一瀬の日常

 一瀬は、力を入れたら簡単に壊れてしまいそうな腕を、形を確かめるように、頭に覚え込ませるように撫で上げた。熱が伝わる。泉の体が火照っているのがわかる。

 自分と眼下で仰向けになっている彼女の体温が、同じになっているとわかる。

 このまま一つになってしまいたい――そんな欲望を彼女は全身で受け止めてくれた。

 二人とも制服を着崩しており、その内側にどうにか収められている肉体は、秘めたる欲情をいつ暴走させてもおかしくないくらいだ。

「お兄―、お母さんが――」

 下り始めたトロッコに、有無を言わせぬブレーキが掛かる。

 甘い空気をぶち壊す者が現れたのだ。

「あ、お取込み中だった?」

 恵衣子は愛想笑いで誤魔化そうとするが、それが一瀬に静かな怒りを植え付ける。

「ノックぐらいしろよ。マナーのなってない奴だな」

「ごめん! お邪魔しました!」

 そもそもここは一瀬の部屋なのだ。とんでもないことをしでかしてくれた妹を外に追いやり、一瀬は泉にアイコンタクトを送った。

 ぼんやりと――だがどこか残念そうに笑っている。気分は完全に失せたようだ。

 廊下の方に耳を傾けると、ドアを閉め切っていないせいで、馬鹿妹の独り言が聞こえてくる。

「わぁああ、本番を見ちゃったよぉ……」

 そのおかしさに、思わず二人は吹き出してしまった。

 泉は身なりを整え、部屋を出て行った。

「恵衣子ちゃん、驚かしちゃってごめんね! 慎太郎に用があったの?」

「大した用じゃないから……!」

「何なんだよ。お母さんがどうしたって?」

 一瀬も毅然とした態度で廊下に出る。中学生の恵衣子には刺激が強かったのかもしれない。別の話題で記憶の上書きを図ってみる。

「あ、その、夕飯何がいいかだってさ。それを聞こうと思って」

 案の定、恵衣子はいつもの調子に戻った。

「それと、良かったら咲良ちゃんもどうかって言ってたよ」

「ホントに? でも、申し訳ないよ」

「いいじゃないか。母さんが言うんだ。誘いには乗っておけよ」

 この場合、断ってしまうのは逆に失礼だ。

「そう? じゃあせっかくだし、料理のお手伝いができないか聞いてくるね」

 泉は思案する様子を見せたが、一瀬の言葉の意味を理解すると、すたすたとリビングへと下りて行った。

「ふぅ……ラブラブだね、お兄。まるでお嫁さんみたいじゃん」

 一難去って落ち着いたのか、恵衣子が軽口を言う余裕を取り戻している。

「本当にそうなったらいいんだけどな」

「えっ、もう腹は決まってる感じ?」

「馬鹿、色づくなよ。……今のはちょっと気持ち悪かったかもな」

 取り繕うように視線を動かす。

 すると、恵衣子が初めて見る格好をしていることに気が付いた。

「――ん、新しい服か、それ?」

「あ、気付いた? へへっ、テストの点数良かったから買って貰っちゃった!」

 余程嬉しいのか、全身をアピールするようにその場でターンをする。オーバーサイズのシャツがひらひらと舞った。

 いつの間にか大人になっていたのだと感じさせるような、雅やかな舞だ。

 何を親父臭く感傷に浸っているんだと思いながらも、一瀬は柔和な笑みを零す。

「似合ってるよ」

「うん。勉強、教えてくれてありがと」

「ねぇ、結局何がいいのか聞いてなかった」

 そのとき、楽しい空気をぶち壊す者が現れた。

「あ、お取込み中だった?」

 階段の方を見ると、泉が階下から顔を覗かせている。

 それをきっかけに、一瀬のたしかな怒りは芽吹いてしまった。

「……次その台詞言ったらぶっ飛ばすぞ」

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