第28話 お金が使えない
久し振りに怒ってしまった。仕事を辞めてから怒った記憶がないので1年半振り。もちろん怒りの感情がわくことはあるが、怒りを言葉にして相手にぶつけたのが久方振り。声も身体もわなわな震えてしまった。落ち着いて考えたら震えるほどのことではなかった…というのが今回の話なのだが。
相手は商店の若い店員さん。理由はお金が使えなかったことだ。
店は個人商店ではなく○○組合の店。食料品からお酒、雑貨まで売っている。
私達が住む島にはこの店の他に、少し小さい店が1つとかなり小さい店が1つ。それしかないから嫌な思いをしたとて、くやしいかな、もう行かないとは言えない。競争原理が働かないのだ。
その店は島で初めてバーコード読取のレジを入れた。合計金額を見て例えば1万円札を渡すと、預かったお金を入れるところにスッと入れる。そうすると自動的にお釣りが出てくる仕組みだ。店員さんはレジを開けない。この日、私は1万円札と端数の503円を渡した。店員さんがレジに入れると501円がはじかれて戻ってきた。
そして彼女は私にこう言った。
「新500円玉は使えません。この1円もはじかれたから他のお金ないですか?」
我ながら沸点は低いと思っていたが、この日は見事に沸騰した。
「はじかれるのは、そちらの都合でしょ。そちらで両替したら」と私。
「いやぁだめなんですぅできないんです」と彼女は笑顔で断ったが、私にはヘラヘラ笑ってやり過ごそうとしているように見えた。誠意が感じられない。
実は以前、千円札をはじかれたことがあった。いつもは長財布なので折り目はないのだが、その日は小銭入れに八つ折にした千円札1枚しかなかった。えっ買えない、折ったお札はお金じゃないの!と思った瞬間、夫が千円札を差し出したので怒りそびれた。きっとそのマグマが残っていたのだ。
だが…頭が冷えてから考えた。両替用のお金がない、レジは開けられないとか、店員さんが勝手にお金に触らないような仕組みなのかも知れない。今は現金が使えない店だってあると聞くし、怒ってはいけなかったのかも知れない。
少し考えて…自分が何に怒ったのかがわかった。店員さんの言葉遣いと態度が不愉快だった。それは私がずっと抱えてきた劣等感と優越感のせめぎ合いだった。
都会を出て島で暮らしたいと思った私達だが、関門は仕事だった。夫が電気工事士等の技術系の資格を持っていたので、幸いにも社宅付の仕事が決まり移住することができた。だが、運転免許さえ持っていない私は昼間の仕事を探すのに苦労した。東京で19年働いてきたが、やってきたことは受付と事務のみ。身につけたことはなんだろう?電話応対やビジネス文書というと研修項目みたいだが、要は言葉遣いとお辞儀の仕方くらい。島では必要のないものだ。
都会でのお客様の見送りはエレベータ前までだった。立ち位置と表情はこのように、ドアに手を添える、2歩下がり足を揃え背筋を伸ばしたまま上体を30度倒す、ドアが閉まるまで顔をあげない…と教えられ教えてきたが、島はエレベータがない。そんなことより荷物を車に積んで港まで送っていくのが礼儀だ。
今は禁煙に成功した夫だが、島に来た当初はバージニアスリムというタバコを吸っていた。マイルドセブンほどメジャーではないが、当時東京では自販機に並んでいた国産タバコ。だから当たり前のように「バージニアスリム、ありますか?」と聞いたが、「そんなタバコありません」と返ってきた。私は心のなかで毒づいた。「申し訳ございません。あいにく当店では扱っておりません」が正解。
車の運転さえできない、今までの経験が活きない、そもそも自分のスキルに意味があるのか…という自信喪失、劣等感がある。だが、その背になんの役にもたたぬプライド、優越感が張りついている。口にしたら嫌われると思ったから、ずっと隠してきたのに、私はこの日、怒りにまかせて叫んだ。
「そんな対応していたら東京ではやっていけないわよ!」
彼女はやはりヘラヘラと笑いながら「そうですねぇ」と応えた。
この鈍感力に私はヘナヘナと引き下がった。
でももしも、鈍感力じゃなくて彼女を傷つけていたら、どうしょう。
若い人の顔が私にはもう読めない。
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