賀さんを探そう。もしかして、阿賀さんもNI大にいる可能性だってある。僕の方針は決まった。さあ、すぐに動き出そう。


まずは一人暮らしのアパートを決めることにした。大きな部屋じゃなくていいからお洒落な部屋、出来れば新しい部屋がいい。もちろん2階以上だ。阿賀さんに来てもらうための部屋ということは、小さくてもキッチンは必要だ。

とにかく探しに探して、いくつかをピックアップすると僕は母と一緒に名古屋に行って見学の上、アパートを決めた。

そのアパートは、NI大とN大のちょうど中間くらいにあった。建物は3階建てでまだ新しく、きれいな部屋だった。勝手に妄想が膨らみまくる。なんてスケベなんだ、僕って。


高校の卒業式の次の日には高知を出て名古屋に向かった。両親が初日だけ一緒にいたが、そのまま二人でディズニーランドに行くと言ってあっという間にいなくなった。僕は次の日から早速、会えるわけもないのに毎日のようにN大の周囲を歩いていたが、当然のように会えるはずも無かった。


少し残念な気持ちのままNI大の入学式の日。初めてNI大に行く日になった。僕たちのオリエンテーションをする講堂にはかなりの数の新入生が集まっていた。


講堂に入った瞬間だった。

ロングでストレートの少し茶色がかった髪の毛は変わらない。でも少し大人びた気がして、高校のときよりも何倍も、いや何千倍もきれいになっていた。服装も大学生らしい、そして春らしいワンピースを着ていた。阿賀さん。あれから1年も経っていないのに。本当に綺麗だ。

何も考えられず周囲も見えなくなった。音も聞こえない。光輝く空間の中で彼女と僕だけがいた。

僕が一歩足を進めただけで彼女も気がついた。目と目が合った。


あれ?

目をそらされた。僕を見ていたわけじゃなかったらしい。そして彼女のすぐ隣にはかなり密着して笑顔で話す、何か、妙に、不必要に、格好つけた、でも世間的にはおそらく男前なやつが立っていた。


僕の周囲は真っ暗になった。イメージ的には滅多打ちされたボクサーがコーナーの椅子に座ってうなだれて、燃え尽きて灰になった感じを想像してくれればわかるだろう。

もう立てないよ僕。


意識を戻したときにはオリエンテーション会場は夕方の日差しが入ってきていて、室内には僕と掃除のおばさんしかいなかった。とぼとぼと人気の少なくなったキャンパス内を歩き、電車に乗ってアパートに帰る。

僕が借りた広くはない1ルーム。今日彼女が来てもいいように完全にきれいにしていたゴミ一つ無い部屋。しかも自分の中では限界までお洒落にしたつもりだ。今まで貯めに貯めたお年玉を全てつぎ込んで。

白い壁紙の室内にはお洒落なガラスの丸いテーブルに、お洒落な白い椅子を2脚。壁にはなんとなくお洒落な壁掛けまで掛けていた。コーヒーカップも二つ。おまけに一緒に見た映画のDVDまで購入してあった。ピンクの歯ブラシまで買ってある。

でも、こんな状況では散らかっていた方が、心が安らいだかもしれない。

殴られまくってノックアウトされた状態が続いたが、若いというのは残酷なもので、腹も減るし眠くもなる。晩飯にカップラーメンを3個まとめて一気に食べると翌日の朝までしっかり寝てしまった。

「さあ、どうする。」

彼女を諦めるのか、それともあの男から奪うのか?いやいや、そもそも隣の男が彼氏じゃない可能性も十分あるんじゃないか?いや、やはり彼氏だろう。あの視線の合わせ方は彼氏以外にあり得ない。じゃないとあんな表情する訳が無い。と自分で推理してまたまた落ち込んだ。

諦めるべきか?おそらくもう大人の関係で、エロサイトで見た、あんな事や、こんな事もやっているのか?いやいやいや彼女に限ってそんなはずはない。いやしかし、最初で最後のデートでキスしてきた積極的な子だぞ。

更に落ち込んでまたムダに1日を過ごしてしまった。


でも学部のオリエンテーションが一緒になったということは間違いなく同じ学部のはずで、同じ授業になる可能性も高いはずだ。さあ、今度こそどうする?

