第25話 『女性の匂い』


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 カタンカタン カタンカタン


 仕事を今日もさっさと終わらせて、俺は帰りの電車の中にいる。職場の最寄り駅はたくさん人が降りるので、帰りは大体いつも座れる。

 

 美桜……今朝様子がいつもと違ったけどどうしたんだろう。やはり風邪ひいたのだろうか。

 連絡取れたらいいのに、美桜をひとり部屋に残してきたから心配だ。


 今日は買い物せずさっさと帰って、美桜の顔見てから夜ご飯考えよ。


 そこまで考え事をしてから、ふと車内の違和感を感じて顔を上げた。


 ……俺の目の前に立つ女性が、困り顔で何かを言いたげだが我慢している様子だ。その女性のすぐ後ろには男性がピッタリとくっついていて、なにやらにやにやとしている。


 ……もしかして、痴漢か? いや、でもここからはハッキリとは見えないし。もしも冤罪なら大事おおごとだ。

それならここは穏便に……


「あの、よかったらどうぞ」


 俺は目の前の女性に声を掛けた。もしも痴漢を受けているのなら、座って仕舞えば触られることはないだろうし、違えばただ席を譲っただけ。


「あっ、ありがとうございます」


 女性は素直に俺の座っていた席に座ったので、俺はその男性と女性の間に立ち、


「さて、次の駅に着いたら警察に電話しないとなー」


 その男性にわざと聞こえる様に独り言を言った。


 その言葉にピクリと男性は反応し、急いで人を掻き分けその場を離れようとしているが、扉はまだ開かないので車内に残っている。


「あの、大丈夫です? 捕まえた方がいいです?」


 違うなら違うでいいと思ったが、一応女性に小声で聞いた。すると女性は


「いえ、いいです。慣れているので……」


 そう答えた。


"慣れてる” と言う言葉は、“よくこんな目に遭う” と言う意味だとは思うが、"別に触られてもいい” わけではないのだろうと思う。けれど、頻繁にありすぎて"諦めている” そう言うことなのだろう。


 確かにこの人は綺麗だ。俺より少し上……二十代半ばから後半と言ったところか。別に露出が多いわけではないが、人目を引く色気があり、スタイルもいい。


 たとえ今回犯人を捕まえたとしても、また別の被害に遭う。それを理解してしまっているのだろう。

 言いようのない苛立ちを犯人に対して覚えたが、俺はこの人とは今会ったばかりの赤の他人。ただ席を譲る他は、どうする事も出来ないのだ。


「そうですか。わかりました……」


 それだけ話すと俺は女性から目線を離して口を噤んだ。別に俺はナンパ目的で席を譲ったわけではない。ただ車内の混雑状況的に他の場所に移動するのも憚られるのでこの場にいるだけで、席を代われば俺の役目は終わりなのだ。


 沈黙のまま、ただ電車に揺られていると、次の駅に着いて扉が開く。


 さっきの犯人は一目散に慌てて逃げて行ったが、目で睨みつけるだけにしておいた。


 俺はそのまま立っていると、その女性が話しかけてきた。


「あ、あの……座りますか?」


 見ると女性の隣の席が空いている。さっきの駅で隣の乗客は降りたらしい。


 空いた席を勧められたのに座らないのもおかしいと思い


「あ、ああ、じゃあ……」


 俺はその席に座った。するとまた女性が話しかけてきた。


「あの……さっきは、ありがとうございました。助かりました。その……距離的にお礼も言いにくくて。お礼が遅くなってしまいすみません」


「ああ、いえ、そんな。お礼を言われるほどのことでもないですし、大丈夫です」


 もちろん俺は別にお礼を望んでそこに立っていたわけではない。それは女性も分かっていただろう。  

 けれど目の前にいればお礼を言いたくなる気持ちも分かるし、けれど座っている女性が目の前に立っている人間にこの車内の混み具合的に話しかけにくさを感じたのも当然だと思う。


