「動物の知性化」「クローン」
◇◆◇
真っ白な床と天井が地平線まで続いている。夢を具現化するための空間というものがあるとしたら、こんな感じだろう。しかし、何もないわけじゃない。少なくとも自分がいて、自分と相対するものがそこにいる。
目の前にいるのは、仕事動物だ。
仕事動物とは、様々なプロセスや利害や人間関係を内包した高度な仕事が長い塩漬け期間を経て知性を獲得し、独自の生態系を持つ動物と化した仕事のことである。
紙束の体をしならせてペラペラとめくり声を上げる眼前の仕事動物は、伏して獲物を待つ押印処理タイプのようだった。
危険な仕事動物だ。サラリーマンとして、自分はこの仕事動物を見て見ぬふりすることはできない。なぜなら自分は、サラリーマンの中でも高い仕事動物処理能力を見込まれた、管理職サラリーマン。その矜持を胸に抱き、右手にペンを、左手に課長印の盾を握り直した。
「くそっ!」
仕事動物は強い。単純に押印すればいいわけではない。仕事にはミスがあり、思い違いがあり、意図せぬ瑕疵がある。それらを見つけ、指摘し、修正して初めて押印することができる。そこまでしないと、仕事動物というものは倒すことができない。
そして何より厄介なのは。
「対処しきれない……!」
数が多いこと。
一匹の仕事動物のミスを見つけようとペンを走らせている間に、次の仕事動物がやってくる。それらのミスを見つけて修正までしようとすると、倒さなければならないタスクは指数関数の如く増え続け、到底数え切れるものではなくなってしまう。普段であれば諦めて次の日に回すところであるが、あいにく今日は逃げ場がない。何もない空間に、退路らしいものは見当たらないのだ。
「シンチョクハドウナッテイルルルルルルッ!」
「大人しくしろっ、このっ!」
暴れまわる仕事動物。力づくで抑えながら、ミスしている箇所にペンで修正を書き加えていく。
「業者の納品遅れが理由による期間延長。当社タスク自体に遅れはなし!」
「タスクリストヲミセロォォオォォオ」
「いい加減に–––」
課長印盾を大きく振りかぶる。
「しろっ!」
仕事動物の尻のあたりに設けらていた押印欄に盾を叩きつけると、課長印の朱がくっきりと書き込まれた。
「……ゴクロウ」
管理職の確認印が押されると、仕事動物は途端に大人しくなった。
「ふぅ」
安堵したのもつかの間、すぐに次の仕事動物はやってくる。
「シンチョクカンリィィィィ」
「ノルママママッママ」
「カクニンオネガイシマース」
これ以上はキャパオーバーだ。仕事動物に食い殺されるかもしれない。そう考えた時、突然目の前に人影が立ち現れた。
「この程度のタスクに手間取るな」
人影は目にも留まらぬ速さで移動し、目前に迫っていた仕事動物三体をあっという間に処理してしまった。
「修正点など上書きしてしまえば早い。よく覚えておけ」
「ぶ、部長!」
そこにいたのは直属の上司である部長。いや、部長ではない。その人物は、右手に部長印を、左手に修正液を持っている。確かに似ているが、部長は右利きだったはずだ。部長以外に修正液を使う人物がいるとは思わなかった。
「あなたは……?」
「私はこの辺りの治安を維持している。君にとっては騎士みたいなものだ」
何を言っているのかわからなかったが、とにかくこの騎士のおかげで助かったのは間違いない。
「どんどん行くぞ」
そこからは一方的だった。騎士は修正液を存分に振るい、瞬く間に部長印を押していく。仕事動物の数は着実に減っている。
「よし、この調子で…!」
「いや、待て!」
騎士は突然動きを止めた。
「どうしたのですか?」
「あの仕事動物を見ろ」
騎士が指した先には、一匹の仕事動物がいた。
「グググ……」
その仕事動物は電子的な文字列で出来ており、今すぐにでも読まれたそうにしている未読メールのようだった。一見するとどこにでもいる仕事動物だが、よく見ると息苦しそうにしている。
「グ……モウ、イチド」
何事かを呻いたあと、仕事動物は一層深くうずくまる。
「ヤリナオシッ!」
「なっ……」
「ヤリナオシダッ!」
「ヤリナオセッ!」
次の瞬間、仕事動物は己のクローンを産み出していた。同じ種類、同じ内容、同じタスクが重複しているに過ぎない。
「厄介だな……」
面倒ではあるが、内容が同じなら対処はできる。何の生産性もなく、ただ繰り返すだけのコピペ作業でこなせる、かにみえた。
「ヤリナオシッ!」
「ヤリナオセッ!」
「ヤリナオスノダッ!」
「Please start over.」
「まずい!」
突然、一体のクローン仕事動物が英語を話し始めた。それまで静観していた騎士は、それを聞くや否や慌ててそのクローンの元へと走り出した。
「は?」
「Refaire」
「Wiederholen」
その間にも、仕事動物はどんどんと自らのクローンを増やし続けた。フランス語やドイツ語を発する仕事動物を見て、ようやく事の重大さを理解することができた。
間違いなく、仕事が勝手に多言語化していた。生き残るため、仕事動物はクローンを生み出すだけでなく、別の言語で表すことで処理難易度を跳ね上げようとしているのだ。
「課長、今ならまだ間に合う。急げ!」
立ち尽くすばかりの自分に、騎士が檄を飛ばす。
「急げ、間に合わなくなる。これを使え!」
騎士そう言うと、手にしていた修正液を投げ渡した。
キャッチして即座に液を飛ばす。狙うは多言語化クローン仕事動物の一ページ目。
どこでもいい、文字の上を狙う。
「修正!」
次。
「修正!」
次!
「修正!」
次!!
そして、その修正液の上にペンでこう書くのだ。
「日本語で書けっ!」
仕事動物たちはうめき声をあげ、瞬く間に勢いを失っていく。
「いいぞ、どんどんやっちまえ!」
「はい!」
この調子なら昇進は近い。仕事動物を次々と屠りながらそんな考えが頭をよぎった。
◇◆◇
深夜一時の真っ暗なオフィス。一箇所だけ付けた蛍光灯に自席のデスクが照らされている。
「ん……」
目の前には、うず高く積まれた承認印待ちの書類、溜まりに溜まったメール。
パソコンの隣には冷めきったコーヒーが置かれていた。
「んむ……」
ぼんやりした頭がだんだん明瞭になっていく。そういえば、唸るほどある仕事に辟易し、休憩のつもりでコーヒーを入れたのだった。入れたはいいものの、いつの間にかうたた寝してしまったようだ。
最悪だ。仕事は何も片付いていない。
「あれ?」
ところが、どの書類も一度はめくられた跡が残っていた。メールも未読が溜まっていたはずだが、すべて開封済みの表示になっていた。そればかりか、書類にはすべて押印が押されており、メールは返信が終わっていた。
「仕事、終わってる……んん?」
変な夢を見た覚えはある。動物となった仕事をやっつける、変な夢。
そういえば、夢の中で騎士を名乗る部長に似た変な奴がいた気がする。
「いや、もういいか。帰ろう」
ひとつ伸びをして、席を立つ。
……部長の修正液は辞めさせたほうがいいかもしれない。
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