悩んだ挙句、まずは偶然を装って出会うことにした。そして、その機会はすぐ翌日にやってきた。授業に行くと、なんと彼女の隣の席が空いていたのだ。

「おお奇跡!」感謝をこめてさりげなく挨拶してみる。もしかすると彼女は懐かしさのあまり、僕にキスしてくるかもしれない。


緊張で口から何か色々な物がでそうなところを、グっと胃の中に戻して声をかけた。

「こんにちは。隣いいですか?」

「あ、はい。どうぞ。」

会話が終わった。

あれ?僕の顔も見たはずだけど気が付かない。どうして?何故?僕は1日だけの遊びだったのか?僕の燃えるような青春の一日は?そして懸命に努力した受験勉強の日々は何だったんだ?

また周囲が真っ暗になって僕は自問自答する。

何故?さすがにたった1年足らず前のキスした男の顔もわからないのか?ありえなくないか?


その時ふと教室の窓ガラスに映った自分の姿を見て気がついた。

僕はキスした時から猛烈に太っていた。ガリガリに近かった高校生のあの頃。たしか50kgくらい。それが今では立派なデブだ。そうか、見る影もない。全然、別人なんだ。気が付かなかったんだ。それしかない。僕はまた俄然、勇気が出た。


僕は偏差値40台から難関国公立大に合格した男で、やれば出来る男だ。

学生課に行って体調不良を申し出て1ヵ月だけ休ませてもらう事にした。1ヵ月だけならその後で取り返せるだろう。

すぐにその日からダイエットに励むことにした。まず体重を計る。なんと80.5kg。30kgは痩せないといけない計算だ。食べるものは鶏のササミと味無しの野菜だけ。そして大量の水。死ぬ気でやれば必ず出来る。彼女のためなら何でも出来る。夜お腹が減って寝られないなんて、この恋のためなら苦にもならない。水を飲み、朝、昼、晩とひたすら走った。

早朝に起きて走る。そのまま昼まで走り続ける。帰ると水の入った2ℓのペットボトルを両手に持ってダンベルトレーニング。ササミと野菜を食べて水を飲む。今度は腹筋。昼からまた走る。夕方まで走るとササミと野菜。そしてスクワット。汗をかくと長時間風呂に入って更に汗を絞り出す。ボクサーでもここまでしないだろう、というほどやった。