 ただそれだけの会話をした後、俺はまた黙ってそこに座って電車に揺られていた。俺が好きなのは美桜ただひとりだし、他の女性など興味はない。降りる駅に着けばさっさと降りて急いで帰ろう。それだけを考えていた。


 けれど意識せずとも隣に座っているというだけで、その女性からは女性らしいいい匂いが漂ってくる。特に香水というわけではなく、使っている化粧品か何かの匂いだろうか、決してワザとらしい香りではなく、上品な匂いがする。

 

————キキキキーッ


「きゃっ! ……すみませんっ」


 突然、電車が急ブレーキをかけて車内が揺れ、その反動で女性が俺にもたれかかって来た。


 車内にアナウンスが流れる。


『車内揺れまして大変申し訳ございません。線路内に人が立ち入ったため、緊急停車致しました。安全確認が取れ次第、発車いたします』


 謝る女性に何も言わないのも失礼なので、


「いえいえ、大丈夫ですか? 結構揺れましたね」


「はい、びっくりしました……」


ただそれだけの会話をして、また沈黙の時間が流れる。


 そのまま電車は動かなくて、ただ時間だけが過ぎて行く。ああ、早く美桜に会いたいのに。こんな日に限ってと、気持ちばかりが逸る。


「なかなか動きませんね……」


「ですね、何か事故でもあったんですかね……」


 女性に話しかけられ、思い付いたまま返事をするも、事故……という自分が出した言葉にだんだん不穏な気持ちが巡って来て、今朝の美桜の赤い顔を思い出す。


 ああ、こうしている間に、もしも美桜の熱が上がっていたら……


 心配する俺の心とは裏腹に、そのまま電車は30分ほど停止し、


『お待たせいたしました。まもなく発車致します』


アナウンスと共にガタンガタンと電車は動き出した。


 それから数駅が過ぎた頃、


『次はー、大森猫國伝公園前ー、大森猫國伝公園前前ー』


 降車を促すアナウンスがしたので、


「あ、俺ここなんで。降りますね。お帰りお気をつけて……」


 女性にそれだけ告げて足早に電車を降りると、急いで美桜が待つ家へと走った。


 駅からアパートまで止まる事なく走って、カンカンカンとアパートの階段を駆け上がる。

 そして急いで部屋の鍵を開けて扉を開いた。


「美桜! ただいま、大丈夫か!?」


 その途端、


「おかえりなさい、ごしゅじんさまっ」


駆け寄る美桜に抱き締められた。


「美桜、熱は!?」


 心配する俺をよそに、


「ごしゅじんさま、やっと帰って来たあああ」


美桜は抱きついた俺の胸に顔を擦り付けている。


 ……ひとまず、元気そうで安心した。


「美桜、顔上げて顔見せて」


「う?」


 キョトンとした美桜の表情に、思わず安堵の息が漏れる。


「美桜、熱はない? 平気か?」


 美桜の額に手を当てて熱を確認する。よし、大丈夫そうだ。


 俺は抱きつく美桜をぎゅっと強く抱き締めた。


「う、ごしゅじんさまっくるしぃ、美桜、潰れちゃう」


 あどけない美桜が可愛くて。


「ああ、ごめんごめん、早く帰って来たかったのに遅くなっちゃったから。心配で心配で。美桜が無事でよかった」


 そう言いながら美桜の頭を撫でた。


 けれどほっとしたのも束の間で、美桜は困り顔をしている。


「どした? 美桜」


 問いかけるが、少し美桜はむすっとしていて。


「遅くなったから怒ってる?」


 聞いてみたものの、


「違う」


 一言そう言うだけ。


 かと思ったら、美桜が泣きそうな顔をするから


「え、え、どした? 美桜、どっか痛い?」


 聞いてみると、美桜はぶんぶんと首を振って、小さな声で


「……ごしゅじんさま……女のひとのにおいする……」


そう言った。

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