④上里と合流

 勢い良く扉を開くのと同時に、爽やかな風が通り抜ける。

 二年一組の教室を飛び出した一瀬は、屋上まで逃げて来ていた。

「クソッ!」

 時間を稼ぐために鍵を閉めようと思ったが、外側からはできなかった。

 追手は足取りが不安定になりながらも、ご丁寧に後ろを付いて来ている。

 どこまで追ってくるのか疑問に思っていたが、頭空っぽな腑抜けになっているのに、対象を追うという意志だけは残っているようだ。

「いや……マジでどうしてこうなったんだよ」

 扉で撒くことはできない。他に出入り口はないか――逃げ道はないか、周囲を見渡す。あるのは一面に広がる防水マットと、それを囲うように連なるフェンスだけ。

 扉の窓ガラスの向こうで、体を揺らめかせながら階段を上がってくる姿がある。

「咲良……」

 一瀬の脳裏に彼女の笑顔が浮かび上がった。それは作り物ではなく、正真正銘、泉が心から喜んだときの、自分だけに見せてくれる最高級の物だった。

 今は前進あるのみ。自分にそう言い聞かせて、塔屋に付いていた梯子を上る。

「必ず、俺が助けてやるからな」

 屋上の中でもさらに頂点の場所に到達する。

 眼下を見下ろすと、屋上を埋め尽くす勢いで腑抜けが扉から溢れている。

 それは塔屋の周りに集まり、手を伸ばして呻き声のような何かを上げている。

 いかれている。一瀬はそういう意味合いで目を伏せた。

 腑抜けには梯子を上る知能がないようだが、ここでじっとしているわけにもいかない。

 淵に立って、フェンスの向こう側を覗き込む。校舎と武道館の位置関係的にもしやと思っていたが、ほど近いところにプール(武道館の屋上)があった。

「こうなったら一か八かだ! 突破口はこれしかない!」

 頭の中にビジョンが浮かぶ。水で満たされたプールに自分が浮いている姿だ。

 常同行動に取りつかれた腑抜けを視界の隅に置きつつ、塔屋の上で一歩ずつ引き絞り、端から反対の端まで、落ちないギリギリを見極める。

 そして覚悟を決めた一瀬は、できる限りの助走に勢いを乗せて、


「行っけぇえええ!!!」


 武道館の屋上へ跳躍した。



 マサキに思いを託された暮林は武道館を彷徨っていた。体育館、剣道場、柔道場、用具室にざっと目を通してみたが、人の気配は一切なかった。

 それも当然で、今は黙祷もとい朝のホームルーム中。武道館に用のある人間などいるはずもなく、暮林がここに逃げ込んだのはそういう理由だった。

「誰もいない、か……。ほとぼりが冷めるまでここに身を隠すしかないな……」

 無人の施設を作業のように確認しながら、残されたプールへと足を運んでいく。

 三階の廊下まで来ると、男子更衣室のドアが開きっ放しになっていた。清掃員が閉め忘れたのだろうか。

「誰かいるのか……?」

 制服姿のまま男子更衣室を通り抜ける。万が一を考えて逃走経路は確保しておく。

 屋上のプールには、見知った人物の存在があった。

「上里……?」



「……ん。……おお、暮林」

 上里はプールサイドのベンチに寝そべって、瞳を閉じていたところだった。さすがに昼寝をするには早すぎるが、上里にとって、一人きりの空間に身を委ねることはこの上ない一時なのである。どうやら邪魔したのは暮林のようだが、それ以外の人間であれば、あるいは手が出ていたかもしれない。

「なんで上里が、こんなところに居るんだよ」

「ん~日向ぼっこ。賢い俺が導き出した最高のサボりスポットだ。さすがの先生もここまでは探しに来ないし、今の時期ならプールは使われていないからな」

「おう……そうか」

 言葉に詰まる暮林。

 二人とも、この場には相応しくない制服姿だ。

 上里は一方的な調子で、大げさに両手を広げた。

「ほら、見ろよ。澄み渡る綺麗な青空が広がってるぜ。こんな気持ちいい日に外で寝ないなんて勿体ねーよ。下界から隔絶された空間で、俺は目を閉じるわけだ」


 次の瞬間、二人は大量の水飛沫を頭から浴びていた。


「うぐ……」

「なんか空から降ってきたけど……」

 顎から水滴を垂らしながら呆然としているのは暮林だ。

 それもそのはず。急にデカい塊がプールに落ちてきたのである。

 布を纏った何かが水面に浮かび上がる。洗濯物が放り込まれたわけでもあるまい。

「ったく、何なんだよ。次から次へと俺の至福の時を邪魔しやがって……って、お」

 堪忍袋の緒が切れそうになる上里だったが、その衝動も次の瞬間には収まった。

 暮林が叫ぶ。

「一瀬!」

「お前ら、こんなところで何やってんだよ」

「それはこっちの台詞だが。な~んだよ一瀬、お前も小学生みたいなことやってんな」

 跳んできた方向を仰ぎ見る。

 どうやら、校舎の屋上からこのプールに飛び込んできたようだ。たしかに距離は近い方だが、最後の一歩を踏み出すにはそれなりに勇気が必要なはず。

 いや、一瀬ならできなくはなさそうか。上里は勝手に納得した。

「どこの小学生が校舎からプールに飛び込むなんてアクロバットなことするんだよ。危機感のない奴だ」

「こっち来い。手ェ貸してやる」

 状況を理解しているのか、妙に冷静な暮林が手を伸ばす。

 一瀬は上里に多少なりとも怒りを覚えたようだが、それを解消するために、あろうことか矛先を目の前に向けてしまった。暮林が引き上げようとしてくれているのに、逆に引き摺り下ろしてしまう。そのまま暮林は仲良く落水した。

「うぜぇえええ。だりぃいいい」

「ははは」

 二人はすっきりしたように満足げな様子で空を仰いだ。

 その様子をベンチから見ていた上里は、自分も混ぜて欲しくなり、

「イヤッホウ!」

 ためらいなくプールに飛び込んだ。

 二人がぽかんとしていたのは言うまでもない。

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