第27話 治せるなら自分で治したい

 痛い!私はガバっと起き上がった。前26話は「深夜にふと目を覚ます」で始まったが、同じ旅の草枕、私は声を上げ口を押さえてうずくまった。血の味がひろがる…と大げさに書いたが、誰のせいでもない。自分の歯で自分の舌を思いきり噛んだのだ。夢をみていた。夢のなかで何か…思い出せない。痛みで夢もふっ飛んだ。


 鏡で舌を見る。見事に歯型がついて血がにじんでいる。自分で自分の舌を噛んだのでは仕方がない。つける薬もない。再び布団をかぶる。目を閉じて自分に言い聞かせた。「もう噛まないんだよ。自分の舌なんだから。薬はない。口を閉じて唾液をためて自分で治す。旅行中だよ。明日、おいしいものを食べにいくんだから」


 翌朝、すっかり忘れていたが、枕の横に置いたタオルに血がついているのを見て思い出した。痛みはない。鏡を見る。治っている。今、私は64歳。階段を上るのがきつくなった、俳優さんの名前が出てこない、と身体も頭も着実に老いているが、自分で治す力はまだあるようだ。有り難い、とても有り難いことだ。


 もう数年前になる。或る有名人の方の闘病ブログを追いかけていた。遺されたお子さんが大きくなられた姿をテレビで拝見するたびに、彼女の最期のブログを思い出し胸があつくなる。ここに書き写すことは遠慮しなくてはならないから、そのままの言葉ではないが…口内炎の痛さより母が絞ってくれたオレンジジュースがおいしくて朝から笑顔になれる…と、そして彼女はご自身がさぞや辛いであろうに最期に…皆様にも今日笑顔になれることがありますように…と書き残した。


 健康ならば口内炎は数日で治るはずだ。抗がん剤の副作用なのだろうが、口内炎が痛くて吐き気があっては食事がとれないではないか。病いと闘う力が出ない。指など末梢神経のしびれや痛みがあれば、日常生活がままならず、やりたいこともやれない。生きていく力が出ない。先日、テレビで著名音楽家の闘病の日々を拝見したが、黒ずんだ指先は触れるだけで痛みが走るらしく、ピアノを弾くように空中に指を躍らせていらした。稀代の天才の最期の曲は書き残せなかった。


 この先どうなるかわからないが、幸運にも今は健康である私が、抗がん剤治療を受けておられる方に物申す資格は全くない。ただ私は病いの症状なら仕方がないが、薬の副作用で生きる力を、闘う力を削がれるのは本末転倒だと思っている。治るものも治らない。がん細胞は誰でも1日に数百から5千個できるそうだ。検診で引っかからない今は毎日5000勝0敗なのだ。人には治そうという力が自然に働く。なのに5000勝できなくなったのは自然治癒力を邪魔する何か…食事や薬から良くないものを摂ったり、心身の疲れや冷えなど、何かがあるはずだ。


 治す力を取り戻す治療法はある。日本で三大治療とされているのは手術、放射線、抗がん剤だが、それ以外の治療法もある。米国では抗がん剤を使わない方向で免疫医療などの代替療法にシフトし、年間で数千人の死亡者が減っていると聞く。外国へ行かないと治療ができないのではなく、日本の常識が、標準治療が状況によっては適切でないこともあると言いたい。かつては警察官や教師と同様、お医者様も間違いがないと思っていたけれども、混迷の現世は自ら調べて、見極め納得して選ぶことが大切なのだと思う。


 治せるものなら自分で治したい。皆そう思う。そんなこと言われなくたって!だけど無理だから辛い治療を頑張っているんじゃないか!と怒られそうだ。おっしゃる通り。辛い思いをされている方には言い返せないのだけれど、私は舌を噛んだ夜のように自分には治す力があることを覚えておきたい。そしてもうひとつ、いずれは治らなくなる、この身がもたなくなって世を去ることも覚えておこう。

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