手に残るは知らぬ感覚
恐怖で震えそうになる脚を、身体を何とか堪えてアキラは一歩前に出る。左の腰に下げた刀に右手を掛け、警戒をしながら女を観察した。近付いているアキラに気が付いているのか、いないのか。女がちろりとも身動ぎをしようともしない。キュウの温もりを肩に感じながら、アキラは一歩、また一歩と脚を進める。ついぞ、街灯の光が当たる場まで近付いて、脚を街灯の光の中に踏み入れた。瞬間、がばりと女の顔が上げられる。そこで、アキラは気が付いた。女の右手に街灯の柔い光に鈍く反射する刃物がにぎられているということを。通常ならば目に宿っている筈の光は全て失われて、まるで深淵のような暗闇が瞳から覗いている。
「ヒ、っ」
怯えたような声が漏れ出そうになるのを、パッと左手で口を押さえて喉奥に押し込む。少しでも恐れているような感情を妖怪に感じ取られると、妖怪の力を増してしまうことをミツに教わったからである。まだ人間の感情の機敏を上手く察し取ることができないのかもしれない。女は、ゆらりと長い髪を揺らして言葉を放とうとする。女が顔を上げて分かったことだが、顔を見せたくないのか、顔半分を覆ってしまうようなマスクを女は身に付けていた。
「わ、たシ……きレい?」
「え?」
「わたし……きれい?」
ずい、とアキラよりも背丈の大きな女は、己の顔をアキラに近付けて問う。長い髪がアキラの顔の両側に降りかかって、まるでカーテンで覆われたようになってしまう。女にじぃと見つめられ、アキラは心底凍るような心地に陥り、思わず舌を強く噛んだ。
「私、きれい?」
段々、段々と女の口調が流暢なものになっているような気がして一歩、ずり下がる。どうしてか、問われた言葉に返さなければならないという気分になって、アキラは女の顔をじぃと見つめたままに口を開いた。
「き、れい、です」
喉がカラカラに乾く。それ程暑いわけでも、水分を長い時間摂っていないわけでもない。一反木綿の時は見た目のまだ怖くない子供だからこそ、目の前にミツがいたからこそひどい恐怖を感じずに済んでいた。しかし、しかしだ。今アキラが頼ることができるのは肩にいるキュウだけ、それもキュウは危なくなるまでは手を出さないように決めているらしい。
女は、アキラの言葉に一瞬押し黙ったかと思えば刃物を持っていない方の手を己のマスクに伸ばす。そして、ゆぅっくりマスクを取り、その素顔をアキラの前に晒した。
「こ……れで、も……?」
露わにされた顔を目の前に、アキラは思わず息を呑んでしまう。裂けていたのだ、通常ならば有り得ない部位が。まるで、口角を上げてにんまりと笑っているかのように、女の口が裂けているのだ。人間の姿をしていとも、到底健全な人間の姿とは思えない。キュウが言っていた口裂けの名。まさにその通りである容貌に、アキラは二の句を告げることができなかった。裂けた口が痛むのか、紅で唇を彩ることすらままならない様子で女──口裂けは底の見えない瞳でアキラのことをじとりと見る。
「アキラ」
嗜めるような声音のキュウの言葉にハッとする。いつの間にか、呼吸すら忘れていたようでアキラの身体は嫌なほどに汗をかいていた。一つ、二つと瞬きをして再び口裂けを見遣る。そうしとも、口裂けの容姿は少したりとも変わることはなく、今アキラの目の前に在る光景は現実のものだと理解させられた。
「キレイ、綺麗? 私、わ、わた、し……き、れい……?」
壊れたオーディオのように同じ言葉しか口裂けは紡がない。先日の一反木綿はある程度の意思疎通ができていたが、生まれて数百年も経っていない妖怪は、陰陽師と意思疎通すらできないのだろうか。
ふ、と何か嫌な予感がしてアキラは思わず飛び退く。ガンっ、なんて硬いものが地面に当たるような音がして、アキラが血の気の引く思いで音の発生場を見ると、口裂けがふらりとした様子で刃物──大振りの鋏を何度も、何度も半狂乱のように振り下ろしていた。アキラの絶句したような沈黙が気に入らなかったのだろう。綺麗だ、と告げた言葉を虚偽のものだと判断して、口裂けはアキラを目掛けて鋏を振り下ろす。嫌な予感に従って飛び退いてなければ、あの切れ味のあまりに良さそうな鋏の餌食になっていたのだろうと思うと脚が竦みそうになる。しかし、このまま何もできずに居れば死ぬだけだ。アキラは、刀をするりと引き抜いて、振り下ろされる鋏を何とか受け止める。
「ぐ、ぅ……!」
重い。扱い慣れぬ刀も、明確な殺意を持って振り下ろされる鋏も、何もかもが重い。まるで、アキラと口裂けの間だけ重力が違っているようだ。気を抜けば口裂けの雰囲気に圧されてしまいそうな雰囲気の中、アキラは何とか鋏を振り払って刀を構える。
「アキラ! そのまま刀突き刺しちまえ、妖力を吸っちまえば妖怪共に勝機はねェ!」
「ッ……は、い!」
屋根の上から飛んできたミツの声で、なんとか自分を鼓舞して再びアキラの顔を引き裂こうとふらりとままならない動作で鋏を振り上げる口裂けの胴体に、ずぶりと刃を突き刺す。肉を裂くような、そんな嫌な感覚は全くないままに刀はずぶすぶと口裂けの腹部埋め込まれていく。それと同時に、アキラの持つ刀がどんどん重量を増していき、口裂けが鋏を持ち上げる力も、振り下ろす力もなくしたところで当初の二倍程の重さになった。妖力を吸い切ったのか、女はがくりと地面に倒れ伏してその拍子にずるりと刀が抜ける。
「最後まで抜き取ってやれ、そのままでは死にきれん」
「……分かった」
刀は禍々しい黒色の霧を纏っていたが、キュウに促されたアキラが再び口裂けの腹部に刀を刺し込むと、口裂けの身体が灰のように霧散していくのと一緒に霧はなくなり、刀も元の重さに戻った。
口裂けの全てが無に帰した後、アキラは深く、深く溜息を吐く。刀には口裂けの血液も、灰も何も付着していないのだが、どうしても気になってしまってアキラは刀を一振りして、懇切丁寧に鞘にしまい込んだ。
「よくやったな」
「……ミツさん」
屋根の上からひょい、と重さを感じさせぬ音を立てて飛び降り、ミツがアキラの横に立つ。刺した感覚も、引き抜いた感覚も何も残っていないというのに、なぜかアキラの右の手のひらには肉にずぶりと沈み込む、言葉に表せぬまでの不快な感覚がその存在を主張していたのだった。
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