ある日、夜中に目が覚めると冷蔵庫を開けて鶏のササミを生でかじっている自分に気がついた。あすからはその日の分しか入れておかないようにしなくては。

1週間、2週間、3週間が経ち、そして1ヵ月が経った。

地獄のダイエットで僕は30kg痩せた。死ぬかと思ったけど愛の力が勝った。


さあ、もう一度だ。ほとんどの洋服を買いなおし、僕は学校に向かった。

彼女のいる教室を探すこと2日。やっと見つけて僕は前と同じように、深呼吸をして隣に席を取った。

「こんにちは。」

「あ。はい。こんにちは。」

「え?もしかして阿賀さん?小田島だよ。えー。こんなところで会うなんて奇跡だね。」

僕は、お腹が空きすぎて寝られなかったダイエット期間中にずっと考えてきた渾身のセリフを彼女にぶつけた。

しかし。

「ほんとそうだね。久しぶりだね。元気そうで良かった。」

と言って彼女は微妙な顔をした後に、身体を先生に向けて座りなおして授業を聞く態勢に入った。

授業が終わって彼女は片づけをしていた。その後、一瞬だけ僕を見て「うーん。じゃあ。」と言って逃げるように教室から出ていった。


おいおいおい。僕とのキスは何だったんだ。挨拶みたいなもんか?それとも思い出したくもない黒歴史なのか?またまた周囲は真っ暗になった。


僕はうなだれたまま、まさにトボトボとアパートに帰って僕と彼女のためにそろえた椅子に座った。一体なんだったんだろう。僕の半年間は。

好きで好きで仕方がなくて、死ぬ気で勉強して名古屋まで来た。会ったら会ったで、太り過ぎてて気づかれなかった。痩せたら痩せたで、「うーん。じゃあ。」だけだった。

昔、中学かそこらで習った「国破れて山河在り」が意味不明に思い出される。もう何もする気が起きない。思えば彼女と手をつないで、キスすることだけを夢見て頑張り続けた半年間だった。

僕は何のために頑張ってきたんだろう。


翌日。悲しいかな同じように太陽は登り、夜は明けた。一睡も出来なかったが、もはやクセになっている走り始める時間だった。

せっかく学費を払って名古屋で一人暮らしまでさせてもらっている以上、卒業と就職くらいは僕の義務だった。シャワーを浴びて、まさに泣く泣く学校に通うことにした。

この状況で同じ学部はなかなか辛い。教室でそれとなく見ていると彼女の周囲には男女を問わずたくさんの友達がいるようだった。それにひきかえ学校にも来ていなかった僕の周囲の席は円を描くように空いている。もちろん話しかける友達の一人もいなかった。絶望感しかなくて、やる気も全然起きない。相談する相手もいない。いったいどうすりゃいいんだ。

僕の計画では今頃、とっくにこの部屋で一緒に「あーん」とかしながらご飯を食べてるはずだったのに。


何かしなきゃ。

気分転換にでもなれば、と思って学校からの帰り道で見かけたカフェに貼られていた求人ポスターを見て店の人に声をかけてみた。そこそこ若そうな女性オーナーはすごく話しかけやすい人だったし、スタッフも大学生のような人たちだった。

その日のうちに採用が決まり翌日からアルバイトが始まった。高校1年から2年まではマックでやってたので接客は嫌いじゃない。


僕よりも少し先にバイトに入った山口さんはよく笑う笑顔が可愛い女の子で、同い年の大学1年生だった。バイトを始めてすぐに歓迎会をオーナーが開いてくれたときに話してみても本当にいい子だった。よく気がついて、お客さんにもファンが多い。そのうちに僕に好意を持ってくれていることもなんとなく感じた。こんな僕に優しくしてくれる自体がすごく嬉しかった。普通だったら絶対に好きになる。

でも。僕は阿賀さんのことをまだ忘れられなかった。


バイトと学校、そして誰もいないきれいなアパートを回るだけの学生生活だった。誰に対しても曖昧な返事をしている僕。わかりにくく、でも確実に他人と距離を置いている自分でわかって自己嫌悪になる。

中でも授業は憂鬱だった。同じ教室にはほぼ必ず阿賀さんがいた。彼女の顔を、後姿を見るだけで胸が締め付けられる。そのたびに僕の心にはいつも小さなさざ波が立つ。小さな波だけど、ヤスリのように僕の心を痛めつけて削っていく波だった。見てはいけないのに、視界の隅にはいつも彼女がいた。いつもきれいな彼女が。


このままじゃダメだ。

夏が近づいてきてさすがに僕も思い始めた。

そもそも告白なんて出来る状態じゃないけど、せめてお礼を言いたい。

そう、今から思えば狂ったように勉強できて、以前の自分では入れないような大学に入れたのも、ブクブクに太った身体をダイエット出来たのも全部彼女のおかげだし。彼女がいたから頑張れた。

そしてそれ以上に聞きたいこともある。

あの時、僕にキスしたのはなんで?って。

2年生からは専門教科に進む。後期の授業が始まるまでにきちんと決めなきゃ。気持ち悪いと思われてもいいからちゃんと話してみよう。きちんと話してきちんと切り替えよう。彼女の専攻を聞いて、それと接点が出来る限り無い専攻にすればもう迷惑は掛けなくて済むだろうし。僕も目で彼女を追わなくて済む。

