第参話 バカンスの気分

 表情筋が死んで久しくなった華恋は、ようやく声帯を手に入れることができた(厳密には違う)が、それを吹き飛ばすほどの……第一層と比べるととんでもないこの事態に多少は面喰らっているようだった。

 急に出てきた海が広がるこの階層では、自分は何を目標にして戦えばいいのかわからなくなるぐらいに、気候が穏やかなものになっていることに気がつく。

 いや、目標はこの研究所の破壊と人員の殲滅なのだが、なんだかワイハーを思い出して、感覚も鈍るというものだろう。…………まぁ、ブラック企業に勤めてた華恋は、ついぞ旅行などすることもなく、通り魔に刺されてしまったのだが。



 夢が叶わないことなど現代社会にとって、ありふれた話だというのに、実際に自分が体験できなかった時のあの喪失感は一体なんなのだろうと、華恋は瞑想する。

 あの現象に名前をつけてやりたいのだが、そううまくもつけれない。自分のセンスに従うのであれば、自己肯定感の崩壊であろうと、華恋は自身の考えを脳内に浮かび上がらせるが、なんだか違うな……と思い、すぐに自分の考えを改めた。

 華恋のいいところは、自分自身の意見を強く押し通すことではないということだ。人間誰しもが、自分が考えたものが一番なのではないか、と自分ファーストな人間が多い中で、自分が考えたものが間違いである(間違いである可能性がある)と判断できるのは英雄だろう。



 間違ったものを出すのか!という叱責に耐えながら、それでも考えて考えて出していかなければならない、謎会議の謎決議。ブラック企業の時は嫌がらせで、自分の意見など通ったことのない華恋だったが、一回だけ通ったことがあるのだ。

 それは全部自分に押し付けられて、まさかの「企画立案者だから、当然家に帰ることなんてしないよね?」とムカつく上司から言われたが、顔面をぶん殴ることもなく、文句を言わずに一日で終わってしまったため、チラリと上司を見ると、顔が茹で蛸みたいに真っ赤だった……と記憶している。

 そう、目の前にいるタコのようにとても真っ赤で……。


「んお」


 短い声ではあったが、華恋が驚いているということを示すには十分すぎるリアクションだろう。

 まさかまさかの目の前に巨大な蛸が現れたら、驚きもするしびびるだろう。

 しかしながら、短いリアクションで済ませてしまう華恋の心臓には、きっと毛が生えているのかもしれない。驚き慌てふためく様を見たことは今まで一度もないのだから。

 とりあえず、華恋は目の前にいるのはまずいと、距離を離そうとし跳躍する。……しかし、それを許してくれるほど蛸も決して甘くはない。

 触手のように、自身の吸盤(美味いところ)を動かし、足を絡め取ってくるではないか。

 これには流石の華恋も、眉毛を上げて痰を道端に吐き捨てるかのような顔面をするのも納得だ。絶対に海の磯の香りが体から抜けなくなるだけでなく、触手のような吸盤に足を引っ張られて身体中ベトベトになるだろう。

 華恋がそれを許すことができても、世間がそれを許してはくれない。

 そう……少女(見た目小学生のロリ)が!濡れ透けの服で、身体中粘液のようなものでベトベト!さらには磯の独特の香りを放なっているとどうだろうか!……事案の完成である。

 その姿を見られただけで、すぐに通報されるであろうという未来が、目前と迫ってきている中、考えるのが面倒臭くなった華恋は、自身の拳を強化し始め、迎撃の体制をとる。

『入ってきてみろ、ここでお前の攻撃を迎え撃ってやるよ』と巨大蛸に挑発を送ると、その意図がどうやら蛸側にも伝わったようで、怒りで顔を真っ赤にしながら、やはり突撃をしてくる。

 単純脳みそでとても助かるなぁ……と思っている華恋に不測の事態が起きる。

 巨大蛸の次は、巨大イカである。ベタな展開が過ぎる気もするが、予想だにできなかった……わけではない。

 何かしら別の生物が来ると、判断しても良かったのではないだろうか……と一人反省会を始める華恋だが、いつまでも相手に背を向けることはできない。

 蛸とイカも臨戦体制を取り、二匹同時攻撃で華恋の息の根を止めようと、向かってくる。

 ダブルで触手の攻撃であるが、その触手の攻撃を華麗に三回転半宙捻りで避けつつ、触手の上に乗るとそのまま、そのままの速度を維持して顔面がある部分へと移動する。

 顔面のある位置に移動すると同時に、お互いの足を縛り付けておいた華恋を、もう止めることはできない。

 途中、縛り上げていない部分の足の攻撃が飛んできたとしても、右にずれて躱したり、イナ◯ウワーして躱したり、自身に攻撃してくるものに意を介さず、頭部までくると一回転その場でくるりとバレリーナのように回ると、拳を捻り上げてそのまま前に突き出し、蛸・イカ両名の顔面の形を変えていく。

 二度と人間に逆らえないように、徹底的にトラウマを植え付けるように、歯向かわないように、一言で従うように、お前らがここの強者ではないと……教えてあげていた。

 とりあえず、こいつらを調教説得しなければならないという使命感に駆られたためも理由の一つに入るが、華恋にとってのバカンスはまだ続きそうである。





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