第35話 『 ご主人様をドキドキさせたいの』
美桜とハンバーグを食べて、そのまま談笑しながらくつろいだ後。
「さて、じゃあ俺洗い物してるから美桜、お風呂入っておいで」
スポンジに泡を含ませ洗い物を手にかけながらそう言った。のだが。
「んー、やだ」
美桜から返ってきた返事がいつもと違う。
あれ? おかしいな、いつもなら『はーい!』って素直に返事して風呂に行くのに。
「美桜? どした?」
「んー、どうもしないんだけどね」
いつもと違う様子に不思議に思い声をかけたのだが、美桜は俺に近づくと俺の後ろに踏み台を置いた。
「ん?」
なんだ?? なんで踏み台??
不可思議な行動に疑問を抱いていると、美桜は何の躊躇いもなく踏み台に乗り、俺の背中にピタリと抱きついてきた。
「美桜、ご主人様に抱きついてたい。抱きついてるから、このまま洗い物してて?」
「え、なに、どした」
なんだろう、この違和感。美桜に抱きつかれるのは日常茶飯事だが……なぜか今日の美桜は、色っぽい。
「……何か理由がないとダメ? それとも、ご主人様は美桜に抱きつかれてたら……ドキドキしたりする?」
俺の背中には美桜の柔らかな膨らみがあたっていて、後ろから囁かれる耳が……くすぐったい。
……え、何? 急にドキドキしてきたんだけど。さっきまで……子供っぽいなと思っていたのに??
「美桜……ご主人様、ドキドキさせたいの。だからこのまま、洗い物してて?」
両手が塞がったままの俺の背中に抱きつく美桜の声は、いつもより甘くて。
「え……っと……」
なんだ、これ。何がどうなった。
俺の心臓が久しぶりにバクバクと音を立てはじめた。この数週間でだいぶ慣れて来たと思っていたのに! 正直、洗い物どころではない。
俺の背中に、美桜の柔らかくて質量のある胸がさらにぎゅうっとあたる。……もしかして、わざと……あててるのか?
「ねぇ、ご主人様。こんなんじゃ、ドキドキしない? 美桜、ご主人様にちゅーしたい。口じゃなかったら、いい?」
「えっ」
返事に困っていると……美桜はその柔らかな唇で、俺の首筋にキスをした。
う……なに、これ、やば……
何がどうなった? 俺、完全に誘われてる?
少し俺の中の何かが消えかけた時、ふと我に返った。
いや、待て。前にもこう言うことがあった。
あの時は確か……
「なあ、美桜、お前……なんか新しいアニメ見始めた?」
「え? なんで分かったの? うん、新しいの始まったの! "今日からお兄ちゃんのおうちに押しかけます!〜妹じゃなくてお嫁さんになりたいの〜” ってアニメでね、ひとりで暮らしてるお兄ちゃんのおうちに妹のゆんたんが一緒に住むためにお引越しするお話。そのゆんたんが可愛いんだー!!」
……またか。やっぱりか。またアニメのマネか。
つまり、美桜は俺を襲うつもりではなく、単純にアニメの真似をして、俺とスキンシップを図ってるだけ……だな。
くそ、最近のアニメは……。ちょっとは俺の事情を汲んでくれ。こんなのリアルでされたら……無理だろ。
誰にも俺の願いは届かないとは思いつつ、そんなことを思う。
「そうか。はいはい。あーもう、可愛い美桜にそんなことされたら、俺もドキドキして洗い物捗らないから。さっさとお風呂入って来て」
あえて淡々とそう言うと、美桜はいたずらっ子みたいな満足げな笑顔を浮かべて
「へへへーっやったあ! ごしゅじんさまドキドキさせる事に成功したっ! じゃあ、美桜、お風呂に入ってきまーす!」
ご機嫌で風呂場へと消えて行った。
……全く……勘弁してくれよ。可愛い美桜に……あんなことされて、ドキドキしないはずがないじゃないか。……キスされた首筋が、熱い。
全く進んでいない洗い物に目をやりながら、はあとため息を吐いて
そして、以前アイスを拭おうと美桜の唇に触れてしまった時の事を思い出す。
美桜の唇は……柔らかくて、艶やかで、ぷっくりと可愛くて……
……そこまで思い出して、ふと、さっき美桜が言った言葉を思い返す。
『美桜、ご主人様にちゅーしたい。口じゃなかったら、いい?』
なに? やけにリアルなその言葉。それもアニメの受け売りか?
