「質量保存の法則」と「エントロピー増大」

 黒板に書かれたチョークの白線よりも、目の前に座る彼のワイシャツの白さのほうが記憶に残る。

 恋のきっかけはもう覚えていないが、一度気になってからというもの、私の思考は雪崩のような速さで彼に占められていった。

 不意に窓を見る横顔。

 プリントを回してくれる手。

 ノートに板書を書き写す背中。

 日が経つ度に気になるところは増えていき、今では彼が次にどんなことをするかなんとなくわかるようになってきた。いまなお、彼を思う気持ちは日増しに膨れ上がり続ける。


 いつの日か、私の中の何かが破裂してしまいそうで、けれどもそれを受け入れてしまいそうで、バカな想像だとわかりながらもそれは怖いくらいに現実味を帯びていた。


 もしも私が風船のように破裂してしまったら、パンパンに込められた気持ちは拡散し、彼に伝わることなどあるだろうか。それとも、破裂した瞬間に雲散霧消し、後に残るわずかな残滓は無指向の塵に過ぎなくなってしまうのだろうか。


 どちらが起きそうかと言えば、私は前者だと思う。

 ある時、物理を教える老齢の先生は「物質は化学反応などによって変化することはあるが、その質量は常に保存される」と言った。正直なんの話かさっぱり分からなかったけれど、常に保存される、という言葉は私の耳によく残った。


 私が彼を好く気持ちに偽りはなく、多少形を変えることはあれど、今も私の中に居続けている。

 私という風船を膨らませるならば、気持ちは質量を持っており、先生が言うようにきっと保存されるに違いない。私を重くし、膨らまし、破裂させようとするなんてこと、ただの妄想や空想なんかにできっこないのだから。

 それならば、私が周囲にまき散らす気持ちという名の質量は、保存されたまま、彼のもとに届くに違いない。


 あ、先生に指された。

 少なくとも、彼の見てる前で破裂することは避けたいかな。

 恥ずかしいから。


【風船】

 <了>


 出典: シナリオのためのSF辞典/森瀬繚/SB Creative

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