第12話 月あかりの夜に その1

 島に移住して初めて潮汐ちょうせき表なるものを知る。港の片隅に貼ってあった。潮の満引みちひきと日出や日没の時刻はもちろん、月齢と月出、月没まで載っている。

 今宵は満月、海は大潮。日暮れを待って散歩に行くことにした。少し曇っているから懐中電灯を持っていこう。


 海へと坂を下りていく。舗装された道で車がすれ違えるほどの広さがあるが、街灯はない。山に沿ってゆるやかに右へ左へと曲がっている。お互いの顔も見えないほど暗い。月はどこだ。今宵は満月なのに。


 波の音が聞こえてきた。浜の白砂がかすかに光っているが、足元は全く見えない。人影はなく声も聞こえないが、突き当たりの駐車場まで行ってみる。車もバイクもない。誰ひとりいない。浜に戻って東屋あずまやに入る。懐中電灯のおぼつかない光のなか、潮に朽ちかけたベンチに座る。電灯を消すと包みこまれるような暗闇だ。月は雲に隠れていたが、月がそこに確かにあることはわかる。左右の山は稜線が黒くふちどられ海はほのかに明るい。人が照らす光さえがなければ、自然のなかでは海が最も明るいのだ。だから孵化した海ガメの仔は海へと還っていける。


 バサバサバサ、なにか黒いものが飛んでいる。夫と二人、飛び上がるように立ち空を見る。コウモリだ。懐中電灯の光に目が赤く光る。身体がこわばる。闇が怖い。

 サクサクザァク、なにかが近づいてくる。二人、顔を見合わせる。この漆黒の闇のなかで船や車の光、懐中電灯の光もなしにここに来られるとは思えない。生きている人ならば、である。山に囲まれて前は海。人家はない。どん詰まり。逃げ場がない。二人、立ち上がる。帰ろう。今日は帰ろう。


 坂を上がる。後ろが怖いが、呼吸が浅いのか坂が急なのか、苦しくて走れない。ついさっき通った道だ。数分で坂の上に着き港の灯りが見えるはず。暗さに耐えられず懐中電灯を点けるが、ボゥとわずかな円を照らしたかと思うと道の端に並ぶ反射板に当たりキラっと光る。歩いても歩いてもこのまま着かなかったら…とさえ思う。


 突然、前方の曲がり角の反射板がキラっと光ったかと思うと、強い光がまっすぐに下りてきた。ヘッドライトだ。ワゴン車が来る。今頃なんだろう。観光客を乗せたナイトツアーかも知れない。歩行者がいることを伝えたくて私達は懐中電灯を掲げたが、車はセンターラインを越えてググッと近づいてきた。うわぁなに!と思う間もなく、私達の横でキュと止まりスライドドアがガァと開いた。若いおにいさんが顔だけ出して「カメいたぁ?」と大声で聞いた。言葉が出ずに首だけ振ると、何も言わずに走り去った。おかげさまで背後の恐怖は消えた。


 坂の上、港の灯りが見える。

「そうかぁカメか。あの音は産卵に来た海ガメだったんだ」

ようやく深く息をついて私は言った。


「それにしても急に車寄せて、カメいた?はないよね。東京なら拉致されちゃうよ。

 今度会ったら、いきなり胸ぐらつかんでカメいたぁ?って聞いちゃおうか」

だんだん元気になって私は夫を見上げた。雲が切れかけて月が顔を出した。


夫はつぶやいた。

「海ガメじゃない。海ガメなら砂をこする。あれは足音だった。それに…」

「それに、なに?」

雲が切れた。山吹色の大きな満月が夫を優しく照らしている。

「浜からじゃない。どん詰まりの、誰もいなかった駐車場の方から聞こえた」


「えっ、ええー」私は満月に向かって咆哮した。




 


 


 



 


 

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