『へへへーっやったあ! ごしゅじんさまドキドキさせる事に成功したっ!』
……ただのアニメのマネじゃなくて、俺をドキドキさせたかったのは本心なのか??
……ダメだ。考えるのやめよ。あまり考えると墓穴を掘る。
……俺は、サンにされたキスをまだ忘れられていないのだ。あまりキスのことを考えると……ましてや美桜もしたいのだろうか、などど考えてしまえば、また俺は美桜にキスしたくなってしまう。
……自覚してるんだ。俺、本心では、美桜にキスしたいと思ってるって。そして、眠くなると自制心働かなくなるって。それでも、美桜と寝るのは辞めたくない。
今の関係も、壊したくない。
…………はぁ、洗い物しよ。あ、ついでにキッチンの掃除もしようかな。あ、コンロも掃除するか。
やたらその日は洗い物が捗って、キッチン周りが大掃除なみにキレイになった。
ピカピカになったキッチンに見惚れていると、風呂から上がってパジャマに着替えた美桜が熱った顔をしてキッチンに来た。
「あーお風呂気持ちくて、ちょっとのぼせちゃった。お水欲しい」
……なんなんだよ、全く。風呂上がりのいい匂いを漂わせながら、熱った顔をして少しはだけた胸元をパタパタとしている美桜は、何だか妙に色っぽくて。
「あーあ、もう。ほら、お水飲んで」
淡々と言いつつ……なんだよ、また、ドキドキしてきた。
「えへーごしゅじんさま、ありがとお」
へにゃりと笑いながら俺から水の入ったコップを受け取る美桜は、いつも通り子供っぽくもあって。
はー、ダメだ、好き。
少し心臓が痛むのを自覚しながら、俺は心の中で、この純粋無垢な美少女への想いを再確認するのだった。
「ん、あれ? 美桜、その指、どーした?」
ふと、コップの水を飲む美桜の指先が赤くなっているのが目についた。
「え? あー、なんか指伸びてきちゃって、食べてたら痛くなっちゃったあ」
……普通に考えたら、指なんて伸びないし、自分の指食べてたらそれはとんだカニバリズムだ。
美桜は、"爪” と言う言葉を知らないのだろう。もっと言うと、"爪切り” の存在も知らないのだろうか。
「美桜ー、お前伸びた爪、噛んだんだろ。そんな深爪するまで噛んだらダメじゃないか」
「んー、だって。どーしたらいいのか分かんなかったんだもんー」
「もう、バカ。俺に言えばいいのに」
……気付かなかった俺も悪い。せっかく綺麗な指なのに、血が出て痛々しいのは見ていて心が傷む。
「えへっ、ごめんなさーいっ」
えへっと少し舌を出してイタズラっぽく謝る美桜が、どうしようもなく可愛い。どーしよ、俺、過保護になりそう。
「あーあ。もう、仕方ないなあ。ちょっと噛んでガタガタになってる爪、削って、伸びてる爪は切るかー」
「……んー、美桜、それやだなあ。猫だった時、血が出てしばらくずーっと痛かったんだもん」
珍しく美桜は嫌がった。猫だった時、お手伝いさんが嫌がる美桜の爪を切った時、切ってはいけない部分にまで切りすぎて、血が出た事があるらしい。
そんな痛々しい記憶があるのなら、爪を切ってと言えなかったのも分かる気がする。
「ばか。大事な美桜の爪だから、ちゃんと優しくするから。爪切りしよ」
「……うん。じゃあ、ごしゅじんさま、美桜のつめきり、おねがいします」
美桜は猫耳を垂れさせながら、上目遣いでそう言った。
「ん、じゃあ、爪切るから俺の膝座って」
「はあーい」
美桜はなんの躊躇いもなく、あぐらをかいた俺の膝に座った。
俺の腕の中に、すっぽりと小柄な美桜の身体。
風呂上がりで……いい匂いがする。
「え、ごしゅじんさま?」
俺は美桜の身体を背中から抱きしめた。
「んー? さっきのお返しー。もうちょっとこのまま抱きしめさせて」
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