色々な壁を乗り越えた僕にはそのくらいの勇気はあると、自分を信じたい。


と言っても眠れなかった次の日、意を決して朝一番の授業の教室で彼女を見つけて声をかけた。

「ごめんね。話があるんだけど少しだけ時間取れない?」

彼女は少しだけビクッとして答えた。

「うん、この授業の後でいい?」

授業で先生が何を言っていたか全く記憶に無い。


授業の後、学内のベンチがあって少し静かな場所を探してあった。僕の数歩後を歩く彼女の足音が重いのがわかる。

少し大きめのベンチに二人で座った。隣に並んで座るのはあのバスの時以来だった。二人の間のほんの少しの距離が果てしなく遠い。身体が震えているのが自分でわかる。情けないけど止まらない。

でも話さなきゃ。

「高校のとき、映画を見に行った日のこと覚えてる?」

「覚えてるよ。」

「どうして何も言わずに次の日に引っ越しちゃったの?」

「言うと行きたくなくなっちゃうから。」

「じゃあ、どうしてキスしたの?」

「小田島君が好きだったからだよ。」

好き、だった。か。

心臓が一瞬止まった。そしてまた動き出す。口から心臓も何もかもが出てしまいそうだ。でも僕は言わなくちゃいけない。俺、頑張れ!

「阿賀さん。これから話すことを聞いたら多分、君は僕のことを気持ち悪いと思うと思う。でも君が転校してからのことを少しだけ話してもいい?」

阿賀さんは俯いたまま答えた。

「うん。」

「君が突然いなくなって、僕の周りは何も無くなっちゃったんだ。何を食べても美味しくないし、何をしても楽しくない。あの日から僕には君しか見えなくなったんだ。だからどうしても君に会いたくて、どうしたらいいかと思ったときに、名古屋のN大かNI大に行けば、きっと会えるんじゃないかと思って必死に勉強したんだ。N大は落ちちゃったけど、ここに受かって、そうしたら君に会えた。本当に奇跡だと思ったよ。これは運命だって。勇気を奮って最初に声を掛けたら気付かれなくて、デブになってたから気付かれなかったんだと思って必死に痩せた。そして、もう一度声を掛けたら君は昔のことはあんまり覚えていないみたいだった。やっぱりオリエンテーションのときにいた隣の男と付き合ってたんだろうなって。すごく落ち込んだよ。でもね。だいぶ時間がかかったけど、ダメなことはわかってても、絶対にきちんと一度は告白しないといけないと思った。やっとだけど。」


僕はベンチから立ち上がって、肺が据える限りの空気を吸って一気に話した。

「阿賀さん。僕は君が大好きでした。恥ずかしいけどキスしてもらってから君のことを忘れた日は一日も無いです。遅くなったけど、こうやって君に会えて、告白出来て良かった。本当に良かった。君が僕を忘れてても構わない。僕が君を好きだったということは変わらないから。これまで頑張って勉強したり、大学に受かったり、ダイエットが出来たのも全部君がいたからだよ。本当にありがとう。2年生からは授業もかぶらないようにするから。もう声も掛けないから安心して。今まで本当にありがとう。」

