第16話 『美桜とメイド服』


——

————


 電車を乗り継いで会社に来た。

 さっきまでの美桜との時間が嘘のように、空気が冷たく感じる。


「おはようございます……」


「…………」


 挨拶をしても返事が返って来ることはなく、ただただカタカタとパソコンのキーを打ち込む音と、ガーガーと機械音を鳴らすコピー機、そして耳障りなラジオの音だけが響き渡っている。


「あー鈴宮、来てたのか。この書類明日までに頼むわ」


「あ、はい、かしこまりました」


 要件のみの淡々とした会話。まあ、仕事なんてそんなもんなんだろうけど。



 ……俺は会社に対して少しだけ後悔していることがある。それは、俺がこの会社に入って半年ほど経った頃の出来事。それをきっかけに、俺は俺が志望して入った部署から、今の雑用ばかりの部署に移動になったのだ。


 俺が最初に入ったのは企画営業部。俺と一緒に入社したのが昨日会った河田と、井上という女性だった。


 入社後すぐに新人歓迎会というものがあり、俺たち同期三人はほどよく仲良くなった。特に井上は立ち回りが上手く、愛想がいい。

 上司達に酒を注いで回っては、談笑し気に入られていた。


 入社して半年くらい経った頃、その井上が上司に肩を抱かれたり尻を触られているのをよく見かけるようになった。俺はきっと愛想の良さが災いしてセクハラを受けていると思った。


 河田にも相談したが、河田は見て見ぬふりをしろと言った。それが賢いやり方だと。

 けれどその時の俺は、地位を利用して新人にセクハラをするなんて許せなかった。


 だから、上に報告したんだ。上司の木村が井上にセクハラしていると。

 

 けれど……それをきっかけに移動になったのは、俺の方だった。


 後で知った話だが、井上はあの新歓で上司の木村に気に入られ、その後不倫関係に発展していた。

 

 俺の密告により木村と井上は呼び出されたが、不倫がバレると二人とも立場が危うくなる。だから……嘘の報告をしたんだ。


 セクハラはなかった。鈴宮(俺)の虚偽申告だと——


 移動になった俺は、その時担当していた手応えのある大きな企画をおろされた。そしてそれを引き継いだのが……昨日会った河田。


 "見て見ぬふりをしろ。それが賢いやり方だ”


 今思えば、その通りだったのかもしれない。変な正義感を振りかざして、裏を取らずに暴走した自分が悪い。


 ……それが、俺が今、楽しくもない部署で仕事をしている理由なのだが。でもまあ、給料が少し下がったとはいえ、一般から見れば悪くはないし、転勤もなくなったことを思えば、この先美桜と生活する分にはいいかもしれない。


 少し自分の中でうまく落とし所を作れた気がして気持ちが晴れた。


 ま、移動になったものは仕方がない。やる気が出ずにずっとダラダラと計画も立てずに惰性で仕事をしていたけど、もう少し真面目に働いてみようかなと思う。


 美桜と出会った日みたいに、この先また他人の不備で休日に呼び出され、美桜との時間が削られるのも嫌だし。残業になって家で待つ美桜を待たせるのも心配だし。


 さあ、さっさと仕事片付けよう。


 そう思うと驚くほど仕事が捗り、明日までにと言われた書類も提出して、その日はさっさと退社した。




——

————


「ただいまー」


 帰宅した俺は家の中にいるはずの美桜に声を掛けながら玄関の中に入った。


「あれ? いない?」


 てっきり出迎えてくれるかと思っていたのに返事がない。飛んだ妄想だったか。


 自分を軽く蔑みながら部屋の中へと入っていく。部屋の中は静かだ。


「美桜ー? ただいま。いないのか?」


 ふと、昔公園で美桜を世話していた時に、ある日突然いなくなっていた時の事を思い出す。

 いると思っていたのに急に消えていた、あの寂しさと不安。けれどすぐに要らぬ心配だったと安心する。


 美桜が、俺の枕を抱きしめながらベッドですーすーと寝息を立てて眠っていたからだ。


「なんだよ、いるじゃん、びっくりさせやがって……」


 眠る美桜に布団でも掛け直してやろうかと近づくと


 え? なんでメイド服……??


