非日常への足踏み


「ノーマジ! その床の掃除、やっとけよ」

「アンタが零したのに?」

「分かってねぇな、ノーマジの奴も仕事を与えられて嬉しいだろ? 俺、優しいからさ」

「確かにな!」


 ギャラギャラ、ゲラゲラ、と上品さの欠片もない下品な笑い声廊下にが響く。ノーマジと呼ばれた少年は、諦めたような溜息を吐いてから、投げつけられた雑巾を手に取った。ノーマジ、とは少年の名前では無い。魔力が少ない者、または魔力が無い者に対する蔑称である。遥か昔に、外面的な差別を無くすために廃止された言葉だが、完全にその蔑称べっしょうが無くなるわけではない。はっきりとしたカーストが現れる学校内では、その蔑称はどうにも己の地位を示すために手っ取り早いものなのだ。少年──アキラは、面倒臭そうに溜息を吐いて、誰も見ていないことを確認してから足で雑巾を動かし、床を拭う。心底、この学校に入学させた親と先ほどの生徒を恨みながら。

 この学校の入学基準は、魔力があるか否かは関係がない。魔法の筆記試験、というものが存在するのだが、それに合格することによって入学することができるのである。だからこそ、学校に入学して魔力に目覚めるかもしれない、と期待した親がアキラを入学させたのだ。しかし、その結果はそれはもう無惨なものであった。数百年に一人生まれる、と言われる魔力ゼロの存在。アキラはそんな伝説級な確率を引き当ててしまっていたのだ。どれだけ精密な魔力測定器に手を翳してもゼロ、と表示されることにアキラが何度絶望したことか。魔力ゼロのアキラが入学することが出来たのは、筆記の成績が良かったからである。それこそ、トップレベルに。この世界に魔法というものが存在しなければ、アキラは所謂天才と呼ばれる存在に早変わりするのだろう。


「……退学したい」


 魔力有りの生徒達に馬鹿にされた時だって、一度も発さなかった声をぼそりと放つ。ああいうのは、こっちが黙っていればいつか飽きて去っていくというものだ。下手に反抗すれば、すぐさま魔法が飛んでくる。防御の術がないアキラにとって、それは致命的であった。魔法での私闘は禁止されている筈なのだが、教師のいない所では有り得ない程いとも簡単に魔法が放たれる。歴史ある魔法学校だというのに、何とも治安の悪いことだ。

 既に放課後、もう誰も居なくなった廊下の窓をアキラは開け放つ。眩しいくらいの夕日の光と共に、ひゅるりと風が入り込んできてアキラの黒色の髪をはためかせた。この国の人間は殆どがブロンドの髪に青い瞳を持って生まれる、というのに。アキラは黒髪黒目。黒曜石が如く輝きを持っていたとしても、気味悪がられる暗い色。幸い、両親は気にすることなく愛情を注いでくれていたが、魔法学校入学のせいで反抗期に近いアキラは素直に接することができていなかった。一つ、深い溜息を吐くとそれに誘われたかのように窓から何かが飛び込んでくる。


「アキラ、何やってるの?」

「……掃除さ、キュウ」


 入ってきたのは見るからにモフモフの、金色の毛並みを持った狐。キュウ、と呼ばれる狐はアキラの使い魔であった。使い魔、といっても契約をしているわけではない。幼い頃から共にいる為、キュウ本人が使い魔兼友達、だなんて名乗っているのだ。周りの生徒達は妖精のような見た目の使い魔を従えているため、余計に目立つ要因となっているのだが、キュウが悪い訳ではない。アキラの中での唯一の癒しとなっているキュウを抱き締め、アキラはさっさと掃除を終わらせた。





「掃除なんか、断ればいいのに」

「断れないだろ。俺は魔法が使えないから」

「なら、僕を呼べばいいでしょ?」

「キュウを傷付けたくない」

「ちぇ〜」


 家への帰り道。キュウを腕の中に抱きかかえて喋りながら歩く。キュウ確かに魔法が使える。けれども、アキラのせいでキュウを、大切な友人を傷付けたくなかったのだ。黙って、話を聞いていれば去っていくだけの相手なんだから、自分が耐えればいいのだと。不満そうな声を漏らすキュウの背を撫で、その毛並みを楽しむ。毎日毛繕いを欠かさない──というより、キュウが毛繕いを強請ってくる──ために、キュウの毛並みはそれはもう素晴らしいものである。


「ほう、驚いた」


 いつもと何ら変わらない会話を交わしていると、後ろから唐突に声が掛かる。だが、それが己に向けられた物だと思ってもみない為に、その声をスルーしてアキラは足を進める。どうしてか、キュウが威嚇するように毛を逆立ててアキラの背後を見ているものだから、そこでようやっとアキラは足を止めて、後ろを振り返った。


「九尾を使役するか」

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