第8話 ビルの灯、きらきら

 遠くに東京タワーが見える。オレンジの光をまとい、きらきらと輝いている。

目の前にはオフィスビル。もう22時をまわるが、大方の窓はまだ光を放っている。あの光のなかに働いている人がいる…と思ったら、ふいに泣きそうになった。


 昨年末に仕事を辞めた。夫と二人、仕事を気にせず休みを取って旅行に出た(休みを取ったのではない。もうずっと休みだ)。久方ぶりの特急指定券の為に今夜は都心のホテルに泊まる。老後生活、旅の一節目にビルの灯に吸い寄せられている。


 ♪あの地平線、輝くのはどこかに君をかくしているから

  たくさんの灯がなつかしいのは、あのひとつどれかに君がいるから♪ 

という唄があった。このふいに訪れた泣きそうな思いはなつかしさなのか。

あの光のなかで働いていたころの自分を捜しているのか。あんな立派な高層ビルで働いていたわけではないが、光のなかに戻りたいと思っているのか。戻りたくても戻れない自分が寂しいのだろうか…眠ろうと思って目を閉じるが、またも見ている。


 消える間際のろうそくのようにひときわ大きく光を放って、東京タワーが消えた。

日付が変わる。こんなに遅くまで光のなかにいれば、この仕事は、この生活はいつまで続くのかと疲れ切っているだろう。働いていたころの私は作り笑顔の下に焦りと迷いを押し込めながら、たいてい疲れていた。そこに戻りたいとは思わない。


 寂しいのだ。戻りたいわけではないのだが、戻れない自分が、光から外れてしまった自分が寂しい。過ぎた日々を想うと辛い記憶よりもなつかしさが勝る。あのころにはもう戻れないと、いつもいつも昔を想っているのは我ながらもの哀しい。


 なにもかも、すべてのものに終わりがある。いつかは終わる。卒業とか定年とか、親の死とか、人生の一節が終わる。そして人は皆、必ずや老いて死ぬ。武士は常に死を覚悟して生きていたという。今はいきなり切腹を命じられることなどないが、終わりは来る。それはもちろんわかっていたが、不安や怯えを心の隅に押しやって私は…いつかは終わることを覚悟していなかった…いつかは終わる…その覚悟があれば、今、この時を味わうことができるのかも知れない。


 温泉に着いた。檜風呂、つぼ風呂、ジェット風呂、ワイン風呂まである。てぬぐいひとつ持っていそいそとはしごする。平日の昼間のせいか高齢の方ばかりだ。足元がすべるので危なっかしい。そうだ。80歳になって70のころは良かった、ジェット水流にもよろけず風呂全制覇したのに、なんて思うのは寂しい。


 なんて思って、自分が転び頭を打って素っ裸で大の字!のところに夫が呼ばれたらかわいそうだ。それだけは気をつけて今、この時を楽しもう。



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