呼び水は静かに誘う
白米や煮物、今まで生きてきた中で見たことはなかったが、どこか懐かしい味のする夕食をお腹いっぱい食べた後、アキラはふかふかの敷き布団の中に潜り込んで目を瞑る。知らないことばかりでとんと疲れていたこともあってか、すぐにアキラの意識は深いところへと落ちていった。
──夢を見る、あまりに静かな、夢を。
夢の中、深く、暗く濁った水の中のような感覚。アキラは、まるで水と一体化しているかのような景色の中、ぼぅっと思考だけを動かしていた。こぽ、こぽと口から幾度も空気が漏れ出ても一向に苦しくなる気配はない。ただ、水のように呼吸をして、水のようにその場に揺蕩っているだけ。ぷかり、ぷぅかりと口から漏れた空気が泡になって、上へ、上へと昇っていく。どうやら、水面の方を向いてアキラはどんどんと沈んでいるようだった。ぱちりと黒曜石を誇る瞳を見開いていても、景色が薄れることはない。水上にあるであろう光を、アキラの瞳はしっかりと捉えていた。一切の波を立てることもなく、凪いでいた水中に、唐突にして水流が起こる。
「……の下……、深く、暗く……青き……が……を待……」
はっきりとした視界の中で、水流を起こしている存在だけがよく見えない。水流に巻き込まれ、水上にある光が見えなくなり、アキラの耳元に囁くような声が届いた。あまりに小さく、途切れ途切れにしか聞こえない言葉はまるで意味を持たない。身体を動かすことも、声を放つこともできないアキラは、思考だけが鮮明なまま、水の中へ巻き込まれていった。
「ッ!?」
がばり、と身体を起こす。深いようで浅い睡眠から意識を覚醒させたアキラは、きょろきょろと辺りを見回して難しい顔をする。何か、変な夢を見た気がするのだ。深い水の中にぐんぐんと沈んでいくような夢。内容はよく覚えていないが、どうにも現実味の酷く残る夢だった。しかし、身体のどこも濡れてはいないし、何か異変があるわけでもない。いつも通りの、少しおかしな夢を見ただけなのだと一人当たりをつけて、アキラの脚の間で眠っていたキュウを布団を捲ることで起こした。
「何をする……」
随分と寝心地が良かったのだろうか。身体を一層丸めて温もりを求めようとしている。それを抱き上げ、アキラは用意された部屋を出てだだっ広い屋敷をきょろりと見渡した。
「居間って、どこだと思う?」
「さぁな。彼奴、説明もせずに放りおって」
昨晩、朝食は居間だと言ったっきりどこかへ行ってしまったハルのせいで、どこに行けば良いのか分からず、部屋の前でどうしようかと逡巡する。
「ご案内致します」
「わ、!?」
アキラのキュウの前に足音も、気配もせずに現れたのは桜。まるで待機していたかのようなタイミングだが、式神なら可能なのだろう、と適当に判断してアキラ達は桜の後ろをついていった。
「起きたか」
「おはようございます、ハルさん」
「あぁ、おはよう」
桜に案内されたのは、大きくて豪壮な装飾が施された障子の前だった。床に膝をついて、がらりと扉を開くと木の板の上に長く大きな机の一番奥の椅子にハルが腰掛けているのが目に入った。
「大きな机ですね」
「本当にな。持て余しているんだ」
ハルに手招かれ、アキラはハルの斜め前にある席に腰を下ろす。キュウはアキラの腕から降りて足元で自慢の毛を繕っていた。
「一人で食事をするのには、少し広すぎる。お前が来て助かった」
「お礼を言うのは、俺の方です」
桜が運んできた食事が、ことりと二人の前に置かれた。アキラが昨日食べた白米と、薄い桃色の焼いた魚、そして色々な具材が入ったスープ──味噌汁というらしい──。先に料理に手をつけたハルの見様見真似に、食前の挨拶をしてみる。焼き魚は魔法界にもあり、白米は昨日食べたためにその美味しさはわかっていれど、味噌汁はまだ未知数のため、おそるおそる口をつけた。
「美味し……」
食道を通って、じんわりと温かいものが胃の中へ落ちていく。少しだけ強い塩味が、白米と丁度よく、焼き魚も相まって白米をスプーンで掬う手が止まらない。ちら、とハルの方を見遣ってみると、なにやら二つの棒を器用に用いて焼き魚を切り分けている。思わず、その様子をじっと見つめていると、ハルが顔を上げた。
「何だ?」
「ぁ、すみません。どうやって食べてるのかなって気になっちゃって……」
「箸か」
「すごい、器用ですね」
「そうでもない。沈丁に住む者は皆これを用いて食事をしている。お前もやがて慣れれば使えるようになるだろう」
「一ヶ月で使えるようになりますかね……?」
「さてな。お前がこれから使える時間はたんまりとある。練習なぞいくらでもできるからな」
ハルの様子を気にしながらも、アキラはほっとする味のする食事を次々と口に運んでいく。食べ終わると、まるでタイミングを見計らったかのように桜が皿の乗ったお盆を下げていった。
「袴は着れたか?」
「一応は。今日も式神に手伝ってもらいましたけど」
着慣れない着物の上に、更に袴を履くとなるとどうしても今は人の手が必要となる。はやく慣れなければ、と思えど構造が複雑なのだ。嫌々毎朝着ていた魔法学校のローブよりは、マシなのだが。
「これを上に羽織れ」
ハルが手渡してきたのは、薄黒の羽織。袖の方にちらりと桜の花弁が描かれているが、無地を基調としている。腕を通してみても、袴と合わないなんてことはなく、寧ろ見事なまでに調和していた。
「これは?」
「陰陽寮では、能力によって色が分けられていてな。最高位が桜色、その下が紫……マ、後で詳しく説明されるだろう。薄黒は新入生を表す色なんだ」
「なるほど、袴だけじゃダメなんですね」
こくり、と頷いて羽織の触り心地を確認していると、桜からご飯を貰っていたキュウがアキラの元にやってきて肩の上に飛び乗る。
「九尾、お前はただの化け狐のフリをしておけ」
「ふん、誰がお前なんぞの命を聞くか」
「困るのはアキラだ」
「公言すると、何か都合の悪いことが起きたりするんですか?」
「奇異の目を少しでも減らすためだ。九尾を従えた陰陽師なぞ、まず存在しないからな」
妖怪を従えるのは推奨されていない。確か、ミツがそう言っていたはずだ。ハルでも妖怪を従えていない。だというのに、ぽっと出の新人が九尾を従えているのは異常に映るのだろう。キュウは、忌々し気な舌打ちを一つした後、自慢の尻尾を、慰めろとでも言うようにアキラの首にぐるりと回したのだった。
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