上里の日常

「すぅうううう。はぁああああ」

 上里の最近のお気に入りのスポットは尾鳥の屋上だった。この空間を全身で味わうために深呼吸する。

 耳を澄ませば運動部の活発な掛け声や、下校中の和気あいあいとした喧騒が聞こえてくる。そこに自動車の音が混ざるのは少々気に入らないが、これが鞠那の特色なのであれば仕方あるまい。

「やっぱり都会の空気は不味いな。これで自然があったら最高なんだけどな~」

 これだけはどうにかならないものか、上里はぽつりと呟いた。

 屋上のフェンスを乗り越えた、際々の際に寝そべって空を仰ぐ。今は快晴の空を楽しむことができているが、これが夜になれば漆黒に染まると思うと面白くない。上里の地元ならば一年中、満天の星を拝むことができるのだ。もっと言えば、自然の中で見る快晴の空は、絵に描いたようにすっきりとしていて美しいのである。

「ほうほう。人が虫のように動いてらぁ。こりゃ面白いな。都会ならではって感じだ。何か面白いことしてる奴はいないもんかね」

 都会の風景として楽しめるところはこれくらいか。上里は宮廷にいる気分で眼下を見下ろした。知らない生徒の頭ばかりが動いている。その中で、数少ない見覚えのある顔が目に留まった。

「ちょっとそこの君!」

 スーツ姿の女が鬼の形相をしている。

「上里君! 危ないから今すぐ離れなさい!」

「新堂だったよな……。あんなに元気な先生だったかぁ?」

 上里自身は数えるほどしか話したことがない。そのときの印象と言えば、何かクールを気取ったような教師というだけだ。付け加えるならとにかく美人。あんな風に怒った一瀬を思わせる態度は似つかわしくないように感じる。

「聞いてるの? 今すぐ行くから待ってなさい!」

「あ~はいはい、わかったよ! 離れるからそれ以上言うなって!」

 これ以上、一人の時間を潰されては適わない。

「はぁ……おちおち昼寝もできやしねぇ」

 誰にも邪魔されないような聖域はないものか、校舎内の方へと意識を向けると、扉の開閉音が響いた。

「おっと、案の定ここに居たか」

「ん、メガネの先輩じゃないか。新堂に注意するよう頼まれたのか?」

 見ると、数少ない見覚えのある顔、その貴重な二人目の姿がある。

「どうして新堂先生の名前が出てくる? もうそういうことをするつもりはないよ」

 あんな黒歴史は忘れて欲しいのか、男子生徒は落ち着いた態度をしていた。

「実は君に折り入って相談があるんだ。悲しいことに、僕には友人も居なければ、知り合いと呼べるような人もいない。いや、敢えて言うなら君になるかな」

「俺も暇じゃないんだが?」

「暇じゃなければ屋上なんて来ないよ」

 男子生徒は上里相手のキャッチボールに慣れたらしく、ツボに入ったように笑った。

「計画を阻止したとは言え、君の活躍には目を見張るものがあった。その手腕に期待して頼みたいことがあるのさ」

「わかった。聞くだけ聞いてやるよ」

 用意したお世辞なのは丸わかりだったが、そう言われてまで無下にするような上里ではない。それに微かにだが、神様の囁きが聞こえたようにも感じたのだ。

「ただ、もう少しゆっくりしてからでもいいか?」

「構わない。いつもの教室で待ってるよ」

「いつもの教室、ね……」

 辟易している上里など露知らず、男子生徒は嬉しそうに階段を下りて行った。



 最後に一人残された上里。

 頭の中には、一言では表現できない、恍惚と欲望と残虐な光景が映っていた。

「……うん、うん。そうだな……神様。ああ、感じる。たしかに感じるよ……。この学校にはまだまだ悪魔がいるな……。こりゃ、しばらくは退屈せずに済みそうだ……」

 上里が『楽しい』という感情に満たされるのは、もう少し先の話になりそうである。

「なぁ神様……願わくば、いつか実弾を撃たせてくれよ……?」

 最後に一つだけわがままを言ってみる。

 上里は自分の世界に戻るためにフードを被った。

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