 美桜は見覚えのないメイド服姿だった。

 また……変身したのか。


 それにしても、元猫だっただけあってよく眠るなあと、美桜の寝顔を見ながら思う。

 そして、俺の枕を抱きしめながら寝ているなんて、俺に懐きすぎだろう。それだけ寂しかったのだろうかとも思う。


 しかし、こうも無防備だと手を出したくなるわけで。


「おーい、美桜? 美桜さーん」


 声を掛けながら美桜の頬をツンツンと突く。やはり美桜の肌は白くて艶々でもちもちで……綺麗だ。


「……ん。んにゃ……」 


 美桜が起きた。相変わらず寝起きの美桜は寝ぼけた様子だ。しかし


「美桜、起きた? ただいま。まだ寝るか?」


 俺の声に、焦点の合わない瞳を向けた美桜は途端に目を覚ました。


「え、えっごしゅじんさま! あああああ、美桜、せっかくごしゅじんさまに"おかえりなさいませごしゅじんさま” しようと思ってたのに!」


 慌てた声で言う美桜に、少し笑ってしまう。


「はは、お迎えしてくれようとしてたのか」


「うん!」


 やっぱりそうか、出迎えてくれるつもりだったんだと、少し嬉しくなった。



「でも、なんでメイド服?」


「もえきゅんが着てたの!」


「……もえきゅん?」



 何かと思えば以前美桜が俺をご主人様呼びし始めたきっかけになった漫画、"ごしゅじんさまに萌え萌えキュン、今日はあなたのハートを頂きます!” の中に出てくる主人公のあだ名が“もえきゅん” らしい。


 漫画の内容としては、メイド喫茶で働くサキュバスのもえきゅんが、想い人のコーイチくんのハートを手に入れるべく奮闘するラブコメディ……らしいのだが、


 もえもえきゅん……アニメ化してたのか。


 俺はさっぱり知らなかったが、アニメ化されて今朝美桜に教えたサブスクの中にあったらしい。


 それのコスプレを美桜がしていると言う事みたいなのだが……胸元大きく開いていて胸の膨らみが目にあまる。ミニスカートから覗く細くて白い太ももには、黒の透け感のあるニーハイソックスが合わせられていて、しかもメイド服……


 なんだよこれ、はっきり言って、可愛い過ぎだろ……

 しかもここ、俺のベッドなんですけど?


 目のやり場に困るので、着替えさせよう、そう思った時


「ね、ね、ごしゅじんさま、ココ座って。美桜の隣」


「え? ああ」


 ベッドに座るよう促されたので美桜の隣に座って美桜の方を見た。


 すると美桜は少しイタズラな顔を浮かべて、一気に俺に抱きつき俺をベッドへと押し倒した。


「今日こそ、ごしゅじんさまのハートをいただきますっ!」


 セリフめいた事を言って、俺の首筋に……唇だけで甘噛みした。


 え、ちょ、何これ、やばい。……俺の心臓持ってかれる。心臓が……バクバクする。


 え、俺、このまま美桜に襲われる?


 少しそんな覚悟をした時


————ピンポーン————


 終了を告げるインターホンの音。


「あ……、配達、かな」


 俺は平静を装って立ち上がると、バクバクとする心臓を落ち着かせながら玄関へと向かった。


 配達されたのはネット注文していた布団だった。

早急に必要だと思ってお急ぎ便で注文していたのだ。


 俺は布団を受け取ると、そのままトイレに逃げ込んだ。

 

 とりあえず一旦ひとりになって落ち着きたい。心臓が……まだバクバクする。


 美桜はどう見たって可愛い。見た目だけじゃなく、存在が可愛い。そんな子にあんな事されて嫌なわけがない。けど……俺がどうすればいいのかがわからない。


 他に行くところのないあいつを、『ご主人様』として見守ってやりたい。主導権を握られるわけにはいかないのだ。


 ……よし、一旦整理しよう。


 トイレの中でひとりスマホでネット検索する。まず、さっきのセリフめいたセリフ『今日こそ、ごしゅじんさまのハートをいただきますっ!』と言うのは、もえきゅんの決めセリフのようなもので、ほぼ毎回登場するセリフらしい。


 毎回主人公コーイチくんのハートを頂こうとするが、何か邪魔が入って次週に持ち越し、決して本番行為までは行かない。そういうコンセプトのようだ。


 美桜はそのアニメをサブスクで見て、マネをした……そう言うことか。子供がプリティキュアキュアのマネをするみたいなものだな。


 美桜はその先にある本番行為というものを知らない、あそこがゴールだと思っている。多分それで間違いない。


 確認してみると、アニメの方もさっきのシーンの後はサキュバスもえきゅんは抱きついたまま眠ってしまい、コーイチ君だけがドキドキしたまま、というオチだった。


 少しデフォルメチックに描かれているアニメで見るのと、実際にされるのとでは破壊力が段違いなんですけどと思いつつ、とりあえず美桜はアニメをマネしただけということが分かったので、俺の心の平穏は取り戻せた気がする。


 “よしよし、フツーにフツーに。平常心。平常心” 最近お決まりになりつつある呪文めいた言葉を心の中で唱え、気持ちを整えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る