第19話 寒さの記憶
50年、いや私が小学生だったから55年前の記憶だ。住んでいたアパートの近くに公園があった。野球場の隣にある大きな公園でブランコやシーソー、滑り台などの遊具があって、周囲をぐるりとつつじの木が囲っていた。つつじの前にはベンチも並んでいたが、子どもたちはベンチには座らない。つつじにも近づかない。そこにはおじさんたちがいたからだ。
おじさんたちのことをニコヨンのおじさんと呼んでいた。今では差別用語になるだろうが、もはや死語だと思うので許してほしい。ニコヨンとは2個と4個、240円のことで日雇い労働者の賃金だと聞いた。公園の横に日雇い労働者向けの職安があって、いわゆる寄せ場になっていたのである。ワゴン車が来て仕事にあぶれたおじさんたちをどこかへ連れて行くこともあった。今思えば、売血だったのかもしれない。
ニコヨンのおじさんはたくさんいたが、静かだった。くちゃくちゃの新聞を手にひとりでカップ酒を飲んでいた。公園の水道で洗ったシャツを、花が落ち丸く茂った大きなつつじの木に広げて干していた。そんなおじさんたちも寒さが身に沁みるようになると集まるのだった。ドラム缶を半分に切って枝や枯葉、新聞を入れて焚火をする。寒風吹きすさぶなか、オレンジ色の炎が腰の高さまであがっている。
寒い、と思うと今も私はあの光景を思い出す。
寒いと心底思った記憶は辛い出来事に結びついている。高校3年の冬、友人が自殺した。彼女がいつも通っていた道にあるビルの非常階段から飛び降りた。突然だった。何がなんだかわからなかった。何人もの人が何回も私に聞いた。何があったの?気づかなかったの? 何も答えられない。私は皆が思う、そして私もそう思っていた彼女の1番の友人ではなかった。
彼女の告別式は雪まじりの小雨なか終わった。私は傘もささずに自分の家に向かって歩いていた。コートもなかった。着て行かなかったのか、どこかに置き忘れたのか覚えていない。とにかく皆と別れひとりになれてほっとしていた。駅から家への道は北に向かっていて、冷たい風が吹きつけていた。
駅から帰る道…と思ったとき、ふいに思い出した。
ひと月ほど前、駅から彼女の家へと2人で歩いていたとき、彼女は言った。
「この道をね、いつもとおって、かよっていたの」
なんでそんなことを言ったんだろう。なんで私はなにも聴かなかったんだろう。
ひと月まえに、あの時に戻りたい。私にできることがあったはずだ。もう取り返しがつかない。
自分の部屋に逃げ込んだ。手がかじかみ身体は氷のようだ。電灯もつけず暗い部屋のなか、はいずるようにティシュの箱を引き寄せて鼻をかんだ。手のなかのティシュが暖かかった。汚い表現で申し訳ないが、私の身体から出た私の鼻水が暖かい。身体も心も
唐突におじさんたちのオレンジ色の炎が目に浮かんだ。
おじさんたち、きっと思うようにいかない人生だったよね。
私みたいに取り返しのつかない後悔もあったのかな。
でも死ぬわけにいかないから、取り敢えず生きていくんだよね。
寒いね、おじさん。寒い。
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