言い終わって僕はなんだかとてもいい気持ちだった。すっきりした。


でも、彼女は逆に怒った目つきで僕を睨んでいた。

「大好きでした?」

「えっ?」

「今まで本当にありがとう?」

「えっ?えっ?」


今度は阿賀さんが思いっきり息を吸い込んで話し始めた。

「いい?小田島君。私はね、オリエンテーションで最初に目が合ったときから小田島君だってわかってたよ。高校の同級生のヒロミって覚えてる?有田博美。私が引っ越した後にヒロミから連絡があって、小田島君が私に会うためにN大の文学部とNI大の人文学部に入ろうとして必死に勉強してるって。なんか寝ずに勉強してるって。体育の授業も休んで勉強ばっかしてるからブクブク太ってるって教えてくれたよ。私はね。本当に嬉しかったの。だから、私も同じ大学の同じ学部を受けることにしたの。そうすればきっと会えるって信じてたから。小田島君なら絶対に名古屋に来てくれるって思ったから。小田島君がNI大の方に受かったっていうのをヒロミから聞いたから私もここに進学したの。じゃないと会えないよ普通。名古屋にどんだけ大学があると思ってるの?オリエンテーションの日、私は小田島君が来るのをずっと待ってたんだよ。だから小田島君が入ってきたときにすぐにわかった。あ、小田島君だって。でも目が合ったと思ったらすぐにそらされたから「あれっ?」って思った。隣の男?誰それ?入学式の最初の日に知り合いなんている訳ないじゃない。バカみたい。小田島君が最初に隣に座ったときもドキドキして勝手にこの後、どこに行こうか?なんて考えてたんだよ。けど誘ってもくれなかったし、突然いなくなっちゃうし。」

「そしたら急に1ヶ月もいなくなって本当に心配したんだよ。どこの教室にもいないし。連絡先もわかんないからすごく探した。ヒロミにも小田島君の携帯番号調べてもらったけど、小田島君は勉強してばっかで友達付き合いもしてなかったでしょ。だからクラスの誰も知らないってなって。そしたら一月後にまた突然現れて、めちゃくちゃ痩せてたからダイエットしてたんだってすぐにわかったよ。でもものすごく顔色も悪いし、目つきも怖かった。正直、私もなんて言っていいかわかんないし困ってたら、もう話しかけてもくれなくなった。私は私ですっごく悩んでたんだよ。」

「高3の時、初めて小田島君と同じクラスになって、少しずつ話すようになって、私はすぐにわかったよ。貴方が本当に優しい人だって。いつも一生懸命な人だって。自分よりも周囲の人を大切にする人だって。だから好きになったの。でもね。引っ越しが決まってたから私の中の思い出だけにしておこうかってすっごく悩んだ。でも、でもね。勇気を出さないと本当に後悔するって思ったから。だから最後にデートに誘ったの。」

「私がキスしたのだって、もうこれで二度と会えないと思ったからだよ。死ぬほど緊張したけど、絶対に最初は小田島君じゃなきゃ嫌だって思ってたからだよ!」


彼女の目から涙が一筋だけ流れ落ちた。

「小田島君。遅いよ。もう。遅いよ。バカ。」

そう言ってうなだれる彼女に僕は一言しか言えなかった。

「ごめんなさい。」

僕は自分一人で勘違いして勝手に空回ってドタバタしていたことにやっと気づいた。涙が勝手にボロボロとこぼれてしまう。

「ごめんね。もう遅いよね。誰かと付き合ってるよね。そりゃそうだよね。」

僕は自分のバカさ加減が本当に悲しくなった。すぐに告白しにいけば良かったんだ。僕は一番大切な人を自分から離してしまったんだ。死にたくなる。


彼女は眉間にしわを大きく刻んで怒った顔をして、そして笑った。

「遅いからバツとして今から次の授業をサボってカラオケか映画に行きたい。割り勘で。」

「え?」

「ほんとにもう。」

「え?え?どういうこと?」

彼女はやれやれといった感じで大きくため息をついた。

「私も小田島君のことが好き。ずっと好き。大好き。小田島君が告白してくれるのをずっと、ずーっと待ってた。だから遅い!めちゃくちゃ遅い!太ってても、痩せてても、私はどっちでもよかった。とにかく遅い!待ちくたびれた。」

と言って彼女は怒りながら笑った。僕はまた涙が出てきて止まらない。ベンチに座り直して少しだけ近づいて彼女の手をそっと握った。

「やっと自分から手をつないでくれたね。」

そう言った彼女の笑顔で、僕の半径10メートル、いや世界中がバラ色に輝いた。

「阿賀さん僕と結婚してください。」

「バカ。早すぎる。」

二人の笑い声が止まると、それまで鳴いていた鳥の声も聞こえなくなった。

そして僕は彼女にキスをした。

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