「生命倫理」「バイオハザード」
「それでは、世界亜生命倫理宣言をここに公布します」
私の宣言と共に、会場は拍手に包まれた。
千人収容の議場を埋め尽くす各国高官たちが、皆一様に起立して、こちらに笑顔を向けている。
無事、宣言は公布された。
もちろん満場一致とはいっていない。なかには立ち上がらず憮然とした顔で腕組みする者も散見されるが、そういった人間がいるのも仕方のないことだろう。それでも私は、世界中からの同意が得られたかのように発言しなければならない。
「本日をもって、屍人、あるいはゾンビと呼ばれる全ての生命は、私たちと何ら遜色ない基本的な権利を有することが保証されました。これが、世界に新たな平和をもたらすことを期待します」
途絶えることのない拍手を背中に受け、私は議場を後にする。
「議長!」
議場を出てすぐの廊下は報道陣で埋め尽くされていた。ここは各メディアの待機場所として指定していた場所だ。歴史に残るであろう今日という日を報道するために、彼らも今や遅しと私を待っていたのだろう。
「まずは、世界亜生命倫理宣言の公布、おめでとうございます」
「えぇ、ありがとう」たくさんの録音機が私の口元に向かっている。
私の言葉を一言一句漏らすまいとするこの機械を、私は幾度となく向けられてきた。これだけ口元に近いと必要以上に呼吸音が入ってしまいそうで、どうしても息が浅くなる。正直、苦手な時間だ。
「この度の宣言によって、ゾンビの人権が公に認められることとなりました。ただ、この決定に未だ反対を表明し続ける国もありますが、いかがお考えでしょうか?」
苦手な時間ではあるが、聞かれそうな質問というのはだいたい決まっている。センセーショナルなスキャンダル、些細な問題点、そして決してゼロになることはない少数派の意見について、だ。それなら私は決まった言葉を返せばいい。
「同じ世界に生きる同じ生命が、その在り方によって差別を受けることなどあってはなりません。仰るように反対を表明している国は依然としてありますが、真摯な対話と協力こそが、共に歩む未来を形成する唯一の方法であると信じています。それと、今日からはゾンビではなく、亜人間と呼んであげてください」一言付け加えると、記者はあっ、と気づいたような顔をした。
「ゾンビ、あるいは屍人と呼ばれてきた人たちは、著しい遺伝子の変容によって私たちとは大きく離れた遺伝子構造を持っています。その変容をもたらす原因は感染性が高く、結果として多くの屍人が生まれることになりました。今では、犬や鳥など、人以外にも広く分布しています」
私は記者たちの顔を見て話した。記者たちが持つ録音機を、記者たちが書くであろう記事を、それを読むであろう民衆を見て話した。
「もはや彼らについて、––––単純に数だけを見ても、人類が連綿と解明し続けてきた生命の樹とは別の、もう一つの樹とも言うべき世界ができたと考えるべきです」
もう十分だ。
「きっかけはネガティブなものでしたが、今日の宣言が、亜生命は私たちと同じ自由と権利を有しており、何人もそれを侵害することはできないことを保証するものと確信しています」
私が話すべきことは話した。あとは––––
「それでは執務に行かなければなりませんので。これで失礼します」
私の執務室は地下にある。議場に併設された事務総局本部ビルの最上階を固辞して、わざわざ設えてもらった場所だ。
堅牢な執務室の扉を開くと、テレビがついたままになっている。夕方のニュース番組が流れており、つい今しがた私が宣言してきた世界亜生命倫理について議論が行われているようだった。
だんだんと、カビたような匂いが漂ってくる。
臭いの元を辿っていくと、部屋の隅で蠢く人影に行き着く。地下には窓がない。鍵を閉めれば密室で、逃げ出せる出口もない。
「やったわ、あなた」
だから、こういうことができる。
部屋の隅には、私の夫が生前の見る影もない姿でうずくまっていた。頰はコケて目は落ち窪み、皮膚は血が通っていない色をしている。亜生命、屍人、ゾンビ。どんな呼び方でもいいが、どこをどう見ても人間とは違う存在にしか見えない。
「これであなたの権利が守られる下地が、ようやく出来上がった」
これが今の夫の姿であり、これからの夫の姿だ。
「いいえ、もうあなただけじゃない。私たちの権利になる」
テレビではまだニュースが続いているが、そのままつけっぱなしで構わない。執務室を訪れる誰かが消してくれることだろう。
キャスターが何か口上を述べると、私の顔が映し出された。どこかで行なった記者会見の様子だ。
テレビの中の私は、まっすぐに前を見て記者からの質問に答えている。自分で言うのも何だが、私の目には、決意が籠っているように見えた。
『亜生命に対しては今なお排斥の動きが根強くありますが、私たちから歩み寄る必要があると考えています。私たちはいい加減、次に進むべきなのです』
感染性は極めて高く、噛まれるだけで直ちに変異が起き始める。大した時間もかからず、私も同じ姿になるだろう。夫と同じ姿に。
『私たちのすぐ隣に形成された、新たな生命の樹へと移るときなのです』
私は夫に、自らの腕を差し出した。
<了>
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます